2025.3.13
茨城県弁護士会のシンポ
2025年3月8日。日本弁護士連合会(日弁連)の憲法改正問題に取り組む全国アクションプログラムの一環として、茨城県弁護士会主催のシンポジウム「核兵器も戦争もない世界をつくるために~原爆裁判を現代に活かす」が、土浦市の茨城県南生涯学習センターで開催されました。私は日本反核法律家協会会長として田中煕巳被団協代表委員と二人で基調報告をしました。田中さんとはあちこちでご一緒していますが、こういうコラボは初めてでした。私のテーマは「『原爆裁判』と核兵器禁止条約について」、田中さんは「被団協のノーベル平和賞について」でした。
100人の定員の会場は満席(事前に入場制限したそうです)、ウェブでも60人からの参加があったようです。日弁連と関東弁護士会連合会との共催でしたが、弁護士会がこういうイベントを開催してくれることは本当に嬉しいことです。茨城県弁護士会の皆さんに感謝しています。
アンケートの結果
私は47枚のパワーポイントを用意して「憲法9条と核兵器禁止条約を活用して、核兵器も戦争もない世界の実現を!!」と報告しました。田中さんは「何か用意した方がよかったですかね。」といいながら、自在に被団協のノーベル平和賞受賞の意義を語っていました。レジメもパワポもないのに言葉が紡がれるのです。何とも凄いことだと思います。
主催者はアンケート用紙を用意していました。そのアンケート項目に「大久保氏、田中氏の講演について」というのがあり「興味深かった、普通、あまり興味が持てなかった」の三択でした。何ともストレートな質問だなと思いつつ、ドキドキしながらその結果を読みました。アンケートは30通を超えて寄せられていました。結構高い回収率でした。その項目での回答は、全てが「興味深かった」でした。興味を持っている人が来ているのだから当たり前といえば当たり前かもしれませんが、報告した方からすれば、やっぱり嬉しいことなのです。
茨城の親しい弁護士たち
茨城県の弁護士には何人かの親しい人がいます。例えば、このイベントを企画したのは尾池誠司弁護士ですが、彼は私の事務所で弁護修習をした人です。現在、茨城県弁護士会の憲法委員会委員長をしており、弁護士会の憲法問題についての活動報告をしていました。「緊急事態条項はいらない」というDVDも活用していました。彼は「この度は、誠にありがとうございました。お二人のお話と意見交換も大変勉強になりました。今後とも、茨城県弁護士会を宜しくお願いいたします。」とFBに投稿していました。
ここにいう「意見交換」とは、飯田美弥子弁護士が司会を務めて、田中さんと私にあれこれの質問をするというコーナーのことです。飯田さんは自分で「茨城県弁護士会憲法委員会の集会で、お役目を大過なく果たせたこと」を「今日の良かったこと」にしているように、私たちの話を引き出してくれたのです。尾池君はそれも「大変勉強になった」としているのです。
また、日弁連副会長経験者である谷萩陽一弁護士も旧知の中です。谷萩さんは主催者挨拶を担当していました。彼は「大久保先生、このたびは本当にお世話になりました。田中さんに来ていただけたのも先生のおかげでしたし、ご一緒に来ていただけたので田中さんも心強かったと思います。講演もしっかり準備されて中身の濃いお話で、あらためて勉強になりました。私からすると大久保先生はとても老人とは思えません。内藤功先生や石川元也先生のように、いつまでも元気でご活躍下さい」と投稿していました。内藤功先生や石川元也先生は、自由法曹団の先輩で、二人とも90歳を優に超えているのです。 その二人のようになれというエールを送ってくれたのです。
ここに紹介した3人以外にも、司会を担当した田中記代美憲法委員会副委員長や閉会挨拶をした唐津悠輔副会長にもお世話になりました。唐津さんは私の講演のなかで触れていた「原爆裁判」の裁判官たちは「『法は核兵器とどう向き合うべきか』について、正面から受け止めていた。それは法律家としての矜持だ。」という部分を引用していました。心に残る挨拶でした。
移動と四方山話
移動とその途中のことにも触れておきます。
私と田中さんは二人とも埼玉在住です。土浦までの移動が必要なのです。武蔵野線の新座駅のホームで待ち合わせをして、新松戸まで行き、そこで常磐線に乗り換えて会場の土浦という経路でした。片道約2時間30分です。埼玉と茨城は隣県ですが、決して近間ではなかったのです。
行き帰りの電車の中では四方山話です。共通の知人は多いし、問題関心は共通しているし、おまけに田中さんは話し好きなので話は尽きないのです。一番盛り上がったのは、田中さんのお母さんは女手一つで4人の子供を育てて102歳まで生きたことと、私の母も102歳で今も私と電話で話をしているというエピソードでした。
二人とも長生きの血筋のようだから、肥田舜太郎先生のように100歳まで頑張ろうということになりました。肥田舜太郎さんは29歳の時に広島で被爆し、8年前に100歳で亡くなるまで、被爆者の支援と反核平和のために生きた人なのです。田中さんは92歳、私は78歳。「大久保先生はとても老人とは思えません。」という意見もありますが、齢相応に頑張ることにしたいと思っています。(2025年3月11日記)
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