2025.6.5
はじめに
井戸謙一さんから『司法が原発を止める』(旬報社、2025年6月20日)を贈呈された。樋口英明さんとの対談本だ。井戸さんの添書には「最近は、まるで福島原発事故以前に回帰したのではないかと思わせる司法判断が相次いでいます。そのような時期だけに、原発の運転を差し止める判断をした元裁判長二人の思いを吐露した本書はなにがしかの社会的意味を持つのではないかと考えています。」とあった。早速、目を通した。二人の裁判官としての矜持と市民としての決意が伝わってくる本だった。大いに意味がある本だと思う。
井戸さんは2006年に志賀原発の運転差し止め判決を出した人である。私は司法研修所で同期(31期)だ。研修所時代の交流はなかったけれど、2011年の大震災以来「原発と人権ネットワーク」の活動などで共同している。樋口さんは、2014年に大飯原発の差し止め判決や2015年に高浜原発運転差し止め仮処分決定を出した人だ。私は直接の面識はないけれど『私が原発を止めた理由』(旬報社、2012年)などで、その思考方法や価値観についてはそれなりに承知している。
井戸さんは1954年生まれ、樋口さんは1952年生まれなので、1947年生まれの私は同時代人だと思っている。二人が原発を差し止める判決を書いたことは承知しているので、すごい同時代人がいるものだとかねてより尊敬していたけれど、本書を読んで、改めてその思いを強くしている。
ここでは、その想いを少し綴ってみることにする。二人の原発に反対する理由への共感と裁判官としての矜持に係ることである。
二人が原発に反対する理由
井戸さんは、電力を生み出すのに、他にいくらでも安全な方法がある。こんなに危険で、国の存亡もかかってくるような発電方法を採用する必要がない。それが基本だ、としている。樋口さんは「どのように危険なのでしょう。」とその確認をしている。井戸さんは、福島の事故を見たら明らかだ。いずれまた事故は起こるし、その時には福島事故を凌駕する被害になりかねない。使用済み核燃料の問題もあるし、コストも高い。何のいいこともない、としている。
二人は、地震のこと、CO2のこと、資源のこと、電力不足のことなど色々なことを話している。その上で、井戸さんの結論は「原発は必要ない。」であり、樋口さんの結論は地震の発生する頻度にかかわらず「どこの国でも原発はやってはいけない。」である。
興味深いのは二人とも核兵器や戦争のことに触れていることだ。例えば、井戸さんは「核燃料サイクル」にこだわるのはいざというときに核兵器を作る能力を維持するためだと言っている。樋口さんは、原発を持っていること自体がすごく危険だ。原発はあらゆるものに対して凄く弱い。そういうものを持ちながら敵基地能力を持つということは大矛盾だ。50何基もの原発を海岸に並べた時点でどの国と戦争しても勝てない。政治家の頭の中にあるのはお花畑と言われるような発想だ、などと言っている。
さらに二人は、自然由来の放射線被曝と原発事故の後に環境にまき散らされた放射性物質による被曝を比較する発想自体がおかしいということも確認している。二人は様々な角度から原発の危険性を認識していることがよくわかる対談である。
私も核兵器はもとより原発もなくさなければならないと考えている一人である。そもそも、生物は核の安定を前提としているので核分裂とは相いれない存在だと思っているからである。そして、核兵器という鋭利な剣と原発という重厚な刃が人類の頭上に存在していることに耐えられないからである。元々、核兵器は危険で有害なものだし、電気は核分裂エネルギーに頼らなくても確保できるのである。だから、私は「原発は危険であり無用なものだ」という二人の結論に共感している。
二人には原発の稼働を止める意思と能力があった
ここで確認しておきたいことは、二人には稼働している原発を止める力があったということである。これはとんでもない力である。民主的手続きによって構成されているとされる政府に逆らって、たかだか3人で国策である原発を止める権限なのだから半端ではない。もちろんこの権限は憲法に根拠を置くものだから正当なものであることはいうまでもない。その権限をどのように行使するかはその地位にある者の良識と決意にかかっている。
樋口さんによれば、福島原発事故以降で運転差し止めを認めた裁判官は7人、認めなかった裁判官は30人くらいいるという。井戸さんによれば「裁判官は基本的に体制的、保守的」だそうだ。法律は体制維持のためでありその法律に従って判断するのが裁判官の仕事なのだからというのがその理由である。
そういう中で、二人は原発差し止めの判断をしたのである。だから、井戸さんは「裁判官は事件を裁くことによって、自らが裁かれる。」としているし、樋口さんは「この判決を出せたら、僕はもう死んでもいい。」としているのである。
確かに、二人の判決が社会的に与えた影響は大きい。けれども、井戸さんは、先の言葉に続けて「歴史に、社会に、人々に裁かれる。しかしながら判決を書く時は、法廷の外のことは考えずに、法廷の中だけで勝負する。」としている。樋口さんは、「迷いはなかったけれど、何か大きなことをするという気持ちはありました。敢えて言うと歴史を残すために書いた。」と言っている。その歴史を残すとは「日本の歴史を残す。」という意味だという。井戸さんの「国の滅亡の危機を感じていらっしゃったということですか。」という問いに「今でも感じています。震度6が来ると原発は危ないのです。…誰が見ても原発は危険です。理性的な人ならば、必ず同じ結論になると確信しています。」と応じている。
福島原発事故を体験しているだけに、樋口さんの危機感は深刻である。私もその危機感を共有する。そして、二人の裁判官としての矜持に感銘を覚えている。
まとめ
二人は、2022年6月17日の福島原発事故についての国の責任を認めなかった最高裁判決を裁判官たちの名前を挙げながら手厳しく批判している。例えば菅野博之裁判官は「自分の良心を麻痺させている」とされているし、草野耕一裁判官は「法律家としては無茶苦茶」とされているし、岡村和美裁判官は「補足意見を書かないだけましかも」とされている。ただし、三浦守裁判官の少数意見は「まっとう」、「本来最高裁が書くべき判決」とされている。付言しておくと、菅野裁判官は、この判決後の7月に定年退官して、東京電力と関係のある大手の法律事務所に就職したことについて「そんなことをよくやるな」、「どう見ても公正らしくない」と非難されている。
私には、2013年に最高裁が招集した原発差し止め裁判の協議会で「井戸判決」が参照されていないことと合わせて、最高裁の無能と無責任さを改めて示されたように思われてならない。法律家にもピンからキリまであることは体験的に知っているけれど、この二人の話を聞くと「絶望感」に襲われそうになる。けれども、二人のような裁判官がいたこと、そして、その地位が終了した後でも、このような形で発信を続けている姿に接するとき、絶望などしている場合ではないとの思いを強くする。司法は原発を止める権能を持っていることを改めて確認しておきたい。そして、二人の市民としての決意にエールを送りたい。(2025年6月5日記)
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