2025.7.29
「原爆裁判」の原告に川島登智子さんという方がいる。14歳の時に広島で被爆した最も若い原告だ。14歳の被爆ということは、13歳の時に長崎で被爆している田中熙巳日本被団協代表委員や13歳の時に広島で被爆しているサーロー節子さんと一つ違いだ。「原爆裁判」の提訴は1955年だから24歳で原告になっている。なぜ、彼女が、米国の原爆投下を違法として日本政府に対し損害賠償を求めるという困難な裁判の原告になろうとしたのかの記録は見つかっていない。登智子さんは、自分がそんな裁判の原告になっていたことを子どもたちには話していなかったし、原告代理人であった岡本尚一弁護士との間でやり取りがあったであろうがその記録は残っていないのだ。
もちろん、訴状には彼女の状況についての記載はある。概略は次のとおりだ。
被爆当時14歳で、父母のもとに兄弟姉妹とともに健康な生活を営んでいたが、爆風による家屋倒壊によって顔面に傷害をうけ、左腕も負傷し、その傷あとは現在もなお残っている。爆風、熱線及び放射線による特殊加害能力によって両親(父当時50歳、母当時40歳)をなくした幼い原告及びその兄弟は、売り食いするものもなくなり生活に窮し親族に引きとられ殊に妹・詔子(のりこ)は養女にゆくなど姉妹も分れ分れの、生活をしなければならない悲惨な生活を送っている。
今般、その原告登智子さんの娘である時田百合子さん(72歳)とその息子さんである時田唱幸さん(35歳)とお会いする機会があった。私はそのような方がおられるということなど全く知らなかった。その存在を探し当てたのは、NHK BSで「原爆裁判」の特集を企画している金本麻理子さんだ。彼女は原告の関係者がいるはずだとして、執念をもって探索を続けていのだ。そして、百合子さんや訴状に登場する詔子さんとの面会を果たすのである。何とも凄い取材力だと感心する。
そして、金本さんは、百合子さんたちが「原爆裁判」について色々語っている私に逢いたいと希望しているとして、7月20日に浦和で開催された埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)主催の被爆80年記念行事に同行してくれたのだ。私はその記念行事で「核兵器も戦争もない世界を創るために―「原爆裁判」を現代に活かす―」というテーマで話をすることになっているので、その機会を生かしてくれたのだ。
私は、その講演の中で、川島登智子さんに触れるだけではなく、会場にお二人が見えていることを紹介した。お二人は自己紹介をし、会場からは暖かく大きな拍手が沸いた。主催者の高橋溥さんも「時田百合子様・時田昌幸様の御出席も原爆裁判を皆が厚く受け止めることになったと思います。」と喜んでくれた。「原爆裁判」がとりもってくれた縁である。
百合子さんたちは登智子さんがそのような裁判をしていたことは何も知らなかったそうだ。百合子さんは、朝ドラ「虎に翼」を視ていたので「原爆裁判」は知ったけど、まさか母がその原告をしていたなど本当に驚きだったという。お母さんが被爆者であることや傷があることは知っていたけれど、テレビで紹介されるような裁判にかかわっているなどとは信じられないという。なぜ、登智子さんは子どもたちには語らなかったのだろうか。
登智子さんが原告になった時、結婚していたし、百合子さんは3歳になっている。裁判の原告になることを夫や夫の両親に秘密にすることはできないであろうから、登智子さんはその方たちの同意を得ていたであろう。けれども、彼女は子どもたちには何も語っていなかったのである。裁判終結は1963年12月だから、その時に百合子さんに語るには幼すぎるかもしれない。そのあとは裁判のことなど忘れていたのかもしれない。けれども、語る機会がなかったわけではないであろう。
なぜ語らなかったのだろうか。それは、なぜ、登智子さんが原告になったのかと同様に謎である。その理由はもちろん推測するしかない。百合子さんによれば、登智子さんの夫(百合子さんの父)は「特攻の生き残り」だったという。そして、彼は彼女が被爆者であることを承知で結婚していたそうだ。百合子さんは、父と母は戦争による苦しみを共有できたからではないかと推測している。被爆者には被爆者であることを隠さなければならないと考える人たちもいた。自分が被爆者であると語ることは、自分につながる人たちも被爆者だということを暴露することにもつながるからだ。そして、被爆者に対する世間の視線は必ずしも暖かではない。むしろ、偏見と差別に囚われている場合があるのだ。
登智子さんに葛藤がないはずはない。そういう意味で、登智子さんは凄い決断をしただけではなく、その提訴を見守った夫やその家族は偉いと思う。他方、子どもたちにはその裁判のことを話さなかった心情も理解できるように思うのである。
金本さんは、百合子さんたちと私を取材しながら、「原爆裁判」の原告になることの意味を訊いてきた。私は、米国の原爆投下を違法だとして日本政府を相手に訴えを起こすこと自体が凄いだけではなく、登智子さんが自覚していたかどうかはともかくとして、核兵器という「究極の暴力」に対して「法という理性」が挑戦するという重要な意味を持っていた、と応えておいた。不動産関係の仕事をしていて社会保険労務士の資格を取るために勉強しているという昌幸さんは、大きくうなずきながらメモをとっていた。自分の祖母のたたかいの意味を確認していたのであろう。
百合子さんは被爆2世、昌幸さんは3世である。お二人とも被爆者運動には全くかかわっていないという。けれども、今般、岡本尚一弁護士の遺族や私と会うことによって、核兵器問題について勉強しなければという気持ちになったという。
私は、原告のことは知っていたつもりになっていたけれど、各原告にはそれぞれの濃密な人生があるのだということを改めて心に刻むことができた。被爆80年に際して「原爆裁判」の原告の子孫とリアルで会えたことはうれしいことだった。核兵器も戦争もない世界を創るためのエネルギーをもらえたからだ。(2025年7月22日記)
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