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「核兵器廃絶」と憲法9条



2025.10.9

麻生太郎氏の無責任さと危険性

はじめに
 麻生太郎氏(1940年9月20日生)が、高市早苗自民党総裁によって、副総裁に指名された。麻生氏は最高顧問だったけれど副総裁となったのだ。最高顧問は元首相や重鎮議員などが就任する名誉職的ポジションだけれど、副総裁は党内で総裁に次ぐナンバー2であり、役職政策・選挙・人事などに関与するとされている。高市・麻生体制となったのである。私は、高市氏は歴史に学ぶ必要性を否定する危険人物だと評価しているけれど、麻生氏も高市氏に劣らない危険人物だと思っている。その理由は、一つは彼の「ナチスに学べ」発言であり、もう一つは「台湾有事は日本有事」発言である。この小論では、彼の二つの発言を紹介し、その無責任さと危険性を検証する。

「ナチスに学べ」発言
 2013年7月29日。麻生氏は、民間シンクタンク国家基本問題研究所のシンポジウムで「僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)三分の二(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。(略)ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。…憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。」と講演した(辻本清美氏の質問主意書からの引用)。このことは、当時、マスコミでも報道されたので、記憶している人も多いであろう。
 
 この発言は「ナチスの手法を参考にして憲法改正を進めるべきだ」という主張として受け止められた。私もその一人だった。だから、この発言を「プロパガンダの天才」と言われたナチスの宣伝相ゲッペルスが、どのような手法で大衆を動員したかを批判する文脈の中で紹介したことがある(「ゲッペルスのプロパガンダを表現の自由で擁護してはならない」。『「核の時代」と憲法9条』日本評論社、2019年所収)。憲法改正手続きの中で、ナチスの手法など持ち込まれたら大変なことになるという危機感があったのだ。
 
 ところで、この「ナチスの手口に学べ」という表現が、ナチスの独裁的手法を肯定しているように受け取られたので、国内外からの強い批判が寄せられることになった。だから、麻生氏は、8月1日、その発言の一部を撤回している。その理由は「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。この例示が誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。」というものであった。
 彼は「ナチスのようにワーワー騒がないで静かにやっていく」と言ったけれど、それは「喧騒にまぎれて国民的議論がなかった悪しき例」として挙げたのだ。誤解を招いたので撤回するとしたのだ。これは説明になっていない。そして、誰も誤解などしていない。麻生氏は、ナチスは暴力と陰謀と懐柔で権力奪取をしていたにもかかわらず「ナチスに学べ」と言ったのである。

麻生氏の発言と撤回の意味
 当時、麻生氏は副総理兼財務大臣という要職にあった。私は、そのような立場にある人が「憲法改正」という重要事項について「ナチスに学べ」という発言をすることも大問題だと思うけれど、それをたやすく撤回して、なかったことにすることも大問題だと思っている。「綸言汗の如し」(りんげんあせのごとし。一度口にした君主の言は取り消すことができない、という意味)をここで引用することは適切かどうかわからないけれど、麻生氏が責任感を持つ政治家ならば、たやすく撤回するような発言はすべきではないであろう。権力の中枢にある者は、その発する言葉の重さを自覚すべきだからである。麻生氏にその自覚はないようである。彼はそのような無責任な資質の持ち主なのである。

 ところで、麻生氏の危険性は彼が「ナチスに学べ」としていることである。彼は、ナチスが、ワイマール体制下において政権を奪取していく方法や手段を否定していないのである。そして、ナチスが大戦争を仕掛けていったことにも反対しないどころか、むしろ共感を示しているようである。

 私は彼の論理を次のように受け止めている。ドイツ国民はナチスを選んだ。国民の多数が選んだものは正しい。ナチスは多数を確保するために工夫した。だから、ナチスに学んで「憲法改正」で多数派になろう。政治的多数派は何をしてもいいのだ。多数派になるために何でもやろう、という論理である。
現役の国務大臣が現行憲法の改正を進めるために「ナチスに学べ」というのは、立憲主義も平和主義も全く無視していることになる。立憲主義や平和主義が失われた時「政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされる」ことになる。麻生氏の危険性の本質はここにある。

「台湾有事は日本有事」
 2024年1月10日。麻生氏(自民党副総裁・当時)は、米国で記者団に「(台湾海峡有事は)日本の存立危機事態だと日本政府が判断をする可能性が極めて大きい」と述べ、日本は中国の台湾侵攻時に集団的自衛権を発動する可能性が高いという考えを示した(『朝日新聞』2024年1月11日)。麻生氏はこれに先立ち「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠。日本・台湾・米国は戦う覚悟を持ち、それを相手に伝えることが抑止力になる」 (2023年8月8日の台湾訪問時)とか、「台湾海峡で戦争となれば、日本は潜水艦や軍艦で戦う。台湾有事は間違いなく日本の存立危機事態だ」(2024年1月8日の福岡での国政報告会)などと発言している。彼は「台湾有事は日本の存立危機事態、すなわち日本有事」としているのである。 

 ところで、存立危機事態とは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と定義されている(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律2条4号)。
 だから、台湾で日本以外の当事者間での武力衝突が起きたとしても「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」でなければ「存立危機事態」ではないのである。

 けれども、麻生氏は、そのことには触れようとしないで「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠」として「日本は潜水艦や軍艦で戦う」としているのである。
 彼の発想には中国と米国(台湾)が武力衝突しても「日本はどちらにも与しない」という選択肢はない。米国が戦闘態勢に入れば「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとして、内閣総理大臣が自衛隊に防衛出動を命ずる(自衛隊法76条)ことを当然としているのである。日本に武力攻撃がないにもかかわらず、日本が戦争当事者になることを当然視しているのである。戦争を放棄している日本国憲法のもとで、日本に対する攻撃がないにもかかわらず、戦争が起きるのである。それは、自衛隊による中国本土の基地攻撃や、中国からの攻撃を意味している。政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされるのである。

まとめ
 確認しておくと、麻生氏はナチスへの親近感がある人だということと、「台湾有事」を「日本有事」にしないという発想は皆無の人だということである。こういう人が、自民党副総裁として、「戦後生まれだから戦争責任など問われるいわれはない」として「過去に学ぼうとしない」総裁とタッグを組んだのである。私たちはその危険な組み合わせに敏感でなければならない。危険が相乗効果を発揮するかもしれないからである。

 2016年5月27日。広島を訪問したにオバマ元米国大統領は「71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました。一つの閃光と火の海が街を破壊し、人類が自らを破壊する手段を手に入れたことがはっきりと示されたのです。」と演説している。現代は「人類が自らを破壊する手段を手に入れた」時代なのだ。
 中国は核兵器保有国である。米国が日本のために中国に対して核兵器を使用するなどといことはあり得ないであろう。米国の核が中国の日本に対する攻撃を抑止し、日本の安全を保障するなどというのは「天動説」並みの謬論である。
 このままでは、日本が、長崎以降、初めての核兵器を使用される戦場になるかもしれない。新たな被爆者が生まれるかもしれないのだ。私たちには「空から死が落ちてくる」事態を阻止する営みが求められている。(2025年10月9日記)




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