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2025.9.8
「今夏屈指の労作」との評価
8月21日付『赤旗』の「波動」欄で、メディア文化評論家の碓井弘義さんが、8月8日に放映されたBSスペシャル「原爆裁判〜被爆者と弁護士たちの闘い〜」について、「注目すべき一本だった」、「被爆体験と司法闘争の歴史を丁寧に掘り下げていた」、「被爆80年の夏、改めて原爆裁判の意義と精神を再認識すべきであることを、この番組は静かに主張していた。」と書いていた。すごくうれしいと思っていたら、8月28日付『赤旗』の「波動」欄は、この番組を「2025年『8月のジャーナリズム』屈指の労作」と評価していた。これはまた凄いことになったと欣喜雀躍の気分に襲われている。「放送を語る会」の小滝一志さんの記事だ。少し長くなるけれどその記事の要旨を紹介する。
記事の要旨 (()内は大久保の注)
番組は裁判を起こした岡本尚一弁護士の訴状を手掛かりに原告五人の遺族を探し、その一人 川島登智子の遺族 時田百合子さん親子が母親の原爆裁判にかけた思いをたどる旅を軸に展開される。
番組の冒頭、岡本が原爆裁判を開始するまでの動機と経緯を孫・村田佳子さんが保管している資料から掘り起こす。「トルーマンをアメリカの裁判所の法廷に訴えようとしていた」という岡本の原爆投下への強い怒りが動機だった。
原告川島の妹 詔子さんが健在だった。時田さん親子が訪ね、登智子がなぜ家族にも原告だったことを頑なに語らなかったかが次第に明らかにされる。
判決は「原爆投下は、当時の国際法から見て違法だった」と断ずる画期的なものだった。「本訴訟を見るにつけ政治の貧困を嘆かずにはいられない」と書き込んだ古関裁判長にインタビューした平岡敬さんなどの証言により、裁判長の心情や判決文作成の苦労が窺える。
番組の後半は判決の国際的評価とその後の世界への影響の検証だ。判決を英訳した米国の国際法学者(リチャード・フォーク)は「僕に力があれば、岡本にノーベル平和賞を授与した」と高く評価した。
岡本弁護士を引き継いだ松井康浩弁護士は、94年に日本反核法律家協会を結成、核兵器の違法性を認めさせる「世界法廷運動」のきっかけを作った。
2017年に核兵器禁止条約は採択された。大久保賢一日本反核法律家協会5代目会長(記事は4代目としているけれど正確には5代目)の「原爆裁判が蒔いた種がしっかり実を結んでいる」とのコメントが強く印象に残る。
唯一の被爆国日本政府が核兵器禁止条約に背を向けている今、番組は60年前の原爆裁判にスポットを当て、その今日的意義を明らかにした。2025年「8月のジャーナリズム」屈指の労作と思う。
私の感想
この番組の企画段階からかかわっていた私としては、このような評価をしてもらえることは本当にうれしい。この番組のチーフプロデューサーの塩田純さんやディレクターの金本麻理子さんは、昨年から、「原爆裁判」にかかわった原告や弁護士たちのその後を追跡する企画を考えていた。企画が通るかどうかは本当に狭き門なのだそうだ。金本さんから、その企画が通ったという喜びの連絡が入ったのは、今年の2月だった。
その後、私は、インタビューを受けたり、講演会での取材に応じたり、番組の内容にアドバイスをするなどのかかわりを持ってきた。番組が完成したのは8月に入ってからで、放送は8月8日だった。私も、ドキドキしながら見ていたけれど、川島登智子さんの娘さんの時田百合子(72歳)さんとお孫さんの時田昌幸(35歳)さんの行動を縦軸としながら、原告の遺族、岡本弁護士のお孫さん、弁護士や裁判官や学者やジャーナリストたちを絡ませながら「原爆裁判」とは何かを浮かび上がられる番組に仕上げられていた。特にすごいと思ったのは、リチャード・フォークだけではなく、核抑止論者の米国出身のICJ裁判官や核兵器の使用や威嚇を絶対的違法としたウィラマントリーICJ判事の教え子にまでインタビューしていたことだ。番組を企画し製作した方たちの力量に改めて感服したものだった。
まとめ
この番組を見た感想を何人かから聞いている。共通するのは、川島さんの遺族である時田さん親子が、登智子さんが原告になっていることを知らなかっただけではなく、被爆者のたたかいなどとは縁がなかったけれど、この番組の中で、すこしずつ変わっていき、最後は、埼玉の被爆者の慰霊祭で挨拶するようになっていることに対する共感だった。まさに、この番組はヒューマンドキュメンタリーになっていたのだ。その親子の取材を続けていた金本さんも二人が変わっていく様子がよくわかったと述懐していた。番組作りは成功していたのだ。
ところで、金本さんは、放送されなかったけれど、多くの遺族と接して多くの貴重な証言を得ているという。けれども、取材した材料全部を60分の番組におさめることなどできないので、割愛しなければならない事実が多く残ってしまうそうだ。何とももったいないことだと思う。私は、「原爆裁判全資料集」も出版されていることでもあるので、これらの証言を埋もれさせない方法を考えたいと思っている。裁判資料と当事者たちのその後を将来に活かしたいのだ。そうすれば、さらに「原爆裁判」を活用できるように思うからである。
この番組の英語版もできている。この番組は「核兵器も戦争もない世界」を創るための資料の一つとして役に立つことは間違いない。原爆という究極の暴力に、法という理性をもって立ち向かった人間たちがいたことを知ることになるからである。だから、世界中の人に視てもらいたいと思う。そして、NHKには地上波での深夜・早朝ではない時間帯での再放送をお願いしたい。せっかくの番組を活用しないことはもったいないからである。(2025年9月2日記)
2025.9.2
はじめに
8月30日と31日、核戦争に反対する医師の会(反核医師の会)のつどい(第35回)が開催された。テーマは「被爆80年 反核平和運動・被爆者支援・被爆医療の歴史を学び継承しよう!」である。私は、30日に、学習講演の講師として参加した。私のテーマは「『原爆裁判』を現代に活かす」で、「核兵器も戦争もない世界を創ろう」とする呼びかけを行った。
30日には、「被爆80年 反核平和運動・被爆者支援・被爆医療の歴史を学び継承しよう!」をテーマとするシンボも行われた。被団協の田中熙巳さん、被爆医療に詳しい斎藤紀さん、若い医師である河野絵理子さん、医学生の松久凌太さんがパネリストで、反核医師の会の向山新代表世話人がコーディネーターを務めていた。田中さんと斎藤さんの話を聞いて、若い二人が感想を述べたり質問するという形で進行していた。若い二人は自身の祖父の世代の田中さんや斎藤さんが永年被爆者運動にかかわり続ける源に興味が向いているようだった。私からすると、孫の世代の二人が核問題に興味を持つこと自体がうれしいことだった。二人は、核兵器が実際に使われる危険が迫っていることや大日本帝国の加害の歴史を知ったことによって、核と戦争の問題に関心を持つようになったとのことだった。
原爆症認定裁判のこと
私の印象に残ったのは、斎藤さんの「原爆症認定裁判」に関わる報告だった。斎藤さんは、被爆者が政府を被告として集団提訴した「原爆症認定裁判」において、政府との医学論争の最前線に立っていた一人である。
この訴訟について少し解説しておく。
ここの裁判は、原告の罹患している疾病の原爆放射線起因性が争われた事案である。被爆者307人が原告となり、2003年に全国15地裁に係属した。判決の多くが原告勝訴となり、国の認定基準の妥当性が問われた。2009年8月6日、被爆者と政府(麻生太郎首相)との間に「確認書」が取り交わされた。その主な内容は、ⅰ)一審で勝訴した原告を原爆症と認定。ⅱ)原告の救済のための基金を設立。ⅲ)厚生労働省と原告団が定期協議の場を設ける。ⅳ)今後、訴訟に頼らず認定制度を改善していく。この合意により、原爆症認定制度の見直しが進み、認定率がわずかに改善されたけれど、依然として認定されない被爆者も多く、課題は残されている。「黒い雨訴訟」や「被爆体験者訴訟」などである。
「原爆裁判」と「原爆症認定裁判」
ところで、斎藤さんの報告ではこの裁判も「原爆裁判」とされていた。確かに「原爆投下に起因する裁判」ということでは共通性もある。けれども、米国の原爆投下を国際法に違反するとして提訴した「原爆裁判」とこれらの裁判は争われているポイントは異なるので、「原爆裁判」という用語で一括することは避けておいた方がいいと思う。
それはそうであるとしても、「原爆症認認定裁判」において、被爆者・弁護士・医師、自然科学者が協力して、勝訴判決を積み上げ、政府を交渉の場に立たせるという大きな成果を勝ち得たことは特筆に値するであろう。「受忍論」にしがみつく政府の態度を変えさせることは容易ではないからである。斎藤報告は「原爆症認定裁判」の意義を再確認する機会であった。
若い二人からの質問
私は懇親会にも参加した。その場で河野さんと松久さんから質問を受けた。河野さんからの質問は、私が「原爆裁判」判決を書いた裁判官たちは勇気があると言っていたけれど、今の裁判所には期待できないとも言っていた。なぜ期待できないのか、ということだった。私は「裁判官の劣化だと思う」と答えた。例えば、原発関連裁判で国の責任を認めようとしない裁判官たちがいるからだ。「政治の貧困」に抵抗する裁判官が少ないのだ。
そして、「百歩前を行けば狂人。五十歩前だと犠牲者。一歩前を行けば成功者。一緒に行くのはただの人。一歩下がれば落ちこぼれ、と言われるけれど、あなたは何歩前を行くつもりなのか。」と彼女に訊いた。彼女はためらうことなく「百歩」と答えた。私はその言葉の中に、彼女の揺るがぬ決意を見ていた。あわせて、幣原喜重郎とマッカーサーとが、1946年1月、非軍事の日本国憲法を想定した際に「私たちは百年後には予言者と言われるでしょう。」と語り合ったというエピソードを思い出していた。百年単位で物事を考えることは大切なことなのだ。
松久さんの質問
松久さんは医学部5年生だ。再来年、国家試験だと言っていた。反核医師の会には「学生部」があり30人くらいが結集しているという。彼はその中の一人なのだ。彼の質問は中国や北朝鮮が攻めてくるかもしれないので「核の傘」は必要だという人と、どのように会話したらいいのだろうということだった。医学生の中にもそういう人がいるという。政府や与党だけではなく、マスコミや一部の野党も言っていることなのだから、別に不思議なことではない。
私はこんな風に応えておいた。まず、頭から否定しないで、丁寧に話を聞いてみよう。医者は、患者が何を訴えたいのか、何が不安なのかを聞くことから始めるでしょう。その人の主訴を聞かないことには手の打ちようがないでしょう。そして、なぜ、そういう風に考えるのかを聞いてみましょう。患者の病歴や家庭環境を知ることは基本でしょう。そのうえで、不安を解消するための方策を一緒に考えるということではないでしょうか。
その場の思い付きで答えたことではあるけれど、本当にそう思っているのだ。弁護士稼業も似たようなことをしているからだ。私たちの仕事も、まず、本人の主張を聞くことから始まるのだ。
三大プロフェッション
世に、三大プロフェッションといわれる仕事がある。聖職者、医者、弁護士だ。いずれも、人の死亡、病気やけが、もめ事を生業とする商売だ。そんなことは本来無償で行われるべきであろうけれど、そうはなっていない。だったら、遺族や患者や依頼者の話を丁寧に聞くことは最低限の義務だろうと思う。自分の結論を押し付ける前に、その言い分を聞き取ることが必要であろうと思うのだ。異なる意見の持ち主を頭から否定しても何も始まらない。聞いたからと言って、すべてがうまくいくわけではないけれど、聞かなければ違いが残るだけだ。
医学部5年生だという彼が、どんな医師になっていくは判らないけれど「核兵器も戦争もない世界を創りたい」という気持ちをもって患者や社会とかかわることになれば、きっと、いいドクターになるだろうと思う。
医者は病気を治すだけではなく、社会を変えていくことも仕事なのだ。弁護士も事件を処理すればいいということではなく、基本的人権の擁護と社会正義の実現も任務なのだ。
夢を持つ若い諸君と過ごした楽しい時間だった。(2025年9月1日記)
2025.8.20
はじめに
豊下楢彦氏の『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)を読んだ。核兵器も戦争もない世界を創るためには「核抑止論」を克服しなければならないと考えている私からすれば「核抑止論の虚構」と題する本を読みたくなるのは当然のことだ。同書の帯には「核は『ボタン』を握る人間も、その理論も、『狂気』に支配されてきた」、「日本が米国の拡大抑止に安全保障を求め続けるとすれば、現実には、日本の一億人の人々の生命と安全が、トランプ大統領が握る『核の傘』に依存することになる。これが現実とすれば、それは悲劇であり喜劇であり狂気そのものである。日本はいち早く、この狂気の世界から脱却しなければならない。」とある。これは私の「こんな男たちが『核のボタン』を持っている世界に生きていていいのか」という問題意識と強く共鳴している。
そして、豊下氏は、ゴルバチョフの「新思考外交」と「一方的軍縮」という画期的な提案が、核弾頭の急速な減少と冷戦対決の終焉を迎えたとしながら、日本の進むべき道を次のように示している。
大きく土台を崩されながらも、ともかく日本は「平和憲法」と「非核三原則」を維持してきた。この日本が世界に向かって緊張緩和と軍縮を訴えるならば、ASEAN諸国やグローバル・サウスの国々をはじめ国際社会から大きな支持を受けるであろう。…日本も大胆な軍縮方針を打ち出すことで、国際世論の支持を結集すべきである。歴史が証明していることは、「抑止力の強化」しか語りえない伝統的な抑止論では危機を突破することができない、ということなのだ(12頁)。
本書は、このことを論証するために書かれているのである。私は、核兵器に依存するのではなく、日本国憲法がいうように「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依存しようと考えている。だから、豊下氏の結論に同意する。
本書では、私が知っている事実や書籍の記載が多く引用されている。同じ問題意識を持っていても、様々なアプローチがあることを改めて知ることができた。そして、私が知らないこともたくさん書かれている。被爆80年のこの年に本書に出会えたことは、本当にうれしい。
そこで、ここでは、私が特に印象に残ったことを記しておくことにしたい。それは、「原爆裁判」からの引用と「核の復権」についての記述である。
「原爆裁判」からの引用
本書は「原爆裁判」の判決文を次のように引用している(200頁)。
人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨、号泣し、焦熱地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した凄惨な様相を呈した。
これは、日本反核法律家協会のHPからの引用である(参照していただいてうれしい)。この部分は裁判所の判断ではなく、原告の主張を整理した部分であるけれど、私もよく引用している。ただし、本書では「襤褸」には「ぼろ」とルビがふってあるけれど、私は「らんる」と読んでいる。いずれにしても、人が自分の皮膚をぼろのように垂れ下げながら、死体の間をさまよっている光景である。
豊下氏が、この部分を引用しているのは、北朝鮮に対して「実際に核兵器を使用するぞ」という脅しをかけることは、具体的には「人類史上における従来の想像を絶する」壊滅的な破壊を与えるぞと脅迫することを意味する、という文脈においてである。
豊下氏は、本書第6章「核の復権」とは何か で、2019年に出版された秋山信将・高橋杉雄編著の『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』(勁草書房)を紹介している(194頁)。その中で、北朝鮮に対して「核兵器を使用するぞ」との脅迫を加えるだけではなく「発射前の核兵器を撃破するために核の限定使用も選択肢に備える必要がある。」という言説を紹介している(199頁)。核兵器の先制使用の提案である。氏はその言説に対する批判として「原爆裁判」を引用したのである。(なお、この言説を展開しているのは防衛研究所の高橋杉雄氏である。防衛省にはそういう人がいることを記憶しておいてほしい。)
豊下氏の「核の復権」に対する批判
豊下氏の『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』に対する批判の一つに次のような視点がある(200~204頁)。
「核の忘却の終わり」では、北朝鮮は「いまや東京を含む日本の都市も『火の海』になる可能性がある」と指摘されるほどに「恐るべき脅威」とされている。仮にそうであれば根本的な疑問が生ずる。日本の原発の6割近くは日本海側に立地している。北朝鮮が日本を「火の海」にしたいのであれば、なにも核ミサイルを撃ち込む必要はない。原発を通常兵器で攻撃すればすむ話だ。日本政府は一方で北朝鮮の脅威を煽り、他方では原発の全面稼働に突き進むという支離滅裂の状態に陥っている。この本では、北朝鮮による原発攻撃という「最悪のシナリオ」は想定されていない。それでは「北朝鮮の脅威」は“レトリックの世界”になってしまう。それは、北朝鮮の意図を分析していないからだ。北朝鮮にとっては自国の崩壊を招くような日本攻撃ではなく、日本との国交を樹立し、日本からの賠償を獲得する方が最善の道であろう。
もちろん、この視点は重要である。秋山氏と高橋氏という政府に影響を与える立場にある人が「支離滅裂」に加担して北朝鮮の脅威を煽り立てるレトリックを座視できないからである。
私の「核の復権」に対する批判
ところで、私も『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』についての論評をしたことがある。『前衛』2020年11月誌上だ(『「核兵器も戦争もない世界」を創る提案』(学習の友社、2021年)に収録)。タイトルは『「核抑止論」の虚妄と危険性-現代日本の「核抑止論」を批判する』である。
その問題意識は「外交官経験がある秋山信将氏と防衛研究所の高橋杉雄氏が編集している『「核の忘却」の終わり』という本がある。その副題は「核兵器復権の時代」である。「核抑止論」を現代の日本に生かそうという本である。政府の核政策に影響を与える立場にある二人が展開する「核抑止論」を検討することは、私たちの「核抑止論」理解に、反面教師として大いに役立つであろう。」というものであった。
私の結論は「このように見てくると、「核抑止論」というのは、現実を無視しているだけではなく、そもそも「戦略」などとはいえない、極めて主観的なものであることが確認できる。出来の悪い「神話」、無意味な「神学論争」といえよう。そして、意図的であるかどうかにかかわらず、抑止が破れた場合には、「壊滅的人道上の結末」が待っているのである。「核抑止論」は単に無意味で不毛というだけではなく、虚妄(うそいつわり)にまみれた、危険この上ない無責任な「理論」なのである。にもかかわらず、核抑止論者たちは、現在の日本においても、「核抑止論」の効用を、恥ずかしげもなく、むしろ正しいことのように、言い立てているのである。しかも、その言説は、外務省や防衛省の中で大前提とされているのである。私たちは、彼らの言説の不毛さ、虚妄、危険性を暴露しなければならない。」であった。
豊下氏と私の核抑止論批判の共通性と違い
私は、本書で展開される核抑止論批判に共感すること大であるし、私も核抑止論批判を展開してきているので、その共通性と違いをAIに訊いてみた。そうしたら、こんな答えが返ってきた。
両者ともに、核抑止論を「虚構」あるいは「虚妄」として否定し、以下のような共通の批判点を展開しています。ⅰ)非人道性の指摘;核兵器の使用や威嚇は、広島・長崎の被爆体験を踏まえ、非戦闘員を含む無差別大量殺戮であり、国際人道法に違反する。ⅱ)論理的矛盾の指摘;「核兵器のない世界」を掲げながら、核の傘に依存する政策は自己矛盾であると批判。ⅲ)ダブルスタンダードの批判;核保有国が自らの核を正当化しつつ、他国の核を非難する姿勢を「二重基準」として批判。ⅳ)核兵器による安全保障の否定;核兵器は戦争を抑止するどころか、むしろ不安定化を招くと指摘。
違いは次のように指摘されている。
批判の焦点、提案する代替案、政治批判の強度などの論点である。豊下氏は、核抑止論の戦略的・歴史的虚構性や狂気を前提とした不安定な安全保障構造を強調。ゴルバチョフの「新思考外交」やロバート・ケネディの「他国の靴を履く」姿勢を提案。核保有国の歴史的構造批判、と整理されている。大久保は、核抑止論の法的・倫理的違法性や国際人道法違反と憲法9条との矛盾の強調。憲法9条の世界化、核兵器禁止条約の推進、非核法の制定などを提案。日本政府・自民党の核政策への直接的批判をしている、と整理されている。
私の方が政府や自民党への「直接的批判」が強いことが見抜かれているようだ。
そして、次のように総括されている。
両者ともに、核抑止論を「安全保障の幻想」として否定し、核兵器廃絶を目指す点では一致しています。しかし、豊下氏は戦略的・歴史的な視点からその虚構性を暴き、大久保氏は法的・倫理的な観点からその違法性と非人道性を強調しています。
この違いは、核兵器問題をどう捉えるかによってアプローチが変わることを示しており、両者の批判は相互補完的に核抑止論の限界を浮き彫りにしています。
私は「へー!そうなんだ」と受け止めている。
まとめ
私は「核兵器も戦争もない世界」を創りたいと思っている。しかも、それは「見果てぬ夢」などではなく「喫緊の課題」だと思っている。そのためには 、それを阻む「核抑止論」を克服しなければならないし、大同団結が必要だと思っている。核抑止論とは人々を核戦争へと駆り立てる「呪いの言葉」である。「汝、平和を欲するならば核兵器に依存せよ」は、私たちの運命を「死神にゆだねよ」というキャッチコピーであることを見抜かなければならない。豊下氏のこの本は「核抑止論の限界」を浮き彫りにする資源に満ちている。
本書には「『憲法なき戦後』が始まって80年を迎えた日に」という意味不明の言葉もあるし、AIがいうような「相互補完」ができるかどうかはわからないけれど、私なりに「核抑止論の限界」を突破するために引き続き頑張りたいと決意している。(2025年8月17日記)
2025.8.11
日本テレビの取材
先日、日本テレビから取材を受けた。日本テレビからの取材は初めてだった。「原爆裁判」のことで話を聞きたいという。「どういう経緯ですか」と聞いたら、高桑昭さんの話と私の話を聞いてみたいと昨年から考えていたということだった。それならもっと早く来ればいいのにと思ったけれど、取材を断る理由はない。ディレクターやカメラマンたち4名に、3時間ほどあれこれ話をさせてもらった。
若い担当者は事前に質問を用意していたけれど、まだまだ不慣れだった。少し年上の人は、部屋にある12時前で止まっている時計を見て「あれは終末時計に合わせてあるのですか。」と訊いてきた。その時計は、単に電池切れで止まっていただけなのだけれど、89秒前と言われれば、そう見えるのだ。私は「そういうことではない」と否定しながらも、彼の感性に共感していた。彼は、取材の翌日、「私たち報道に携わる者も、もっと『原爆裁判』のことを知らなければと思いました。」とメールをくれた。そんな気持ちで番組を作ってくれたのだ。
日本テレビの番組
日本テレビは、高桑さんと私を取材して、『【戦後80年】“核兵器は国際法違反”…核廃絶や被爆者救済に光明をもたらした「原爆裁判」判決に、いま再び光』と『“核は国際法違反”指摘の裁判官・高桑昭さん死去 核保有論もくすぶる戦後80年 最後の取材に寄せた言葉』という二つの番組を制作した。前者は8月1日に放送され、YouTubeに残っている。後者は8月8日にヤフーニュースで配信されている。両方とも、今も、視聴することはできる。両方とも、核兵器使用の危険性が高まっていることを指摘しながら、「原爆裁判」の内容と現代的意義を伝えている。例えば、こんな調子だ。
ウクライナを侵攻したロシアは、核の脅しを繰り返す。トランプ大統領は今年6月、イランの核施設を攻撃した際、「(イラン核施設への)あの攻撃が戦争を終わらせた。広島や長崎の例を使いたくないが、戦争を終わらせたということでは本質的に同じだ」と、広島や長崎への原爆投下を引き合いに出して、攻撃を正当化した。
国内でも、初当選を果たした参政党の塩入清香参院議員が、選挙期間中に核保有を容認するかのような発言をして、物議を醸している。
東京地裁は1963年の判決で、「個人に国際法上損害賠償請求権が認められた例はない」などとして、原告の賠償請求そのものについては棄却した。だが同時に、原爆投下について「放射線の影響により18年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実」と指摘し、「不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反している」とした。
そして、私の次のようなコメントも紹介している。
裁判の資料を継承し、その意義を伝える日本反核法律家協会会長の大久保賢一弁護士は「核兵器が国際法に違反すると断言した、世界初の判決」と評価する。判決のなかには、核兵器という究極的な暴力に理性で立ち向かう方法はないのか、法は無力で良いのかという問いかけが含まれていると、大久保さんは考えている。
正確には「核兵器が国際法に違反する」ではなく、「原爆投下が国際法に違反する」という判決なのだけれど、その判決の価値と論理を継承する核兵器禁止条約は「核兵器を違法」として、その廃絶を展望しているのだから、訂正しなければならないような間違いではないであろう。このような間違いは「大久保さんによると、判決は、国際法による兵器の禁止や、被爆者救済運動の広がりなどの足がかりになったという。」として、「核兵器の禁止」を「兵器の禁止」としていることにもある。この間違いも、判決は「戦争をなくすことは人類共通の希望」としているのだから、許容しておきたいと思う。
高桑昭さんのこと
ところで、もっとも強調されているのは「原爆裁判」判決に直接かかわった高桑昭さんの当時の心構えと現在の心境についてだ。高桑さんは、番組の取材時、家族を通じて対応することはできたようで、8月1日の放送時にはそのことが紹介されている。けれども、高桑さんは8月3日に永眠されたのだ。88歳だった。私は、生前にお会いしておきたかったと悔やんでいる。日本テレビは高桑さんについてこんな紹介をしている。
今の社会の現状をどう見ているのか。7月末、亡くなる直前の高桑さんに取材すると、「時が経ち、人々の感覚が狂ってきたのであろう。時勢の変化で致し方ないのだろう」というコメントが返ってきた。核兵器が国際法違反だと断じた原爆裁判。その裁判官が核保有論もくすぶる今の日本を、なぜ「致し方ない」とするのか。家族が真意を尋ねると、高桑さんは「情けないと思っている」と悔しさをにじませた。生前、高桑さんは「8月6日は嫌だ」とよく漏らしていたという。終戦の日の15日までは、テレビや新聞などとも距離をおいた。自身が関わった裁判で原爆の悲惨さを思ったのかもしれない。だが、それと同時に、自分自身の戦争体験と結びつき、何かしらの忌まわしさの感覚があったのだろうと、家族は考えている。
私は、高桑さんの「時が経ち、人々の感覚が狂ってきたのであろう。時勢の変化で致し方ないのだろう」というコメントについて、8月1日の放送の中で「核兵器禁止条約はできている。高桑さんのまいた種は大きくなっていますよ」とコメントしておいた。核兵器禁止条約は核兵器を違法とする「法的枠組み」だからだ。高桑さんが起案した「原爆裁判」は、間違いなく現代に生きているのである。私のこのコメントについて吉村清人弁護士はFaceBookで次のように書いている。
この大久保先生の言葉は、逝去される直前に、時世の変化を嘆いていた高桑さんにとって、原爆裁判の判決裁判官としての高桑さんの業績に対する、永訣の最高の讃辞になったのではないだろうか。この讃辞が、8月1日の放送により、生前の高桑さんに届いたことを、私は信じる。
私は吉村さんの情報収集力とその感性に敬服する。
記事への反応
YouTubeやYahooニュースで人の目に触れると、いろいろなコメントが寄せられることになる。少し紹介しておく。
核を持たないことが本当に弱いことか。戦争を放棄することが本当に弱いことか。人を殺すことに正義はあるのか。攻撃だけが強さなのか。この判決は世界中を揺るがせた大きな判決だ。今年の広島県知事のスピーチを聞いてみて欲しい。強さとは何か考えて欲しい。
核をもつことで抑止力になると思っている人、安上がりだと思っている人こそ完全な平和ボケ。日本を守るどころか、経済的にも武力的にも日本を破滅させる超愚策。
まずこのタイトルが誤解を招きます。違法とされたのは「原爆の使用」であって核兵器自体は国際法違反ではありません。違反だったら核保有国が国連で違法性を問われているでしょ?また感情的に核はダメ。と核を絶対悪として議論してこなかった結果、安易な核武装論が出てしまったと思いますよ?核兵器を『兵器』として認識するためにも、絶対悪とはせずに議論はするべきだと思いますよ?兵器として知りもしないで廃絶なんて出来るわけがない。
今や国際法なんて空手形ですからね。今は宣戦布告などしないし、空爆によって一般人を攻撃しているし、ハマスなどは軍服を着ないで軍事活動を行なっている。全部国際法違反。国際法は紳士協定みたいなものなので、力のある国が国際法を破っても、それを裁くことが出来ない。せいぜい、公式に批判糾弾するくらい。
核は国際法違反…だからどうしたの?
強制力を持たない法律なんて机上の空論…国際法でプーチンでもネタニヤフでも逮捕できてから言って欲しいんだけど。
戦勝国が正義という理屈で成り立っている世界で、敗戦国の裁判所が下した判決が何らかの影響を与えることができるのだろうか…「核兵器廃絶」という夢想の中で。
それぞれに「共感した」とか「なるほど」とか「うーん」とかの反応も示されている。
何とも活発に意見が出されているのだ。共感できる意見もあるし、批判したい意見もある。日本テレビが作成したニュースは、このように波紋を起こしているのだ。
とてもいいことだと思う。核兵器問題は、すべての人にかかわりがあるのだから、大いに議論しなければならないのだ。このような反響を引き起こしている日本テレビに感謝したい。(2025年8月10日記)
-->2025.8.4
参政党が躍進した
今回の参議院選挙の結果について、あなたはどう感じていますか。私は、自公が参議院でも過半数を割ったことはいいことだけれど、手放しでは喜べないと思っています。なぜなら、参政党が大きく議席を増やし、他方で、日本共産党が得票数も得票率も議席も大きく減らしているからです。自公が少数になったとしても、参政党のような政党が増えることは、今後の日本社会にとって、むしろ危険だと思えてならないのです。加えて、共産党のような、現在の政治状況にきちんと向き合い、科学的な分析と説得的な政策を提示する政党が衰退するということは、二重の意味で危険な兆候だと思うからです。
そこで、参政党の危険性はどこにあるのかについて考えてみることにします。ただし、自民党衰退の原因を作った旧安倍派の諸君が石破首相に退陣を迫ったり、高市早苗氏のような極右よりましだということで「石破辞めるな」のデモも行われていますが、ここではそのことには触れません。また、一人区での共闘が功を奏していることにも触れません。
そして、共産党がなぜ減少したのかについても触れないことにします。私は、伊藤岳さんの当選と共産党の躍進を願って行動したけれど、共産党全体の選挙方針について知りうる立場にないからです。共産党は、党内外の意見を踏まえて、その原因を探求するとしているので、その結果に期待することにしています。
まず、参政党の基本的スタンスを確認しましょう。
参政党の主張
参政党は次のようなことを言っています。
今のままの政治では日本が日本ではなくなってしまう。参政党はそんな危機感から有志が集まり、ゼロからつくった国政政党です。私たちには特定の支援団体も資金源もありません。同じ想いを持った普通の国民が集まり、「子供や孫の世代によい日本を残したい」
という想いひとつで活動を続けています。
ここでは、ある種の危機意識が述べられています。そして、普通の国民が、より良い日本を残したいという想いで活動しているとされています。「次は俺たちの番だ―これ以上日本を壊すな」ということです。けれども、関心は日本のことだけです。「日本人ファースト」が大前提なのです。
参政党の重大三大政策は次のとおりです。
① 笑顔の子どもたち 教育・人づくり 学力(テストの点数)より 学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の高い日本人の育成
② 生い茂る木々 食と健康・ 環境保全 化学的な物質に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求
③ 笑顔の日本地図 国のまもり 日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり
何気なく見ていると、そうだよねと思われるかもしれません。けれども、「日本人の育成」であり、「化学物質に依存しない」であり、「国を守る体制」が強調されているのです。このように、参政党の三大政策には、排外主義や科学軽視や自前の軍事力依存などが埋め込まれているのです。
次に、参政党の核兵器観と憲法観を検討します。私は、その人や組織の正体を見破る物差しとして、その核兵器観と憲法観を物差しにしています。核兵器に依存しようとしているのかそれとも廃絶しようとしているのか、憲法の諸価値をどのように評価しているのかを物差しにすれば、その人や組織の知性と理性の程度が見えてくるからです。まず、核兵器観です。
参政党の核兵器観
参政党の神谷宗幣(かみや そうへい)氏は、2022年当時、ただ一人の核兵器保有賛成の議員でした。今回、東京選挙区から当選した塩入清香 (しおいり さやか)氏は「核武装が最も安上がりで、最も安全を強化する策の一つ」と発言しました。参政党の国会議員のうち6人は「日本は核兵器を保有すべきだ」としているそうです(『毎日新聞』8月1日付)。こうしてみると、参政党の諸君は核兵器を廃絶するなどとは全く考えておらず、日本も核武装すべきだとしているようです。
私は、そもそも「核と人類は共存できない」と考えています。被爆者のたたかいや「原爆裁判」などから核兵器が「死神であり、世界の破壊者」であることを知っているからです。だから、核兵器が必要だとか役に立つなどと言い立てる連中は人間として許せないし「死神のパシリ」とみなしています。
それに加えて、日本は核兵器不拡散条約(NPT)の加盟国です。日本は非核兵器国として核兵器を保有しないという条約上の義務を負っているのです。そして、憲法は、日本国が締結した条約は誠実に順守するとしていますし(98条)、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負っているのです(99条)。国会議員は「核兵器保有」を言ってはならない立場にあるのです。だから、日本が核武装すべきだとする議員は、NPTや憲法を知らないか、無視しているのです。愚かでなければ無責任な諸君ということになります。いずれにしても、国会議員の資格はないのです。参政党はそのような諸君の群れなのです。
参政党の新日本憲法
参政党のHPには、「新日本憲法」の構想案が掲載されています。それは、現行憲法の一部を改正する「改憲」ではなく、国民自身が主体となって憲法を一から創り直す「創憲」だとされています。
確かに、この構想案は憲法を一から創り直しています。天皇は悠久であり、国民もまた天皇を敬慕するとされ、国民主権などは消えています。主権は国にあるとされ、君が代や日章旗が憲法上の存在になります。国民は子孫のために国を守る義務を負います。もちろん、自衛軍は設置されます。夫婦同姓が義務付けられ、帰化人は差別され、基本的人権などは見る影もない扱いを受けています。
要するに、日本国憲法の国民主権、基本的人権の擁護、非軍事平和主義などは完全に否定されているのです。彼らは、核兵器を容認し、憲法の基本的価値などを完全に無視しているのです。核兵器という究極の暴力を容認し、天皇を賛美し外国人を排斥しているのです。「尊王攘夷」の時代に戻ったかのようです。
まとめ
にもかかわらず、彼らは躍進しているのです。彼らに投票した人たちがどこまで彼らの正体を知っていたかは分かりません。知っていて投票する人もいたかもしれませんが「厳しい現実」の中で醸成された不安や不満のはけ口として選択したのかもしれません。「甘い言葉」に騙されているのかもしれません。「厳しい現実」に主体的に抵抗することは決して簡単なことではないからです。
私たちの隣には、不安や不満を覚え、将来に希望が持てないでいる人は大勢いるのではないでしょうか。人は、決して、一人では生きられません。他者との交流は不可欠です。これを「類的存在」という人もいます。そして、人は誰でも自分を大事にしたいし、誰かに認めてもらいたいものです。自己礼賛や承認欲求は人間の性です。だから、「同じ想いを持った普通の国民が集まり、子供や孫の世代によい日本を残したい」などというショート動画がスマホの画面に流れると「参政党いいね」になるのでしょう。
参政党のような政党が存在しうる素地はあるのです。けれども、その正体は時代遅れの「悪魔の兵器」を容認する排外主義者なのです。私たちはその正体を暴かなければなりません。彼らを跳梁跋扈させてはなりません。けれども、それだけでは足りないのです。私たちは、隣人の不安や不満を共有し、その原因がどこにあるのかを解明し、未来社会を展望する運動を創らなければならないのです。そして、その運動を支える政党を大きくすることも求められているのです。(2025年8月2日記)
2025.7.29
愛知のサマーセミナー
愛知では、昨年、約850の講座に3万5千人からの人たちが参加するサマーセミナーをやったそうだ。主催は、愛知県私立学校教職員組合、私学をよくする愛知父母協議会、愛知県高校生フェスティバル実行委員会などで構成する愛知サマーセミナー実行委員会だ。愛知県や名古屋市はじめ県内の市町村が後援している。私は愛知でこんな大規模なセミナーが毎年開かれていることは全く知らなかった。今年は、36回目で、7月19日から21日の三日間、名古屋中学・高等学校などで開催されたのだ。テーマは「戦後80年、平和と共生を作り出す『21世紀型学び』」だ。3日間、午前に2限、午後2限の講座が全部で千程ある。4万人の参加を予定しているという。なんとも凄いことだ。1日目の最初の講演は、金本弘日本被団協代表理事の『どうする!!危険な世界に生きる私たち』だった。
特別講師としてのお誘い
このセミナーの特別講師として、私も誘われたのだ。誘ってくれたのは、副実行委員長の横田正行さんだった。お誘いの理由は、「依頼書」によれば、私が「核兵器廃絶と憲法9条」と題するブログで書いている「『核兵器も戦争もない世界』を展望する核心を突いた鋭い指摘がとても参考になりました。そして、私たちの生き方が問われているとひしひしと感じました。」ということだった。そして、特に印象に残っていることとして、私のブログを丁寧に引用してくれたのだ。依頼書は「今年のサマセミのテーマである『戦後80年、21世紀型学びが反戦・平和を世界に拡散する!』を考えるにあたり、大久保先生が指摘されていることを学ぶ必要があると強く思っています。生徒や父母、教師、そして市民の皆さんにぜひお話を聞かせてください。」と結ばれていた。このような依頼を断ることなどできるわけがない。ということで、7月21日、名古屋まで出かけて行ったのだ。
講義のテーマ
私の講義のテーマは「『核兵器も戦争もない世界』を創るために!!」だ。「80年前、原爆が投下されました。核兵器の使用は『全人類に惨害』をもたらします。にもかかわらず、核兵器使用の危険が高まっています。私たちは何をすればいいのか。『原爆裁判』を題材に考えます。」というのがキャッチコピーだ。持ち時間は80分。会場は100名くらい入る階段教室で、ほぼ満席だった。
講師席のすぐ前の最前列にあどけなさが残る少女が三人いた。「何年生?」と聞いたら「1年生」と答えていた。高校1年生なのだ。彼女たちは私服だったけれど、何人かの制服の高校生たちも聴講していた。普段、私の話の聞き手は年配者が多いのだけれど、今日は違う。うれしい。問題は、私の話がその子たちに伝わるかどうかだ。
高校生の感想文 その1
高校生たちが25通の感想文を寄せてくれた。いくつか要旨を紹介する。最初に、最前列に座っていた高校1年生のものだ。
サマーセミナーに参加するのは初めてだったけど、講師の方の解りやすい説明のおかげで、今まで知らなかった戦争について細かいところまで知ることができました。当時の状況や政府の取った行動・原因を理解することが出来ました。核兵器による被害の大きさなどを聞いて改めてこわさを感じることができました。被害にあった人たちのためにも、戦争であったことを活かしていければよいなと思いました。
世界にはまだまだ平和ではない国や、核兵器を持ち、いつでも戦争ができる状態にある国があるということがわかりました。今の日本では想像もできない歴史があることがわかった。サマーセミナーに来て、この講座をうけなければわからないことを知れたので、来てよかったと思った。
このサマーセミナーを受ける前は、戦争のことは自分なりに学校で調べたりしていて、何となく知っていると思っていたけれど、この「核兵器も戦争もない世界を創るために」という講義をうけてまだまだ知らないことがたくさんあったし、私たち高校生よりも高齢の方が多くておどろいた。今の日本は戦争の話を語れる人が減っている。だからこそ、まだ将来の長い私たちが今回聞いたことをしっかり覚えておいて、いつか自分の子どもたちに受け継いだり、情報を共有したりして、平和な今の世界を大切にしていきたいと思った。核兵器の恐ろしさもよくわかった。最前列で聞けて、大久保さんと少し話せてうれしかったです。
こんな感想文を書いてもらっただけでも、本当にうれしい。
高校生の感想文 その2
長文の感想文もたくさん寄せられていた。その内の4通の要旨を紹介する。いずれも3年生の女子だ。
原爆裁判や天地の公理など、学校の授業では学べないようなことについての話を聞くことができて良かった。裁判によって核兵器の恐ろしさを示すことは重要なことだと思った。しかし、「被害の結果が原告の言うとおりかどうか。及び原爆の性能などは知らない」などと答弁する政府に対してはモヤモヤした気持ちになった。現代の自分たちが平和で安全な生活を送れているのは、核兵器禁止条約ができるまで努力を重ねてくださった方がいたからだ。
今回の講座で原爆裁判を通して、原爆の被害の大きさや被害者の核廃止への叫びを改めて知ることができました。被爆者が辛い日常生活を送っていたことを想像すると胸が苦しくなました。核廃止をできないことではないと知ることができてよかったです。平和な世界を創るために自分で出来ることを見つけ、積極的に行動することが大切だと気付くことができました。
私がこの講座で感じたことは、核投下後の日本の対応が全く駄目だということです。私は戦争のことを全く知らないので、戦争後の被爆者への支援があったとばかり思っていました。しかし、この講座でそれが全く行われていないことを知りました。そして、日本がアメリカの「核とドルの傘下」にあるという現状を知り、言葉が出ないほど絶望を感じました。一つの核で何人もの人が死に、そして戦後も苦しめられたのか。想像を絶するものだと思います。アメリカが核投下は正義だと思っていることに深い悲しみを感じました。こんな悲劇が二度と起こらないためにも、核をなくすべきだと考えました。
私たちは戦争を知らない世代だからこそ、戦争について知り、考え、次世代に語り継ぐ必要があると思い、今回の大久保先生の講座を受講しました。私の通っている高校は平和探求も活発で、2回の修学旅行では沖縄と長崎に行きました。また、家族旅行で広島に行ったので、今まで戦争や平和について考える機会は多かったです。ですが、今回の講義を受けて、私の戦争と平和への理解はまだまだだなと思いました。原爆投下についての裁判で、政府の動きや裁判所の判断、核兵器禁止条約の禁止から廃絶まで流れなど、原爆が投下された背景についても勉強になりました。大久保先生のお考えも聞くことができ、とても心に残るものばかりでした。「核兵器も戦争もない世界」を創るために、未来に向けて私たちが今できることを考えていきたいと思いました。
高校3年生になるとこんな感想文を書いてくれるのだ。私の話は伝わっていたのだ。私の意図を完全に受け止めてくれていると思うと胸が熱くなる。
まとめ
ところで、中学生からの感想文も3通ほどあった。「話が難しいと思った」、「言葉づかいが難しいなと思った」としながらも、「核兵器の恐ろしさや醜さを感じた」とか「原爆被害者やその他の戦争被害者への補償についての政府の考えはおかしいと感じた」などいう感想を書いている。この子たちにも、それなりに受け止められているのだ。
子どもたちの成長に合わせて、日々、教育に携わっている先生方の大変さを垣間見たような気持にもなるけれど、子どもたちはきちんと物事を理解できるのだということを確信する機会でもあった。
講義の冒頭に「今、世界や日本はいい方向に向かっていると思いますか」と聞いたら、大人も子どもも誰もそう思っていなかった。けれども、このような感想文を読めば、私たちの未来は、決して、絶望する必要はないと思えるのだ。もちろん、絶望などしている場合ではないのだけれど。
このセミナーに参加することによって、私は新たなエネルギーをもらえたようだ。そんな機会を提供してくれた横田さんたちに感謝したい。(2025年7月28日記)
2025.7.29
「原爆裁判」の原告に川島登智子さんという方がいる。14歳の時に広島で被爆した最も若い原告だ。14歳の被爆ということは、13歳の時に長崎で被爆している田中熙巳日本被団協代表委員や13歳の時に広島で被爆しているサーロー節子さんと一つ違いだ。「原爆裁判」の提訴は1955年だから24歳で原告になっている。なぜ、彼女が、米国の原爆投下を違法として日本政府に対し損害賠償を求めるという困難な裁判の原告になろうとしたのかの記録は見つかっていない。登智子さんは、自分がそんな裁判の原告になっていたことを子どもたちには話していなかったし、原告代理人であった岡本尚一弁護士との間でやり取りがあったであろうがその記録は残っていないのだ。
もちろん、訴状には彼女の状況についての記載はある。概略は次のとおりだ。
被爆当時14歳で、父母のもとに兄弟姉妹とともに健康な生活を営んでいたが、爆風による家屋倒壊によって顔面に傷害をうけ、左腕も負傷し、その傷あとは現在もなお残っている。爆風、熱線及び放射線による特殊加害能力によって両親(父当時50歳、母当時40歳)をなくした幼い原告及びその兄弟は、売り食いするものもなくなり生活に窮し親族に引きとられ殊に妹・詔子(のりこ)は養女にゆくなど姉妹も分れ分れの、生活をしなければならない悲惨な生活を送っている。
今般、その原告登智子さんの娘である時田百合子さん(72歳)とその息子さんである時田唱幸さん(35歳)とお会いする機会があった。私はそのような方がおられるということなど全く知らなかった。その存在を探し当てたのは、NHK BSで「原爆裁判」の特集を企画している金本麻理子さんだ。彼女は原告の関係者がいるはずだとして、執念をもって探索を続けていのだ。そして、百合子さんや訴状に登場する詔子さんとの面会を果たすのである。何とも凄い取材力だと感心する。
そして、金本さんは、百合子さんたちが「原爆裁判」について色々語っている私に逢いたいと希望しているとして、7月20日に浦和で開催された埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)主催の被爆80年記念行事に同行してくれたのだ。私はその記念行事で「核兵器も戦争もない世界を創るために―「原爆裁判」を現代に活かす―」というテーマで話をすることになっているので、その機会を生かしてくれたのだ。
私は、その講演の中で、川島登智子さんに触れるだけではなく、会場にお二人が見えていることを紹介した。お二人は自己紹介をし、会場からは暖かく大きな拍手が沸いた。主催者の高橋溥さんも「時田百合子様・時田昌幸様の御出席も原爆裁判を皆が厚く受け止めることになったと思います。」と喜んでくれた。「原爆裁判」がとりもってくれた縁である。
百合子さんたちは登智子さんがそのような裁判をしていたことは何も知らなかったそうだ。百合子さんは、朝ドラ「虎に翼」を視ていたので「原爆裁判」は知ったけど、まさか母がその原告をしていたなど本当に驚きだったという。お母さんが被爆者であることや傷があることは知っていたけれど、テレビで紹介されるような裁判にかかわっているなどとは信じられないという。なぜ、登智子さんは子どもたちには語らなかったのだろうか。
登智子さんが原告になった時、結婚していたし、百合子さんは3歳になっている。裁判の原告になることを夫や夫の両親に秘密にすることはできないであろうから、登智子さんはその方たちの同意を得ていたであろう。けれども、彼女は子どもたちには何も語っていなかったのである。裁判終結は1963年12月だから、その時に百合子さんに語るには幼すぎるかもしれない。そのあとは裁判のことなど忘れていたのかもしれない。けれども、語る機会がなかったわけではないであろう。
なぜ語らなかったのだろうか。それは、なぜ、登智子さんが原告になったのかと同様に謎である。その理由はもちろん推測するしかない。百合子さんによれば、登智子さんの夫(百合子さんの父)は「特攻の生き残り」だったという。そして、彼は彼女が被爆者であることを承知で結婚していたそうだ。百合子さんは、父と母は戦争による苦しみを共有できたからではないかと推測している。被爆者には被爆者であることを隠さなければならないと考える人たちもいた。自分が被爆者であると語ることは、自分につながる人たちも被爆者だということを暴露することにもつながるからだ。そして、被爆者に対する世間の視線は必ずしも暖かではない。むしろ、偏見と差別に囚われている場合があるのだ。
登智子さんに葛藤がないはずはない。そういう意味で、登智子さんは凄い決断をしただけではなく、その提訴を見守った夫やその家族は偉いと思う。他方、子どもたちにはその裁判のことを話さなかった心情も理解できるように思うのである。
金本さんは、百合子さんたちと私を取材しながら、「原爆裁判」の原告になることの意味を訊いてきた。私は、米国の原爆投下を違法だとして日本政府を相手に訴えを起こすこと自体が凄いだけではなく、登智子さんが自覚していたかどうかはともかくとして、核兵器という「究極の暴力」に対して「法という理性」が挑戦するという重要な意味を持っていた、と応えておいた。不動産関係の仕事をしていて社会保険労務士の資格を取るために勉強しているという昌幸さんは、大きくうなずきながらメモをとっていた。自分の祖母のたたかいの意味を確認していたのであろう。
百合子さんは被爆2世、昌幸さんは3世である。お二人とも被爆者運動には全くかかわっていないという。けれども、今般、岡本尚一弁護士の遺族や私と会うことによって、核兵器問題について勉強しなければという気持ちになったという。
私は、原告のことは知っていたつもりになっていたけれど、各原告にはそれぞれの濃密な人生があるのだということを改めて心に刻むことができた。被爆80年に際して「原爆裁判」の原告の子孫とリアルで会えたことはうれしいことだった。核兵器も戦争もない世界を創るためのエネルギーをもらえたからだ。(2025年7月22日記)
2025.3.13
茨城県弁護士会のシンポ
2025年3月8日。日本弁護士連合会(日弁連)の憲法改正問題に取り組む全国アクションプログラムの一環として、茨城県弁護士会主催のシンポジウム「核兵器も戦争もない世界をつくるために~原爆裁判を現代に活かす」が、土浦市の茨城県南生涯学習センターで開催されました。私は日本反核法律家協会会長として田中煕巳被団協代表委員と二人で基調報告をしました。田中さんとはあちこちでご一緒していますが、こういうコラボは初めてでした。私のテーマは「『原爆裁判』と核兵器禁止条約について」、田中さんは「被団協のノーベル平和賞について」でした。
100人の定員の会場は満席(事前に入場制限したそうです)、ウェブでも60人からの参加があったようです。日弁連と関東弁護士会連合会との共催でしたが、弁護士会がこういうイベントを開催してくれることは本当に嬉しいことです。茨城県弁護士会の皆さんに感謝しています。
アンケートの結果
私は47枚のパワーポイントを用意して「憲法9条と核兵器禁止条約を活用して、核兵器も戦争もない世界の実現を!!」と報告しました。田中さんは「何か用意した方がよかったですかね。」といいながら、自在に被団協のノーベル平和賞受賞の意義を語っていました。レジメもパワポもないのに言葉が紡がれるのです。何とも凄いことだと思います。
主催者はアンケート用紙を用意していました。そのアンケート項目に「大久保氏、田中氏の講演について」というのがあり「興味深かった、普通、あまり興味が持てなかった」の三択でした。何ともストレートな質問だなと思いつつ、ドキドキしながらその結果を読みました。アンケートは30通を超えて寄せられていました。結構高い回収率でした。その項目での回答は、全てが「興味深かった」でした。興味を持っている人が来ているのだから当たり前といえば当たり前かもしれませんが、報告した方からすれば、やっぱり嬉しいことなのです。
茨城の親しい弁護士たち
茨城県の弁護士には何人かの親しい人がいます。例えば、このイベントを企画したのは尾池誠司弁護士ですが、彼は私の事務所で弁護修習をした人です。現在、茨城県弁護士会の憲法委員会委員長をしており、弁護士会の憲法問題についての活動報告をしていました。「緊急事態条項はいらない」というDVDも活用していました。彼は「この度は、誠にありがとうございました。お二人のお話と意見交換も大変勉強になりました。今後とも、茨城県弁護士会を宜しくお願いいたします。」とFBに投稿していました。
ここにいう「意見交換」とは、飯田美弥子弁護士が司会を務めて、田中さんと私にあれこれの質問をするというコーナーのことです。飯田さんは自分で「茨城県弁護士会憲法委員会の集会で、お役目を大過なく果たせたこと」を「今日の良かったこと」にしているように、私たちの話を引き出してくれたのです。尾池君はそれも「大変勉強になった」としているのです。
また、日弁連副会長経験者である谷萩陽一弁護士も旧知の中です。谷萩さんは主催者挨拶を担当していました。彼は「大久保先生、このたびは本当にお世話になりました。田中さんに来ていただけたのも先生のおかげでしたし、ご一緒に来ていただけたので田中さんも心強かったと思います。講演もしっかり準備されて中身の濃いお話で、あらためて勉強になりました。私からすると大久保先生はとても老人とは思えません。内藤功先生や石川元也先生のように、いつまでも元気でご活躍下さい」と投稿していました。内藤功先生や石川元也先生は、自由法曹団の先輩で、二人とも90歳を優に超えているのです。 その二人のようになれというエールを送ってくれたのです。
ここに紹介した3人以外にも、司会を担当した田中記代美憲法委員会副委員長や閉会挨拶をした唐津悠輔副会長にもお世話になりました。唐津さんは私の講演のなかで触れていた「原爆裁判」の裁判官たちは「『法は核兵器とどう向き合うべきか』について、正面から受け止めていた。それは法律家としての矜持だ。」という部分を引用していました。心に残る挨拶でした。
移動と四方山話
移動とその途中のことにも触れておきます。
私と田中さんは二人とも埼玉在住です。土浦までの移動が必要なのです。武蔵野線の新座駅のホームで待ち合わせをして、新松戸まで行き、そこで常磐線に乗り換えて会場の土浦という経路でした。片道約2時間30分です。埼玉と茨城は隣県ですが、決して近間ではなかったのです。
行き帰りの電車の中では四方山話です。共通の知人は多いし、問題関心は共通しているし、おまけに田中さんは話し好きなので話は尽きないのです。一番盛り上がったのは、田中さんのお母さんは女手一つで4人の子供を育てて102歳まで生きたことと、私の母も102歳で今も私と電話で話をしているというエピソードでした。
二人とも長生きの血筋のようだから、肥田舜太郎先生のように100歳まで頑張ろうということになりました。肥田舜太郎さんは29歳の時に広島で被爆し、8年前に100歳で亡くなるまで、被爆者の支援と反核平和のために生きた人なのです。田中さんは92歳、私は78歳。「大久保先生はとても老人とは思えません。」という意見もありますが、齢相応に頑張ることにしたいと思っています。(2025年3月11日記)
2025.3.13
非核の政府を求める会と「非核5項目」
1月11日、甲府で講演をする機会があった。「非核の政府を求める山梨の会」の2024年度総会に際しての記念講演を依頼されたのだ。「非核の政府を求める会」というのは、1986年に、核戦争の不安と日本の核戦場化の危険を根絶したいと願う団体・個人によって結成された非政府組織(NGO)だ。この会の特徴は、そのホームページによると「主権者である国民の手によって、『非核の政府』実現を目的としていることです。私たちは、そのための国民共通の目標として「非核5項目」を掲げています。」とされている。
「非核5項目」とは、①全人類共通の緊急課題として核戦争防止、核兵器廃絶の実現を求める。②国是とされる非核3原則を厳守する。③日本の核戦場化へのすべての措置を阻止する。④国家補償による被爆者援護法を制定する。⑤原水爆禁止世界大会のこれまでの合意にもとづいて国際連帯を強化する、である。
私は、この会の常任世話人の一人なのだ。
山梨の会の世話人
ところで、この山梨の会の世話人の一人を友人の加藤啓二弁護士(33期、75歳)がやっている。彼とは自衛隊がカンボジアに派遣された1992年、その実態を調査したいとして企画された「自由法曹団カンボジア調査団」の一行として行動を共にした仲だ。その後30年以上会っていなかったけれど、連絡をくれたのだ。山梨の会で講演して欲しいと言うのだ。テーマは核廃絶であれば好きにしゃべっていいとも言っていた。私にどのように言えば動くかは先刻お見通しのようだ。もちろん、私に断る理由はないし、被団協のノーベル平和賞受賞もあったので引き受けたのだ。
講演のテーマ
演題は「核兵器も戦争もない世界を創るために」として、サブタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」にした。私の新著(日本評論社、2024年12月)のタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」サブタイトルは「核兵器も戦争もない世界を創るために」だけれど、それを逆にしたのだ。その理由は二つあった。一つは、2021年に「学習の友社」から『核兵器も戦争もない世界を創る提案―「核の時代」を生きるあなたに―』を出版していることだ。もう一つは、ノーベル平和賞受賞式での田中熙巳さんの記念スピーチの最後が「人類が核兵器で自滅することのないように‼そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう‼」となっているので、その呼びかけに応えたいという気持ちだった。私には被団協や田中さんと伴走してきたという自負はあるので「共に頑張りましょう!!」という言葉を受け止めたいと思ったのだ。
講演の内容
私は58枚に及ぶスライドを用意した。「虎に翼」やノーベル平和賞などを大いに活用して、「原爆裁判」の背景や原告と被告国の主張、鑑定人の意見、裁判所の判断、判決に対する評価、被爆者運動への影響、国際法への影響、核兵器禁止条約の到達点、憲法9条との関係、ラッセル・アインシュタイン宣言、現在の情勢などについて、90分ばかり話をした。結論は、「核の時代」の非軍事平和規範である憲法9条を土台に、「原爆裁判」をルーツに持つ核兵器禁止条約を普遍化し、核兵器も戦争もない世界の一刻も早い実現を!!である。主催者からは80分程度と言われていたのだけれど、会場の皆さんが一生懸命聞いてくれているのが伝わってくるので、ついつい伸びてしまったのだ。リアルで話していると参加者の感じ方が伝わってくる。聞いていてもらえるとなるとこちらもノッてくる。今回もそんな感じだった。30人ばかりの会だったけれど楽しく話すことができた。
質問と意見
質問や意見交換の時間は短くなってしまったけれど、こんな質問があった。「何で政府は核兵器に依存したり、原発依存を続けるのか。」というものだ。核心を突いた質問である。核兵器に依存する理由は、講演の中で、政府は「米国の核とドルの傘」に依存するという姿勢でいると説明しておいたので、それと原発依存の関係での質問であろう。私は「電力会社の意向に応え、その利潤を確保するためと、石破さんがいうように原発は『抑止力』という軍事的必要性によるものだ。国民の安全よりも、利潤追求と軍事力を優先する発想だ。」と答えておいた。あわせて、私たちは核兵器と原発という二本の「ダモクレスの剣」の下で生活しているという私の新著で紹介している話も付け加えておいた。
感想としては「こんな話を全国でやって欲しい。」とか「よく理解できたので、質問はないけれど、この話を活動に活かしたい。」などと言われていた。また、被爆者運動に深くかかわっていた伊東 壯(いとう たけし1929年~ 2000年。経済学者で平和運動家。山梨大学学長、日本被団協代表委員などを歴任)と一緒に活動していたという方の発言もあった。私は、伊東さんとの交流はなかったけれどその著作には触れているし尊敬している方なので、感謝の言葉を述べておいた。
まとめ
閉会後、トイレに入ったらある参加者が「今日はいい話を聞かせてもらった。」と隣で用を足している人に話しかけていた。順番待ちをしていた私は、思わず「ありがとうございました」と声をかけてしまった。二人が振り向いて会釈をしてくれた。「あ、やばい。途中だったら…」と思ったけれど、事故は起きていなかったようだ。こういうシーンに出会うと、核兵器廃絶は決して夢ではないと思う。また、どこかで話をしたくなる。
私に何ができるか分からないけれど、愚直に運動を続けようと思う。甲府の駅まで送って、甲州ワインをお土産に持たせてくれた加藤さんと「お互いに後期高齢者だ。健康は大事にしよう!」と握手をして別れた。加藤さん。甲府の会の皆さん。お世話になりました。
(2025年1月12日記)
2024.12.16
はじめに
2024年のノーベル平和賞を受賞した日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員の一人田中熙巳さんが、12月10日、ノルウェー・オスロでの授賞式で講演をしています。その結びの言葉は「人類が核兵器で自滅することのないように!!」、「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!」です。田中さんは、「核兵器も戦争もない世界」、そういう「人間社会」を創るための共同を呼び掛けているのです。私はその呼びかけにどのよう応えればいいのかと思案しています。そこで、ここでは、田中さんとの交流も含めてこの講演を振り返ることにします。
田中さんと私
田中さんとは四半世紀の交流になります。1999年、オランダのハーグで開催された「世界市民平和会議」(Hague・Appeal・for・Peace、HAP)で共同したことをきっかでした。HAPは、21世紀に戦争を根絶することをめざして開催された市民社会の会議でした。会議では「10の基本原則」が採択されました。その中に「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである。」や「核兵器禁止条約の締結をめざす交渉が直ちに開始されるべきである。」という原則も含まれていました。
それから25年、「核兵器禁止条約」は発効しているのです。核兵器も戦争も廃絶しようとする運動は間違いなく前進しているのです。
それはそれとして、講演の内容に触れましょう。
田中さんの被爆体験
私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえると間もなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕(きょうがく)し2階から階下に駆け降りました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました。その後の記憶はなく、気が付いた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが1枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。
惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた2人の伯母の安否を尋ねて訪れた時です。私と母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろしてがくぜんとしました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃虚が広がっていました。れんが造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、見る影もありませんでした。麓に下りていく道筋の家は全て焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されているたくさんの人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。
1人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体と共に黒焦げの姿で転がっていました。もう1人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘(だび)に付しました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。1発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。
その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。
13歳の多感な少年にとって、この体験がいかに重いものであるか容易に想像できるのではないでしょうか。その体験が田中さんをして被団協の活動を継続するネルギー源になっているのかもしれません。
次に、被団協についてです。
被団協の誕生
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被曝して急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3千万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。
結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。
講演で触れられていない被団協の基本文書
講演では触れられていませんが、被団協はいくつかの基本文書を採択しています。被団協の運動を理解する上で必要と思われるのでそれを紹介しておきます。
まず、1984年の「原爆被害者の基本要求」です。
私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。
ここでは、「核兵器を絶対に許してはならない」とされているのです。核兵器が国家安全保障のために必要だなどという発想(核抑止論)は、「核戦争を許すこと」になると批判しているのです。日本政府の姿勢とは真逆であることを確認しておきましよう。
次に、2001年の「21世紀被爆者宣言」です。
原爆被害は、国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたことによってもたらされたものです。国がその被害を償うのは当然のことです。
戦争への反省から生まれた日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」しています。戦争被害を受忍させる政策は憲法の平和の願いを踏みにじるものです。
核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。
被団協は、68年間、このような決意のもとに「核兵器も戦争もない世界」を求めてきたのです。しかも、刮目しておきたいことは、核兵器廃絶と憲法9条をしっかりとリンクさせていることです。被団協は、被爆体験の中から「核兵器も戦争もない世界」を希求し続けてきたことのです。田中講演の結びの言葉は、この「21世紀被爆者宣言」を踏まえてのものなのです。
被団協の被爆者援護を求める運動
田中さんは、被爆者に対する補償を求める運動について次のように述べています。
1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律(原爆医療法)」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。
1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(原爆特別措置法)」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。
1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。
1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。
田中さんの怒りが伝わってきます。1963年の「原爆裁判」判決は、国の被爆者に対する施策について「政治の貧困を嘆かざるを得ない」としていましたが、その「政治の貧困」は解消されていないのです。この「政治の貧困」は、単に原爆被爆者に対してだけではなく、空襲被害者など戦争被害者に対する冷酷さとしても現れています。戦争被害は「国民等しく受忍すべき」であって(受任論)、国には責任はないという論理です(国家無答責論)。私たちは、この「国家無答責論」に基づく政府の政策を克服して、「国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたこと」による責任に基づく国家補償を実現しなければならないのです。
田中さんの現状認識
田中さんは現在の世界情勢について次のように語っています。
今日、依然として1万2千発の核弾頭が地球上に存在し、4千発が即座に発射可能に配備がされている中で、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザに対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。
私はこの認識に共感しています。核兵器の使用について、核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす」としています。核兵器国の首脳たちも「核戦争に勝者はない。核戦争は戦ってはならない」などと宣言しています。けれども、核兵器保有国は核兵器をなくそうとはしてないだけではなく、核兵器の近代化を図り、核戦争に備えているのです。ノーベル委員会も「今日、核兵器使用のタブーが圧力を受けていることは憂慮すべきことである。」と婉曲な表現ですが、核兵器使用の危険が高まっていることを指摘しているのです。
核兵器廃絶に向けての被団協のたたかい
田中さんは、核兵器廃絶に向けての被団協の戦いを振り返っています。
私たちは、核兵器の速やかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。
1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。
1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加しました。
核拡散防止条約(NPT)の再検討会議とその準備委員会で発言機会を確保し、併せて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受け止められ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。
2016年4月、「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。
2017年7月7日に122カ国の賛同を得て「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。
こうしてみると、被団協は倦まず弛まず国内外で活動を続けてきたことが分かります。そして、核兵器禁止条約(TPNW)は2021年1月発効しているのです。TPNWが、ヒバクシャの「容認しがたい苦痛と被害」や核兵器廃絶のためのヒバクシャの努力に言及していることは周知のとおりです。
核抑止論批判
田中さんは核抑止論を次のように批判しています。
核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4千発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。皆さんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中の皆さんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。
核兵器を日本政府や核兵器国のように「安全保障の道具」とするのではなく、「一発たりとも持つな」というのが「心からの願い」だというのです。もし核兵器がなくならないなら、私たちが被害者になるか、加害者になるかもしれないというのです。そして、核兵器をなくすためにどうしたらいいか共に話し合い、その廃絶を求めていきたいとしているのです。私たちは、その問いかけに真剣に応えなければならないのです。
原爆被爆者の高齢化
田中さんは次のように言います。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代の皆さんが、工夫して築いていくことを期待しています。
一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきたNPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。
被爆者が高齢化していることについては、ノーベル委員会も「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなるでしょう。」としているとおり厳しい現実です。こういう状況の中で、田中さんは「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」に期待するとしているのです。
この会のことは知らない方も多いと思いますが、田中さんが言うようにこの15年間被団協と伴走してきた組織です。田中さんはNHKのインタビューで、「この会が集め、補完している資料を上手に使えば、被爆2世でも3世でも普通の人でもできるので、被爆者ができなかったこと、やり通せなかったことを受け継いでもらえるかなと期待をしている。」と言っています。
私もこの会の理事の一人として田中さんの期待に応えなければ思っています。
田中講演の結び
世界中の皆さん。「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!
核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!
田中さんは、核兵器禁止条約の普遍化を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止める機会となる被爆証言の場を確保して、核兵器国やその同盟国の市民の中で「核兵器と人類は共存できない」という信念の醸成し、「自国の政府の核政策を変える力」になって欲しいとしているのです。まさにそのとおりです。核兵器国やその同盟国の市民社会の変化なくしてこれらの国の政府の核政策は変わらないからです。
田中さんは、今日まで、被爆者は闘ってきたけれど、命は尽きようとしている。その闘いを引き継いで欲しい。核兵器で自滅することのないようにしようと言っているのです。そうしなければ「被害者になるか、加害者になるかだ」というのです。
こうして 田中さんは、私たちに「核兵器も戦争もない世界」を求めて共同しようと呼びかけているのです。
ノーベル委員会は、被団協の「記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています。彼らは世界中の人々を鼓舞し、教育しています。このようにして、人類の平和な未来の前提条件である核兵器のタブーを維持する手助けをしているのです。」としています。
私の周囲にも新しい息吹は存在しています。「核兵器も戦争もない世界」を創ることは決して夢物語ではありません。核兵器は人間の作ったものであり、戦争は人間の営みだからです。核兵器のみならず軍隊のない国は26ヵ国も存在していることを思い出しておきましょう。核兵器や軍隊がなくても人間は生活できるのです。
田中さんの呼びかけに応えようではありませんか。(2024年12月11日記)
2024.12.11
11月26日、新婦人(新日本婦人の会)光が丘21班主催の「オータムフェスタ」で「原爆裁判と『虎に翼』」というテーマで特別講演をした。東北大学法学部の後輩の斎藤文子さんによると、そのフェスタで落語をやるか私を呼ぶかで迷ったけれど、私が「虎に翼」に関わっているので、呼んでみようということになったのだという。「お金は少ししか出せないし、難しい話は駄目だけれど来てくれるか」というから、可愛い後輩の頼みだし、所沢と練馬の光が丘は近いし、核廃絶と憲法の話をするいい機会だからと二つ返事でオーケーしたのだ。
主催者は感じのいいチラシを作っていた。そこにはこんなリード文が書かれていた。
NHKの朝ドラ『虎に翼』で、「原爆裁判」という言葉を初めて聞いたという人が多かったのではないでしょうか。女性として初の裁判官になった三淵嘉子さん(朝ドラの佐田寅子のモデル)は、その原爆裁判の裁判官の一人でした。1963年の原爆裁判の判決で「原爆投下は国際法違反」と踏み込んだ司法判断は、当時の日本では考えられない驚くべき内容を含むものでした。「原爆裁判」の訴訟資料は、日本反核法律家協会に託され、現在会長の大久保賢一弁護士が保管しています。講演では、原爆裁判や朝ドラ制作の裏話も含めてお話しいただきます。どなたでも参加できます。入場無料。
私の講演だけではなく、サークルの展示も行われていた。
会場は光が丘区民センターの会議室で40人が定員のマイクが使えない部屋だった。そこに50名の人が来てしまったので立ち見が出る盛況だった。パワポは使えないというので、6ページのレジメを40部持参したけれど足りなくなってしまったし、マイクがないので立ったまま声を張り上げなければならなかった。声帯にコラーゲンを注入しておいてよかった(片方の声帯にマヒがあるのだ)。それでも後ろの方は聞きにくかったらしい。せっかくのいい話なのに申し訳ないことをした。
斎藤さんの注文は「あなたの話はむずかしいから、普通のおばさんでもわかるように話して」というものだったので、それなりに工夫をした。「虎に翼」を最大限活用したし、「裏話」もそれなりに混入した。けれども、そもそも「原爆裁判」というのは核兵器という究極の暴力を法で裁くということなのだから、どこかでむずかしくなることは避けられない。おまけに、憲法9条の背景には原爆投下があっという話もするのだから、わかり易くと言われても限度がある。そこで、資料に語ってもらうことにした。「原爆裁判」の判決の抜粋や当時の政府の見解や幣原喜重郎の国会答弁などをレジメに含めたのだ。これは大いに役に立った。参加者は「虎に翼」で判決のさわりを知っているけれど、詳しくは知らないので、うけるのだ。加えて、当時の政府が「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、または逆に戦争の原因を収束せしめるかの重大な段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂へているのである。ここに、本章(2章・9条)の有する重大な積極的意義を知るのである。」などとしていたことや幣原喜重郎が語ったことなど「初耳」だろうから、真剣に聞いてくれたのだ。やはり、事実と道理が持っている説得力は違う。
ところで、このフェスタには何人かのおじさんも参加していた。何ともほほえましい光景だった。その中に東北大学法学部の先輩で自由法曹団の元団長の菊池紘弁護士がいた。光ヶ丘団地に住んでいて、斎藤さんの知り合いということで参加していたのだ。何ともうれしかった。その菊池さんが、斎藤宅での「打ち上げ」の場で、私の話を「メモを取りながら聞いていた」と言っていた。私も斎藤さんも、授業にはあまり出ていなかったことを反省する立場にあるけれど、菊池さんは活動もしていたけれど、さっさと司法試験に受かった人だ。その人がメモを取ったというのだから私の話もそれなりのものだったのだろう。
この団地には私の連れ合いの後輩も住んでいる。半世紀以上前の話に花が咲いた。共通の友人や知人がいるからだ。悲しいことに既に鬼籍に入った人もいる。自分たちも後期高齢者になっているのだから無理もない。
それでも、まだ、みんな、核兵器廃絶や憲法9条にこだわって、何かをしているのだ。「90の凄さが分かる80歳」という川柳があるけれど、80歳にはもう少しだけ時間がある。「百歳は通過点」という故肥田舜太郎医師の言葉を思い出しながら帰路に着いたものだった。(2024年12月3日記)
2024.12.11
新潟からのお誘い
12月1日、新潟で「『原爆裁判』を現代に活かす―核兵器も戦争もない世界を創るために-」と題する講演をする機会がありました。「新潟の新しい未来を考える会」の片桐奈保美会長からの依頼でした。この会は原発の再稼働に反対して小泉純一郎元首相の講演会を開催したり、「柏崎・刈羽原発再稼働を問う県民投票条例」の制定を求める運動をしている市民団体です。
片桐さんから、NHKの「視点・論点」を視ていたら興味深い話をしているので、新潟に呼びたいという連絡をもらったのは、9月半ばのことでした。「虎に翼」は終わっていませんでしたし、被団協のノーベル平和賞受賞はまだの時期でした。片桐さんは、「視点・論点」を録画して仲間に相談したそうです。「視点・論点」のテーマは「現代に生きる原爆裁判」で、その結びは「(日本国憲法の)徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、原爆裁判の現代的意義を再確認し、核兵器も戦争もない世界を創造することが、原爆裁判からの私たちへの宿題だと受け止めています。」でした。片桐さんは、その番組に共感して、共通の知人である和田光弘元日弁連副会長の紹介で連絡をくれたのです。
私は喜んでお受けしました。核兵器廃絶や憲法9条の話を聞いてもらえる機会を大事にしたいと思っているからです。
当日の様子
当日、会場の万代シルバーホテルには、220名からの人たちが参加していました。西村智奈美議員と米山隆一議員お二人とあいさつを交わしました。赤井純治新潟大学名誉教授が「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」を呼びかけていました。赤井さんからは「原水爆禁止世界大会2023年科学者集会の記録」をいただきました。
会場がホテルというのは凄いことです。私の講演はだいたいが公共施設だからです。しかも、社会派講談師の神田香織さんとのコラボでした。こういうこともありません。だいたいが一人なのです。神田さんの演題は「はだしのゲン」でした。私は中沢啓治さんの原作を読んでいますが、神田さんの創作講談は初めてでした。神田さんの語りに漫画のゲンの姿を重ね合わせながら聞き入りました。神田さんは「はだしのゲン」が広島の学校教材から外されることに強い怒りを持っていることや、被団協のノーベル平和賞受賞は核兵器が使用される危険性が高まっていることを意味しているなどと「前口上」で語っていました。「そうだ、そうだ」と共感したし、講談がこんなに胸に迫ってくることを初めて体験しました。
私の話
そのあと私の話です。神田さんの語りの後なので、「原爆裁判」の話は大変やりやすくなりました。原爆が人間に何をもたらしたかを神田さんが表現してくれていたからです。「はだしのゲン」と「原爆裁判」のコラボです。
私は「原爆裁判」は被爆者支援についても、核兵器の違法性を確立する国際法の分野でも大きな役割を果たしているということと、憲法9条の背景には原爆投下があったことを話しました。パワーポイントの資料を参加者に配布してもらうだけではなく大型スクリーンも利用しました。口を開けて上を向いて寝ている参加者は気になりましたが、多くの人は静まり返るように聞いてくれていました。リアルで講演していると参加者の受け止め方は痛いほど感ずるのです。
うれしかったこと
私を最初に迎えてくれて、しかも最後までお付き合いしてくれた近藤正道弁護士(元参議院議員・会派は社民党護憲連合)は、「憲法は『専守防衛』とか『集団的自衛権の禁止』ではないもっと徹底した平和主義だということが分かった。そこから話し始めていたことを反省しなければならない。」と懇親会のスピーチで述べていました。私は日本国憲法の到達点を「専守防衛」に留めてしまうことは「核のホロコースト」の上に制定されている憲法の現代的意義を過小評価することになると考えています。だから、近藤さんの受け止めは本当にうれしいことでした。
また、神田さんは「ゲンの話をこういう形で深めてもらえることは嬉しい」と言っていました。私は神田さんの講談を講演の中で大いに活用させてもらいました。こういうタッグは聞く人にとっても理解しやすくなるのではないでしょうか。企画した人は凄いと思ったし、「またこういう機会を持ちましょう」と神田さんと約束しました。
ところで、先の総選挙で、新潟の5小選挙区は全て立憲民主党の候補者が当選しました。当日、新潟を訪れていた野田佳彦代表は「全員当選は2009年以来で画期的なこと」と評価しています(「新潟日報」12月2日付)。その背景には新潟での「市民と野党の共闘の伝統」があることは間違いないでしょう。私は、今回、新潟の皆さんと触れ合うことによって、新潟には地道で包摂性のある運動があるのだということを実感しました。「市民と野党の共闘」があれば政治は変えられます。それがなければ政治の停滞は続くでしょう。
昭和40年に東北大学法学部に一緒に入学した中村哲也君(新潟大学名誉教授)もその活動に参加していました。故広中俊雄先生の愛弟子だった彼らしいことだと、何ともうれしい思いになりました。なお「新潟日報」が写真入りで報道していました。貴重で有意義な新潟行きでした。新潟の皆さん、ありがとうござました。(2024年12月2日記)
2024.11.22
はじめに
「核兵器廃絶のために、今、私がしていること。これからしたいこと」は、11月16日に広島で開催された日本反核法律家協会創立30年記念イベントでのリレートークのテーマです。日本反核法律家協会は1994年8月に、被爆者支援と核兵器廃絶を目的として設立されました。初代会長は松井康浩弁護士でした。その後、2011年の福島原発事故を受けて「原発廃止」も目的としました。創立以来、国内外の反核平和運動の人たちと交流してきました。特に、この8年間は「朝鮮半島の非核化」をテーマに意見交換会を開催してきました。今年もそのテーマでとも思いましたが、来年被爆80年を迎えるので、核兵器廃絶のために運動している様々な人にリレートークをしてもらうことにしたのです。核兵器廃絶の運動は被団協をはじめ原水協などの伝統的な運動体もありますが、むしろ、それぞれの想いで活動している人に話をしてもらおうと試みたのです。持ち時間は10分ということにしました。NHKの「時論・公論」や「視点・論点」などの例にならったのです。
多彩なスピーカー
発言者は次の13名でした(予定していた平岡敬元広島市長は体調が悪くて登壇できませんでした)。最年長は87歳の英語で被爆体験を語る小倉桂子さん。最も若いのは盈進中学高校のヒューマンライツ部の生徒たち。女優の斎藤とも子さん、詩人のアーサー・ナードさん、歌手であり映画プロデューサーの中村里美さん。元外交官の小溝泰義さん、韓国の弁護士崔鳳泰さん、反核医師の会の原和人さん。カクワカ・ヒロシマの田中美穂さん、第5福竜丸展示館学芸員の市田真理さん、ANTヒロシマの渡部朋子さん、核廃絶日本キャンペーンの浅野英男さん、非核の政府を求める会富山の渡邊眞一さんです。
皆さんのスピーチはそれぞれの体験に基づく反核の想いを込めた素晴らしいものでした。普段は口うるさい弁護士たちも何人か参加していましたが、その彼らが「話を聞いていて泣きそうになった」、「涙がにじんできた」、「泣いてしまった」などと言うのです。私もその一人でした。参加していたNHK関係者からは「皆様の素晴らしいお話をうかがい実りある時間でした」、「多様な方々、とりわけ若い世代の反核の取り組みが広がっていることが喜びとともに学びとなりました」などという感想が寄せられています。
寄せられたメッセージとご挨拶
ポーランドやカザフスタンの反核法律家、被団協、青法協、ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会、原水禁などからのメッセージが寄せられました。被団協の田中熙巳代表委員からはビデオメッセージを寄せてもらい、広島の被団協関係者、参議院議員で非核の政府を求める会常任世話人の井上智士さん、ICANの川崎哲さんからはリアルでのご挨拶をいただきました。田中熙巳さんは「発言者の中に、被団協のメンバーがいない。」と言っていましたが、主催者としては「被団協の活動を継承する決意を持っている人たちを選択した。」ということだとご理解いただければと思っています。このイベントは、被団協のノーベル平和賞受賞よりも前に企画したものでしたが、受賞によって「錦上花を添える」ことになったと思っています。 ノーベル賞受賞団体のICANおよび被団協の双方からご挨拶をいただけたことは本当に光栄でした。
主催者の想い
私は主催者として次のような挨拶をしました。
今年は私たち協会が発足して30年になりますが、今年ほど、うれしいことがあった年はありません。まずは、被団協のノーベル平和賞受賞です。被爆者支援と核兵器廃絶をめざす私たちも被団協に伴走してきました。被団協の平和賞受賞はまさに「同志」の受賞として心からうれしいことでした。
また、NHKの朝ドラ「虎に翼」では「原爆裁判」が丁寧に取り上げられました。松井康浩初代会長が残してくれた裁判資料が大いに役に立ったことをうれしく思っています。
これらのことは私たちに大きな励ましと勇気を与えてくれています。けれども、世界にはまだ核兵器は存在していますし、被爆者を含む戦争被害者の救済も不十分です。
来年、被爆80年を迎えます。ノーベル委員会は「今日、核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされている」としています。核兵器使用の危険性が高まっていると警告しているのです。また、「被爆者はわれわれの前からいなくなる」ともしています。私たちは核兵器廃絶を「自分事」として実現しなければならないのです。
今日は、様々な世代の様々なポジションでたたかっている方たちにスピーチをお願いしています。限られた時間ですが、ぜひ、それぞれの想いを語っていただいて、一刻も早く「核兵器のない世界」を実現したいと思っています。
私たち日本反核法律家協会も「原爆裁判」を提起した先輩たちに思いを馳せながら、引き続き市民社会の一員としての役割を果たす所存でいます。
むすび
来年被爆80年です。まだ、世界には約12200発の核兵器があります。「核戦争は戦ってはならない。」と言われていますが、核兵器に依存しての国家の安全をいう勢力が政治権力を握っています。彼らは核兵器を「平和の道具」だというのです(核抑止論)。核兵器という「悪魔の兵器」に命と安全託すという「最悪の集団的誤謬」からの脱出が求められているのです。私たちの手には、既に、核兵器禁止条約という国際法の枠組みと日本国憲法という「核の時代」の非軍事平和規範があります。それらは最大限活用し、核兵器も戦争もない世界を実現しなければならないのです。そのための主体的力は、間違いなく、市民社会の中で育っています。「市民社会は歴史の竈である」(マルクス)という言葉を実感することのできるリレートークでした。ご協力、ご尽力いただいた皆さん。本当にありがとうございました。なお、イベントの様子は以下のYouTubeで視聴できます。
https://youtube.com/live/jmLBZHDJPsE?feature=share (2024年11月22日記)
2024.10.17
はじめに
日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。
「虎に翼」は面白かった
「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。
特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。
「原爆裁判」が提起したこと
「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。
核兵器使用禁止は「公理」なのに
核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。
核兵器の特質
核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。
核兵器の最も特異な効果
判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。
ダモクレスの剣
「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。
私たちの課題
石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)
2024.9.13
初回放送日:2024年9月9日

連続テレビ小説「虎に翼」でも描かれた「原爆裁判」。
戦後まもなく被爆者が原爆投下の責任を追及し、訴えを起こした裁判が、現代に何をもたらしたのかを考えます。
こちらからテキスト版をご覧いただけます
(NHKのサイトに移動します)
2024.8.8
「虎に翼」の寅子と星航一の再婚はまだ成立していないけれど、史実では、嘉子さんと三淵乾太郎さんとは結婚している。その乾太郎さんの父は三淵忠彦という初代最高裁長官だ。1880年(明治13年)に生まれ、1950(昭和25年)年に没している。最高裁長官就任は、1947年(昭和22年)8月だから67歳の時である。
私は、原爆裁判の判決を書いた裁判官たちは「時代に挑戦する勇気があった人たち」だと思っている。米国の原爆投下を国際法違反だとし、被爆者への支援に怠惰な「政治の貧困」を嘆くなどということは、なかなかできることではないからだ。
では、その判決を書いた三人の裁判官、裁判長 古関敏正、右陪席 三淵嘉子、左陪席 高桑昭さんたちは、なぜそのような判決を書いたのであろうか。
当時26歳で判決の草案を書いた高桑さんは、7月28日付「東京新聞」で、「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」としながら、「国際法違反かどうかにかかわらず、賠償請求を棄却する方法もあったが、逃げずに理屈を立てて国際法を点検した。やはり原爆投下を正当視することはできなかった」としている。
嘉子さんは、8月4日付「しんぶん赤旗日曜版」によれば、日本婦人法律家協会(現日本女性法律家協会)の会長だった1982年(昭和57年)3月8日、「第2回国連軍縮特別総会に向けて婦人の行動を広げる会」の呼びかけに応じ、池袋駅前で、反核署名活動をしている。「核兵器廃止は、反米とか思想、政策以前の人類を守るための要請です」と考えていたのである。嘉子さんは、裁判官として原爆投下を違法としただけではなく、「核兵器廃絶」のための行動をしていたことを記憶しておきたい。
1982年3月は、原爆裁判判決の1963年12月から19年後、嘉子さんが69歳で亡くなる1984年の2年前である。
このように、裁判官たちには原爆投下に対する怒りや核兵器廃絶への想いがあったことを確認できる。それは気高いことだし、私も学びたいと思う。けれども、裁判官として判決するには、それを可能とする司法の状況もなければならないであろう。それが、初代最高裁長官 三淵忠彦の存在ではないかと私は思っている。原爆裁判の提訴は1955年(昭和30年)だから、三淵さんは既に没している。しかも、その任期は短かったから、影響などないのではないかとも思う。けれども、彼は、最高裁長官として就任挨拶する機会や高裁長官たちに訓示する機会があったことも忘れてはならない。
彼の「司法像」を確認してみよう。
1947年8月4日の就任挨拶(「国民諸君への挨拶」)では次のように語られている。
「裁判所は、国民の権利を擁護し、防衛し、正義と衡平を実現するところであって、圧制政府の手先となって国民を弾圧し、迫害するところではない。裁判所は真実に国民の裁判所になりきらなければならぬ。」
同年10月15日には、高裁長官たちに次のように訓示している。
「今や、裁判官はその官僚制を払拭せられ、デモクラシー日本建設のパイオニアたるべき使命を負うている。」
私は、これらのことを、拙著「憲法ルネサンス」(1988年、イクオリティ)の第2章「司法のルネサンスのために」に収録されている「去るは天国残るは地獄」中で、次のように紹介している。
「『まことに気負いの感じられる内容』(野村二郎)かもしれない。けれども、今、この言葉に接するわれわれにどんなに新鮮な響きを与えてくれることか。われわれが、日本国憲法を手に入れた直後、司法部のキャプテンはわが基本法を、確かに、具現していたのである。彼のメッセージの中には、時の政府と一線を画しつつ、それとの緊張関係の中で、国民―即ち、自身の雇い主―に対する奉仕のありようを模索する姿勢がある。われわれ国民にとって、あるべき司法像の原点がそこにある。司法が時の行政権と一定の拮抗関係を保ちつつ、人民の基本的人権の擁護に資する機能を期待されたのは昨日や今日のことではない。かれこれ200年も前から、人々は司法に期待してきたのである。」
私はこのような三淵さんを「素晴らしい人」だと思っている。そして、裁判長の古関さんも含め、三人の裁判官は、この三淵さんの「就任挨拶」や「訓示」に目を通しているだろうと思っている(高桑さんは年代的には若いのでわからないけれど)。
三淵初代長官の後、田中耕太郎氏が第2代の長官に就任する。1950年から1960年の10年間、彼はその地位にあった。私は、彼は最高裁長官どころか裁判官として不適任だと思っている。その理由は、彼は「共産主義者のいうことを額面通りに受け取るのは危険である」という信念を持ちながら「松川事件」を担当し、被告人らを死刑にしようとしたからである。「松川事件」の被告人の中には共産党員も含まれていた。彼らの主張は信用できないと決めてかかれば、真実は見つからない。田中氏が個人としてどのような思想を持つかは彼が決めればいい。けれども、極端な反共主義に基づく偏見で当事者に接することは、裁判官として許されることではない(そのことも「憲法ルネサンス」で触れておいた)。この時、裁判官としての矜持は消え、司法の反動化が始まる。
原爆裁判の左陪席高桑さんは私より10歳ほど年上ではあるがご健在である。一度、今の司法の状況についてじっくりと話をしてみたいと思っている。(2024年8月4日記)
2024.7.11
今、「原爆裁判」が人々の関心を集めている。NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルの三淵嘉子さんが「原爆裁判」にかかわったことが知られつつあるからだ。以前から「原爆裁判」を多くの人に知って欲しいと考えていた私にとってはうれしいことである。朝ドラで「原爆裁判」がどのように描かれるかはともかくとして、ここでは「原爆裁判」の基礎知識と現代への影響について触れておく。「原爆裁判」が現代に生きていることを共有したい。
「原爆裁判」とは、1955年、被爆者5名が、米国の原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判である。1963年、東京地裁は請求を棄却したけれど、米国の原爆投下を違法とし、あわせて「政治の貧困」を指摘したことによって、国内外に影響を与えた。
原告は次の5人である。
下田隆一 47歳。
広島で被爆 長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害。就業不能。
多田マキ
広島で被爆 顔、肩、胸、足にむごたらしいケロイド。疼痛のため日雇労働も続かず。夫は容貌の醜さを厭って家出。
浜部寿次 54歳
東京に単身赴任。長崎で妻と四人の娘たち全員が爆死。
岩渕文治
広島での原爆投下により養女とその夫及び子どもをなくす。
川島登智子
広島で被爆 14歳 顔面、左腕などを負傷 両親も原爆でなくす。
原爆投下から10年を経ていたけれど、政府は被爆者に何の支援もしていなかった。被爆者は病や社会的差別の中で貧困にあえいでいた。
岡本尚一弁護士は、1892年に生まれ、提訴3年後の1958年に没している。岡本さんが、なぜ、この裁判を考えたのか。その理由を彼の短歌に探ってみたい。
・東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る
・夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり
・朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか
私には歌心はないけれど、岡本さんの東京裁判に対する怒りと被爆者への同情と人類社会の未来についての懸念が痛いほど伝わってくる。
岡本さんは「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるということだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう。」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼び掛けた。けれども、現実に応えたのは松井康浩弁護士だけであった。
この裁判の当初の目的は「賠償責任の追及」と「原爆使用の禁止」だったことを確認しておきたい。
請求の趣旨は、被告国は、原告下田に対して金三十万円。原告多田、浜部、岩渕、川島に対して各金二十万円を支払え、である。
請求の原因の骨子は次のとおり。
米国は広島と長崎に原爆を投下した。原爆は人類の想像を絶した加害影響力を発した。「人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した酸鼻なる様相を呈した」。
原爆投下は、戦闘員・非戦闘員たるを問わず無差別に殺傷するものであり、かつ広島・長崎は日本の戦力の核心地ではなかった(「防守都市」ではない)。
広域破壊力と特殊加害影響力は人類の滅亡をさえ予測せしめるものであるから国際法と相容れない。
国家免責規定を原爆投下に適用することは人類社会の安全と発達に有害であり、著しく信義公平に反する。米国は平和的人民の生命財産に対する加害について責任を負う。被害者個人に賠償請求権が発生する。
対日平和条約によって、国民個人の請求権が雲散霧消することはあり得ない。憲法29条3項により補償されなければならない。補償されないということであれば、日本国民の請求権を故意に侵害したことになるので、国家賠償法による賠償義務が生ずる。
原子爆弾の投下と炸裂により多数人が殺傷されたことは認めるが、被害の結果が原告主張のとおりであるかどうか、及び原爆の性能などは知らない。
原爆の使用は、日本の降伏を早め、交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。
原爆使用が、国際法に違反するとは直ちには断定できない。
したがって、原告らに損害賠償請求権はない。
敗戦国の国民の請求が認められることなど歴史的になかった。
原告らの請求は、法律以前の抽象的観念であって、講和に際して、当然放棄されるべき宿命のもの。それは権利たるに値しない。
憲法29条によって直ちに具体的補償請求権が発生するわけではない。
国は、原告らの権利を侵害していない。平和条約は適法に成立しているので、締結行為を違法視することはできない。
慰藉の道は、他の一般戦争被害者との均衡や財政状況等を勘案して決定されるべき政治問題。
1963年12月7日、裁判長古関敏正、裁判官三淵嘉子、同高桑昭による判決が出される。判決は、高野雄一、田畑茂二郎、安井郁の三人の国際法学者の鑑定を踏まえていた。なお、口頭弁論の全期日に関与したのは三淵嘉子さんだけであった。その要旨は次のとおり。
米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反する。かつ原爆は非人道的兵器であるから、戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならないとの国際法に違反する。
しかし、国際法上の権利をもつのは、国家だけである。被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかない。
日本の裁判所は米国を裁けない。
米国法では、公務員が職を遂行するにあたって犯した不法行為については賠償責任を負わないのが原則。
結局、原告は国際法上も国内法上も権利をもっていない。
人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ、原爆の投下によって損害を被った国民に対して、心からの同情の念を抱かないものはいないであろう。
戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずる。
「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは到底救済にならない。
国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのだから、十分な救済策を執るべきである。
しかしながら、それは裁判所の職責ではなく国会及び内閣の職責。そこに立法及び行政の存在理由がある。本件訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かざるを得ない。
松井康浩弁護士(1922年~2008年)は次のように総括している。
戦勝国アメリカの戦闘行為を国際法に照らして日本の裁判所で裁くこの訴訟は、日米の友好を損なう、途方もないこと、そのような訴訟が成立するわけがないなどさまざまな理由で弁護士の協力者も少なく、被爆者その他国民の支援もなかったことが示すように、困難な訴訟であった。
この訴訟の特徴は、原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する点にあった。判決は広島・長崎への原爆投下という限定の下に国際法違反と断定した。しかし、その無差別爆撃性と非人道性は、いつ、いかなる原爆投下にも適用されるであろう。
裁判所は、「政治の貧困さを嘆かずにはおられない」として、最大限の言葉を用いて、被爆者援護法を未だに制定しない立法府と行政府を批判している。この批判の意義はきわめて高く、原爆投下の国際法違反とともに、この判決の価値を大ならしめている。
松井さんは、困難な訴訟ではあったけれど、原爆投下の違法性を認めたことと政治の貧困を嘆いたことの二点でこの判決の「大きな価値」を認めているのである。
日本の政治は被爆者援護のために次のように法制度を整備してきた。
裁判継続中の1957年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。判決後の1968年9月、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」施行。1995年7月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)施行などである。
「原爆症認定訴訟」は、被爆者援護法を活用して厚労大臣の原爆症不認定を争い、大きな成果を上げた。
「黒い雨訴訟」は、被爆者援護法の「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当するかどうかが争われている。
被爆者援護が十分ということではないけれど、「原爆裁判」判決が指摘した「政治の貧困」がこのような形で「改善」されていることは確認できるであろう。
1996年、国際司法裁判所は国連総会の「核兵器の威嚇または使用は、いかなる状況においても国際法に違反するか」という諮問に対して「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機の場合には、合法とも違法とも判断できない」との勧告的意見を発出している。この結論に「いかなる場合にも違反する」として反対したウィラマントリー判事は次のように言っている。
この事件はそもそもの初めより裁判所の歴史にも例を見ない世界的な関心の的になる問題であった。下田事件で日本の裁判所に考察されたことはあるが、この問題に関する国際的な司法による考察はなされていない。
「原爆裁判」(下田事件)は国際司法裁判所で参照されているのである。
その国際司法裁判所は次のように判断していた。
戦争の手段や方法は無制限ではないとの人道法は核兵器に適用される。武力紛争に適用される法は、文民の目標と軍事目標の区別を一切排除する、または不必要な苦痛を戦闘員に与える戦争の方法と手段を禁止する。核兵器の特性を考えれば、核兵器の使用はほとんどこの法と両立できない。ではあるが、裁判所は必ずいかなる状況下においても矛盾するという結論には至らなかった。
この判断枠組みは「原爆裁判」と同様である。ただし、国際司法裁判所は「核抑止論」の呪縛から免れていなかったことに留意しておきたい。
その限界を克服したのは2021年発効の核兵器禁止条約である。核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」として例外を認めていない。そして、その締約国会議は、⼈類は「世界的な核の破局」に近づいている。「安全保障上の政策として、核抑⽌が永続し実施されることは、不拡散を損ない、核軍縮に向けた前進も妨害している」として「核抑止論」を批判している。
日本政府は、核兵器禁止条約が「核抑止論」を否定するがゆえに、これを敵視しているけれど、国際法は核兵器廃絶に向けて着実に発展しているのである。日本政府はこの潮流に逆らっているのである。
このように見てくると、「原爆裁判」は核兵器廃絶についても被爆者援護についても「事始め」になっていることが確認できるであろう。「原爆裁判」は現代に生きているのだ。
今、世界は「核兵器による安全保障」をいう勢力が力を持っている。日本国憲法の「諸国民の公正と信義を信頼しての安全の保持」は現実的日程に上っていない。
憲法9条の背景には、今度世界戦争になれば核兵器が使用され、人類が滅んでしまう。戦争をしないのであれば、戦力はいらないという価値と論理があった。
また、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていた。
私たちは、日本国憲法の徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、「原爆裁判」の歴史的意義を更に発展させ、核兵器の廃絶と世界のヒバクシャの救済を実現しなければならない。(2024年7月1日記)
-->2024.7.11
腐敗した自民党による改憲を許さない【2】から続く
「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」
この「ラッセル・アインシュタイン宣言」の問いかけに私たちはどのように答えたらいいのでしょうか。
まず、核兵器のことを考えてみましょう。核兵器をなくすことは決して不可能ではありません。そもそも、核兵器は人間が作ったものだからです。現に、1986年に7万発というピークを数えた核弾頭は、現在1万2500発程度に減っています。しかもそれは検証されています。減った数の方が残っている数より多いのです。やればできるのです。
加えて、核兵器保有国は、国連加盟国193カ国のうち9ヵ国です。極めて少数です。核兵器禁止条約の署名国は93、加盟国は70を数えています。「核なき世界」に向けて、世界は間違いなく前進しているのです。
「核なき世界」の実現は「私が生きている間は無理」(オバマ)とか「果てなき夢」(岸田文雄)などというのは「今はやらない」という先行自白です。「口先男」に騙されるのはもう止めましょう。
憲法9条は、核兵器を使用しての世界戦争は人類社会を崩壊させてしまうと想定し、それを避けるために「一切の戦力」を否定したことは前に述べました。戦力がなければ戦争はできないのですから極めて論理的です。逆に、自衛のためであれ、正義の実現のためであれ、武力の行使を認めれば「悪魔の兵器」である核兵器に頼ることになります。それは、理屈だけではなく、現実がそうなっています。では、自衛あるいは安全保障ための核兵器は合理的なのでしょうか。
自衛のために核兵器を自国内で使用することはありえません。使用すれば自国民も死ぬからです。また、どこで使用しようとも、核兵器の特性からして、国境を越えて被害が発生します。中立国にも被害は及ぶし、地球環境も汚染されます。
そして、相手方が核兵器で反撃すれば―間違いなくするでしょう―双方が滅びることになります。「相互確証破壊」です。自衛のための核兵器が自滅のための兵器となるのです。「平穏は墓場にある」という「最悪のパラドックス(逆説)」です。
「核の時代」にあっては、戦争は政治的意思を実現するための手段にはなりえないのです。自衛という目的を実現するための核兵器が、防衛の対象である国家と社会を壊滅させてしまうからです。それが核兵器なのです。
9条はそのような事態を避けるために残された唯一の方法であることを確認しておきましょう。
なぜその確認が必要かというと、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が「たとえ平時に水爆を使用しないという合意に達していたとしても、戦時ともなれば、そのような合意は拘束力を持つとは思われず、戦争が勃発するやいなや、双方ともに水爆の製造にとりかかることになるでしょう。一方が水爆を製造し、他方が製造しなければ、製造した側が勝利するにちがいないからです」と予言しているからです。核兵器をなくそうとするのであれば、戦争もなくさなければならないとしているのです。
9条の先駆性が確認できるのではないでしょうか。
ここで、国際人道法に触れておきます。国際人道法は、戦争において、戦闘の方法や手段は無制限ではないという規範です。戦争を違法とするものではありませが、自衛戦争や正義実現の戦争であっても、無差別攻撃や残虐な戦闘手段は禁止されるという戦時における国際法です。「一切の戦争は非人道的なので、戦争をなくす」という考え方ではなく「人道的な戦争」を想定しているのです。
それはそうなのですが、核兵器は大量、無差別、残虐、永続的な被害をもたらす非人道的兵器であることに着目して、核兵器を禁止する法理として活用することは可能ですし、必要なことなのです。
核兵器についての最初の法的判断は、1963年の東京地方裁判所の「原爆裁判」です。裁判所は「原爆投下は当時の国際法に照らして違法」と判決したのです。1996年、国際司法裁判所の勧告的意見は「核兵器の使用や使用の威嚇は、一般的に違法である」としましたが、「国家存亡の危機」における核兵器の使用や威嚇についての判断は避けていました。
ところが、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も国際人道法に反する」としたのです。「国家存亡の危機」における核兵器使用も違法とされ、国際司法裁判所の限界は克服されたのです。
いずれも判断の背景には核兵器の非人道性がありました。法は非人道性を無視できないのです。核兵器廃絶のための「人道アプローチ」は有効だったのです。
確認しておくと、核兵器禁止条約は、戦争を一般的に違法化したり、一切の戦力を禁止する条約ではないのです。そして、核兵器を廃絶したからといって非核兵器が残れば戦争は可能です。また、いったんなくなったとしても復活することは、ラッセルたちがいうとおりです。そういう意味では、核兵器禁止条約は「戦争のない世界」を実現する上では過渡期の法規範なのです。
もちろん、そのことは、核兵器禁止条約の意義をいささかも減殺するものではありませんが、その守備範囲を確認しておくことも必要でしょう。核兵器禁止条約の発効は「核なき世界」に向けての大きな前進ですが、「戦争のない世界」に向けては、もう一歩の質的前進が求められているのです。それが9条の世界化です。
核兵器がなくなったからといって戦争がなくならなければ核兵器は復活するであろうことは、先に述べたとおりです。だから、核廃絶運動に関わる人は9条の擁護と世界化を展望しなければならないのです。戦争という制度が残る限り、「核なき世界」への到達と維持が元の木阿弥になってしまうからです。核兵器をなくした後にも仕事は残るのです。
他方、9条の擁護と世界化を求める人は、核兵器を廃絶できないようでは、戦力一般の廃絶など絵に描いた餅になってしまうでしょう。
ここで、9条は何を期待されて誕生したのかを再確認しておきます。
先に紹介した幣原喜重郎は、「憲法9条は、我が国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的な地位を占めることを示すもの」という答弁もしていました。9条は、「核の時代」にあって、「徹底的な平和運動」の先頭に立つ「指導的地位」を期待されていたのです。核兵器廃絶がその射程に入ることは自明でしょう。
戦争の廃絶について考えてみましょう。確かに、戦争の廃絶は決して簡単なことではありません。けれども、戦争は人の営みです。人の営みを人間が制御できないことはありません。人類は奴隷制度も植民地支配もアパルトヘイトもなくしてきました。いずれも、手強い反対にあいながらです。強欲な頑迷保守や好戦論者や悲観論者はいつの時代も存在します。変革を求めないことを「現実的」として受容し、変革を求めることは「理想的に過ぎる」として敬遠する人々も少なくありません。
けれども、人類は戦争をなくすための思想も育んできました。1920年代の米国の「戦争非合法化」の思想と運動もその一例です。戦争という制度を「無法者」として社会から放逐してしまおうという思想と運動です。戦争の方法や手段の制限だけではなく、戦争そのものを非合法化しようという発想です。
そうです。この「戦争非合法化」の思想は憲法9条の淵源のひとつなのです。このような徹底した非軍事平和思想が日本国憲法に影響を与えているのです。
「戦争非合法化思想」が「核のホロコースト」を契機として日本国憲法9条に結実したのです。言い換えれば、徹底した平和思想が、人類最悪の悲劇を梃子として、憲法規範として昇華したのです。「転禍為福」(災い転じて福となす)と言えるでしょう。
けれども、ややこしく考える必要はありません。そもそも、核兵器が使用されれば「皆くたばってしまう」ことなど、誰にでも理解できるからです。そういう意味では、憲法9条は、「核の時代」においては、当たり前の法規範なのです。法は人々を生かすための知恵でもあるのです。
この79年間、核兵器は実戦で使用されていません。使用計画もあったし、核戦争の瀬戸際もありました。事故もあったし、誤発射の危険性もありました。けれども、現実に使用されたことはなかったし、地球は吹き飛んでいないのです。
その理由は、被爆者をはじめとする反核平和勢力の運動もありましたが、「運がよかった」だけかもしれません。地球の未来を運任せにすることはできません。意識的な戦略としなければ、地球にひびが入ったり、吹き飛ぶかもしれないからです。
だから、今求められていることは、核兵器不使用の継続ではなく、核兵器廃絶なのです。廃絶までの法的枠組みは既に核兵器禁止条約があります。その国際法規範を普遍化することによって「核なき世界」の実現は可能なのでする。
当面、日本政府に署名・批准させることが必要です。その運動を反核平和勢力だけではなく、護憲運動(立憲主義回復運動を含む)をしている方たちの理解と協力をえて進めることが求められています。
他方、憲法9条も風雪に耐えてきました。憲法に拘束される立場にある政府や国会議員(護憲派は除く)だけではなく、多くの改憲勢力からの攻撃に耐えてきたのです。「お疲れ様日本国憲法」などと引退を迫ったり、「憲法を現実に合わせろ」という憲法が何のためにあるのかを理解しない意見もあります。
既に、個別的自衛権のみならず集団的自衛権も認められるという「法的クーデター」といわれる現実もあります。しかも、裁判所もそれを制止しようとしないのです。
そして、米軍とともに世界のあちこちで武力の行使を可能とするための改憲策動も、執念深くかつ陰険に続けられているのです。
現在、政府は、中国、北朝鮮、ロシアとの対立(もっぱら中国)を前提に、米軍との一体化、自衛隊基地の強化、武器の爆買いなど戦争の準備を着々と進めています。戦争を避けるのではなく、戦争に備えているのです。
敵基地攻撃を行えば敵国からの反撃は避けられません。だから、「国民保護」も必要となります。「国民保護計画」は核攻撃があった場合も想定しています。「ヨード剤を飲んで雨合羽を被って風上に逃げろ」というものです。被爆者は「爆心地に向かえと言うのか」と怒っています。雨合羽とヨード剤で被害を食い止められるのなら、核戦争など「たいしたことはない」でしょう。政府は「被爆の実相」を無視しているのです。
岸田首相は「敵基地攻撃」や「戦闘機の共同開発」も「憲法の平和主義の理念の範囲内」と言っています。それが彼の憲法感覚なのです。そういう首相の下で、武力の行使を前提とする「国を挙げての防衛体制の確立」が進んでいます。「国を挙げて」の中には、自衛隊や政府機関、財界や読売新聞などのマスコミだけではなく、学界や地方自治体も含まれています。「防衛体制の確立」とは、米国とのグローバル・パートナーシップや同盟国・同志国との連携強化に基づく対中国包囲網の構築を意味しているのです。
学術団体や地方自治体や民間企業を戦争協力へと誘導あるいは強制するための仕組みも次々と作られようとしています。日本学術会議の法人化、政府の自治体に対する指示権、セキュリティ・クリアランス制度の導入などです。学問・研究、自治体、企業を経由して、個人生活も軍事色に染められようとしているのです。
それに対抗するたたかいも展開されていますが、事態は予断を許しません。
今、日本は、「核兵器を含む武力による安全と生存の維持」なのか「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しての安全と生存の維持」なのかが正面から問われているのです。「武力による平和の道」は人類社会の終わりへの道です。「諸国民の公正と信義による平和への道」は78年前から示されている道です。「核の時代」の後にどのように未来社会を創るのか、その選択は私たちに委ねられているのです。
核兵器廃絶よりも前に、政府が「熱い戦い」を始めるかもしれません。「政府の行為によって再び戦争の惨禍」が起きるかもしれないのです。もちろんそれは他国の民衆の殺傷も意味しています。核兵器廃絶運動は政府や与党の動きに敏感でなければなりません。
核兵器廃絶や9条の擁護と世界化を希求する私たちには、「戦争前夜」といわれるほどに急速に進行している戦争の準備を阻止する運動が求められています。そのためには、反核平和勢力と護憲平和勢力との相互理解と相互協力とが必要不可欠です。
被爆80年・敗戦80年という節目の年を、この国の進路を大きく転換し、核兵器も戦争もない世界に一歩でも近づく機会にしようではありませんか。
腐敗し堕落した自民党政治を終わらせ、全ての人が、恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに、その個性を生かしながら、自由に生活できる社会をつくるために、引き続き頑張ろうではありませんか。
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