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2025.9.18
さいたま市見沼区に常泉寺という曹洞宗の寺がある。この寺に「広島・長崎の火」モニュメントが建立されている。「広島・長崎の火」とは、広島の焼け跡でくすぶっていた「広島の火」と長崎の原爆瓦から採火された「長崎の火」とが合わされたものだ。1988年に、埼玉県で合火されたこの火は、常泉寺の小山元一住職が灯し続け、1995年には、第1回目の「『広島と長崎の火』を囲むつどい」が開催され、2007年にモニュメントが完成している。そして、今年で31回目を迎えているのだ。この「囲むつどい」は、「さいたま・常泉寺『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」が主催し、この火を永遠に灯して、核兵器と戦争をなくす被爆者と日本国民の願いを語り広げるための催しとして定着している。私は、9月7日に開催された今年の「囲むつどい」に講師として参加したのだ。テーマは、「核兵器も戦争もない世界を創るために」-「原爆裁判」を現代に活かす-だ。
ところで、私もその建立に賛同して寄付をしていたので名前が石碑に刻まれている。また、2002年には「常泉寺に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」総会で「核兵器をめぐる情勢と日本国憲法」と題する講演をしている。これらのことは、会の中心メンバーである原富悟・まり子さん夫妻に教えられるまで、すっかり忘れていたことだった。
2002年にどんな話をしたかは全く覚えていない。多分、そのテーマからして核兵器廃絶と9条の話をしたのであろう。けれども、当時は、核兵器禁止条約は話題になっていなかった。国際司法裁判所の勧告的意見は既に出ていたし、コスタリカとマレーシア政府から国連にモデル核兵器条約が提案されていたけれど、現在のような核兵器禁止条約の提案は、誰からも行われていなかったのだ。それが行われるのは、2002年から10年以上も経ってからの、いわゆる「人道的アプローチ」ということになる。そして、核兵器禁止条約は、2017年7月に採択され、現在では、94か国が署名し、73か国が批准する多国間条約として発効している。核兵器の開発、実験、保有、移転、配備、使用するとの威嚇、使用などはすべて違法とされ、その廃絶が展望されているのである。まさに「隔世の感」と言えよう。
私は、講演で、今、世界では、むき出しの暴力が横行しているし、核兵器使用の危険性もかつてなく高まっている。世界は大きな分岐点にあるなどと情勢も語ったけれど、この核兵器禁止条約の経緯を踏まえて、反核平和勢力は、決して、核兵器に依存する戦争勢力にやられっぱなしではないのだと力説した。
9月8日付『赤旗』はこんな記事を掲載している。日本反核法律家協会会長大久保賢一弁護士が講演。広島・長崎への原爆投下は国際法違反とした「原爆裁判」の判決について解説し、被爆者への支援に怠惰な「政治の貧困」嘆くなど、勇気ある判決だと述べました。2002年の「灯す会」のつどいでも講演し、「その時は核兵器禁止条約ができるなどとは思っていなかった」と話した大久保氏。「この80年間、核兵器は使用されなかったし、日本は海外で戦争をしていない。私たちが持っている憲法9条と核兵器禁止条約を生かしていくことが求められていると語りました。
9月10日付『毎日新聞』埼玉欄はつぎのような記事を掲載している。さいたま市見沼区の常泉寺で、核兵器の廃絶と平和を願う「『広島・長崎の火』を囲むつどい」が開かれた。約90人の参加者が境内に灯る「広島・長崎の火」のモニュメントに献花し、手を合わせた。…「さいたま・常泉寺に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」が95年から開き、被爆80年の今年は31回目。原冨悟会長は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞などを挙げ「核兵器廃絶の世論は着実に高まっている。つどいが明日を切り開く一助になれば」とあいさつした。また、日本反核法律家協会会長の大久保賢一弁護士が、日本初の女性判事となった三淵嘉子さんをモデルにしたNHKの連続テレビ小説「虎に翼」に描かれ、原爆投下を国際法違反と断じた「原爆裁判」をテーマに講演し、その精神を現代に生かそうと訴えた。
このつどいには、広島と長崎の市長だけではなく、埼玉県知事やさいたま市長もメッセージを寄せている。常泉寺の副住職が来賓あいさつをしていたし、地域の親子連れや埼玉合唱団の歌もあった。私の心に残ったのは、原水禁大会に参加した人が、長崎の川から汲んできた水を、原爆投下の焼け野原に一番に芽を出し花を咲かせた「復活の花」といわれる夾竹桃の葉に浸して原爆瓦にかける献水式だ。水を求めて亡くなっていった被爆者に水を献ずる儀式なのだ。原富悟さんの発案だという。
全国各地にこのような粘り強い運動があるのではないだろうか。様々な地道な行動の継続こそが「核兵器も戦争もない世界を創るため」の最も必要な運動なのだと改めて確認した一日だった。主催者の皆さんありがとうございました。(2025年9月11日記)
2025.9.8
「今夏屈指の労作」との評価
8月21日付『赤旗』の「波動」欄で、メディア文化評論家の碓井弘義さんが、8月8日に放映されたBSスペシャル「原爆裁判〜被爆者と弁護士たちの闘い〜」について、「注目すべき一本だった」、「被爆体験と司法闘争の歴史を丁寧に掘り下げていた」、「被爆80年の夏、改めて原爆裁判の意義と精神を再認識すべきであることを、この番組は静かに主張していた。」と書いていた。すごくうれしいと思っていたら、8月28日付『赤旗』の「波動」欄は、この番組を「2025年『8月のジャーナリズム』屈指の労作」と評価していた。これはまた凄いことになったと欣喜雀躍の気分に襲われている。「放送を語る会」の小滝一志さんの記事だ。少し長くなるけれどその記事の要旨を紹介する。
記事の要旨 (()内は大久保の注)
番組は裁判を起こした岡本尚一弁護士の訴状を手掛かりに原告五人の遺族を探し、その一人 川島登智子の遺族 時田百合子さん親子が母親の原爆裁判にかけた思いをたどる旅を軸に展開される。
番組の冒頭、岡本が原爆裁判を開始するまでの動機と経緯を孫・村田佳子さんが保管している資料から掘り起こす。「トルーマンをアメリカの裁判所の法廷に訴えようとしていた」という岡本の原爆投下への強い怒りが動機だった。
原告川島の妹 詔子さんが健在だった。時田さん親子が訪ね、登智子がなぜ家族にも原告だったことを頑なに語らなかったかが次第に明らかにされる。
判決は「原爆投下は、当時の国際法から見て違法だった」と断ずる画期的なものだった。「本訴訟を見るにつけ政治の貧困を嘆かずにはいられない」と書き込んだ古関裁判長にインタビューした平岡敬さんなどの証言により、裁判長の心情や判決文作成の苦労が窺える。
番組の後半は判決の国際的評価とその後の世界への影響の検証だ。判決を英訳した米国の国際法学者(リチャード・フォーク)は「僕に力があれば、岡本にノーベル平和賞を授与した」と高く評価した。
岡本弁護士を引き継いだ松井康浩弁護士は、94年に日本反核法律家協会を結成、核兵器の違法性を認めさせる「世界法廷運動」のきっかけを作った。
2017年に核兵器禁止条約は採択された。大久保賢一日本反核法律家協会5代目会長(記事は4代目としているけれど正確には5代目)の「原爆裁判が蒔いた種がしっかり実を結んでいる」とのコメントが強く印象に残る。
唯一の被爆国日本政府が核兵器禁止条約に背を向けている今、番組は60年前の原爆裁判にスポットを当て、その今日的意義を明らかにした。2025年「8月のジャーナリズム」屈指の労作と思う。
私の感想
この番組の企画段階からかかわっていた私としては、このような評価をしてもらえることは本当にうれしい。この番組のチーフプロデューサーの塩田純さんやディレクターの金本麻理子さんは、昨年から、「原爆裁判」にかかわった原告や弁護士たちのその後を追跡する企画を考えていた。企画が通るかどうかは本当に狭き門なのだそうだ。金本さんから、その企画が通ったという喜びの連絡が入ったのは、今年の2月だった。
その後、私は、インタビューを受けたり、講演会での取材に応じたり、番組の内容にアドバイスをするなどのかかわりを持ってきた。番組が完成したのは8月に入ってからで、放送は8月8日だった。私も、ドキドキしながら見ていたけれど、川島登智子さんの娘さんの時田百合子(72歳)さんとお孫さんの時田昌幸(35歳)さんの行動を縦軸としながら、原告の遺族、岡本弁護士のお孫さん、弁護士や裁判官や学者やジャーナリストたちを絡ませながら「原爆裁判」とは何かを浮かび上がられる番組に仕上げられていた。特にすごいと思ったのは、リチャード・フォークだけではなく、核抑止論者の米国出身のICJ裁判官や核兵器の使用や威嚇を絶対的違法としたウィラマントリーICJ判事の教え子にまでインタビューしていたことだ。番組を企画し製作した方たちの力量に改めて感服したものだった。
まとめ
この番組を見た感想を何人かから聞いている。共通するのは、川島さんの遺族である時田さん親子が、登智子さんが原告になっていることを知らなかっただけではなく、被爆者のたたかいなどとは縁がなかったけれど、この番組の中で、すこしずつ変わっていき、最後は、埼玉の被爆者の慰霊祭で挨拶するようになっていることに対する共感だった。まさに、この番組はヒューマンドキュメンタリーになっていたのだ。その親子の取材を続けていた金本さんも二人が変わっていく様子がよくわかったと述懐していた。番組作りは成功していたのだ。
ところで、金本さんは、放送されなかったけれど、多くの遺族と接して多くの貴重な証言を得ているという。けれども、取材した材料全部を60分の番組におさめることなどできないので、割愛しなければならない事実が多く残ってしまうそうだ。何とももったいないことだと思う。私は、「原爆裁判全資料集」も出版されていることでもあるので、これらの証言を埋もれさせない方法を考えたいと思っている。裁判資料と当事者たちのその後を将来に活かしたいのだ。そうすれば、さらに「原爆裁判」を活用できるように思うからである。
この番組の英語版もできている。この番組は「核兵器も戦争もない世界」を創るための資料の一つとして役に立つことは間違いない。原爆という究極の暴力に、法という理性をもって立ち向かった人間たちがいたことを知ることになるからである。だから、世界中の人に視てもらいたいと思う。そして、NHKには地上波での深夜・早朝ではない時間帯での再放送をお願いしたい。せっかくの番組を活用しないことはもったいないからである。(2025年9月2日記)
2025.8.18
はじめに
8月6日の広島平和式典での湯崎英彦広島県知事のあいさつは感動的でした。私のブログを管理している長女は「お父さん。湯崎知事のあいさつについて書かないの?」と聞いてきました。嬉しい注文でした。8月15日の羽鳥慎一モーニングショーに湯崎知事は生出演していました。こういう番組で核抑止論がテーマになることはすごいことです。その理由は湯崎知事のあいさつが核抑止論を正面から批判していたからです。
核兵器不使用の継続や究極的になくすことに反対する人はいません。石破茂首相も同様です。けれども、石破首相は「我が国の安全保障のためには米国の核の傘が必要だ」としているので「今すぐなくす」とは言いません。中国、北朝鮮、ロシアという核兵器保有国に囲まれているので、米国の核でそういう国の行動を抑止しなければならない。米国の核の傘に依存していれば我が国は安全だけれど、それがなくなると危険だという理屈です。
そういう首相の前で、自治体の首長が「核に依存することは間違いだ。違う政策をとるべきだ」と言ったのだから「あっぱれ」でしよう。
そこで、この小論では、湯崎知事のあいさつを紹介しながら、少しコメントをしてみることにします。
湯崎知事のあいさつ
湯崎知事のあいさつは「核兵器廃絶という光に向けて這い進む」という表題でした。これは、2017年12月10日に行われたノーベル平和賞授賞式での広島の被爆者サーロー節子さんの「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ」に由来するものです。素晴らしいモチーフではないでしょうか。
以下、あいさつの大要を追いかけてみます。
草木も生えぬと言われた75年からはや5年、被爆から3代目の駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なものであるかを痛感しています。
ここでは、現在の繁栄が脆弱であることが語られています。私も「むき出しの暴力」が振るわれているだけではなく、核兵器使用の威嚇も行われているので、核戦争の危機はかつてなく高まっていると考えています。「法の支配」が忘れられ「力による支配」へと逆戻りしているという湯崎知事の情勢認識に同意します。そして、私は法を万能とは思っていませんが、むき出しの暴力よりはずっとましだと評価しているので、かかる状況を憂いています。
湯崎知事は続けます。
このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。
ここでは「力による抑止」は物理法則ではなく、フィクションだと断言されています。まさに、このあいさつの肝の部分です。あいさつではギリシャのことが語られていますが、ローマの将軍は「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」と言っていたそうです。平和を望むなら武力を備えよというのは、そういう時代からの格言なのです。けれども、その格言のようにしてきたけれど、戦争は絶えなかったではないかと湯崎知事は指摘しているのです。「力の均衡による抑止」など意味がないことは歴史が証明しているし、その理由はこのような抑止論は「虚構」だからだというのです。
私も、核抑止論は相手がどう考えるかは相手が決めることだし、脅かしたからといって相手が必ず引くわけではないし、抑止が破綻した場合には「みんな死んじゃう」のだから、虚妄にまみれた危険この上ない「理論」だと考えているので、この部分を「我が意を得たり」と受け止めています。
そして、現代の抑止論は「汝、平和を欲するならば、核兵器に依存せよ」ということですから、次のような事態が予測されるのです。
実際、核抑止も80年間無事に守られたわけではなく、核兵器使用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸前だった事例も歴史に記録されています。
国破れて山河あり。かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。国守りて山河なし。
ここでは、核兵器が実際に使用されそうになった歴史について触れられています。8月15日のモーニングショーでは、1983年の、ソ連の早期警戒衛星が米国から核ミサイルが発射されたとしたが、当直将校がそれは誤作動だと判断して反撃を行わなかったケースと1962年のキューバ危機に際して、ソ連の潜水艦が米国の爆雷攻撃に核兵器で対抗しなかったことが例示されていました。けれども、核兵器が意図的にあるいは事故や誤解で使用されそうになった実例はこれ以外にもたくさんあるのです(拙著『迫りくる核戦争の危機と私たち』あけび書房、2022年で紹介しています)。私は、特に、1962年のキューバ危機の時に、米国戦略空軍司令官が、ケネディ大統領(当時)の指示がないのに、戦闘即応体制を引き上げ「戦争が終わった時、アメリカ人が二人、ロシア人が一人だったら、我が方が勝ちだ」と言っていたというエピソードに恐怖感を抱いています。核兵器が使用されなかったのは、グテーレス国連事務総長がいうように「ラッキーだった」だけなのかもしれないのです。
また、核戦争になれば国家再建の道は閉ざされるでしょう。自国と自国民を守るための核兵器が自国も自国民も滅亡させるという「究極のパラドックス」が現れるのです。核兵器不拡散条約(NPT)の用語でいえば「全人類の滅亡」、核兵器禁止条約(TPNW)の用語では「壊滅的人道上の結末」ということです。そのことについて、湯崎知事は次のように語っています。
もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味あるのでしょう。
湯崎知事は、核兵器が使用されれば、人類は「再生不能な惨禍」に見舞われることになる。「修復不能な終末」が起こるかもしれない安全保障は無意味だと言っているのです。湯崎知事は、まさに核兵器による抑止は「人類の自滅への道」だということを述べているのです。そのうえで次のように提言しています。
抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。…そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。
ここでは、戦争を抑止する力としての核兵器を否定して、ソフトパワーや外交の力などの活用が提案されています。核抑止に費やされる巨額の費用を「核のない新たな安全保障」のために使用することも提案されています。使用されれば「修復不能な終末」が訪れ、使用されないとしても巨大なムダ金が費やされる「核抑止」から脱却しなければならないという提案です。きわめて合理的な提案です。そして、次のように結論しています。
核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。“諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。”這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか。
湯崎知事は、私たちに、核兵器廃絶は遠くに見上げる「北極星」ではなく「現実的・具体的目標」だとして、粘り強い努力によって、人類と地球の生と安全を勝ち取ろうと呼びかけているのです。核兵器は人間の作ったものですから物理的解体は可能です。そのことは、ピーク時の1986年には7万発ほどあった核弾頭が、現在では1万2千発台になったことからも確認できます。核兵器廃絶は決して「見果てぬ夢」ではないのです。人間の政治的意思の問題なのです。湯崎知事はそのことを言っているのです。根源的な提起なのです。
私の注文
私は、このように、湯崎知事のあいさつに大きな感動を覚えている一人です。けれども、注文もあります。それは、核兵器に依存しないだけではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依存するという対案を示して欲しかったことと、核兵器を全面的に禁止し、その廃絶を展望する核兵器禁止条約に触れて欲しかったということです。
国際紛争を武力で解決しようとすれば、核兵器は最終兵器ですからなくなりません。それは、1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」が指摘するだけではなく、現実の国際政治がそうなっています。だから、1946年に公布された日本国憲法は、核兵器のみならず「一切の戦力」の不保持を規定しているのです。
そして、核兵器禁止条約は、一切の核兵器使用の危険性から免れるためには核兵器をなくすことだとしています。意図的な使用を避けたとしても、ヒューマンエラーや機械の故障による発射は避けられないのですから、それは論理的必然です。間違わない人間はいないし、壊れない機械がないことは誰でも知っていることです。
湯崎知事のあいさつを少しだけ敷衍すれば、最高法規である憲法やすでに発効している核兵器禁止条約への言及は、ごく自然に導けるのではないでしょうか。だから、私は、湯崎知事にこのような注文をするのです。
まとめ
最後に、湯崎知事と私の核抑止に関する共通性と違いについてのAIによる分析を紹介しておきます。
共通性は、核抑止論への根本的否定、人類の存続への危機感、核兵器廃絶の必要性などとされています。湯崎知事は「核戦争になれば人類も地球も再生不能」、大久保弁護士は「核兵器で人類が自滅することのないように」と強調していると分析されています。
違いとしては、アプローチ、立場、表現方法などがあげられています。湯崎氏は、地方自治体の首長としての発信、表現方法は詩的・比喩的(例:「国守りて山河なし」)。大久保氏は、弁護士の立場、法律家・市民運動家としての提言、法的・論理的(憲法9条との関係、裁判例の紹介)などとされています。
AIは「どちらも『核抑止論は幻想であり、現実的な安全保障にはなり得ない』という点では一致していますが、湯崎氏は政治的・象徴的なメッセージを、そして大久保氏は法的・構造的な批判を展開しています。」と結論しています。
なかなか興味深い分析だとは思いますが、それはそれとして、湯崎知事のあいさつは、核抑止論を乗り越え、人類が自滅することがないように、核兵器も戦争もない世界を求める私たちに、大きな勇気を与えてくれるものでした。私は、この湯崎知事のあいさつを糧にして、引き続き頑張ろうと決意を新たにしています。(2025年8月15日記)
2025.8.11
日本テレビの取材
先日、日本テレビから取材を受けた。日本テレビからの取材は初めてだった。「原爆裁判」のことで話を聞きたいという。「どういう経緯ですか」と聞いたら、高桑昭さんの話と私の話を聞いてみたいと昨年から考えていたということだった。それならもっと早く来ればいいのにと思ったけれど、取材を断る理由はない。ディレクターやカメラマンたち4名に、3時間ほどあれこれ話をさせてもらった。
若い担当者は事前に質問を用意していたけれど、まだまだ不慣れだった。少し年上の人は、部屋にある12時前で止まっている時計を見て「あれは終末時計に合わせてあるのですか。」と訊いてきた。その時計は、単に電池切れで止まっていただけなのだけれど、89秒前と言われれば、そう見えるのだ。私は「そういうことではない」と否定しながらも、彼の感性に共感していた。彼は、取材の翌日、「私たち報道に携わる者も、もっと『原爆裁判』のことを知らなければと思いました。」とメールをくれた。そんな気持ちで番組を作ってくれたのだ。
日本テレビの番組
日本テレビは、高桑さんと私を取材して、『【戦後80年】“核兵器は国際法違反”…核廃絶や被爆者救済に光明をもたらした「原爆裁判」判決に、いま再び光』と『“核は国際法違反”指摘の裁判官・高桑昭さん死去 核保有論もくすぶる戦後80年 最後の取材に寄せた言葉』という二つの番組を制作した。前者は8月1日に放送され、YouTubeに残っている。後者は8月8日にヤフーニュースで配信されている。両方とも、今も、視聴することはできる。両方とも、核兵器使用の危険性が高まっていることを指摘しながら、「原爆裁判」の内容と現代的意義を伝えている。例えば、こんな調子だ。
ウクライナを侵攻したロシアは、核の脅しを繰り返す。トランプ大統領は今年6月、イランの核施設を攻撃した際、「(イラン核施設への)あの攻撃が戦争を終わらせた。広島や長崎の例を使いたくないが、戦争を終わらせたということでは本質的に同じだ」と、広島や長崎への原爆投下を引き合いに出して、攻撃を正当化した。
国内でも、初当選を果たした参政党の塩入清香参院議員が、選挙期間中に核保有を容認するかのような発言をして、物議を醸している。
東京地裁は1963年の判決で、「個人に国際法上損害賠償請求権が認められた例はない」などとして、原告の賠償請求そのものについては棄却した。だが同時に、原爆投下について「放射線の影響により18年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実」と指摘し、「不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反している」とした。
そして、私の次のようなコメントも紹介している。
裁判の資料を継承し、その意義を伝える日本反核法律家協会会長の大久保賢一弁護士は「核兵器が国際法に違反すると断言した、世界初の判決」と評価する。判決のなかには、核兵器という究極的な暴力に理性で立ち向かう方法はないのか、法は無力で良いのかという問いかけが含まれていると、大久保さんは考えている。
正確には「核兵器が国際法に違反する」ではなく、「原爆投下が国際法に違反する」という判決なのだけれど、その判決の価値と論理を継承する核兵器禁止条約は「核兵器を違法」として、その廃絶を展望しているのだから、訂正しなければならないような間違いではないであろう。このような間違いは「大久保さんによると、判決は、国際法による兵器の禁止や、被爆者救済運動の広がりなどの足がかりになったという。」として、「核兵器の禁止」を「兵器の禁止」としていることにもある。この間違いも、判決は「戦争をなくすことは人類共通の希望」としているのだから、許容しておきたいと思う。
高桑昭さんのこと
ところで、もっとも強調されているのは「原爆裁判」判決に直接かかわった高桑昭さんの当時の心構えと現在の心境についてだ。高桑さんは、番組の取材時、家族を通じて対応することはできたようで、8月1日の放送時にはそのことが紹介されている。けれども、高桑さんは8月3日に永眠されたのだ。88歳だった。私は、生前にお会いしておきたかったと悔やんでいる。日本テレビは高桑さんについてこんな紹介をしている。
今の社会の現状をどう見ているのか。7月末、亡くなる直前の高桑さんに取材すると、「時が経ち、人々の感覚が狂ってきたのであろう。時勢の変化で致し方ないのだろう」というコメントが返ってきた。核兵器が国際法違反だと断じた原爆裁判。その裁判官が核保有論もくすぶる今の日本を、なぜ「致し方ない」とするのか。家族が真意を尋ねると、高桑さんは「情けないと思っている」と悔しさをにじませた。生前、高桑さんは「8月6日は嫌だ」とよく漏らしていたという。終戦の日の15日までは、テレビや新聞などとも距離をおいた。自身が関わった裁判で原爆の悲惨さを思ったのかもしれない。だが、それと同時に、自分自身の戦争体験と結びつき、何かしらの忌まわしさの感覚があったのだろうと、家族は考えている。
私は、高桑さんの「時が経ち、人々の感覚が狂ってきたのであろう。時勢の変化で致し方ないのだろう」というコメントについて、8月1日の放送の中で「核兵器禁止条約はできている。高桑さんのまいた種は大きくなっていますよ」とコメントしておいた。核兵器禁止条約は核兵器を違法とする「法的枠組み」だからだ。高桑さんが起案した「原爆裁判」は、間違いなく現代に生きているのである。私のこのコメントについて吉村清人弁護士はFaceBookで次のように書いている。
この大久保先生の言葉は、逝去される直前に、時世の変化を嘆いていた高桑さんにとって、原爆裁判の判決裁判官としての高桑さんの業績に対する、永訣の最高の讃辞になったのではないだろうか。この讃辞が、8月1日の放送により、生前の高桑さんに届いたことを、私は信じる。
私は吉村さんの情報収集力とその感性に敬服する。
記事への反応
YouTubeやYahooニュースで人の目に触れると、いろいろなコメントが寄せられることになる。少し紹介しておく。
核を持たないことが本当に弱いことか。戦争を放棄することが本当に弱いことか。人を殺すことに正義はあるのか。攻撃だけが強さなのか。この判決は世界中を揺るがせた大きな判決だ。今年の広島県知事のスピーチを聞いてみて欲しい。強さとは何か考えて欲しい。
核をもつことで抑止力になると思っている人、安上がりだと思っている人こそ完全な平和ボケ。日本を守るどころか、経済的にも武力的にも日本を破滅させる超愚策。
まずこのタイトルが誤解を招きます。違法とされたのは「原爆の使用」であって核兵器自体は国際法違反ではありません。違反だったら核保有国が国連で違法性を問われているでしょ?また感情的に核はダメ。と核を絶対悪として議論してこなかった結果、安易な核武装論が出てしまったと思いますよ?核兵器を『兵器』として認識するためにも、絶対悪とはせずに議論はするべきだと思いますよ?兵器として知りもしないで廃絶なんて出来るわけがない。
今や国際法なんて空手形ですからね。今は宣戦布告などしないし、空爆によって一般人を攻撃しているし、ハマスなどは軍服を着ないで軍事活動を行なっている。全部国際法違反。国際法は紳士協定みたいなものなので、力のある国が国際法を破っても、それを裁くことが出来ない。せいぜい、公式に批判糾弾するくらい。
核は国際法違反…だからどうしたの?
強制力を持たない法律なんて机上の空論…国際法でプーチンでもネタニヤフでも逮捕できてから言って欲しいんだけど。
戦勝国が正義という理屈で成り立っている世界で、敗戦国の裁判所が下した判決が何らかの影響を与えることができるのだろうか…「核兵器廃絶」という夢想の中で。
それぞれに「共感した」とか「なるほど」とか「うーん」とかの反応も示されている。
何とも活発に意見が出されているのだ。共感できる意見もあるし、批判したい意見もある。日本テレビが作成したニュースは、このように波紋を起こしているのだ。
とてもいいことだと思う。核兵器問題は、すべての人にかかわりがあるのだから、大いに議論しなければならないのだ。このような反響を引き起こしている日本テレビに感謝したい。(2025年8月10日記)
-->2025.7.29
7月23日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)、原水爆禁止日本協議会(原水協)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の三者が「被爆80年を迎えるにあたって ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる国民的なとりくみをよびかけます」との共同アピールを発出しました。私は素晴らしいことだと歓迎しています。核兵器廃絶を求めながら、相互に対立し、運動を分裂させてきた原水協と原水禁が、被団協と連帯して、ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる国民運動の取り組みを呼び掛けたのですから、こんなうれしいことはありません。まずは、そのアピールを確認してみましょう。
アピールの内容
冒頭はこうです。
1945年8月6日広島・8月9日長崎。アメリカが人類史上初めて投下した原子爆弾は、一瞬にして多くの尊い命を奪い、生活、文化、環境を含めたすべてを破壊しつくしました。そして、今日まで様々(さまざま)な被害に苦しむ被爆者を生み出しました。このような惨劇を世界のいかなる地にもくりかえさせぬために、そして、核兵器廃絶を実現するために、私たちは被爆80年にあたって、ヒロシマ・ナガサキの実相を受け継ぎ、広げる国民的なとりくみを訴えます。
続いて世界の現状について述べています。
2024年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。凄惨(せいさん)な被爆の実相を、世界各地で訴え続け、戦争での核兵器使用を阻む最も大きな力となってきたことが評価されたものです。一方今日、核兵器使用の危険と「核抑止」への依存が強まるなど、「瀬戸際」とも言われる危機的な状況にあります。
ウクライナ侵攻に際してロシアの核兵器使用の威嚇、パレスチナ・ガザ地区へのイスラエルのジェノサイド、さらに、イスラエルとアメリカによるイランの核関連施設(ウラン濃縮工場)への先制攻撃など、核保有国による国連憲章を踏みにじる、許しがたい蛮行が行われています。核兵器不拡散条約(NPT)体制による核軍縮は遅々として進まず、核兵器5大国の責任はいよいよ重大です。
次に、核兵器禁止条約発効の意義を確認しています。
しかし、原水爆禁止を求める被爆者を先頭とする市民運動と国際社会の大きなうねりは、核兵器禁止条約(TPNW)を生み出しました。これは、核兵器の非人道性を訴えてきた被爆者や核実験被害者をはじめ世界の人びとが地道に積み重ねてきた成果です。同時にそれは今日、激動の時代の「希望の光」となっています。この条約を力に、危機を打開し、「核兵器のない世界」へと前進しなければなりません。アメリカやロシアをはじめ核兵器を持つ9カ国は、TPNWの発効に力を尽くしたすべての市民と国々の声に真摯(しんし)に向き合い、核兵器廃絶を決断すべきです。
日本政府に対する要求は核兵器禁止条約への参加と国家補償です。
唯一の戦争被爆国である日本政府はいまだTPNWに署名・批准しようとはしません。核保有国と非核保有国の「橋渡し」を担うとしていますが、TPNWに参加しない日本への国際社会の信頼は低く、実効性のある責任を果たすこととは程遠い状況にあります。アメリカの「核の傘」から脱却し、日本はすみやかに核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。
原爆被害は戦争をひきおこした日本政府が償わなければなりません。しかし、政府は放射線被害に限定した対策だけに終始し、何十万人という死者への補償を拒んできました。被爆者が国の償いを求めるのは、戦争と核兵器使用の過ちを繰り返さないという決意に立ったものです。国家補償の実現は、被爆者のみならず、すべての戦争被害者、そして日本国民の課題でもあります。
結びは、三者の決意です。
ビキニ水爆被災を契機に原水爆禁止運動が広がってから71年。来年は日本被団協結成70周年です。被爆者が世界の注目をあつめる一方、核使用の危機が高まる今日、日本の運動の役割はますます大きくなっています。その責任を果たすためにも、思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて、被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要となっています。それは被爆者のみならず、今と未来に生きる者の責務です。地域、学園、職場で、様々な市民の運動、分野や階層で、被爆の実相を広げる行動を全国でくりひろげることをよびかけます。世界の「ヒバクシャ」とも連帯して、私たちはその先頭に立ちます。
「思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要となっています。それは被爆者のみならず、今と未来に生きる者の責務です。」とされていることを確認しておきましょう。最も基本的なことであり、また、それがないと「核兵器も戦争もない世界」は実現しないからです。反核平和勢力が分裂しているようでは、核兵器に依存し武力の行使をためらわない勢力に勝利できないことは、誰にでもわかる理屈でしょう。
では、その対立と分断はどのような状況だったのでしょうか。一つのエピソードを紹介しておきます。出典は今年7月24日付『毎日新聞』朝刊の森滝市郎さんに係る記事です。
1963年第9回原水爆禁止世界大会での出来事
森滝市郎さん(1901年~1994年)は、被爆者運動と原水爆禁止運動に半生をささげた人で「反核の父」と呼ばれています。1956年に結成された日本被団協の初代理事長であり、1963年の第9回原水爆禁止世界大会では基調報告をしています。森滝さんはその基調報告で「どこの国のどんな核実験にも、どんな核武装にも絶対反対だ。」と訴えました。けれども、その報告は、全ての人の共感を得たわけではないのです。『毎日』の記事によると「やじや怒号が飛び交い、負傷者が出る騒ぎとなった」ようです。当時、「どこの国の核実験にも核武装に反対する。」という考えに反対する勢力があり肉体的衝突もあったのです。
1963年当時、私は16歳なので、そんなことが起きていたなどと知る由もありません。その後、反核平和運動にかかわるようになってから、反核運動にも厳しい対立があることを実感しました。そして、なぜ、一緒にできないのだろうかと不思議でした。他方で「社会主義国の核兵器には反対しない」という考えと「いかなる国の核兵器もダメ」という考えは「核兵器の役割を認めるかどうか」という観点からすれば「決定的な違い」があるので、その違いを無視して一緒にやるのは無理だろうなとも考えていました。
ところで、この第9回大会で、森滝報告にヤジや怒号を飛ばしていたのは、ソ連の核兵器に反対しない共産党系の人たちのようです。そのことを『日本共産党の100年』の記述から確認してみましょう。
当時の日本共産党の核兵器観
当時、党は、ソ連が再開した核実験(61年8月)を、アメリカの核脅迫に対抗して余儀なくされた防御的なものとの態度表明をおこないました。これは、党として、核兵器使用の脅迫によって国の安全を確保するという「核抑止力」論に対する批判的認識が明瞭でなく、ソ連覇権主義に対する全面的な認識を確立していない下での誤った見方でした。同様の態度表明は、64年と65年の中国の核実験の際にも行われました。ソ連によるチェコスロバキア侵略、中ソの軍事衝突などの事態が起こる下で、党は、1973年、この見方を改め、アメリカを戦後の核軍拡競争の起動力として厳しく批判すると同時に、ソ連と中国の核実験も際限のない核兵器開発競争の悪循環の一部とならざるを得ないものとなっているという評価を明確にしました(同書146~147頁)。
ここでは、1963年当時、共産党は、社会主義国の核兵器について反対していなかったとされているのです。森滝報告のように「いかなる国の核兵器にも反対」という態度ではなかったのです。しかも、分裂と対立の原因はこの論点だけではありませんでした。次のような事情もあったのです。同書は以下のように書いています。
部分的核実験禁止条約をめぐる対立
1963年8月、米英ソ三国が部分的核実験停止条約(部分核停条約)を結び、ソ連はこれを「核兵器全面禁止の一歩」、「帝国主義の世界全体を縛り上げる」ものと宣伝し、ケネディを“平和の政治家”と持ち上げました。党は、地下核実験による核兵器開発競争を合理化して、保有国の核兵器独占体制の維持を図る条約として、これに反対しました。63年の原水爆禁止大会では、部分核停条約が焦点の一つとなり、ソ連代表ジューコフ(党攻撃の作戦計画の立案者の一人)は、帰国後、ソ連共産党機関紙「プラウダ」で、部分核停条約に関して公然と日本共産党を非難しました。また、訪ソした日ソ協会代表団などに部分核停条約を支持するよう圧力をかけました(同書159頁~160頁)。
社会党、総評導部は、第9回原水爆禁止世界大会(1963年大会)でソ連が礼賛していた「部分的核実験禁止条約」への支持を大会で決めるよう主張しました。党は、核実験全面禁止の課題を放棄し、核軍拡を進めるものだと批判するとともに、大会としての同条約への賛否を決めずに、核戦争阻止と核兵器全面禁止、被爆者援護・連帯という原水爆運動の原点での一致にもとづいて共同すべきとの態度を堅持しました(同書146頁)。
当時は「キューバ危機」が去ったばかりでした。世界は核戦争の危機に晒されていましたが、それからかろうじて免れたばかりだったのです。そのような時代にあって「部分核停条約」への賛否が、ソ連の干渉の下で問われていたのです。部分的な核実験禁止が「全面禁止」を意味するとは限りません。それを支持するかどうかを突き詰めれば、分裂することになるでしょう。その賛否を棚上げすることは「賢明な策」と言えるでしょう。
結局、世界大会は「いかなる国の核兵器にも反対するのか」、「部分的核実験禁止条約に賛成するのか」の論点で対立し分裂したのです。
不幸な分裂を乗り越えて
このような背景事情のもとに、原水禁運動における「原水協」と「原水禁」の対立は始まり、現在まで続いてきました。その対立は、当時の事情を知らない私には理解できないほどに深刻だったようです。元々、私は、核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者支援などは大同団結が必要だと思っていますから、対立があることは承知していましたが、どちらが正しいかを判断するつもりはありませんでした。ただし、社会主義には期待していたので、アメリカ帝国主義に対抗するためには核兵器も必要だと言われれば、そんなものかと思ったこともありました。けれども、現在は「核抑止論」の虚妄と危険性を理解しているので「いかなる国の核兵器」にも大反対です。そして、今、ソ連はありませんし、中国を反核平和勢力とは言えないでしょう。
現代は、核実験についていえば大気圏だけではなく「包括的核実験禁止条約」が生まれつつあるし、「核兵器禁止条約」によって核兵器の廃絶が展望されている時代です。ノーベル委員会フリードネス委員長は「核兵器も戦争もない世界」を呼び掛けた田中熙巳さんのスピーチを「人類の総意」と評価しています。けれども、核兵器がなくなる現実的なスケジュールはまだ形成されていないのです。
「原水協」と「原水禁」が、不幸な分裂を乗り越えて、被爆80年に際して「被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくこと」を呼び掛け、被団協とともに、その先頭に立つことを決意したことには大きな意味があります。両組織の決断に心からの敬意を表します。この共同声明は「核兵器も戦争もない世界」の実現を希求する私たちにとって、大きな励ましとなることでしょう。(2025年7月24日記)
2025.6.19
日弁連の決議
6月13日、日弁連の定期総会で『被爆80年に際して「核兵器のない世界」を目指す決議』が採択された。その要旨は以下のとおりである(全文は日弁連のHP参照)。「核兵器のない世界」を求めるだけではなく「戦争とは永遠に決別する」決意が述べられていることを確認してほしい。
核兵器は「極まりなく非人道的兵器」、「決して使われてはならない兵器」であり、国際社会は「核兵器を違法とする理論」を構築してきたけれど、いまだ、1万発を超える核兵器が存在し、うち数千発は作戦配備されている。しかも、近時、核兵器使用のリスクが「極めて高くなっている」。核戦力を維持しようとする根拠は「核抑止論」や「拡大核抑止論」であるが、この理論は「効果の不確実性が高い危険な理論」である。核抑止論から脱却し、世界から核兵器を廃絶するためには、すべての国が核兵器禁止条約(TPNW)に署名、批准し、核兵器不拡散条約(NPT)6条を具体化することが必要不可欠である。あわせて、北東アジア地帯を非核地帯とすることが求められている。
そこで、当連合会は日本政府に対し「核兵器廃絶の実現に重大な懸念」があることを全世界と共有するとともに、①TPNWに署名し、批准すること。②NPT6条を具体化するために、核兵器国と非核兵器国の対話の場を設け、核兵器廃絶のタイムスケジュールを策定するなどの取組を行うこと。③北東アジア非核兵器地帯の締結に向けた取り組みを行うこと。を求める。
当連合会としても、いかなる国際状況の下にあっても、核兵器の存在に断固として反対し続け、「核兵器のない世界」の実現を目指し、戦争とは永遠に決別することを決意する。
核兵器についての日弁連の基本的スタンス
日弁連は、1950年5月12日、広島市で開催した第1回定期総会に引き続いて開催した平和大会において「地上から戦争の害悪を根絶し、(中略)平和な世界の実現を期する。」と 宣言して以来、核兵器廃絶を訴え続けてきた。1954年5月29日には、「原子爆弾等の凶悪な兵器の製造並びに使用を禁止しなければ、人類の破滅は火を睹る(みる)より明らかである。」としている。2010年10月8日には、日本政府に対して「非核三原則」の法制化、北東アジア地帯を非核地帯とするための努力、核兵器禁止条約の締結を世界に呼び掛けることを求め、法律家団体として、非核三原則を堅持するための法案を提案し、広く国民的議論を呼び掛けることを決意していた。
最近では、核兵器禁止条約の締約国会議、NPTの再検討会議、広島でのG7などに際して、政府に対して「核兵器のない世界」に向けて積極的役割を果たすよう要望する会長声明や被団協のノーベル平和賞受賞を歓迎する会長声明なども発出している。
日弁連は「戦争は最大の人権侵害である」として、日弁連の草創の時期から「究極の暴力」である核兵器に「法という理性」で対抗しようとしてきたのである。今回の決議は、被爆80年にあたって、そのことを再確認したのである。
現在、日本の弁護士は約4万7千人である。そのすべての弁護士が所属する日弁連が、その定期総会でこのような決議をあげたことの意味は大きい。
決議までの経過
日弁連の総会で決議を採択するためには、それなりの手続きを踏まなくてはならない。今回の決議も簡単に実現したわけではない。日弁連の憲法問題対策本部の核兵器廃絶部会で「核戦争の危機が迫っている。基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士が黙っているわけにはいかない。被爆80年に際して、日弁連の初心に帰って、核兵器も戦争もない世界を創るための決議をあげよう。」と議論されたのは、昨年秋のことであった。決議案文とその理由を起案し、対策本部に提案し、その議を経て日弁連の執行部に提案され、そこでの質疑応答を経て、執行部から理事会に提案してもらい、さらにそこでの質疑と意見交換を経て、総会への提案という過程を経たのである。
そもそも、執行部がその気にならなければ総会決議などありえない。けれども、現在の渕上玲子会長は、長崎の出身ということもあり、この決議の総会への提起を選択したのである。私は英断だと受け止めている。部会の問題意識はもちろん通奏低音として生きているけれど、決議案の構成や表現は修正されている。そういう意味では、この決議案は集団による労作であり、日弁連の現在の到達点なのである。
総会での議論
総会でもいろいろな意見が出されたし、満場一致ということでもない。強制加入団体の日弁連の総会で、政府の核政策を根底から非難し、その政策転換を迫る決議がシャンシャンと成立することなどありえない。いくつかの意見を紹介しておく。
まず、「決議は安全保障について理解していないので反対だ。」という意見である。この意見は「核兵器をなくすことは、わが国の安全保障を危うくする。」という認識に基づくものである。政府の見解と同様のものであるので、会内に存在することは間違いない。問題はどのような形でそれが噴出するかである。総会でも、その意見は堂々と開陳されていた。日弁連は、まさに、国家安全保障のために核兵器を必要とする思考と行動(核抑止論・拡大核抑止論)に対する根本的批判を対置しているのであるから、そのような意見が出てくることは想定の範囲内であろう。
次に興味深かったのは「核兵器国の意向に反しない形で核兵器廃絶を現実化することは極めて困難というが、では、核兵器国の意向をどう変えるというのか。核兵器国からどのように核兵器を取り上げるというのか。」という質問である。この質問は大事な論点を含んでいる。核兵器国が核兵器を放棄するとの政治的意思を持たない限り、核兵器はなくならないからである。日弁連は、そのために、まず、わが国政府が、核抑止論から脱却することを提起しているのである。わが国が核兵器のない世界の実現に向けて積極的な行動をとることは、核兵器国の政府や市民社会の意思を変えることに寄与するとの発想である。質問者にそのことが理解してもらえたかどうかはわからないけれど、ぜひ理解してほしいポイントである。
もう一つは、「日米による中国侵略戦争」に触れなければ「戦争と永遠に決別することを決意することにはならない。」という意見である。これも一つの論点であることは間違いない。日米両国政府が、中国を対象とする軍事力に依存しての「安全保障政策」をとっていることは公知の事実だからである。日弁連はそれを指摘し反対している。そのことは「安保法制」や「安保三文書」に対するこれまでの日弁連の姿勢を見れば明らかである。「中国侵略戦争」という表現をしなければ「戦争と永遠に決別することを決意することにはならない。」とすることは偏狭に過ぎるというべきであろう。
まとめ
これららの反対意見や質問などはあったけれど、決議は圧倒的な賛成で採択されている。感動的な賛成討論があったことも忘れないでおきたい。そして、決議の理由は次のように締め括られている(要旨)。
今年は、広島及び長崎への原子爆弾投下から80年である。被爆者は「核兵器と人類は共存できない」、「被爆者は私たちで終わりにしてほしい」との思いから粘り強く運動してきた。日本被団協の田中熙巳代表委員は、ノーベル平和賞受賞記念講演で「人類が核兵器で自滅することのないように。そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう。」と述べた。核兵器が使用されれば全人類に影響が及ぶことになる。「核兵器も戦争もない世界」は被爆者にとどまらず私たち人類の悲願である。核兵器使用の危機が迫る今、私たちは、核兵器の恐怖を排除できない「核抑止論」から脱却し、核兵器廃絶を実現しなければならない。当連合会は「戦争は最大の人権侵害である」との理念の下、反戦と核兵器の廃絶を訴えてきた。核兵器は、人類を含む地球を破滅させる残虐な兵器であり、地球上に存在する限り、最大の人権侵害のおそれを排除できない。だからこそ、我々は、核兵器の廃絶を強く求めるのである。
そして、その結びは、先に紹介した決議本文と同様に「いかなる国際状況の下であっても、核兵器の存在に断固として反対し続け、『核兵器のない世界』の実現を目指し、戦争とは永遠に決別することを改めて決意し、本決議をする。」である。
私は、核兵器廃絶部会の座長として、この決議の最初から最後までかかわってきた。部会や対策本部のメンバー、担当の事務次長や副会長、そして執行部会議や理事会でも、様々な意見交換をして来た。総会決議をあげることは決して簡単ではないことも体験した。それだけに、この決議が採択されたことに対する感慨はひとしおである。
日弁連は、被爆と終戦の80年の今年、この総会決議でおしまいとするのではなく、12月に長崎で予定されている人権大会でも、引き続き核兵器廃絶と日本の戦争準備にかかわるテーマでのシンポなどを予定している。私も一人の弁護士として「核兵器も戦争もない世界」を実現するために尽力したいと改めて決意している。(2025年6月17日記)
2025.6.5
(反核法律家協会のホームページに移動します)

2025年5月発行
被爆80年にあたっての提言
―「核兵器廃絶」と憲法9条 Ⅱ
日本評論社
1冊頒価 1,700円(税込・送料無料)
本書の内容はこちら↓から
詳細・目次はこちら
本書を推薦します
日本被団協代表委員 田中熙巳
「人類の滅亡」を避けるために
「核兵器も戦争もない世界」を創るための共同を!
私はノーベル平和賞授賞式でこう世界に呼びかけました。
被爆80年の年にこの呼びかけにいち早く応えてくれたのが、
一貫して核兵器廃絶と憲法9条擁護のために取り組んでいる著者です。
本書に込められたその思いと信念が多くの市民の共感を呼ぶことを
強く望んでいます。

2024年12月発行
「原爆裁判」を現代に活かす
—核兵器も戦争もない世界を創るために
日本評論社
1冊頒価 1,700円(税込・送料無料)
<本書の内容>
2024年連続テレビ小説「虎に翼」で扱われた、『原爆裁判』の詳細を解説。
詳細はこちら
核兵器廃絶実現のための必読の一冊
日本反核法律家協会会長の著者が、貴重な原資料を用いて「原爆裁判」(1955年提訴)の経緯、意義を明確に解説する本書は、核兵器廃絶を願う私たちと世界中の市民に勇気と希望を与えてくれる一冊です。
【2024年ノーベル平和賞受賞】
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)
代表委員 田中熙巳
(本書帯より)

2023年12月発行
「核兵器廃絶」と憲法9条
日本評論社
1冊頒価 1,800円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
——「賢人会議」への要望書
序 章 核兵器廃絶と憲法9条
第1章 迫りくる核戦争の危機
第2章 日本政府は私たちをどこに導こうとしているのか
第3章 核兵器と軍事力の呪縛から免れない人たち
第4章 反核平和を考える
第5章 韓国の反核平和運動
あとがき
——「市民社会」を信じて
喜寿のお祝いによせて 村山 志穂

迫りくる核戦争の危機と私たち
「絶滅危惧種」からの脱出のために
あけび書房
1冊頒価 2,000円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
序 核戦争の危険性と私たちの任務
第1部 ロシアのウクライナ侵略を考える
第2部 米国の対中国政策と核政策
第3部 核兵器廃絶ために
第4部 核兵器廃絶と憲法9条
資料 核兵器禁止条約の基礎知識
あとがき

「核の時代」と戦争を終わらせるために
-「人影の石」を恐れる父から娘への伝言-
学習の友社
1冊頒価 1,600円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがきにかえて
第1部 「核兵器も戦争もない世界」を求めて 〈17話〉
第2部 核兵器に依存し戦争を計画する者たちへの批判 〈11話〉
第3部 何人かの知識人たちへの共感と注文 〈9話〉
あとがきにかえて
「第1部は同時代を生きる『同志』たちへのエールである。私が身近で接している人や、私の心の糸をふるわせてくれる人たちに想いを馳せている。第2部は対抗する勢力への批判である。日米政府やその近くでうろちょろしている連中に対する批判である。第3部は理解と協力を求めたい人たちへの呼びかけである。核兵器廃絶や憲法について発言している人たちに対する共感と注文である。リスペクトしつつも、もう少し理解し合いたいと思っている同時代を生きる人たちへの呼びかけである。」(「まえがきにかえて」より)

「核兵器も戦争もない世界」を創る提案
-「核の時代」を生きるあなたへ-
学習の友社
1冊頒価 1,400円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
第1章 「非核の政府」の想像から創造へ
コラム 「核持って絶滅危惧種仲間入り」「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」
「核兵器が人類を絶滅すると考えることは『妄想』なのか」
「核を手放さない日本政府と政治家」「ロシア大使館での核兵器廃絶談義」
第2章 コロナ危機の中で核兵器廃絶を考える
第3章 「核抑止論」の虚妄と危険性
コラム 「ブレジンスキーは妻を起こさなかった」
第4章 核兵器禁止条約の発効と「実効性」
第5章 核兵器禁止条約と核不拡散条約(NPT)6条の関係
第6章 「核兵器も戦争もない世界」を実現しよう! ―特に、米国の友人たちへの提案―
第7章 核兵器禁止条約の発効から9条の地球平和憲章化へ
コラム 「マッカーサーの原爆使用計画と反共主義」
「ヨハン・ガルトゥングの『日本人のための平和論』」
「なぜ、米国は偉そうに振舞えるのか」
あとがきにかえて―台湾海峡での核使用を危惧する

「核の時代」と憲法9条
日本評論社
1冊頒価 2,000円(税込・送料無料)
<本書の内容>
第1部 核も戦争もない世界を求めて
第1章 「核の時代」と憲法九条
第2章 「核兵器のない世界」を求めて
第3章 原発からの脱却
第2部 随 想
パート1 核と平和のテーマ
パート2 民主主義の在り方について
パート3 朝鮮半島のこと
パート4 折々のこと 折々の人
あとがきに代えて
―― 一度だけの70歳を迎えて
大久保賢一先生のご紹介/村山志穂
資 料
1.原爆投下と日本国憲法9条 抜書き
2.「核兵器のない世界」の実現のために
NPT再検討会議に向けての日本の法律家の提言
3.核兵器廃絶のために、私たちに求められていること
購入お申し込みはこちら
(反核法律家協会のホームページに移動します)
2025.3.13
茨城県弁護士会のシンポ
2025年3月8日。日本弁護士連合会(日弁連)の憲法改正問題に取り組む全国アクションプログラムの一環として、茨城県弁護士会主催のシンポジウム「核兵器も戦争もない世界をつくるために~原爆裁判を現代に活かす」が、土浦市の茨城県南生涯学習センターで開催されました。私は日本反核法律家協会会長として田中煕巳被団協代表委員と二人で基調報告をしました。田中さんとはあちこちでご一緒していますが、こういうコラボは初めてでした。私のテーマは「『原爆裁判』と核兵器禁止条約について」、田中さんは「被団協のノーベル平和賞について」でした。
100人の定員の会場は満席(事前に入場制限したそうです)、ウェブでも60人からの参加があったようです。日弁連と関東弁護士会連合会との共催でしたが、弁護士会がこういうイベントを開催してくれることは本当に嬉しいことです。茨城県弁護士会の皆さんに感謝しています。
アンケートの結果
私は47枚のパワーポイントを用意して「憲法9条と核兵器禁止条約を活用して、核兵器も戦争もない世界の実現を!!」と報告しました。田中さんは「何か用意した方がよかったですかね。」といいながら、自在に被団協のノーベル平和賞受賞の意義を語っていました。レジメもパワポもないのに言葉が紡がれるのです。何とも凄いことだと思います。
主催者はアンケート用紙を用意していました。そのアンケート項目に「大久保氏、田中氏の講演について」というのがあり「興味深かった、普通、あまり興味が持てなかった」の三択でした。何ともストレートな質問だなと思いつつ、ドキドキしながらその結果を読みました。アンケートは30通を超えて寄せられていました。結構高い回収率でした。その項目での回答は、全てが「興味深かった」でした。興味を持っている人が来ているのだから当たり前といえば当たり前かもしれませんが、報告した方からすれば、やっぱり嬉しいことなのです。
茨城の親しい弁護士たち
茨城県の弁護士には何人かの親しい人がいます。例えば、このイベントを企画したのは尾池誠司弁護士ですが、彼は私の事務所で弁護修習をした人です。現在、茨城県弁護士会の憲法委員会委員長をしており、弁護士会の憲法問題についての活動報告をしていました。「緊急事態条項はいらない」というDVDも活用していました。彼は「この度は、誠にありがとうございました。お二人のお話と意見交換も大変勉強になりました。今後とも、茨城県弁護士会を宜しくお願いいたします。」とFBに投稿していました。
ここにいう「意見交換」とは、飯田美弥子弁護士が司会を務めて、田中さんと私にあれこれの質問をするというコーナーのことです。飯田さんは自分で「茨城県弁護士会憲法委員会の集会で、お役目を大過なく果たせたこと」を「今日の良かったこと」にしているように、私たちの話を引き出してくれたのです。尾池君はそれも「大変勉強になった」としているのです。
また、日弁連副会長経験者である谷萩陽一弁護士も旧知の中です。谷萩さんは主催者挨拶を担当していました。彼は「大久保先生、このたびは本当にお世話になりました。田中さんに来ていただけたのも先生のおかげでしたし、ご一緒に来ていただけたので田中さんも心強かったと思います。講演もしっかり準備されて中身の濃いお話で、あらためて勉強になりました。私からすると大久保先生はとても老人とは思えません。内藤功先生や石川元也先生のように、いつまでも元気でご活躍下さい」と投稿していました。内藤功先生や石川元也先生は、自由法曹団の先輩で、二人とも90歳を優に超えているのです。 その二人のようになれというエールを送ってくれたのです。
ここに紹介した3人以外にも、司会を担当した田中記代美憲法委員会副委員長や閉会挨拶をした唐津悠輔副会長にもお世話になりました。唐津さんは私の講演のなかで触れていた「原爆裁判」の裁判官たちは「『法は核兵器とどう向き合うべきか』について、正面から受け止めていた。それは法律家としての矜持だ。」という部分を引用していました。心に残る挨拶でした。
移動と四方山話
移動とその途中のことにも触れておきます。
私と田中さんは二人とも埼玉在住です。土浦までの移動が必要なのです。武蔵野線の新座駅のホームで待ち合わせをして、新松戸まで行き、そこで常磐線に乗り換えて会場の土浦という経路でした。片道約2時間30分です。埼玉と茨城は隣県ですが、決して近間ではなかったのです。
行き帰りの電車の中では四方山話です。共通の知人は多いし、問題関心は共通しているし、おまけに田中さんは話し好きなので話は尽きないのです。一番盛り上がったのは、田中さんのお母さんは女手一つで4人の子供を育てて102歳まで生きたことと、私の母も102歳で今も私と電話で話をしているというエピソードでした。
二人とも長生きの血筋のようだから、肥田舜太郎先生のように100歳まで頑張ろうということになりました。肥田舜太郎さんは29歳の時に広島で被爆し、8年前に100歳で亡くなるまで、被爆者の支援と反核平和のために生きた人なのです。田中さんは92歳、私は78歳。「大久保先生はとても老人とは思えません。」という意見もありますが、齢相応に頑張ることにしたいと思っています。(2025年3月11日記)
2025.3.13
被団協がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきたし、それなりに伴走してきた私としても本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が三度使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞を「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大いに活用したい。
核兵器も戦争もなくなっていない
世界では武力の行使が続いているし、1万2千発からの核兵器が存在している。ピーク時である1986年の7万発と比較すれば大幅に減少しているとはいえ、そのうちの数千発はいつでも発射される態勢(警戒即発射態勢)にある。しかも、その能力は「近代化」され破壊力を増している。プーチン・ロシア大統領は核兵器使用を公言し、イスラエルも核の影をチラつかせている。中国は核戦力を強化し、北朝鮮は核兵器の先制使用を憲法に書き込んでいる。核兵器使用の危険性が高まっているのである。
授賞の理由
ノーベル委員会は平和賞授与の理由として、被団協が1945年8月の原爆投下を受けて「核兵器使用がもたらす壊滅的な人道的結末に対する認識を高める運動」をしてきたことをあげている。そのたゆまぬ努力が「核のタブー」を形成してきたというのである。ノーベル委員会はまさに慧眼であろう。そして、ノーベル委員会は「核のタブー」が圧力を受けていること、すなわち核兵器使用の危険性が高まっていることを危惧して、被団協に授与していることにも注目しなければならない。私はそのノーベル委員会の「核のタブー」が破られようとしているとの危機感を共有している。
「核のタブー」を破るのは誰だ
その「核のタブー」を破ろうとしているのは、核兵器保有国であり核兵器依存国である。米国政府はイスラエルの暴虐を止めようとしないし、ウクライナに停戦を呼び掛けていない。米国大統領に再び就任するトランプ氏は、かつて「核兵器をなぜ使ってはならないのか」と何度も聞き返した人である。彼らは核兵器を廃絶するのは核兵器がなくても自国の安全が確保されてきたからだとしている。自分たちで対立と分断を煽りながら、安全保障のために核兵器が必要だというのである。おまけに、他国にはその「安全保障の道具」を持たせないというのだから質が悪い。
核兵器使用はタブー
核兵器使用は「タブー」である。核不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も、壊滅的人道上の結末をたらす。」としている。核大国の首脳も「核戦争に勝者はない。核戦争は戦ってはならない。」としている。核兵器使用がタブーであることは、1955年に「原爆裁判」を提起した故岡本尚一弁護士が「原爆使用が禁止されるべきであることは天地の公理」としていた時代から指摘されていたことなのである。
核兵器使用禁止から廃絶へ
にもかかわらず、核兵器はなくならないどころか、核戦争の危機が迫っている。その原因は、核兵器は自国の安全保障のために必要だと主張する「核抑止論者」が政治権力を持ち続けているからである。そして、民衆が彼らにその力を提供しているのである。
核兵器は意図的に使用されるだけではなく、事故や誤算で発射される危険性を排除することはできない。ミスをしない人間や故障しない機械はないからである。現に危機一髪の事態は発生している。発射されたミサイルを呼び戻す方法はない。
このままでは、私たちは「被爆者候補」(田中熙巳 被団協代表委員)であり続け、「核地雷原」での生活を強いられることになる。だから、私たちの課題は、核兵器不使用禁止の継続ではなく、核兵器廃絶ということになる。
被団協のたたかい
被団協の結成は1956年である。その「結成宣言」は次のように言う。私たちは全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から「生きていてよかった」とよろこぶことができるでしょう。
1984年の「原爆被害者の基本要求」は次のように言う。私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。
2001年の「21世紀被爆者宣言」は次のように言う。日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」しています。戦争被害を受忍させる政策は憲法の平和の願いを踏みにじるものです。憲法が生きる日本、核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。
被団協はこのような決意のもとに「核兵器も戦争もない世界」を求めてきた。しかも、刮目しておきたいことは、核兵器廃絶と憲法9条をしっかりとリンクさせていることである。「平和憲法」が公布された1946年11月3日、当時の日本政府は、原爆を念頭に「文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えている。ここに九条の有する重大な積極的意義を知る。」としていた。被団協も被爆体験の中から「核兵器も戦争もない世界」を希求し続けてきたのである。
まとめ
私たちは、核兵器に依存しながら核兵器廃絶をいう勢力に騙されてはならない。世界のヒバクシャと団結して、核兵器廃絶のたたかいを強化しなければならない。既に、核兵器を全面的に禁止しその廃絶を予定する核兵器禁止条約は発効している。それに背を向ける日本政府を、憲法に依拠しながら、変えなければならない。「核兵器も戦争もない世界」を創るために。(2025年1月14日記)
2025.3.13
非核の政府を求める会と「非核5項目」
1月11日、甲府で講演をする機会があった。「非核の政府を求める山梨の会」の2024年度総会に際しての記念講演を依頼されたのだ。「非核の政府を求める会」というのは、1986年に、核戦争の不安と日本の核戦場化の危険を根絶したいと願う団体・個人によって結成された非政府組織(NGO)だ。この会の特徴は、そのホームページによると「主権者である国民の手によって、『非核の政府』実現を目的としていることです。私たちは、そのための国民共通の目標として「非核5項目」を掲げています。」とされている。
「非核5項目」とは、①全人類共通の緊急課題として核戦争防止、核兵器廃絶の実現を求める。②国是とされる非核3原則を厳守する。③日本の核戦場化へのすべての措置を阻止する。④国家補償による被爆者援護法を制定する。⑤原水爆禁止世界大会のこれまでの合意にもとづいて国際連帯を強化する、である。
私は、この会の常任世話人の一人なのだ。
山梨の会の世話人
ところで、この山梨の会の世話人の一人を友人の加藤啓二弁護士(33期、75歳)がやっている。彼とは自衛隊がカンボジアに派遣された1992年、その実態を調査したいとして企画された「自由法曹団カンボジア調査団」の一行として行動を共にした仲だ。その後30年以上会っていなかったけれど、連絡をくれたのだ。山梨の会で講演して欲しいと言うのだ。テーマは核廃絶であれば好きにしゃべっていいとも言っていた。私にどのように言えば動くかは先刻お見通しのようだ。もちろん、私に断る理由はないし、被団協のノーベル平和賞受賞もあったので引き受けたのだ。
講演のテーマ
演題は「核兵器も戦争もない世界を創るために」として、サブタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」にした。私の新著(日本評論社、2024年12月)のタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」サブタイトルは「核兵器も戦争もない世界を創るために」だけれど、それを逆にしたのだ。その理由は二つあった。一つは、2021年に「学習の友社」から『核兵器も戦争もない世界を創る提案―「核の時代」を生きるあなたに―』を出版していることだ。もう一つは、ノーベル平和賞受賞式での田中熙巳さんの記念スピーチの最後が「人類が核兵器で自滅することのないように‼そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう‼」となっているので、その呼びかけに応えたいという気持ちだった。私には被団協や田中さんと伴走してきたという自負はあるので「共に頑張りましょう!!」という言葉を受け止めたいと思ったのだ。
講演の内容
私は58枚に及ぶスライドを用意した。「虎に翼」やノーベル平和賞などを大いに活用して、「原爆裁判」の背景や原告と被告国の主張、鑑定人の意見、裁判所の判断、判決に対する評価、被爆者運動への影響、国際法への影響、核兵器禁止条約の到達点、憲法9条との関係、ラッセル・アインシュタイン宣言、現在の情勢などについて、90分ばかり話をした。結論は、「核の時代」の非軍事平和規範である憲法9条を土台に、「原爆裁判」をルーツに持つ核兵器禁止条約を普遍化し、核兵器も戦争もない世界の一刻も早い実現を!!である。主催者からは80分程度と言われていたのだけれど、会場の皆さんが一生懸命聞いてくれているのが伝わってくるので、ついつい伸びてしまったのだ。リアルで話していると参加者の感じ方が伝わってくる。聞いていてもらえるとなるとこちらもノッてくる。今回もそんな感じだった。30人ばかりの会だったけれど楽しく話すことができた。
質問と意見
質問や意見交換の時間は短くなってしまったけれど、こんな質問があった。「何で政府は核兵器に依存したり、原発依存を続けるのか。」というものだ。核心を突いた質問である。核兵器に依存する理由は、講演の中で、政府は「米国の核とドルの傘」に依存するという姿勢でいると説明しておいたので、それと原発依存の関係での質問であろう。私は「電力会社の意向に応え、その利潤を確保するためと、石破さんがいうように原発は『抑止力』という軍事的必要性によるものだ。国民の安全よりも、利潤追求と軍事力を優先する発想だ。」と答えておいた。あわせて、私たちは核兵器と原発という二本の「ダモクレスの剣」の下で生活しているという私の新著で紹介している話も付け加えておいた。
感想としては「こんな話を全国でやって欲しい。」とか「よく理解できたので、質問はないけれど、この話を活動に活かしたい。」などと言われていた。また、被爆者運動に深くかかわっていた伊東 壯(いとう たけし1929年~ 2000年。経済学者で平和運動家。山梨大学学長、日本被団協代表委員などを歴任)と一緒に活動していたという方の発言もあった。私は、伊東さんとの交流はなかったけれどその著作には触れているし尊敬している方なので、感謝の言葉を述べておいた。
まとめ
閉会後、トイレに入ったらある参加者が「今日はいい話を聞かせてもらった。」と隣で用を足している人に話しかけていた。順番待ちをしていた私は、思わず「ありがとうございました」と声をかけてしまった。二人が振り向いて会釈をしてくれた。「あ、やばい。途中だったら…」と思ったけれど、事故は起きていなかったようだ。こういうシーンに出会うと、核兵器廃絶は決して夢ではないと思う。また、どこかで話をしたくなる。
私に何ができるか分からないけれど、愚直に運動を続けようと思う。甲府の駅まで送って、甲州ワインをお土産に持たせてくれた加藤さんと「お互いに後期高齢者だ。健康は大事にしよう!」と握手をして別れた。加藤さん。甲府の会の皆さん。お世話になりました。
(2025年1月12日記)
2024.12.16
はじめに
2024年のノーベル平和賞を受賞した日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員の一人田中熙巳さんが、12月10日、ノルウェー・オスロでの授賞式で講演をしています。その結びの言葉は「人類が核兵器で自滅することのないように!!」、「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!」です。田中さんは、「核兵器も戦争もない世界」、そういう「人間社会」を創るための共同を呼び掛けているのです。私はその呼びかけにどのよう応えればいいのかと思案しています。そこで、ここでは、田中さんとの交流も含めてこの講演を振り返ることにします。
田中さんと私
田中さんとは四半世紀の交流になります。1999年、オランダのハーグで開催された「世界市民平和会議」(Hague・Appeal・for・Peace、HAP)で共同したことをきっかでした。HAPは、21世紀に戦争を根絶することをめざして開催された市民社会の会議でした。会議では「10の基本原則」が採択されました。その中に「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである。」や「核兵器禁止条約の締結をめざす交渉が直ちに開始されるべきである。」という原則も含まれていました。
それから25年、「核兵器禁止条約」は発効しているのです。核兵器も戦争も廃絶しようとする運動は間違いなく前進しているのです。
それはそれとして、講演の内容に触れましょう。
田中さんの被爆体験
私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえると間もなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕(きょうがく)し2階から階下に駆け降りました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました。その後の記憶はなく、気が付いた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが1枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。
惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた2人の伯母の安否を尋ねて訪れた時です。私と母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろしてがくぜんとしました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃虚が広がっていました。れんが造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、見る影もありませんでした。麓に下りていく道筋の家は全て焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されているたくさんの人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。
1人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体と共に黒焦げの姿で転がっていました。もう1人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘(だび)に付しました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。1発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。
その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。
13歳の多感な少年にとって、この体験がいかに重いものであるか容易に想像できるのではないでしょうか。その体験が田中さんをして被団協の活動を継続するネルギー源になっているのかもしれません。
次に、被団協についてです。
被団協の誕生
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被曝して急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3千万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。
結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。
講演で触れられていない被団協の基本文書
講演では触れられていませんが、被団協はいくつかの基本文書を採択しています。被団協の運動を理解する上で必要と思われるのでそれを紹介しておきます。
まず、1984年の「原爆被害者の基本要求」です。
私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。
ここでは、「核兵器を絶対に許してはならない」とされているのです。核兵器が国家安全保障のために必要だなどという発想(核抑止論)は、「核戦争を許すこと」になると批判しているのです。日本政府の姿勢とは真逆であることを確認しておきましよう。
次に、2001年の「21世紀被爆者宣言」です。
原爆被害は、国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたことによってもたらされたものです。国がその被害を償うのは当然のことです。
戦争への反省から生まれた日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」しています。戦争被害を受忍させる政策は憲法の平和の願いを踏みにじるものです。
核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。
被団協は、68年間、このような決意のもとに「核兵器も戦争もない世界」を求めてきたのです。しかも、刮目しておきたいことは、核兵器廃絶と憲法9条をしっかりとリンクさせていることです。被団協は、被爆体験の中から「核兵器も戦争もない世界」を希求し続けてきたことのです。田中講演の結びの言葉は、この「21世紀被爆者宣言」を踏まえてのものなのです。
被団協の被爆者援護を求める運動
田中さんは、被爆者に対する補償を求める運動について次のように述べています。
1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律(原爆医療法)」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。
1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(原爆特別措置法)」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。
1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。
1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。
田中さんの怒りが伝わってきます。1963年の「原爆裁判」判決は、国の被爆者に対する施策について「政治の貧困を嘆かざるを得ない」としていましたが、その「政治の貧困」は解消されていないのです。この「政治の貧困」は、単に原爆被爆者に対してだけではなく、空襲被害者など戦争被害者に対する冷酷さとしても現れています。戦争被害は「国民等しく受忍すべき」であって(受任論)、国には責任はないという論理です(国家無答責論)。私たちは、この「国家無答責論」に基づく政府の政策を克服して、「国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたこと」による責任に基づく国家補償を実現しなければならないのです。
田中さんの現状認識
田中さんは現在の世界情勢について次のように語っています。
今日、依然として1万2千発の核弾頭が地球上に存在し、4千発が即座に発射可能に配備がされている中で、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザに対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。
私はこの認識に共感しています。核兵器の使用について、核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす」としています。核兵器国の首脳たちも「核戦争に勝者はない。核戦争は戦ってはならない」などと宣言しています。けれども、核兵器保有国は核兵器をなくそうとはしてないだけではなく、核兵器の近代化を図り、核戦争に備えているのです。ノーベル委員会も「今日、核兵器使用のタブーが圧力を受けていることは憂慮すべきことである。」と婉曲な表現ですが、核兵器使用の危険が高まっていることを指摘しているのです。
核兵器廃絶に向けての被団協のたたかい
田中さんは、核兵器廃絶に向けての被団協の戦いを振り返っています。
私たちは、核兵器の速やかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。
1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。
1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加しました。
核拡散防止条約(NPT)の再検討会議とその準備委員会で発言機会を確保し、併せて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受け止められ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。
2016年4月、「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。
2017年7月7日に122カ国の賛同を得て「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。
こうしてみると、被団協は倦まず弛まず国内外で活動を続けてきたことが分かります。そして、核兵器禁止条約(TPNW)は2021年1月発効しているのです。TPNWが、ヒバクシャの「容認しがたい苦痛と被害」や核兵器廃絶のためのヒバクシャの努力に言及していることは周知のとおりです。
核抑止論批判
田中さんは核抑止論を次のように批判しています。
核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4千発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。皆さんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中の皆さんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。
核兵器を日本政府や核兵器国のように「安全保障の道具」とするのではなく、「一発たりとも持つな」というのが「心からの願い」だというのです。もし核兵器がなくならないなら、私たちが被害者になるか、加害者になるかもしれないというのです。そして、核兵器をなくすためにどうしたらいいか共に話し合い、その廃絶を求めていきたいとしているのです。私たちは、その問いかけに真剣に応えなければならないのです。
原爆被爆者の高齢化
田中さんは次のように言います。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代の皆さんが、工夫して築いていくことを期待しています。
一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきたNPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。
被爆者が高齢化していることについては、ノーベル委員会も「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなるでしょう。」としているとおり厳しい現実です。こういう状況の中で、田中さんは「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」に期待するとしているのです。
この会のことは知らない方も多いと思いますが、田中さんが言うようにこの15年間被団協と伴走してきた組織です。田中さんはNHKのインタビューで、「この会が集め、補完している資料を上手に使えば、被爆2世でも3世でも普通の人でもできるので、被爆者ができなかったこと、やり通せなかったことを受け継いでもらえるかなと期待をしている。」と言っています。
私もこの会の理事の一人として田中さんの期待に応えなければ思っています。
田中講演の結び
世界中の皆さん。「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!
核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!
田中さんは、核兵器禁止条約の普遍化を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止める機会となる被爆証言の場を確保して、核兵器国やその同盟国の市民の中で「核兵器と人類は共存できない」という信念の醸成し、「自国の政府の核政策を変える力」になって欲しいとしているのです。まさにそのとおりです。核兵器国やその同盟国の市民社会の変化なくしてこれらの国の政府の核政策は変わらないからです。
田中さんは、今日まで、被爆者は闘ってきたけれど、命は尽きようとしている。その闘いを引き継いで欲しい。核兵器で自滅することのないようにしようと言っているのです。そうしなければ「被害者になるか、加害者になるかだ」というのです。
こうして 田中さんは、私たちに「核兵器も戦争もない世界」を求めて共同しようと呼びかけているのです。
ノーベル委員会は、被団協の「記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています。彼らは世界中の人々を鼓舞し、教育しています。このようにして、人類の平和な未来の前提条件である核兵器のタブーを維持する手助けをしているのです。」としています。
私の周囲にも新しい息吹は存在しています。「核兵器も戦争もない世界」を創ることは決して夢物語ではありません。核兵器は人間の作ったものであり、戦争は人間の営みだからです。核兵器のみならず軍隊のない国は26ヵ国も存在していることを思い出しておきましょう。核兵器や軍隊がなくても人間は生活できるのです。
田中さんの呼びかけに応えようではありませんか。(2024年12月11日記)
2024.11.28
はじめに
先日(11月26日)、アメリカのロータリークラブのメンバーとオンラインで話をする機会があった。テーマは「なぜ、日本政府は核兵器禁止条約に背を向けるのか」だ。きっかけは、清泉女子大学の松井ケティさんからの、このテーマでロータリーの仲間に話をしてくれないかという依頼だった。彼女とは、1999年にオランダ・ハーグで開催された「世界市民平和会議」(Hague・Appeal・for・Peace、HAP)で共同したことをきっかけとして友人なのだ。友だちの頼みだし、こういうことに興味を持っているアメリカ人がいるとは思っていなかったので、後先を考えないで引き受けた。事前にケティさんに私の見解を渡して、彼女がそれを翻訳して、メンバーと共有したうえでの対話だった。
私の見解
私の見解の概要は次のようなものだった(被団協のことも紹介したけれど割愛する)。
日本政府はTPNWを敵視していますが、日本の市民社会は、速やかな署名と批准を求めています。とりわけ、被爆者の願いは切実です。1945年8月、広島、長崎への原爆投下によって「容認しがたい苦痛と被害」を被った被爆者は高齢化しているからです。
なぜ、日本政府はそのような姿勢をとるかですが、TPNWは核兵器を全面的に禁止しているからです。日本政府は、アメリカの核兵器を自国の安全保障の「守護神」としているので、そのカードを取り上げてしまうTPNWは国家の安全を危うくするというのです。国家の安全なくして国民の命と財産を守ることは出来ない。国家の安全を危うくするTPNWは、国民の生命と財産を危うくするので絶対に容認できないという論理です。「笑えない喜劇」あるいは「泣けない悲劇」のようですが、それ現実です。
けれども、この姿勢は日本政府だけのものではありません。TPNWの発効が現実化しようとした2020年10月、アメリカは、各国に「核兵器禁止条約に関するアメリカの懸念」と題する「書簡」を送りました。批准国には「この条約は、効果的な検証の必要性や悪化する安全保障環境に対処していない」ので「批准・加入書を撤回すべき」だとしていました。未批准国には、TPNWは「危険なまでに非生産的だ」、「国際社会の分裂に拍車をかける」などとしてTPNWへの賛同を阻止しようとしたのです。アメリカも核兵器は自国の安全を確保するための抑止力だとしているので、それを否定するTPNWは容認できないのです。
このように、核兵器によって自国の安全を確保しようとする国家は「絶滅だけを目的とした狂気の兵器」である核兵器の保有を続け、TPNWを敵視しているのです。
メンバーからの質問
メンバーからはいくつかの質問が寄せられた。
①日本は核開発をしなかったのか。
②今、日本に核兵器はないのか。
③地方自治体はどのような姿勢をとっているのか。
④日本のロータリークラブはどのような姿勢なのか。
⑤ノーベル平和賞の授賞式が行われる時、日本は何時なのか、などと言うものだった。最後の質問は授賞式をリアルタイムで視られるのかという心配だったようだ。
私のそれぞれの問いに対する答えは次のとおりだ。
①戦前、日本でも核開発を行っていたが、敗戦によって途絶えた。現在は、公式には行われてはいないが、陰でのことは判らない。
②かつて、沖縄の米軍基地などには配備されていたが、現在は配備されていない。持ち込まれているかどうかは、アメリカが「肯定も否定もしない」という態度なので分からない。
③地方自治体には「非核都市宣言」をしているところや、TPNWへの参加を求める決議をしているところもある。また、世論調査では、TPNW参加賛成が多数だ。
④日本のロータリークラブが、核兵器廃絶のためにどのような活動をしているかは承知していない。
⑤オスロと日本の時差はあると思うけれど、テレビは大きく取りあげるだろうし、国民の関心は高い。とにかくビッグニュースなのだ。
メンバーからの意見
メンバーからは日本のロータリーと繋がりたいという意見もあったけれど、私にその伝手はないので、別ルートでやって欲しいと応えた。ワシントン州から参加していたメンバーは、ニューメキシコ州のメンバーとは交流しているし、4月にはシアトルで核廃絶や先住民の核被害についてのイベントをする計画だと教えてくれた。ニューメキシコ州にはロスアラモスやトリニティ実験場がある。ワシントン州には長崎に投下された原爆の材料プルトニウムを製造していたハンフォード・サイトがあるし、核被害者による訴訟も提起されている。「なるほど」と納得できる話だった。シアトルでのイベントに参加してもらえたらうれしいと言われたけれど、とりあえず、デュポール大学に宮本ゆきさんという核問題の研究者がいることと、日本でもそのイベントは紹介するので詳細が分かり次第教えて欲しいと伝えた。アメリカで核兵器廃絶や被爆者支援のために活動している人たちとの交流は大切にしなければならない。
感想
参加メンバーは、ケティさんと私以外に5名だった。うち女性は4名で唯一の男性はインドの人だった。ケティさんの集まりには、ウォード・ウィルソンという「核をめぐる5つの神話」(黒澤満監訳、法律文化社、2016年)という本を書いている研究者もいるけれど、この日の参加はなかった。ちなみに、この本は有意義で私も引用させてもらっている。共通の言語で語り合えればうれしいけれど、私には無理だ。ケティさんの通訳に依存するしかない。けれども、「あなたの意見は解りやすかったし、理解できた」という人もいたし、ケティさんによれば「皆さん喜んでおられました」とのことなので、引き受けてよかったと思っている。貴重で楽しい時間だった。(2024年11月28日記)
2024.11.22
はじめに
「核兵器廃絶のために、今、私がしていること。これからしたいこと」は、11月16日に広島で開催された日本反核法律家協会創立30年記念イベントでのリレートークのテーマです。日本反核法律家協会は1994年8月に、被爆者支援と核兵器廃絶を目的として設立されました。初代会長は松井康浩弁護士でした。その後、2011年の福島原発事故を受けて「原発廃止」も目的としました。創立以来、国内外の反核平和運動の人たちと交流してきました。特に、この8年間は「朝鮮半島の非核化」をテーマに意見交換会を開催してきました。今年もそのテーマでとも思いましたが、来年被爆80年を迎えるので、核兵器廃絶のために運動している様々な人にリレートークをしてもらうことにしたのです。核兵器廃絶の運動は被団協をはじめ原水協などの伝統的な運動体もありますが、むしろ、それぞれの想いで活動している人に話をしてもらおうと試みたのです。持ち時間は10分ということにしました。NHKの「時論・公論」や「視点・論点」などの例にならったのです。
多彩なスピーカー
発言者は次の13名でした(予定していた平岡敬元広島市長は体調が悪くて登壇できませんでした)。最年長は87歳の英語で被爆体験を語る小倉桂子さん。最も若いのは盈進中学高校のヒューマンライツ部の生徒たち。女優の斎藤とも子さん、詩人のアーサー・ナードさん、歌手であり映画プロデューサーの中村里美さん。元外交官の小溝泰義さん、韓国の弁護士崔鳳泰さん、反核医師の会の原和人さん。カクワカ・ヒロシマの田中美穂さん、第5福竜丸展示館学芸員の市田真理さん、ANTヒロシマの渡部朋子さん、核廃絶日本キャンペーンの浅野英男さん、非核の政府を求める会富山の渡邊眞一さんです。
皆さんのスピーチはそれぞれの体験に基づく反核の想いを込めた素晴らしいものでした。普段は口うるさい弁護士たちも何人か参加していましたが、その彼らが「話を聞いていて泣きそうになった」、「涙がにじんできた」、「泣いてしまった」などと言うのです。私もその一人でした。参加していたNHK関係者からは「皆様の素晴らしいお話をうかがい実りある時間でした」、「多様な方々、とりわけ若い世代の反核の取り組みが広がっていることが喜びとともに学びとなりました」などという感想が寄せられています。
寄せられたメッセージとご挨拶
ポーランドやカザフスタンの反核法律家、被団協、青法協、ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会、原水禁などからのメッセージが寄せられました。被団協の田中熙巳代表委員からはビデオメッセージを寄せてもらい、広島の被団協関係者、参議院議員で非核の政府を求める会常任世話人の井上智士さん、ICANの川崎哲さんからはリアルでのご挨拶をいただきました。田中熙巳さんは「発言者の中に、被団協のメンバーがいない。」と言っていましたが、主催者としては「被団協の活動を継承する決意を持っている人たちを選択した。」ということだとご理解いただければと思っています。このイベントは、被団協のノーベル平和賞受賞よりも前に企画したものでしたが、受賞によって「錦上花を添える」ことになったと思っています。 ノーベル賞受賞団体のICANおよび被団協の双方からご挨拶をいただけたことは本当に光栄でした。
主催者の想い
私は主催者として次のような挨拶をしました。
今年は私たち協会が発足して30年になりますが、今年ほど、うれしいことがあった年はありません。まずは、被団協のノーベル平和賞受賞です。被爆者支援と核兵器廃絶をめざす私たちも被団協に伴走してきました。被団協の平和賞受賞はまさに「同志」の受賞として心からうれしいことでした。
また、NHKの朝ドラ「虎に翼」では「原爆裁判」が丁寧に取り上げられました。松井康浩初代会長が残してくれた裁判資料が大いに役に立ったことをうれしく思っています。
これらのことは私たちに大きな励ましと勇気を与えてくれています。けれども、世界にはまだ核兵器は存在していますし、被爆者を含む戦争被害者の救済も不十分です。
来年、被爆80年を迎えます。ノーベル委員会は「今日、核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされている」としています。核兵器使用の危険性が高まっていると警告しているのです。また、「被爆者はわれわれの前からいなくなる」ともしています。私たちは核兵器廃絶を「自分事」として実現しなければならないのです。
今日は、様々な世代の様々なポジションでたたかっている方たちにスピーチをお願いしています。限られた時間ですが、ぜひ、それぞれの想いを語っていただいて、一刻も早く「核兵器のない世界」を実現したいと思っています。
私たち日本反核法律家協会も「原爆裁判」を提起した先輩たちに思いを馳せながら、引き続き市民社会の一員としての役割を果たす所存でいます。
むすび
来年被爆80年です。まだ、世界には約12200発の核兵器があります。「核戦争は戦ってはならない。」と言われていますが、核兵器に依存しての国家の安全をいう勢力が政治権力を握っています。彼らは核兵器を「平和の道具」だというのです(核抑止論)。核兵器という「悪魔の兵器」に命と安全託すという「最悪の集団的誤謬」からの脱出が求められているのです。私たちの手には、既に、核兵器禁止条約という国際法の枠組みと日本国憲法という「核の時代」の非軍事平和規範があります。それらは最大限活用し、核兵器も戦争もない世界を実現しなければならないのです。そのための主体的力は、間違いなく、市民社会の中で育っています。「市民社会は歴史の竈である」(マルクス)という言葉を実感することのできるリレートークでした。ご協力、ご尽力いただいた皆さん。本当にありがとうございました。なお、イベントの様子は以下のYouTubeで視聴できます。
https://youtube.com/live/jmLBZHDJPsE?feature=share (2024年11月22日記)
2024.10.17
はじめに
日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。
「虎に翼」は面白かった
「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。
特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。
「原爆裁判」が提起したこと
「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。
核兵器使用禁止は「公理」なのに
核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。
核兵器の特質
核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。
核兵器の最も特異な効果
判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。
ダモクレスの剣
「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。
私たちの課題
石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)
2024.9.13
初回放送日:2024年9月9日

連続テレビ小説「虎に翼」でも描かれた「原爆裁判」。
戦後まもなく被爆者が原爆投下の責任を追及し、訴えを起こした裁判が、現代に何をもたらしたのかを考えます。
こちらからテキスト版をご覧いただけます
(NHKのサイトに移動します)
2024.8.9
非核とは核兵器廃絶のことです。平和とは、究極的には敵意が存在しないことですが、ここでは戦争の放棄としておきましょう。私は、平和委員会のメンバーですから、非核も平和も求めています。だから、「非核と平和を一体に」と言われれば「そりゃそうだ」と思う一人です。
けれども、核兵器廃絶と戦争放棄は別の問題なのです。その理由は核兵器がなくても戦争はできるからです。ロシアは核兵器使用なしでウクライナ侵略をしていますし、イスラエルもパレスチナでの虐殺を継続しています。核兵器廃絶と戦争放棄は別問題だということがよくわかります。
そういう事情があるので、反核運動の中で、9条の擁護や世界化には消極的な人もいますし、「改憲阻止」をいう人に核兵器禁止条約を語ってもスルーされてしまうこともあるのです。
けれども、戦争という手段がある限り、核兵器は最終兵器ですから手放さない人が出てくるのです。現に世界はそうなっています。だから、核兵器廃絶と9条の擁護・世界化をリンクさせなければ、核兵器も戦争もなくならないことになるのです。
このように「非核と平和を一体に」というスローガンは重要な意味を持つのです。
ところで、今年の原水禁世界大会で志位和夫さんは、憲法9条には「戦争を二度と引き起こしてはならないという決意とともに、この地球上のどこでも核戦争を絶対に惹き起こしてはならないという決意が込められています」、「非核の世界をつくるたたかいと平和なアジアをつくるたたかいは、憲法9条という点でも深く結びついています」として、「”非核と平和を一体”として、草の根から運動を進めよう」と呼びかけています。私はこの呼びかけに「我が意を得たり」と共感しています。核兵器も戦争もない世界を一刻も早く実現したいからです。(2024年8月7日記)
2024.7.11
今、「原爆裁判」が人々の関心を集めている。NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルの三淵嘉子さんが「原爆裁判」にかかわったことが知られつつあるからだ。以前から「原爆裁判」を多くの人に知って欲しいと考えていた私にとってはうれしいことである。朝ドラで「原爆裁判」がどのように描かれるかはともかくとして、ここでは「原爆裁判」の基礎知識と現代への影響について触れておく。「原爆裁判」が現代に生きていることを共有したい。
「原爆裁判」とは、1955年、被爆者5名が、米国の原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判である。1963年、東京地裁は請求を棄却したけれど、米国の原爆投下を違法とし、あわせて「政治の貧困」を指摘したことによって、国内外に影響を与えた。
原告は次の5人である。
下田隆一 47歳。
広島で被爆 長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害。就業不能。
多田マキ
広島で被爆 顔、肩、胸、足にむごたらしいケロイド。疼痛のため日雇労働も続かず。夫は容貌の醜さを厭って家出。
浜部寿次 54歳
東京に単身赴任。長崎で妻と四人の娘たち全員が爆死。
岩渕文治
広島での原爆投下により養女とその夫及び子どもをなくす。
川島登智子
広島で被爆 14歳 顔面、左腕などを負傷 両親も原爆でなくす。
原爆投下から10年を経ていたけれど、政府は被爆者に何の支援もしていなかった。被爆者は病や社会的差別の中で貧困にあえいでいた。
岡本尚一弁護士は、1892年に生まれ、提訴3年後の1958年に没している。岡本さんが、なぜ、この裁判を考えたのか。その理由を彼の短歌に探ってみたい。
・東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る
・夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり
・朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか
私には歌心はないけれど、岡本さんの東京裁判に対する怒りと被爆者への同情と人類社会の未来についての懸念が痛いほど伝わってくる。
岡本さんは「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるということだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう。」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼び掛けた。けれども、現実に応えたのは松井康浩弁護士だけであった。
この裁判の当初の目的は「賠償責任の追及」と「原爆使用の禁止」だったことを確認しておきたい。
請求の趣旨は、被告国は、原告下田に対して金三十万円。原告多田、浜部、岩渕、川島に対して各金二十万円を支払え、である。
請求の原因の骨子は次のとおり。
米国は広島と長崎に原爆を投下した。原爆は人類の想像を絶した加害影響力を発した。「人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した酸鼻なる様相を呈した」。
原爆投下は、戦闘員・非戦闘員たるを問わず無差別に殺傷するものであり、かつ広島・長崎は日本の戦力の核心地ではなかった(「防守都市」ではない)。
広域破壊力と特殊加害影響力は人類の滅亡をさえ予測せしめるものであるから国際法と相容れない。
国家免責規定を原爆投下に適用することは人類社会の安全と発達に有害であり、著しく信義公平に反する。米国は平和的人民の生命財産に対する加害について責任を負う。被害者個人に賠償請求権が発生する。
対日平和条約によって、国民個人の請求権が雲散霧消することはあり得ない。憲法29条3項により補償されなければならない。補償されないということであれば、日本国民の請求権を故意に侵害したことになるので、国家賠償法による賠償義務が生ずる。
原子爆弾の投下と炸裂により多数人が殺傷されたことは認めるが、被害の結果が原告主張のとおりであるかどうか、及び原爆の性能などは知らない。
原爆の使用は、日本の降伏を早め、交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。
原爆使用が、国際法に違反するとは直ちには断定できない。
したがって、原告らに損害賠償請求権はない。
敗戦国の国民の請求が認められることなど歴史的になかった。
原告らの請求は、法律以前の抽象的観念であって、講和に際して、当然放棄されるべき宿命のもの。それは権利たるに値しない。
憲法29条によって直ちに具体的補償請求権が発生するわけではない。
国は、原告らの権利を侵害していない。平和条約は適法に成立しているので、締結行為を違法視することはできない。
慰藉の道は、他の一般戦争被害者との均衡や財政状況等を勘案して決定されるべき政治問題。
1963年12月7日、裁判長古関敏正、裁判官三淵嘉子、同高桑昭による判決が出される。判決は、高野雄一、田畑茂二郎、安井郁の三人の国際法学者の鑑定を踏まえていた。なお、口頭弁論の全期日に関与したのは三淵嘉子さんだけであった。その要旨は次のとおり。
米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反する。かつ原爆は非人道的兵器であるから、戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならないとの国際法に違反する。
しかし、国際法上の権利をもつのは、国家だけである。被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかない。
日本の裁判所は米国を裁けない。
米国法では、公務員が職を遂行するにあたって犯した不法行為については賠償責任を負わないのが原則。
結局、原告は国際法上も国内法上も権利をもっていない。
人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ、原爆の投下によって損害を被った国民に対して、心からの同情の念を抱かないものはいないであろう。
戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずる。
「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは到底救済にならない。
国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのだから、十分な救済策を執るべきである。
しかしながら、それは裁判所の職責ではなく国会及び内閣の職責。そこに立法及び行政の存在理由がある。本件訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かざるを得ない。
松井康浩弁護士(1922年~2008年)は次のように総括している。
戦勝国アメリカの戦闘行為を国際法に照らして日本の裁判所で裁くこの訴訟は、日米の友好を損なう、途方もないこと、そのような訴訟が成立するわけがないなどさまざまな理由で弁護士の協力者も少なく、被爆者その他国民の支援もなかったことが示すように、困難な訴訟であった。
この訴訟の特徴は、原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する点にあった。判決は広島・長崎への原爆投下という限定の下に国際法違反と断定した。しかし、その無差別爆撃性と非人道性は、いつ、いかなる原爆投下にも適用されるであろう。
裁判所は、「政治の貧困さを嘆かずにはおられない」として、最大限の言葉を用いて、被爆者援護法を未だに制定しない立法府と行政府を批判している。この批判の意義はきわめて高く、原爆投下の国際法違反とともに、この判決の価値を大ならしめている。
松井さんは、困難な訴訟ではあったけれど、原爆投下の違法性を認めたことと政治の貧困を嘆いたことの二点でこの判決の「大きな価値」を認めているのである。
日本の政治は被爆者援護のために次のように法制度を整備してきた。
裁判継続中の1957年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。判決後の1968年9月、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」施行。1995年7月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)施行などである。
「原爆症認定訴訟」は、被爆者援護法を活用して厚労大臣の原爆症不認定を争い、大きな成果を上げた。
「黒い雨訴訟」は、被爆者援護法の「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当するかどうかが争われている。
被爆者援護が十分ということではないけれど、「原爆裁判」判決が指摘した「政治の貧困」がこのような形で「改善」されていることは確認できるであろう。
1996年、国際司法裁判所は国連総会の「核兵器の威嚇または使用は、いかなる状況においても国際法に違反するか」という諮問に対して「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機の場合には、合法とも違法とも判断できない」との勧告的意見を発出している。この結論に「いかなる場合にも違反する」として反対したウィラマントリー判事は次のように言っている。
この事件はそもそもの初めより裁判所の歴史にも例を見ない世界的な関心の的になる問題であった。下田事件で日本の裁判所に考察されたことはあるが、この問題に関する国際的な司法による考察はなされていない。
「原爆裁判」(下田事件)は国際司法裁判所で参照されているのである。
その国際司法裁判所は次のように判断していた。
戦争の手段や方法は無制限ではないとの人道法は核兵器に適用される。武力紛争に適用される法は、文民の目標と軍事目標の区別を一切排除する、または不必要な苦痛を戦闘員に与える戦争の方法と手段を禁止する。核兵器の特性を考えれば、核兵器の使用はほとんどこの法と両立できない。ではあるが、裁判所は必ずいかなる状況下においても矛盾するという結論には至らなかった。
この判断枠組みは「原爆裁判」と同様である。ただし、国際司法裁判所は「核抑止論」の呪縛から免れていなかったことに留意しておきたい。
その限界を克服したのは2021年発効の核兵器禁止条約である。核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」として例外を認めていない。そして、その締約国会議は、⼈類は「世界的な核の破局」に近づいている。「安全保障上の政策として、核抑⽌が永続し実施されることは、不拡散を損ない、核軍縮に向けた前進も妨害している」として「核抑止論」を批判している。
日本政府は、核兵器禁止条約が「核抑止論」を否定するがゆえに、これを敵視しているけれど、国際法は核兵器廃絶に向けて着実に発展しているのである。日本政府はこの潮流に逆らっているのである。
このように見てくると、「原爆裁判」は核兵器廃絶についても被爆者援護についても「事始め」になっていることが確認できるであろう。「原爆裁判」は現代に生きているのだ。
今、世界は「核兵器による安全保障」をいう勢力が力を持っている。日本国憲法の「諸国民の公正と信義を信頼しての安全の保持」は現実的日程に上っていない。
憲法9条の背景には、今度世界戦争になれば核兵器が使用され、人類が滅んでしまう。戦争をしないのであれば、戦力はいらないという価値と論理があった。
また、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていた。
私たちは、日本国憲法の徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、「原爆裁判」の歴史的意義を更に発展させ、核兵器の廃絶と世界のヒバクシャの救済を実現しなければならない。(2024年7月1日記)
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