2024.8.8
「虎に翼」の寅子と星航一の再婚はまだ成立していないけれど、史実では、嘉子さんと三淵乾太郎さんとは結婚している。その乾太郎さんの父は三淵忠彦という初代最高裁長官だ。1880年(明治13年)に生まれ、1950(昭和25年)年に没している。最高裁長官就任は、1947年(昭和22年)8月だから67歳の時である。
私は、原爆裁判の判決を書いた裁判官たちは「時代に挑戦する勇気があった人たち」だと思っている。米国の原爆投下を国際法違反だとし、被爆者への支援に怠惰な「政治の貧困」を嘆くなどということは、なかなかできることではないからだ。
では、その判決を書いた三人の裁判官、裁判長 古関敏正、右陪席 三淵嘉子、左陪席 高桑昭さんたちは、なぜそのような判決を書いたのであろうか。
当時26歳で判決の草案を書いた高桑さんは、7月28日付「東京新聞」で、「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」としながら、「国際法違反かどうかにかかわらず、賠償請求を棄却する方法もあったが、逃げずに理屈を立てて国際法を点検した。やはり原爆投下を正当視することはできなかった」としている。
嘉子さんは、8月4日付「しんぶん赤旗日曜版」によれば、日本婦人法律家協会(現日本女性法律家協会)の会長だった1982年(昭和57年)3月8日、「第2回国連軍縮特別総会に向けて婦人の行動を広げる会」の呼びかけに応じ、池袋駅前で、反核署名活動をしている。「核兵器廃止は、反米とか思想、政策以前の人類を守るための要請です」と考えていたのである。嘉子さんは、裁判官として原爆投下を違法としただけではなく、「核兵器廃絶」のための行動をしていたことを記憶しておきたい。
1982年3月は、原爆裁判判決の1963年12月から19年後、嘉子さんが69歳で亡くなる1984年の2年前である。
このように、裁判官たちには原爆投下に対する怒りや核兵器廃絶への想いがあったことを確認できる。それは気高いことだし、私も学びたいと思う。けれども、裁判官として判決するには、それを可能とする司法の状況もなければならないであろう。それが、初代最高裁長官 三淵忠彦の存在ではないかと私は思っている。原爆裁判の提訴は1955年(昭和30年)だから、三淵さんは既に没している。しかも、その任期は短かったから、影響などないのではないかとも思う。けれども、彼は、最高裁長官として就任挨拶する機会や高裁長官たちに訓示する機会があったことも忘れてはならない。
彼の「司法像」を確認してみよう。
1947年8月4日の就任挨拶(「国民諸君への挨拶」)では次のように語られている。
「裁判所は、国民の権利を擁護し、防衛し、正義と衡平を実現するところであって、圧制政府の手先となって国民を弾圧し、迫害するところではない。裁判所は真実に国民の裁判所になりきらなければならぬ。」
同年10月15日には、高裁長官たちに次のように訓示している。
「今や、裁判官はその官僚制を払拭せられ、デモクラシー日本建設のパイオニアたるべき使命を負うている。」
私は、これらのことを、拙著「憲法ルネサンス」(1988年、イクオリティ)の第2章「司法のルネサンスのために」に収録されている「去るは天国残るは地獄」中で、次のように紹介している。
「『まことに気負いの感じられる内容』(野村二郎)かもしれない。けれども、今、この言葉に接するわれわれにどんなに新鮮な響きを与えてくれることか。われわれが、日本国憲法を手に入れた直後、司法部のキャプテンはわが基本法を、確かに、具現していたのである。彼のメッセージの中には、時の政府と一線を画しつつ、それとの緊張関係の中で、国民―即ち、自身の雇い主―に対する奉仕のありようを模索する姿勢がある。われわれ国民にとって、あるべき司法像の原点がそこにある。司法が時の行政権と一定の拮抗関係を保ちつつ、人民の基本的人権の擁護に資する機能を期待されたのは昨日や今日のことではない。かれこれ200年も前から、人々は司法に期待してきたのである。」
私はこのような三淵さんを「素晴らしい人」だと思っている。そして、裁判長の古関さんも含め、三人の裁判官は、この三淵さんの「就任挨拶」や「訓示」に目を通しているだろうと思っている(高桑さんは年代的には若いのでわからないけれど)。
三淵初代長官の後、田中耕太郎氏が第2代の長官に就任する。1950年から1960年の10年間、彼はその地位にあった。私は、彼は最高裁長官どころか裁判官として不適任だと思っている。その理由は、彼は「共産主義者のいうことを額面通りに受け取るのは危険である」という信念を持ちながら「松川事件」を担当し、被告人らを死刑にしようとしたからである。「松川事件」の被告人の中には共産党員も含まれていた。彼らの主張は信用できないと決めてかかれば、真実は見つからない。田中氏が個人としてどのような思想を持つかは彼が決めればいい。けれども、極端な反共主義に基づく偏見で当事者に接することは、裁判官として許されることではない(そのことも「憲法ルネサンス」で触れておいた)。この時、裁判官としての矜持は消え、司法の反動化が始まる。
原爆裁判の左陪席高桑さんは私より10歳ほど年上ではあるがご健在である。一度、今の司法の状況についてじっくりと話をしてみたいと思っている。(2024年8月4日記)
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