2024.12.18
問題の所在
石破茂首相(自民党総裁)は、12月10日の衆院予算委員会で、企業・団体献金の禁止に関し「企業も表現の自由は有している。献金を禁じることは、少なくとも憲法21条には抵触すると考える。」との見解を示した。その見解は「違反するとは言わないけれど、企業・団体献金の憲法上の根拠が憲法21条である以上、禁止となれば、21条との関連は法律学上、議論されなければならない。」と修正されたけれど、企業・団体献金は憲法21条の権利であるかのように主張しているのである。
企業・団体の政治献金は憲法上の権利なのだろうか。それを検討してみよう。
「政党への寄付」の憲法上の位置づけ
まず、「政党への寄付の自由」の憲法上の位置づけを確認しておこう。参考になるのは、税理士会の政治団体への寄付の合憲性が争点になった「南九州税理士会事件」についての最高裁判決(平成8年3月19日)である。
この判決は「政党などに対しての寄付」は「選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄」であるとしている。「政党への寄付」は「投票の自由」と同様に「各個人の自由な選択」というのである。「思想 および良心の自由」(19条)とか「結社の自由」(21条)などは引用されていないが、それらの基本的人権が背景にあることは自明であろう。
また、政党助成法の違憲性が問われた事件についての東京高裁判決(平成17年1月27日)は「政党への寄付の自由、すなわち、政党に寄付をするかどうか、どの政党にいくら寄付するか等は、国民が個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に判断すべき事柄であり、それは思想および良心の自由(憲法19条)の一側面であり、このような自由権はすべての国民が享受する。」としている。
このように、裁判所は個人の「政党への寄付の自由」は憲法上の権利としているのである。なお、この東京高裁のこの部分の判断は2002年(平成14年)に埼玉県飯能市の市民が提起した「政党助成金違憲訴訟」の原告の主張を受け入れたものである(ただし、政党助成金を違憲とはしていない)。
「政党への寄付の自由」は法人にも認められるか
次の問題は「政党への寄付の自由」はすべての国民が享受するのであるが、その国民に法人も含まれるかである。
「南九州税理士会事件」の判決は「政党や政治団体に寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題」であるので、「公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできない。」としている。
税理士会が政党などに寄付することは、会を構成する税理士個人の「政党への寄付の自由」を侵害することになるので、税理士会の目的の範囲外であり、税理士会という法人が政治献金をすることは出来ないとしたのである。
この最高裁判決は、税理士会という強制加入団体に係るものであるが、その論理を一般化すれば「法人の『政党などへの寄付』は法人構成員の『政党への寄付の自由』を侵害することになるので、そのような寄付は許されない。」という結論になるであろう。
この判決は会社の場合にも当てはまるのか
そこで問題は会社の政治献金はどうなのかである。判決は次のように言う。
法人は、法令の規定に従い定款で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の目的の範囲内の行為とすることを妨げない(この部分は「八幡製鉄事件」判決の引用である)。
判決は、法人は目的の範囲内でしか権利を有しないという理は会社にも「基本的には妥当する」としている。これは、会社の政治献金は「基本的には禁止される」ことを意味している。けれども、「客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすため」であれば許容されるとしているのである。
この判決は、会社にも法人の権利についての制約はあるけれど、税理士会にはない例外が認められるとしているのである。原則は禁止であり、許容は例外なのである。
ここで、この判決が引用する「八幡製鉄事件」最高裁判決( 昭和45年6月24日)を検討してみよう。なお、石破茂首相たちはこの判決を「錦の御旗」としている。
「八幡製鉄事件」判決
この判決は次のように言う。
会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄附をする能力がないとはいえないのである。要するに、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。
この判決も会社の意思と会社の構成員の政治的信条とが違う場合があることを認めている。だから、判決は会社の政治献金をフリーハンドとはしておらず「客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものである限り」と限定しているのである。それを無視して「会社の献金はフリーハンド」であるかのように引用することは「我田引水」あるいは「牽強付会」として説得力を欠くことになる。石破首相たちの議論に説得力がないのはそういう理由である。
会社の政治献金は「社会的役割を果たす」ものなのか
こうして、問題は会社や業界団体の自民党に対する政治献金は「社会的役割を果たす」と評価できるかということになる。端的に言えば、会社や業界に有利な法制度を作ることや予算配分を受けるために行われる自民党への政治献金は「社会的役割を果たすため」と言えるかである。
それは、主観的には私的で強欲な行為であるし、「客観的、抽象的に観察」すれば自民党に対する「贈賄」行為である。これを「社会的役割」と評価することは正常な感覚の持ち主であれば出来ないであろう。
このように、企業・団体献金は「八幡製鉄事件」に当てはめてみても、とうてい合理化できないのである。「最高裁も会社の献金を認めている」とか「企業団体献金の禁止は憲法21条に抵触する」などという言説は判例の誤読である。
ところで、石破茂首相たちの議論には更に欠落している視点と論点がある。それは、民主政治の主体は個人だということである。
民主政治の主体は個人
民主政治は国民個人の政治参加のシステムである。そのために個人の参政権がある。参政権は選挙という形で実現される。参政権や選挙権の主体は個人であって、法人が被選挙権や選挙権を持つことなど、憲法はまったく想定していない。近代憲法は個人を基礎単位としているからである。もちろん、参政権や選挙権の行使を目的とする法人は存在しない。法人は民主政治の主体ではないのである。石破首相たちはこの民主政治の根本を理解していなのである。しかもその無知は選挙以外の手段で政治に影響を与えようとする傲慢としてあらわれる。
選挙以外の政治への関与
民主政治は選挙によって実現される。だから、選挙以外の方法で政治に影響を与えようとすることは、民主政治の根幹に抵触することになる。
ところで、企業や業界団体が自民党に寄付をするのは、自分たちの要求を政治に反映したいからである。会社は利潤追求を目的とする社団法人なので、その役員がその目的に合うように行動することは彼らの任務である。だから、企業の経営者は、自分に有利な政治体制、経済体制、社会状況を求めることになる。利潤追求のためには政治も動かしたいのである。こうして、彼らは自らの手駒として動かすために有用な政党に献金するのである。要するに、企業・団体献金は金の力で政治を動かすためのシステムなのである。
このように、自民党に対する企業・団体献金とは、選挙という制度以外で政治に影響を与える行動であり、個人の選挙を通じて国政を運用するという民主主義の基本システムに異質なものを持ち込んでいるのである。
こうして、企業・団体献金は国民個人の参政権の意義を減殺し、民主政治を根底から揺るがしているのである。
自民党の「企業・団体献金自由論」は民主政治を理解しない謬論であるだけではなく、憲法21条とは無縁の開き直りなのである。
自民党が抱える「難問」
では、なぜ、企業・団体(財界)は自民党を必要とし、自民党はそれを受け入れるのであろうか。それは、選挙での多数派の確保が必要だからである。
経済力を持つ財界といえども、その要求をストレートに政治に反映させることは出来ない。彼らの欲求を政治分野で実現してくれる部隊が必要となる。そして、双方にとって選挙で多数派を占めることが至上命題となる。財界の要求が選挙で支持されている体裁を整えなければならないからである。彼らも民主制を正面から否定することはしない。
ところで、財界の要望と有権者の要望とが重なるのであれば何の問題はないけれど、大企業と国民個人の要求が一致するとは限らない。むしろ矛盾する。
例えば、軍事産業の強化、原発の再稼働、消費税の税率アップなどだ。軍事力が行使されれば民衆に被害は発生するし、行使されないとしても膨大な資源が無駄になる。いずれにしても「防衛産業」は儲かるが、国民は戦争の危険にさらされ資源不足に苦しめられることになる。原発再稼働や増設などは電力会社には好都合だが、国民の安全はないがしろにされる。消費税によって法人税や所得税が軽減されれば企業や大金持ちは助かるけれど、低所得者の負担は大きくなる。
要するに、大企業や大金持ちの要求は国民圧倒的多数の要求とは相いれないのである。にもかかわらず、選挙では多数派にならなければならないのである。これは「難問」である。
自民党はその「難問」をどう解決するのか
その「難問」を解決するのが自民党の政治活動である。それは、多くの国民の要求の実現ではなく、大企業やその他の特権層(米国の支配層を含む)のために、庶民を自民党への投票に動員するという営みである。
そのために、あらゆる知恵と工夫が求められる。御用学者やマスコミなども動員される。安全保障環境が厳しいから核抑止力が必要だとか、貧乏なのは「自己責任」だとか、法人にも政治活動の自由があるなどと言い立てる諸君が高給で優遇される。また、「後援会」へのサービスも必要となる。例えば「桜を見る会」に連れて行くことなどである。もちろん支持者への有形無形の付け届けも必要になる。そのためには多額の資金が必要ななことは自明であろう。党費や政党助成金だけでは足りないのである。
自民党が「政治資金」(裏金を含む)を必要とする理由は、実施しようとしている政策が有権者の利益に反するにもかかわらず財界のために実施しなければならないので、有権者を騙したり買収したりするための金が必要だからである。
自民党がこの企業・団体献金にこだわるのはこの支配体制を維持したいからである。
結局、自民党は、憲法や最高裁判決を曲解し、民主主義の根幹を無視して、企業・団体献金を温存しようとしているのである。それは、財界とともに支配者としての地位を維持したいという欲望のためである。
企業・団体献金の禁止は、民主政治を定着させるための第一歩なのである。
(2024年12月17日記)
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