2025.7.29
7月23日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)、原水爆禁止日本協議会(原水協)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の三者が「被爆80年を迎えるにあたって ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる国民的なとりくみをよびかけます」との共同アピールを発出しました。私は素晴らしいことだと歓迎しています。核兵器廃絶を求めながら、相互に対立し、運動を分裂させてきた原水協と原水禁が、被団協と連帯して、ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる国民運動の取り組みを呼び掛けたのですから、こんなうれしいことはありません。まずは、そのアピールを確認してみましょう。
アピールの内容
冒頭はこうです。
1945年8月6日広島・8月9日長崎。アメリカが人類史上初めて投下した原子爆弾は、一瞬にして多くの尊い命を奪い、生活、文化、環境を含めたすべてを破壊しつくしました。そして、今日まで様々(さまざま)な被害に苦しむ被爆者を生み出しました。このような惨劇を世界のいかなる地にもくりかえさせぬために、そして、核兵器廃絶を実現するために、私たちは被爆80年にあたって、ヒロシマ・ナガサキの実相を受け継ぎ、広げる国民的なとりくみを訴えます。
続いて世界の現状について述べています。
2024年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。凄惨(せいさん)な被爆の実相を、世界各地で訴え続け、戦争での核兵器使用を阻む最も大きな力となってきたことが評価されたものです。一方今日、核兵器使用の危険と「核抑止」への依存が強まるなど、「瀬戸際」とも言われる危機的な状況にあります。
ウクライナ侵攻に際してロシアの核兵器使用の威嚇、パレスチナ・ガザ地区へのイスラエルのジェノサイド、さらに、イスラエルとアメリカによるイランの核関連施設(ウラン濃縮工場)への先制攻撃など、核保有国による国連憲章を踏みにじる、許しがたい蛮行が行われています。核兵器不拡散条約(NPT)体制による核軍縮は遅々として進まず、核兵器5大国の責任はいよいよ重大です。
次に、核兵器禁止条約発効の意義を確認しています。
しかし、原水爆禁止を求める被爆者を先頭とする市民運動と国際社会の大きなうねりは、核兵器禁止条約(TPNW)を生み出しました。これは、核兵器の非人道性を訴えてきた被爆者や核実験被害者をはじめ世界の人びとが地道に積み重ねてきた成果です。同時にそれは今日、激動の時代の「希望の光」となっています。この条約を力に、危機を打開し、「核兵器のない世界」へと前進しなければなりません。アメリカやロシアをはじめ核兵器を持つ9カ国は、TPNWの発効に力を尽くしたすべての市民と国々の声に真摯(しんし)に向き合い、核兵器廃絶を決断すべきです。
日本政府に対する要求は核兵器禁止条約への参加と国家補償です。
唯一の戦争被爆国である日本政府はいまだTPNWに署名・批准しようとはしません。核保有国と非核保有国の「橋渡し」を担うとしていますが、TPNWに参加しない日本への国際社会の信頼は低く、実効性のある責任を果たすこととは程遠い状況にあります。アメリカの「核の傘」から脱却し、日本はすみやかに核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。
原爆被害は戦争をひきおこした日本政府が償わなければなりません。しかし、政府は放射線被害に限定した対策だけに終始し、何十万人という死者への補償を拒んできました。被爆者が国の償いを求めるのは、戦争と核兵器使用の過ちを繰り返さないという決意に立ったものです。国家補償の実現は、被爆者のみならず、すべての戦争被害者、そして日本国民の課題でもあります。
結びは、三者の決意です。
ビキニ水爆被災を契機に原水爆禁止運動が広がってから71年。来年は日本被団協結成70周年です。被爆者が世界の注目をあつめる一方、核使用の危機が高まる今日、日本の運動の役割はますます大きくなっています。その責任を果たすためにも、思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて、被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要となっています。それは被爆者のみならず、今と未来に生きる者の責務です。地域、学園、職場で、様々な市民の運動、分野や階層で、被爆の実相を広げる行動を全国でくりひろげることをよびかけます。世界の「ヒバクシャ」とも連帯して、私たちはその先頭に立ちます。
「思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要となっています。それは被爆者のみならず、今と未来に生きる者の責務です。」とされていることを確認しておきましょう。最も基本的なことであり、また、それがないと「核兵器も戦争もない世界」は実現しないからです。反核平和勢力が分裂しているようでは、核兵器に依存し武力の行使をためらわない勢力に勝利できないことは、誰にでもわかる理屈でしょう。
では、その対立と分断はどのような状況だったのでしょうか。一つのエピソードを紹介しておきます。出典は今年7月24日付『毎日新聞』朝刊の森滝市郎さんに係る記事です。
1963年第9回原水爆禁止世界大会での出来事
森滝市郎さん(1901年~1994年)は、被爆者運動と原水爆禁止運動に半生をささげた人で「反核の父」と呼ばれています。1956年に結成された日本被団協の初代理事長であり、1963年の第9回原水爆禁止世界大会では基調報告をしています。森滝さんはその基調報告で「どこの国のどんな核実験にも、どんな核武装にも絶対反対だ。」と訴えました。けれども、その報告は、全ての人の共感を得たわけではないのです。『毎日』の記事によると「やじや怒号が飛び交い、負傷者が出る騒ぎとなった」ようです。当時、「どこの国の核実験にも核武装に反対する。」という考えに反対する勢力があり肉体的衝突もあったのです。
1963年当時、私は16歳なので、そんなことが起きていたなどと知る由もありません。その後、反核平和運動にかかわるようになってから、反核運動にも厳しい対立があることを実感しました。そして、なぜ、一緒にできないのだろうかと不思議でした。他方で「社会主義国の核兵器には反対しない」という考えと「いかなる国の核兵器もダメ」という考えは「核兵器の役割を認めるかどうか」という観点からすれば「決定的な違い」があるので、その違いを無視して一緒にやるのは無理だろうなとも考えていました。
ところで、この第9回大会で、森滝報告にヤジや怒号を飛ばしていたのは、ソ連の核兵器に反対しない共産党系の人たちのようです。そのことを『日本共産党の100年』の記述から確認してみましょう。
当時の日本共産党の核兵器観
当時、党は、ソ連が再開した核実験(61年8月)を、アメリカの核脅迫に対抗して余儀なくされた防御的なものとの態度表明をおこないました。これは、党として、核兵器使用の脅迫によって国の安全を確保するという「核抑止力」論に対する批判的認識が明瞭でなく、ソ連覇権主義に対する全面的な認識を確立していない下での誤った見方でした。同様の態度表明は、64年と65年の中国の核実験の際にも行われました。ソ連によるチェコスロバキア侵略、中ソの軍事衝突などの事態が起こる下で、党は、1973年、この見方を改め、アメリカを戦後の核軍拡競争の起動力として厳しく批判すると同時に、ソ連と中国の核実験も際限のない核兵器開発競争の悪循環の一部とならざるを得ないものとなっているという評価を明確にしました(同書146~147頁)。
ここでは、1963年当時、共産党は、社会主義国の核兵器について反対していなかったとされているのです。森滝報告のように「いかなる国の核兵器にも反対」という態度ではなかったのです。しかも、分裂と対立の原因はこの論点だけではありませんでした。次のような事情もあったのです。同書は以下のように書いています。
部分的核実験禁止条約をめぐる対立
1963年8月、米英ソ三国が部分的核実験停止条約(部分核停条約)を結び、ソ連はこれを「核兵器全面禁止の一歩」、「帝国主義の世界全体を縛り上げる」ものと宣伝し、ケネディを“平和の政治家”と持ち上げました。党は、地下核実験による核兵器開発競争を合理化して、保有国の核兵器独占体制の維持を図る条約として、これに反対しました。63年の原水爆禁止大会では、部分核停条約が焦点の一つとなり、ソ連代表ジューコフ(党攻撃の作戦計画の立案者の一人)は、帰国後、ソ連共産党機関紙「プラウダ」で、部分核停条約に関して公然と日本共産党を非難しました。また、訪ソした日ソ協会代表団などに部分核停条約を支持するよう圧力をかけました(同書159頁~160頁)。
社会党、総評導部は、第9回原水爆禁止世界大会(1963年大会)でソ連が礼賛していた「部分的核実験禁止条約」への支持を大会で決めるよう主張しました。党は、核実験全面禁止の課題を放棄し、核軍拡を進めるものだと批判するとともに、大会としての同条約への賛否を決めずに、核戦争阻止と核兵器全面禁止、被爆者援護・連帯という原水爆運動の原点での一致にもとづいて共同すべきとの態度を堅持しました(同書146頁)。
当時は「キューバ危機」が去ったばかりでした。世界は核戦争の危機に晒されていましたが、それからかろうじて免れたばかりだったのです。そのような時代にあって「部分核停条約」への賛否が、ソ連の干渉の下で問われていたのです。部分的な核実験禁止が「全面禁止」を意味するとは限りません。それを支持するかどうかを突き詰めれば、分裂することになるでしょう。その賛否を棚上げすることは「賢明な策」と言えるでしょう。
結局、世界大会は「いかなる国の核兵器にも反対するのか」、「部分的核実験禁止条約に賛成するのか」の論点で対立し分裂したのです。
不幸な分裂を乗り越えて
このような背景事情のもとに、原水禁運動における「原水協」と「原水禁」の対立は始まり、現在まで続いてきました。その対立は、当時の事情を知らない私には理解できないほどに深刻だったようです。元々、私は、核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者支援などは大同団結が必要だと思っていますから、対立があることは承知していましたが、どちらが正しいかを判断するつもりはありませんでした。ただし、社会主義には期待していたので、アメリカ帝国主義に対抗するためには核兵器も必要だと言われれば、そんなものかと思ったこともありました。けれども、現在は「核抑止論」の虚妄と危険性を理解しているので「いかなる国の核兵器」にも大反対です。そして、今、ソ連はありませんし、中国を反核平和勢力とは言えないでしょう。
現代は、核実験についていえば大気圏だけではなく「包括的核実験禁止条約」が生まれつつあるし、「核兵器禁止条約」によって核兵器の廃絶が展望されている時代です。ノーベル委員会フリードネス委員長は「核兵器も戦争もない世界」を呼び掛けた田中熙巳さんのスピーチを「人類の総意」と評価しています。けれども、核兵器がなくなる現実的なスケジュールはまだ形成されていないのです。
「原水協」と「原水禁」が、不幸な分裂を乗り越えて、被爆80年に際して「被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくこと」を呼び掛け、被団協とともに、その先頭に立つことを決意したことには大きな意味があります。両組織の決断に心からの敬意を表します。この共同声明は「核兵器も戦争もない世界」の実現を希求する私たちにとって、大きな励ましとなることでしょう。(2025年7月24日記)
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