2025.8.18
はじめに
8月6日の広島平和式典での湯崎英彦広島県知事のあいさつは感動的でした。私のブログを管理している長女は「お父さん。湯崎知事のあいさつについて書かないの?」と聞いてきました。嬉しい注文でした。8月15日の羽鳥慎一モーニングショーに湯崎知事は生出演していました。こういう番組で核抑止論がテーマになることはすごいことです。その理由は湯崎知事のあいさつが核抑止論を正面から批判していたからです。
核兵器不使用の継続や究極的になくすことに反対する人はいません。石破茂首相も同様です。けれども、石破首相は「我が国の安全保障のためには米国の核の傘が必要だ」としているので「今すぐなくす」とは言いません。中国、北朝鮮、ロシアという核兵器保有国に囲まれているので、米国の核でそういう国の行動を抑止しなければならない。米国の核の傘に依存していれば我が国は安全だけれど、それがなくなると危険だという理屈です。
そういう首相の前で、自治体の首長が「核に依存することは間違いだ。違う政策をとるべきだ」と言ったのだから「あっぱれ」でしよう。
そこで、この小論では、湯崎知事のあいさつを紹介しながら、少しコメントをしてみることにします。
湯崎知事のあいさつ
湯崎知事のあいさつは「核兵器廃絶という光に向けて這い進む」という表題でした。これは、2017年12月10日に行われたノーベル平和賞授賞式での広島の被爆者サーロー節子さんの「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ」に由来するものです。素晴らしいモチーフではないでしょうか。
以下、あいさつの大要を追いかけてみます。
草木も生えぬと言われた75年からはや5年、被爆から3代目の駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なものであるかを痛感しています。
ここでは、現在の繁栄が脆弱であることが語られています。私も「むき出しの暴力」が振るわれているだけではなく、核兵器使用の威嚇も行われているので、核戦争の危機はかつてなく高まっていると考えています。「法の支配」が忘れられ「力による支配」へと逆戻りしているという湯崎知事の情勢認識に同意します。そして、私は法を万能とは思っていませんが、むき出しの暴力よりはずっとましだと評価しているので、かかる状況を憂いています。
湯崎知事は続けます。
このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。
ここでは「力による抑止」は物理法則ではなく、フィクションだと断言されています。まさに、このあいさつの肝の部分です。あいさつではギリシャのことが語られていますが、ローマの将軍は「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」と言っていたそうです。平和を望むなら武力を備えよというのは、そういう時代からの格言なのです。けれども、その格言のようにしてきたけれど、戦争は絶えなかったではないかと湯崎知事は指摘しているのです。「力の均衡による抑止」など意味がないことは歴史が証明しているし、その理由はこのような抑止論は「虚構」だからだというのです。
私も、核抑止論は相手がどう考えるかは相手が決めることだし、脅かしたからといって相手が必ず引くわけではないし、抑止が破綻した場合には「みんな死んじゃう」のだから、虚妄にまみれた危険この上ない「理論」だと考えているので、この部分を「我が意を得たり」と受け止めています。
そして、現代の抑止論は「汝、平和を欲するならば、核兵器に依存せよ」ということですから、次のような事態が予測されるのです。
実際、核抑止も80年間無事に守られたわけではなく、核兵器使用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸前だった事例も歴史に記録されています。
国破れて山河あり。かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。国守りて山河なし。
ここでは、核兵器が実際に使用されそうになった歴史について触れられています。8月15日のモーニングショーでは、1983年の、ソ連の早期警戒衛星が米国から核ミサイルが発射されたとしたが、当直将校がそれは誤作動だと判断して反撃を行わなかったケースと1962年のキューバ危機に際して、ソ連の潜水艦が米国の爆雷攻撃に核兵器で対抗しなかったことが例示されていました。けれども、核兵器が意図的にあるいは事故や誤解で使用されそうになった実例はこれ以外にもたくさんあるのです(拙著『迫りくる核戦争の危機と私たち』あけび書房、2022年で紹介しています)。私は、特に、1962年のキューバ危機の時に、米国戦略空軍司令官が、ケネディ大統領(当時)の指示がないのに、戦闘即応体制を引き上げ「戦争が終わった時、アメリカ人が二人、ロシア人が一人だったら、我が方が勝ちだ」と言っていたというエピソードに恐怖感を抱いています。核兵器が使用されなかったのは、グテーレス国連事務総長がいうように「ラッキーだった」だけなのかもしれないのです。
また、核戦争になれば国家再建の道は閉ざされるでしょう。自国と自国民を守るための核兵器が自国も自国民も滅亡させるという「究極のパラドックス」が現れるのです。核兵器不拡散条約(NPT)の用語でいえば「全人類の滅亡」、核兵器禁止条約(TPNW)の用語では「壊滅的人道上の結末」ということです。そのことについて、湯崎知事は次のように語っています。
もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味あるのでしょう。
湯崎知事は、核兵器が使用されれば、人類は「再生不能な惨禍」に見舞われることになる。「修復不能な終末」が起こるかもしれない安全保障は無意味だと言っているのです。湯崎知事は、まさに核兵器による抑止は「人類の自滅への道」だということを述べているのです。そのうえで次のように提言しています。
抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。…そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。
ここでは、戦争を抑止する力としての核兵器を否定して、ソフトパワーや外交の力などの活用が提案されています。核抑止に費やされる巨額の費用を「核のない新たな安全保障」のために使用することも提案されています。使用されれば「修復不能な終末」が訪れ、使用されないとしても巨大なムダ金が費やされる「核抑止」から脱却しなければならないという提案です。きわめて合理的な提案です。そして、次のように結論しています。
核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。“諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。”這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか。
湯崎知事は、私たちに、核兵器廃絶は遠くに見上げる「北極星」ではなく「現実的・具体的目標」だとして、粘り強い努力によって、人類と地球の生と安全を勝ち取ろうと呼びかけているのです。核兵器は人間の作ったものですから物理的解体は可能です。そのことは、ピーク時の1986年には7万発ほどあった核弾頭が、現在では1万2千発台になったことからも確認できます。核兵器廃絶は決して「見果てぬ夢」ではないのです。人間の政治的意思の問題なのです。湯崎知事はそのことを言っているのです。根源的な提起なのです。
私の注文
私は、このように、湯崎知事のあいさつに大きな感動を覚えている一人です。けれども、注文もあります。それは、核兵器に依存しないだけではなく「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依存するという対案を示して欲しかったことと、核兵器を全面的に禁止し、その廃絶を展望する核兵器禁止条約に触れて欲しかったということです。
国際紛争を武力で解決しようとすれば、核兵器は最終兵器ですからなくなりません。それは、1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」が指摘するだけではなく、現実の国際政治がそうなっています。だから、1946年に公布された日本国憲法は、核兵器のみならず「一切の戦力」の不保持を規定しているのです。
そして、核兵器禁止条約は、一切の核兵器使用の危険性から免れるためには核兵器をなくすことだとしています。意図的な使用を避けたとしても、ヒューマンエラーや機械の故障による発射は避けられないのですから、それは論理的必然です。間違わない人間はいないし、壊れない機械がないことは誰でも知っていることです。
湯崎知事のあいさつを少しだけ敷衍すれば、最高法規である憲法やすでに発効している核兵器禁止条約への言及は、ごく自然に導けるのではないでしょうか。だから、私は、湯崎知事にこのような注文をするのです。
まとめ
最後に、湯崎知事と私の核抑止に関する共通性と違いについてのAIによる分析を紹介しておきます。
共通性は、核抑止論への根本的否定、人類の存続への危機感、核兵器廃絶の必要性などとされています。湯崎知事は「核戦争になれば人類も地球も再生不能」、大久保弁護士は「核兵器で人類が自滅することのないように」と強調していると分析されています。
違いとしては、アプローチ、立場、表現方法などがあげられています。湯崎氏は、地方自治体の首長としての発信、表現方法は詩的・比喩的(例:「国守りて山河なし」)。大久保氏は、弁護士の立場、法律家・市民運動家としての提言、法的・論理的(憲法9条との関係、裁判例の紹介)などとされています。
AIは「どちらも『核抑止論は幻想であり、現実的な安全保障にはなり得ない』という点では一致していますが、湯崎氏は政治的・象徴的なメッセージを、そして大久保氏は法的・構造的な批判を展開しています。」と結論しています。
なかなか興味深い分析だとは思いますが、それはそれとして、湯崎知事のあいさつは、核抑止論を乗り越え、人類が自滅することがないように、核兵器も戦争もない世界を求める私たちに、大きな勇気を与えてくれるものでした。私は、この湯崎知事のあいさつを糧にして、引き続き頑張ろうと決意を新たにしています。(2025年8月15日記)
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