2025.12.24
はじめに
12月6日、広島の平和資料館で「原爆被害者相談員の会」主催の「第43回12・11基本懇にこだわる被爆者問題講演会」で「『原爆裁判』を現代に活かす―核兵器も戦争もない世界を創るために―」と題する講演をした。主催者の「原爆被害者相談員の会」は、病院で患者の福祉相談を行う医療ソーシャルワーカー(MSW)が、その専門性を活かして被爆者相談をしている団体である。広島県被爆者団体協議会(箕牧智之理事長)、広島県被爆者団体協議会(佐久間邦彦理事長)、原爆胎内被爆者全国連絡会(二川一彦代表世話人)の三団体が後援をしていた。参加者は被爆者とMSWの皆さんたちが多かった。特定非営利活動法人ANT-Hiroshimaの渡部朋子さん、久仁子さん母娘も参加していた。全体で60名ほどだったけれど36名の方がアンケートを書いてくれたし、中國新聞も「『原爆裁判』核廃絶への原点」という見出しで報道してくれた。
講演会の内容は「大変良かった」が80%、時間も「丁度良かった」が79%だったので、参加者には好評だったようだ。これは、私の講演だけではなく、「原爆裁判」の原告の一人であったTさんの後半生にかかわった塚本弥生さんの「ひたすらに生きる―援護のない被爆後を生き抜く」と題する報告がよかったことによると思っている。この報告は塚本さんご本人ではなく後輩のMSWや「原爆被害者相談員の会」前代表の三村正弘さんによって行われたけれど、「原爆裁判」の原告となった人たちのその後を知りたいと思っていた私にとって心に染み入るものだった。原爆がいかに人々の人生を壊してしまったのか、改めてそのことに思いを馳せる時間だった。
ここでは、私の講演とTさんに係る報告の概略と参加者の感想文を紹介しておくことにする。
私の講演
私は講演の冒頭に画家木村巴さんの「人間の住む星」と題する絵を使用している。この絵は私の『「原爆裁判」を現代に活かす』の表紙にも使用している。ひびが入った地球から蝶々が宇宙へ逃げていく構図で全体が青から群青へのグラデーションになっている。その地球の上からいたいけな女の子が私たちを見ているという絵だ。私はその少女が私たちに何かを問いかけているのではないだろうかと口火を切るのである。木村さんによると、ルネサンス期において蝶々は幸福の象徴とされていたそうだ。それが地球から逃げていく様子を少女が心配そうに観ているのは、現在の人間社会を象徴しているように思えるので、そのような入り方をするのである。
その後、世界にある核兵器の数、「核のボタン」を持っている人たちを紹介し、日本版「先軍思想」に基づいて現代版「国家総動員体制」を進めている政府は、軍事力の強化こそが「希望の世界」への道だとしていることを指摘する。その上で、「核兵器も戦争もない世界」を呼び掛ける田中熙巳さんのノーベル平和賞受賞式での演説を紹介する。「核兵器も戦争もない世界」こそが「希望の世界」ではないのか。核兵器に依存するのかそれともそれを廃絶するのかが問われている。その問題を考えるうえで「原爆裁判」は多くの材料を提供していると話し進める。
原告になった人たち、岡本尚一弁護士の想い、原告の主張、被告国の対応、裁判所の「原爆投下は違法」、被爆者支援の「政治の貧困」とする判断、判決の被爆者援護政策や核兵器廃絶に係る国際法への影響、判決が「戦争をまったく廃止することは人類共通の希望」としていることと憲法9条の関係、憲法公布当時の政府は「文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまう」と憂えて9条を制定したこと、世界には26の軍隊がない国があること、ピーク時に7万発あった核弾頭は1万2千発程度になっていること、反核平和運動は人間の根源的要求に根差すものであるから不滅であること、この80年間核兵器は実戦で使用されていないし、日本軍は出動していないことなどを語っている。
まとめは、核兵器は人間の作ったものだし、戦争は人間の営みだから「核兵器も戦争もない世界」を創ることは可能。その実現のために、憲法9条擁護と世界化、核兵器禁止条約の普遍化が求められている、である。
特に、日本政府は、原爆投下直後には原爆投下を国際法違反としていたにもかかわらず「原爆裁判」に際しては国際法違反ではないと「手のひら返し」をしたこととその背景、核兵器保有や使用も憲法違反ではないとしていること、米国の核依存の姿勢は一層強まっていることなどについて時間を割いている。核兵器廃絶を求めているという政府の主張の欺瞞を暴くためである。
Tさんのこと
Tさんは「原爆裁判」の原告の一人である。もちろん、裁判は実名である。私の講演でも実名だった。けれども、ここでTさんとしているのは、MSWの人たちの報告は匿名とされていたからである。それは、裁判後のことであり、ご遺族も実名報道は避けたいとしていたというからである。以下のTさんに係る記述は、MSW塚本弥生さんの「ひたすら生きる―援護のない被爆後を生き抜く」(『ヒロシマのソーシャルワーク』2019年)に依拠している。
1945年8月6日。本人、夫、長男が2.3キロの地点で被爆する。熱線によるケロイド(顔面、胸部両腕)、流産、放射線による急性症状、精神錯乱を発症する。
1953年、占領軍のプレスコードが解かれ、写真週刊誌『アサヒグラフ』にTさん母子の姿が報道される。「死なずにすんだとはいうものの、醜いヒッツレ(ケロイド)に愛想をつかされてか、夫に去られ、乳児を背負って日雇い労働に、栄養不足と過労による傷害、加えて原爆症状が両眼に現れ、最近では視力が減退、失明の一歩手前だという。それでも愛児を養うためには働き続けなければならない姿…忘れられた広島の一場面である」と説明がついている。
1955年、「原爆裁判」が提起され、1963年に判決となる。判決は、原爆投下は違法としたし、国の被爆者援護についての無策を「政治の貧困」としたけれど、原告の請求は棄却している。だから、裁判は生活の足しにはならなかった。けれども、全国からの支援は多少の支えになったようだ。「兵隊には年金が出るのに。銃後の守りをしてきた私たちには何も出ない。なんぼ戦争じゃいうても、少しの見舞金くらい出して国民を助けてもらいたい」と思っていたという。
1980年、視力障害(右0.4左は明暗がわかる程度)を原爆放射能によるものとの認定を厚生省(現、厚労省)に求めた。けれども認定は認められず、1982年、異議申し立ても棄却された。「原子爆弾の放射能に起因したものではない」という理由である。
このような状況の中で、1980年12月11日「原爆被害者基本問題懇談会」の答申が出る。そこには次のようなことが書かれていた。
およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない。
これらの給付や措置だけでは、すべての被爆者を満足させるに足りるものとはいえないにしても、他の戦争被害者に対する救済措置と対比して、国としては、それ相応の配慮をしてきたものといってよいであろう。
要するに、一般の戦争被害は我慢しろ、特別の被害を受けた被爆者に対しては、国はそれなりのことをしてきただろう、これ以上要求するなといわんばかりの答申である。
Tさんのような被爆者の現実を見ているMSWからすれば、このような答申を許すことはできないであろう。だから、今日まで、この答申にこだわり続けてきたのであろう。私は改めて「原爆被害者相談員の会」の誠実さと持続力に感銘を覚えている。
参加者の感想
参加者の感想をいくつか紹介しておく。
これ以外にも多くの感想が寄せられている。懇親会の時「私の話、少しは役に立ちましたか」と聞いたら、何人かが大きな声で「役に立った」と応じてくれた。MSWの人たちとの2次会も盛り上がった。講演会を設定してくれた三宅文枝さん。そして、みなさん。ありがとうござました。(2025年12月22日記)
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