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「核兵器廃絶」と憲法9条



2026.2.17

これから何をすればいいのか。―個人的体験を踏まえて―

はじめに
 選挙結果について色々とコメントが飛び交っている。それはこのような結果なのだから無理もないことであろう。ただ、少し気になるのは、自分の政治へ要求や自分はどのような行動をとったのかという自分自身の主権者としての体験を踏まえたものが少ないことだ。自分が、今という時代に、この世界で生活している人間として、何を求め、どんな行動をしているのかを土台にしてこそ、何をすればいいのかが見つかるはずである。今求められているのは解説者や傍観者ではない。 
 そこでここでは、私が、今回の総選挙にあたって、何を求め、何をしたのかを紹介しながら、何をすればいいのか、ささやかな提案をしてみる。

私の政治への期待と選択
 私の政治への期待は「核兵器も戦争もない世界」を創って、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活できる社会、人々がその命と自由と幸福追求権を尊重される社会を創りたいということにある。私は、この基準に照らして、日本共産党の躍進(せめて現状維持)を願っていた。だから、日本共産党埼玉法律事務所後援会の会長として、埼玉弁護士会の全会員に呼びかけ文を出したり、依頼者や友人やそうでない人にも、直接あるいはFBで、共産党への支持を呼び掛けたりした。
 けれども、共産党は比例代表で、得票数は前回336万票から251万票に、得票率は6.1%から4.4%に、議席は8から4となった。れいわ新選組と合わせれば16あった議席は合計で5である。社民党は議席を得ることはできなかった。「左翼」の衆議院での議席は全議席465の2%に満たないのだ。 
 この事態は深刻である。完全比例だったら違う議席数だとか、自民党の比例での絶対得票率は20.3%だなどと言ってみたところで、この現実が変わるわけではない。私は、この国は危険水域に入ったと憂えている。

私は絶望などしていない
 けれども、私は絶望などしていないし、どう立て直せばいいのかを考えている。絶望などしていても、私の政治的要求は実現しないからである。このような事態になった原因は、単純化すれば「高市旋風」である。
 その「旋風」とはどのような内実のものであったのか。三例ほど挙げておく。

 第1例。私は、昨年12月広島で被爆者やその支援者を対象に講演をする機会があった。その際に、被爆2世の方で高市首相に期待している人がいることを知った。高市首相は「非核三原則」の見直しを言い、近くに「核保有論者」をおいている人である。被爆2世の期待に応える人ではない。

 第2例。娘から聞いた共産党の田村智子委員長の「たむともストリート対話」のエピソードだ。
 田村さんが、見ず知らずの人に話しかける「ストリート対話」で、生活保護受給者が高市さん支持だというのでその理由を聞いたら「女性だし、はっきりものを言ってくれるし、何かしてくれそうだから」ということだった。田村さんは、その人に「あなたが支持している人を悪く言いたくはないけれど、高市さんは生活保護費を削ろうとしているのよ。」と話した。そうしたら、その人は「そうなんですか、知らなかった」と言ったそうだ。

 第3例。私のFB投稿にこんな反応があった。
「非核三原則」というと、「持ち込むのはいいんじゃないかな?」という人がいます。議論してみました。「だって、攻められたら、何にもしないでいるしかないの?」。「いいよ。じゃ、そのとき、核を持って、それで反撃するの?」「いや、それはまずいから、通常兵器で…」「向こうが持っていたら。ボーンと核攻撃されるよ?」「そうなったら使う…」「でもそのとき、もう核兵器は潰されていてないでしょう?」「イヤね、核兵器どころか、国の中枢は黒焦げで何もないんだよ! どこか、辺境の基地から反撃するの?」、「そっかーっ」……。大事なことは、ものすごく曖昧でいい加減ないまの風潮をもうすこし論理的で、原則的なものにして行くことではないか、と思います。

 ここに観られるのは、被爆2世、生活保護受給者、「非核三原則」の見直しが何をもたらすのかを想像できない人が「サナエ推し」をしている現象である。本人からすれば欲しいものがあるので、それを補充するために「サナエ推し」をするのであろう。けれども、高市首相に期待することは、その期待に応えてもらえないどころか、むしろ真逆の結果がもたらされことになるのだ。
 客観的に欠乏していることと主観的に求めることの間に齟齬があるのに、それに気が付かないまま行動してしまう人はいる。その誘導を仕事にしている人もいる。こうして、高市首相や自民党に投票することが、自分の求めていることにつながるのではなく、むしろそれを遠ざけてしまうことに気が付かないで投票した人もいたであろう。
 私はこれが「高市旋風」の一側面だと考えている。そしてこのことは、自民党の議席を極大化した選挙制度と相まって、この国の深部での危うさだと考えている。なぜなら、憲法を無視する首相を、その被害を受ける選挙民が支持するという現象が起きているからである。それは、国民のなかに憲法が根付いていないことを意味している。
 
ではどうすればいいのか
 こんな意見を紹介しておく。
「経済的に追い詰められ、精神的に閉塞感の中にいる人たちに、論理的に正しい、倫理的に正しい言葉が刺さらなくなっているように思います。彼ら彼女らに通じる言葉は?伝え方も含めて考え直しています」。
 確かに、客観的な欠乏と主観的行動とにズレがあることは論理的に正しくない。また、正しい言葉を受け入れず虚言を受け入れることは倫理的に正しくない。論理や倫理を無視してしまえば人間でなくなってしまう。そんなことは絶対に避けなければならない。
 けれども、私たちに、言葉以外に何があるというのだろうか。だとすれば、言葉が通じるように工夫するしかないのだ。滅亡に向かって熱狂する愚かさを説き、欠けているものの正体とその原因を見抜き、その対処策を共有しなければならないのだ。
 人は対話によって変わりうるし、対話がなければ何も変わらない。対話をするためにはそれをする人が必要なのだ。人を増やさなければならないのだ。それなくしてはどのような変革もありえないであろう。
 私は、自分が求めていることとその実現を阻んでいる原因を冷静に見抜き、必要な行動をとることから始めたいと思っている。そして、そのために、仲間内のおしゃべりに止まらずに、もう一歩、外に踏み出して、多くの人と対話したいと決意している。
このような時代を作り出してしまった私を含む老人たちの反省と覚悟が求められている。(2026年2月17日記)

 




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