▲TOP



BLOG

「核兵器廃絶」と憲法9条



2026.4.2

パグウォッシュ会議「広島宣言」と憲法9条

はじめに
 2025 年11月1日から5日、「世界パグウォッシュ会議広島大会」が開催された。広島での開催は20年ぶりだという。その会議で、パグウォッシュ会議評議会が「広島宣言」を発出している。本稿はその「広島宣言」についての共感と期待のコメントである。結論を示しておくと、憲法9条への言及についての共感ともう一歩の踏み込みへの期待である。(「広島宣言」は仮訳に拠っている。)

「広島宣言」の冒頭
 宣言の冒頭はこうである。

 広島と長崎への原爆投下から80年、人類は将来を左右する重大な分岐点に立っている。世界は、対立の激化、外交の弱体化、核兵器使用を抑制してきた規範の崩壊に直面している。国連憲章と国際法に基づく国際秩序は今まで以上に危機に瀕している。核兵器保有国は核軍拡と近代化を進め、核拡散のリスクは高まり、「核タブー」は明白な核威嚇の脅威にさらされている。核施設に対する最近の通常兵器による攻撃は、保障措置が適用される核施設への攻撃または攻撃の威嚇を禁止する約束に対する明らかな違反である。科学者や技術者を標的とした殺害は、国際法をないがしろにするものである。終末時計は現在あと89秒を指しており、これは史上最悪であり、核の危険性が増大しているという厳しい警告である。
 
 私はこの情勢認識に同意する。今年1月、「終末時計」は85秒とされた。トランプ米国大統領は「私は国際法はいらない」としてベネズエラへの武力の行使を行い、大統領夫妻を拉致した。2月には、イスラエルとともに、イランへの再度の武力行使に踏み切り、政治指導者をその家族ともども爆殺し、学校や病院も攻撃している。「史上最悪」の状況がますます悪化している。
 そのような状況の中で「宣言」は次のように述べている。

核兵器は二度と使用されてはならない
 いかなる状況下においても核兵器は二度と使用されてはならない。核戦争は国家のみならず人類そのものの未来をも破壊するからだ。広島と長崎への原爆投下は、戦争の悲劇であるだけでなく、未来に続く人類の良心と道徳の破壊を象徴するものだ。

 私はこの見解に共感している。核戦争は人類の未来をも破壊するという指摘は、「原爆裁判」に際して、岡本尚一弁護士が原爆の使用禁止を「天地の公理」としていたことを先駆けとして、NPTの前文は「核戦争は全人類に惨害をもたらす」としているし、TPNWは「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす」としていることからして、そのとおりである。また、核兵器国の首脳たちも「核戦争に勝者はない。核戦争はたたかってはならない」としていることからして、核兵器使用禁止はまさに「天地の公理」なのである。そのような未来を避けるために「宣言」は次のように提案している。

「対立ではなく対話を」
 そのような未来を回避するためには、対立ではなく対話が不可欠である。パグウォッシュ会議は「対立を越えた対話」を基盤として創設された。深い敵意の時代でさえ、こうした対話が軍縮を可能にしてきたことを歴史が証明している。2010年の新戦略兵器削減条約(New START)が2026年に期限切れを迎えるにあたり、米国とロシアの新たな関与が不可欠であり、対話は全ての核保有国に拡大されねばならない。信頼醸成措置、地域協力、新興技術の責任ある管理がそれに続くべきである。来年に開催される核拡散防止条約(NPT)及び核兵器禁止条約(TPNW)の再検討会議は、信頼回復と軍縮を国際安全保障の中核に戻す絶好の機会である。また、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効にむけて、あらゆる努力を傾注せねばならない。宇宙環境の兵器化を防ぐため、各国は宇宙条約の原則と義務を再確認し強化すべきである。

 ここで述べられている「対立を超えた対話」(dialogue across divides)とは、パグウォッシュ会議の精神であり、軍事に頼らない手段で紛争を解決することを意味している。そのことに反対する理由はない。人間は言葉を持ち合わせているからだ。
 ただし、トランプがやっているような軍事力で脅しながらの交渉は、対話ではない。トランプ流の「ディール」でもない。偽善であり欺瞞であり「力による支配」である。

 ところで、ここで述べられている「対話は全ての核保有国に拡大されねばならない。」という部分には異議がある。中国の核軍拡には反対であるけれど、現実の核弾頭の保有数を比較すると米ロ(数千発)と中国(数百発)では一桁ちがう数である。そのことを無視して、中国をテーブルにつけようとしても無理だと思うからである。せめて、米ロが核弾頭数を同じ程度にしてからでなければ中国は乗らないであろう。米ロへの注文が先行されなければならない。
 そのような異議は留保したうえで次に進む。「宣言」は壊滅の脅威をもたらす政策への批判と対案を示している。

真の安全保障を
 壊滅の脅威をもたらす核政策では本当の平和は築けず、真の安全保障を提供しない。核兵器への依存を排除することは、道義的義務であると同時に戦略としても必要である。
各国は先制不使用政策を採用し、非核保有国に対して消極的安全保証を無条件に供与し、協力と共通の安全保障の枠組みを強化すべきである。非核兵器地帯のような取り組みは、信頼と協力を通じて軍縮が達成可能であることを示している。


 これらのことは一般論としても、また、具体的提案としても、全くその通りである。核兵器国が先制不使用政策を採用すれば核兵器国間の核戦争はなくなるし、非核兵器国への核攻撃を行わないとすれば非核兵器国の核被害は回避することができるからである。それを求めることは当然である。また、北東アジアにも非核兵器地帯をつくろうとする運動も存在していることも確認しておきたい。

 ところで、ここでは「核兵器への依存を排除すること」は語られているけれど「核抑止論」という言葉は使われていない。TPNW第3回締約国会議では「核抑止は核使用の威嚇に依存しており、TPNW締約国にとってはこのリスクと帰結は同じである。核武装国のリスク削減措置は核抑止の改良に重点があるだけである。不安定化する世界の安全保障環境では、核抑止からのパラダイムシフトが緊急に必要である。」とされていたことと比較すれば、いささかトーンは弱いといえよう。

「宣言」は科学者たちにも注文をしている
 科学者と専門家は、知識と科学的根拠、倫理的判断に基づいて指導者を導く特別な責任を負っている。科学コミュニティは、核兵器禁止条約科学諮問グループと国連核戦争影響科学パネルの活動を強化し、人工知能、量子技術、バイオテクノロジーといった新技術がもたらす不安定化のリスクに対処するため断固たる行動を取らねばならない。

 ここでは、TPNWの締約国会議で設置された科学諮問グループや国連の核戦争影響パネルにも触れられている。科学者や専門家がどのようなスタンスで核問題に取り組むかは重要である。私は、その人の知性の有無や程度は、その人が核兵器どのように考えているかで判断している。核兵器を容認する人の知性は評価しない。それはともかくとして、科学的根拠と倫理的判断は全ての人にとって不可欠であろう。

「宣言」は市民社会にも注文を出している
 さらに、市民社会は道徳面で平和のための原動力であり続けている。ノーベル乎和賞を受賞した、パグウォッシュ会議、国際核兵器廃絶キャンペーン(ICAN)、国際核戦争防止医師会議(IPPNW)、日本被団協の取り組みは、市民と科学者が良心を呼び覚まし未来を形成していけることを証明している。世代を超えて響き渡る彼らのメッセージは、今も私たちの羅針盤だ:ノーモアーヒロシマ。ノーモアーナガサキ。ノーモアーウォー。戦争と武力行使を放棄する日本国憲法第9条は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言が訴えた「戦争そのものの廃絶」に繋がるものだ。両者は良心の不滅の灯台として、真の安全保障は武器や武力の行使ではなく、多国間主義、法の尊重、対話と正義、そして私たちが共有する人間性にこそあると確信させる。

 私も市民社会は「歴史の竈」だと思っているので市民社会が「平和のための原動力」であるとすることに賛成である。ただ、私は「歴史の竈」とは、社会の根底的変革をもたらす母胎と理解しているので「道徳面で」と限定する必要はないと考えている。

 ところで、私は、今回の宣言が日本国憲法9条について触れていることについては大いに共感している。パグウォッシュ会議が9条について正面から触れていることに初めて接したからである。「戦争そのものの廃絶」というテーマでいうと、1946年の9条は1955年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」に先行しているのだけれど、そのことはパグウォッシュ会議では明言されてこなかった。それが、今回、核兵器を廃絶するためには「戦争そのものの廃絶」を展望しなければならないことを、日本国憲法9条に触れながら宣言されたのである。これは画期的である。
 けれども、「戦争と武力行使を放棄する日本国憲法第9条」という記述には注文がある。なぜなら、9条は「戦争と武力行使」を放棄しただけではなく、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」としているからである(9条2項)。この「戦力の不保持」が日本国憲法の先駆的なところであることを再確認しておきたい。
 この9条の「絶対平和主義」の背景にあるのは、広島会議の主催者の一人である鈴木達治郎氏が『軍縮研究』2026年3月号で幣原喜重郎を引用して指摘しているように、「破壊的武器の発明、発見がこの勢いを持って進むならば、次回の世界大戦は一挙にして人類を木っ端みじんに粉砕する」、「文明と戦争とは結局両立し得ない。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになる」(1946年8月27日答弁)という「核の時代」における最高規範の在り方だったのである。ここでいわれている「壊滅的武器」とは核兵器のことである。憲法9条は「核のホロコースト」の上に築かれた「核の時代」における人類が自滅しないための知恵であることを想起しておきたい。

「広島宣言」の結び
 「宣言」の結びはこうである。
2025年広島パグウォッシュ会議が、ラッセル=アインシュタイン宣言の不屈の次のメッセージに導かれ、対話と軍縮、そして全人類のための恒久平和への転換点となることを願う。「人類の一員であることを心にとどめ、他のことは忘れよ」

 私たちは人類の一員として「核の時代」に生きている。それは、核兵器を安全保障の要とする勢力が政治権力を握っている中での生活を意味している。私たちは核兵器という「死であり世界の破壊者」(オッペンハイマー)が国家の「守護神」とされている世界に生きているのである。その中で「本当の平和を築くための真の安全保障」の確立が求められている。「広島宣言」はその重要な提起である。私はおおいに尊重したい。

まとめ
 ところで、「宣言」は触れてはいるけれど正面からは取り上げていないことが二つある。一つは「核抑止論」を名指ししての批判である。もう一つは日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼しての生存と安全の確保の提案である。
 私は、ヒトという種が生き延びるために克服しなければならないのは「核抑止論」であり、到達したいのは「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依拠しての人間の安全保障であると考えている。それこそが「私たちが共有する人間性」だと思うからである。
 私は、平和を愛する諸国民は、いつの時代でも、またどこの国にも存在していることを確信している。だから、私はこれらのことにも踏み込んでもらいたかったのである。近い将来、私の希望が実現することを楽しみにしている。(2026年4月1日記)
 




Copyright © KENICHI OKUBO LAW OFFICE