2026.6.9
―高市早苗氏のスタンスと覚悟―
高市早苗氏の改憲優先テーマ
高市早苗氏は、2000年9月28日の衆議院憲法調査会で、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っている。」と発言している。この発言は、調査会に「21世紀のあるべき姿」についての参考人として呼ばれた作家の小田実氏に対する質問に際してのものであった(以下「調査会議事録」に依拠しているが、要約である)。
小田氏は「これからの日本は、良心的軍事拒否国家として生きるべき」との意見を展開した。「日本国憲法の平和主義を非常に大事にして、これを基本にして世界構想を立てよう」という問題意識である。「私たちの周りの誰が攻めてくるんですか。東西も南北朝鮮も、これから仲良くやろうじゃないかと言っていますね。中国もそういうところはないと思うんです。我々は、国是を立てて良心的軍事拒否国家でいくんだ。我々が提言して、実際具体的に実現していくことが必要だ。」とも言っている。
高市氏は、その意見に次のように質問する。
誰が攻めてくるのかというお話もありましたけれど、あらゆる外交手段を尽くしたものの、不幸にして他国から武力による侵略を受けたという事態が発生した場合、どこも絶対に攻めてこないとおっしゃるのかもしれませんが、それなら現在の国際紛争は一切発生しないわけで。私は国際社会というのは何が起きるかわからないという冷厳な事実があると思います。不幸にして武力による侵略を受けた場合、この場合の自衛戦争というものも100パーセント否定されますか。
これに対する小田氏の答えは次のとおりである。
私は、長期的展望でやろうじゃないかと申しあげたんです。しかし、今動かなければそういう世界は一切来ないと思うんです。私は21世紀の展望を考えてこの憲法を考えていこうと申し上げているんです。明日どこかが攻めてきたらどうするんだとか、その繰り返しできた。全世界がそうなんですよ。私は、もうちょっと違う次元でしゃべっています。根本的次元の違いがあって、違う形でやろうじゃないかということを今やろうじゃないか、具体的な地盤があるんだということを申し上げているわけです。
これに対する高市氏の発言が次のようなものだった(冒頭でも紹介)。
「かなり次元が違って申し訳ないのですが」と枕に振ったうえで、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っているものでございます」。その理由は、諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが「政治家としての責務」だとされていた。そして、彼女は「全くこの点においては基本的スタンスが食い違っている。」ともしていた。
高市早苗氏の基本的スタンス
彼女は、小田氏と「基本的スタンスが食い違っている」としているけれど、それは小田氏とだけではなく、憲法の非軍事平和主義と食い違っていることも明らかである。彼女は憲法の平和主義を変えることが「政治家としての責務」だとしていたのだ。そのことを確認しておこう。
ところで、彼女は、1995年 3月16日の衆議院外務委員会で、栗山尚一駐米大使(当時)の日本の戦争責任を認める発言を題材に質問しているが、その際に、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない。」としていた。これは大日本帝国時代のわが国の諸外国に対する行為についてなどは無視するという宣言である。彼女には歴史から学ぶ意思などないのだ。それは愚かであるだけではなく危険だ。過去に目を閉ざす者は過ちを繰り返すかもしれないからだ。
また、彼女は首相として、今年2 月20日に行った施政方針演説で、「どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。」と言っていた。けれども、この憲法理解は誤解というよりも無知に等しい。そもそも、憲法は「理想物語」などではない。権力者に権力を与える規範(授権規範)であり、権力者の暴走を制限する規範(制限規範)という二つの任務を持つ「最高規範」なのである。彼女の憲法理解は政治家としてはありえないレベルといえよう。
ここから導かれる彼女の政治家としてのスタンスは「憲法を理想物語として棚上げし、戦前の歴史など振り向きもせず、憲法の非軍事平和主義を変えて戦争ができる体制を作る」ということになる。このように、彼女は憲法も歴史も無視する愚か者であるだけではなく、平和を愛する諸国民の公正や信義を信じられない軍事力依存のキャラクターなのである。その彼女が「政治家としての責務」として、憲法の非軍事平和主義を変えるという覚悟を示しているのは、彼女の「素の姿」なのである。
彼女はこの国の宰相
宰相とは、古くは天子様に仕えた最高位の大臣を意味したけれど、現代では総理大臣を意味している。総理大臣は、憲法上、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限を持っている(72条)。極めて強い権力者である。現在の総理大臣は高市早苗氏なのだ。愚かで軍事力依存の人がこの国の宰相なのである。その彼女をその地位につかせているのは、神様でも先祖でもなく、この国の選挙民である。のみならず、その支持率は高いのだ。これがこの国の現実である。その現実から自由になるためには、彼女を退陣に追い込まなければならない。ぼやぼやしていたら、退陣に追い込むどころか、こちらが反日だのスパイだなどとして、抵抗の術を奪われることになってしまう。そうならないためには、彼女の正体を暴露しなければならないのだ。問題は、何をどうすることが正体の暴露になるかだ。
平和主義は説得力を持っているのか
高市氏が「諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが政治家としての責務だ。」としていたことは先に述べた。私の眼から見れば、彼女は日本国憲法の非軍事平和主義を無視する首相にあるまじき人ということになる。けれども、他方では、中国、北朝鮮、ロシアの脅威からこの国を守ろうとしている最初の女性宰相と評価されているのである。なぜそのような違いが起きるのだろうか。それは「基本的スタンス」の違いがあるからだ。戦争がない世界など理想だけれどありえない。隙を見せれば、必ず誰かが攻めてくる。軍隊なくして国は守れない。軍隊のない国などありえない。アメリカとの同盟は大事だ、と考える人は決して少なくない。世界には26の軍隊のない国があるけれど(国連加盟国は193)、そんなことは知らされないままに、軍隊があることが「普通の国」とされているのだ。だから、高市氏が語っていることが説得力を持ち、「丸腰になる」ことなど「お花畑」か「狂気の沙汰」とされてしまうのだ。それがこの国の現実である。その現実を無視することはできない。では、どうするかである。
宮澤俊義氏のコメント
憲法学者の宮澤俊義氏(1899年~1976年)は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分ついてこんな注釈をしている(コンメンタール編『日本國憲法』、1955年、日本評論社。一部現代用語にした)。
この点については、「他国の善意などというものは、今日の国際社会の現実において、いざという場合に、頼りになるものではない」との批判は以前からあり、ことに独立回復後は、「いやしくも独立国が他国民の善意に信頼して、自らの安全と生存を保持しようというのは不当であるし、また、無責任でもある」という意見が唱えられる。しかし、これに対しては、「この原子力時代には、自国の武力だけで自国の安全と生存を保持することは不可能だ。平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しないで、いったいどうやってこの世界で生存して行かれるのか」という反対論も有力である。
ここでは、「原子力時代」における安全と生存は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する以外の方策はないとする学説が有力であるとコメントされているのである。
まとめ
このコンメンタールは1952年に日本が独立を回復した後の1955年に発刊されている。ここに紹介されているように、当時からどのように安全と生存を確保するのかについての対立はあったのだ。そもそも、「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」はローマ時代から言われていたことである。だから、高市氏のような人がいても不思議ではないのである。世界はまだそれが普通だからである。
けれども、ここで留意してほしいのは、このコンメンタールも「原子力時代」に言及していることだ。「原子力時代」とは人類が自らを滅ぼしかねない道具(原子爆弾)を手に入れた時代を意味している。それは1945年8月に原爆が投下された時に実証されている。だから、1946年11月に政府が刊行した「新憲法の解説」は「原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に到達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えているのである。ここに於いて本章(2章・九条)の有する重大な積極的意義を知るのである。」としていたのである。
日本国憲法は「原子力時代」に人類が生き延びるための知恵を提供しているのである。私は宮澤氏にはそのことをもっと強調して欲しかったと思う。そうすれば、高市氏はもう少し恥ずかし気に語るのではないかと思うからである。(そんなことはありえないか。)
戦争で物事を解決しようとすれば「最終兵器」である核兵器が使用され、国家を守るはずの核兵器が国家を滅ぼすという「究極のパラドックス」が起きるかもしれないことは、容易に推論できることである。核兵器も戦争もなくさなければならないのだ。
私は高市早苗氏を説得したいとは思わない。けれども、高市氏の正体を知らないままの人には、高市氏に同調することは自分と自分につながる人の現在と未来を失うことになるという警告を発し続けたいと思う。「基本的スタンスが違う」ということでは片付けられないほど、私たちが抱えている課題は深刻だからである。(2026年6月9日記)
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