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2026.7.23
新著の贈呈
新著を何人かの人に贈呈した。その際に、次のような文書を添えておいた。
皆さん。お変わりありませんか。
私は、もう半年もすれば80歳の誕生日を迎えます。日本国憲法の公布1946年11月3日と施行1947年5月3日の間に生まれのです。年相応の健康状態ですが、「核兵器も戦争もない世界」を実現したいと思って老骨に鞭打っています。
被爆医師の肥田舜太郎さんは、私より30歳年上でした。私の父と同じ年でした。先生は「百歳は通過点」と言っていました。本当に百歳までお元気でした。私もそれにあやかりたいとは思っていますが、どうなることやらわかりません。けれども、15歳も先輩の田中煕巳さんの活動を見ていると日和っているわけにもいかないと思うのです。
世界は核兵器がなくならないどころか、あちこちで戦闘が行われ、多くの命が奪われ、人間が作った物も作れない物も破壊されています。この国でも「戦争の準備」が進められています。戦争は宿命であり、核兵器はなくせないと思われているかのようです。けれども、核兵器は人間の作ったものですし、戦争は人間の営みです。私たちの意思でなくすことはできます。そのための努力が求められています。
というわけで、新著を出しました。私が献本させていただいているのは「核兵器も戦争もない世界」を求める同志の方たちです。どうか私の思いを受け止めてください。そして、ご一読ください。「地球の生き残り」のために。
小溝泰義さんからの感想
すでに、何人の方から礼状を兼ねて感想が寄せられている。その中から、元外交官の小溝泰義さんからの感想をご本人の許可があるので共有する。
大久保様の最新刊「「核兵器も戦争もない世界」は可能だ」を確かに拝受しました。
「核兵器も戦争もない世界」を求める同志に献本くださったとのこと、ご厚情に深く感謝申し上げます。
対立と破壊が激化しつつある世界の中で、「核兵器は人間の作ったものですし、戦争は人間の営みです。私たちの意思でなくすことはできます。そのための努力が求められています。」との尊いお考えに立って、高校生を含む若者にも向けられた平易な言葉を心掛けて綴られた文章に感銘を受けました。一気に通読させて頂き、また、さらに熟読させていただきます。
核抑止の問題点など基本をしっかり抑えた上で、高市やトランプの問題、自衛隊による子ども向けPRなどの現在の問題などにも果敢に、かつ、法律家としての矜持を持って健筆を振るわれる迫力に感銘を受けました。
また、憲法前文と第9条についての解説と意義付けにつきましても、幣原喜重郎の証言なども引用し、根拠を明確にしての論陣に喝采を送らせていただきます。「原爆裁判」の重要な意義についても若者に知らせるべく、裁判記録の原本をお持ちの大久保さんが論じてくださったこともありがたいです。
なお、国際賢人会議の提言の中の、核抑止は「安全保障の最終形態ではない」との記述に言及される中で、2018年3月の最初の賢人会議の、核抑止は「長期的かつグローバルな安全保障の基礎としては危険なものであり、したがって、すべての国はより良い長期的な解決策を模索しなければならない」との提言にも言及していただいたことにも感謝します。この提言は、論争を呼ぶものでしたが、私自身、この文言の維持に深く関わり、かつ、核兵器国出身のすべての賢人会議メンバーの賛同も得たコンセンサスでの文言であることに誇りを持っています。
「核兵器も戦争もない世界」のために力を合わせて参りたいと存じます。
小溝さんの略歴(ウィキによる)
1948年(昭和23年)、千葉県松戸市に生まれる。法政大学法学部を卒業後、1970年(昭和45年)に外務省に入省する。国際原子力機関(IAEA)事務局長特別補佐官、条約局法規課専門官、条約局法規調整官、 総合外交政策局軍縮不拡散・科学部不拡散・科学原子力課国際原子力協力室長、在ウィーン国際機関日本政府代表部大使、 駐クウェート国特命全権大使を経て、2012年(平成24年)11月に退職する。
2013年4月、広島平和文化センター理事長に就任
2017年7月、「外務省の核軍縮の実質的な進展のための賢人会議」委員に就任
まとめ
私は小溝さんと数年前から交流があるし、前著についての感想をいただいたこともある。特に、注目しておきたいことは、外務省の最初の「賢人会議」のメンバーだったということである。だから、私が、拙著で「国際賢人会議」について書いていることに関心が向いたのであろう。小溝さんは、私が「賢人会議」が核抑止論に注文を出していることに注目し、更に2018年の最初の「賢人会議」にまで遡って言及していることに触れているのである。そして、小溝さんは、その会議での自分のこだわりが、拙著に活かされていることに感謝しているのである。
もちろん、私はそのような事情を知る立場にはない。けれども、当時の小溝さんのこだわりは、その後の「賢人会議」に継承され、核抑止論を礼賛するのではなく「安全保障の最終形態ではない」としたのである。私は、小溝さんが自らの営みを誇りに思うことに共感する。それはまた、拙著が小溝さんの営みに光を当てたことを意味しているのである。私はそのことを誇りに思う。そして、小溝さんの「『核兵器も戦争もない世界』のために力を合わせて参りたいと存じます。」という言葉を噛み締めることにする。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」ということは、決して「夢物語」でも「お花畑」でもないと思うからである。(2026年7月16日記)
2026.6.16
はじめに
6月4日、平和構想提言会議が「武器によらない安全保障へ」と題する声明を公表した。そのサブタイトルは「平和主義をあきらめない」である。この会議は、青井未帆さんと川崎哲さんが共同代表を務める「研究者、実務家、ジャーナリスト、市民活動家などの多様な立場の知見を結集し、現在進行中の事態を批判的に検証し、軍事に依存するのではない安全保障のあり方を発信している」グループである。私が信頼している多くの人が参加している。自衛隊の敵基地攻撃能力が強化されるだけではなく、米国はもとより多くの「同志国」を巻き込みながら、中国との戦闘に備えている「戦争前夜」のこの国で、平和主義をあきらめないで、武器によらない安全保障を声明することは大切なことである。心から敬意を表したい。そこでここでは、そのエッセンスを紹介しながら、少しコメントを加えてみたい。
声明の情勢認識
声明の冒頭は次のように言う(要旨)。
私たちはいま、歴史的な転換点に立っています。軍事大国は、国連憲章や国際法を無視したかのような攻撃を続けています。民間人の殺戮を、国際社会は止めることができないままです。戦争の拡大と国家間の緊張の高まりは、核使用の脅威をも高めています。人道支援、保健、気候危機対策などに必要な国際協力は妨げられ、貧困拡大や環境破壊が進んでいます。人類の生存基盤を揺るがす地球の危機を招いています。
ところが、いま日本政府が行っていることは、自らの軍事力増強と、アメリカとの軍事協力関係の強化ばかりです。トランプ政権が国際法を無視した自国中心的な行動をどれだけ重ねても、日本政府は「日米同盟の強化」をくり返すばかりです。さらには、事実上の「中国包囲網」を形成しようとしています。
そして日本政府は、平和憲法のもとでの制約を撤廃しようとしています。それは、軍事費の大幅な増額、全国へのミサイル基地や弾薬庫の設置、自衛隊による敵基地攻撃態勢の強化、武器輸出の全面解禁と軍事産業の育成などにみられます。政府はまた、メディアや言論空間の管理を強化し、大学を軍事研究へと誘導するなど学術の軍事動員をも図って、戦争に向けた国家体制作りを進めています。国家情報会議の設置をはじめとする市民監視体制の強化が進み、「国旗損壊罪」制定をめざす動きに見られるような「愛国主義」の押しつけや、教育に対する国家の介入や統制も強められています。軍事力増強や戦時体制づくりが日本の安全と東アジアの安定に寄与するのかといえば、正反対です。日本と中国の対立は、国際的にも重大な懸念事項となっています。日本政府は軍拡の理由として「安全保障環境の厳しさ」を掲げていますが、これは単に外からやってくるものではありません。日本自身が、安全保障環境の悪化の要因を次々と作っているのです。私たちは、この悪循環を止めなければなりません。
私はこの問題意識を共有している。むしろ、もっと深刻に受け止めているかもしれない。国際社会は世界で展開されている武力の行使を止めることができていないし、日本では中国、北朝鮮、ロシアを対象とする防衛力の強化が「希望の世界」への道だとされ、先軍思想にもとづいて国家総動員体制が進められているからである。しかも、「死であり破壊者」である核兵器をなくすための核兵器国を含む具体的な合意は形成されていない。「死神」や「貧乏神」の「パシリ」のような連中が「ドヤ顔」をして、世界とこの国を壊しつつある。そして、その「パシリ」は民衆の支持を正当化根拠にしている。民主主義の下で「人類の生存基盤を揺るがす地球の危機」が進行しているのである。私たちは「歴史的な転換点」にいることを自覚しておきたい。
民意と議席の乖離
そういう情勢認識のもとで声明は次のように続ける(要旨)。
非核三原則「維持すべき」が75%、武器輸出「反対」が67%という最近の世論調査結果にみられるように、日本社会においては、平和主義を重視する世論が依然として深く根付いています。悲惨な戦争の記憶と侵略への反省に関する、さまざまな継承や教育の取り組みも続けられています。ところが国会では、衆議院で与党が圧倒的多数の議席を占めており、今年2月の衆院選当選者の83%が「憲法9条改正に賛成」の立場を表明しています。このように、世論と国会議員の指向性との間には、明らかな乖離があります。国会で政権与党が数の力で政策を強行しようとするなか、市民社会から、批判的な問題提起をし続けていくことがきわめて重要です。
私もそのとおりだと思う。政治は世論調査によって運営されるものではないけれど、この乖離は異常である。私はその原因は民意を切り捨てる小選挙区制と選挙民に対する主権者教育の不十分さにあると思っている。死票の発生を避けられない選挙制度の下で、民主主義や基本的人権について十分な教育や訓練を受けていない有権者を、耳障りのいい「うたい文句」で騙すことができれば、このような乖離はたやすく生ずるであろうと考えているからである。それはそれとして、声明は、市民社会は「批判的な問題提起」をしなければならないとしている。もちろん、大賛成である。その上で、声明は当面の課題として「安保三文書」の改定問題を取り上げている。
「安保三文書」改定に対して
声明は、現在、与党および政府の有識者会議においてなされている「安保三文書」の改定に向けた議論にみられる問題点を次のように指摘している。要約を列挙しておく。
- 際限のない軍事費の増額:軍事費の増額が目的化されている。防衛目的の国債発行が膨らみ続けている。借金と増税によるこれ以上の軍事費増額は正当化できない。
- ミサイルや弾薬の生産拡大と配備:全国各地に「軍事拠点」が築かれているが、これは住民を多大な危険にさらしている。これらの施設が真っ先に「軍事標的」となる。
- 「敵基地攻撃」態勢の強化:中国本土に届く長射程ミサイルを全国に配備し、米軍と一体となってこれを運用することが計画されている。米軍への協力が相手国による日本への攻撃の理由となることはイラン戦争が示している。
- 国家による軍事産業の育成:武器を輸出することで日本企業が「成長」するという観念は、深刻な倫理的問題をはらんでいるし、その現実性も大いに疑問。アメリカのような軍産複合体が日本に形成され政治的影響力をもつようになれば極めて危険。
- 自衛隊の「継戦能力」の確保:「長期戦」とは戦争の被害が継続すること。エネルギーや食料を海外に依存する日本にとっては、短期戦であれ致命的。原子力施設の武力攻撃に対する脆弱性については、十分に検討されていない。戦争の回避と予防、そして市民生活の保護に議論をシフトさせるべき。
- サイバー・AI・ドローンなど「新しい戦い方」への対応、先端技術の軍事利用:先端技術の軍事利用は、瞬時に大量の破壊や殺戮を可能にしており、これまでとは異なる次元での非人道的行為や人権侵害をもたらす危険性や予測不能な結果や制御不能な事態をもたらす可能性もある。
- 「認知戦」を想定した情報管理:これは、国家による情報の管理・統制、政府に好都合な世論誘導に道を開く危険性を有している。
- 経済安全保障の強化:「脱中国」あるいは「中国包囲」に偏りすぎている。危機に対する備えとしては、供給網の多様化が必要。より本質的には、食料自給率の向上、化石燃料に依存しない社会、そのための再生可能エネルギーの推進が追求されなければならない。
- 非核三原則の見直し:この原則を変更することは、歴史的な大転換となり、世界的な核拡散を助長する。「核共有」は法的にも実際的にも困難であり、「核持ち込み」は核攻撃のリスクを高める。
- 原子力潜水艦導入の検討:原潜の導入は、原子力の平和利用を定めた基本法の改定なしにはできず、そのような改定は世界的な悪影響をもつ。防衛上の必要性は疑わしく、事故や環境汚染のリスクは著しく高い。
以上のように、「安保三文書」の見直しに際して行われている議論の問題点が網羅されている。いずれも重要な論点である。声明は政府と与党の軍事力依存の姿勢を暴露している。その上で、声明は次のようにまとめている。
「武器によらない安全保障」に舵を切れ
いま、日本の平和主義そのものが危機に瀕しています。私たちは、改めて、日本国の平和憲法の理念にのっとり、軍事力によらない安全保障の可能性に光を当てる必要があります。そして、周辺諸国との緊張を解きながら、敵対関係を「共通の安全保障」へと転換させていかねばなりません。日本が本来議論すべきことは次のようなことです。
- 戦争の準備ではなくその回避を安全保障政策の中軸に据えること。
- 覇権的な行動を抑制し、国連憲章・国際法に基づく秩序の再建、国際協調主義、紛争の平和的解決、人権の保障を促進すること。
- 「アメリカ頼り」の安保・外交から脱却し、自立的な平和外交を確立すること。
- 日中間の信頼醸成と軍備管理・軍縮のための取り組みを進めること。
- 朝鮮半島の非核化を含む、北東アジアの地域安全保障のための交渉を促進すること。
- 核兵器禁止のための国際的取り組みに参加し、核兵器禁止条約を批准すること。
- 先端技術の軍事利用に対する規制を強化すること。
私の共感と注文
私はこの声明に共感している。国内外の情勢認識についてはもとより、政府の「安全保障政策」についての批判的視点にも共感している。また、「安保三文書」の改定問題についての鋭い指摘や日本が何をなすべきかという提案にも賛同する。
けれども、注文がないわけではない。「戦争の回避と予防」、「戦争の準備ではなくその回避」としているだけで「戦争の廃止」を言っていないことである。これは決して揚げ足取りではない。私たちは、戦争が回避されたとしても戦争がなくならない限り「戦争の惨禍」を免れられないからである。そのことは、「核の時代」にあっては「壊滅的人道上の結末」から自由になれないことを意味している。日本国憲法の平和主義は、単に戦争を放棄するだけではなく、戦力を放棄することによって、戦争ができない国家を展望しているのである。「戦争の回避」ではなく「戦争の廃止」が最高規範とされていることを確認しておきたい。そのことは織り込み済みだというのであれば私の注文は放念してもらって構わない。
けれども、日本国憲法の平和主義を根拠として論陣を張るのであれば「戦争の廃止」を明示的に触れて欲しかったと思われてならない。また、「戦争の回避がないままに廃止はない」ということも言えるであろう。けれども、政府も「戦争を回避するために」抑止力という防衛力を強化していることに着目すれば「戦争の回避」ではなく「戦争の廃止」という用語を期待したいのである。
もちろん、戦争を回避するための具体的努力は必要である。だから、この声明の役割は大きい。そのことは前提とする注文と理解しておいて欲しい。(2026年6月5日記)
-->2026.6.16
はじめに
河野洋平氏の訃報が伝えられた。私には河野氏の政治家としての全面的評価をする能力はない。けれども、彼と高市早苗首相とには大きな違いがあることは承知している。なぜなら、1995年3月16日の衆議院外務委員会での二人の論争を知っているからだ。
当時、高市氏は野党である新進党所属の代議士、河野氏は自民、社会、さきがけ連立政権の外務大臣だった。1992年から1995年にかけて駐米大使を務めた栗山尚一氏は、1995年3月7日、ワシントンでの記者会見で、戦後50年を前にしたアメリカ側の「日本の歴史認識」への関心に応える形で、「日本国民には戦争への深い反省がある。その反省があるからこそ、平和憲法が強く支持されている。日本は戦争責任を忘れてはならない。歴史を直視することが国際社会の信頼につながる。」という趣旨の発言をした。
そのことについての質疑が外務委員会で行われたのである。
高市委員 3月7日にワシントンDCで栗山駐米大使が記者会見して、国会の謝罪決議に関連して話された記事を新聞で読んだのです。栗山大使は「日本がきちんと第二次世界大戦にいたった歴史を見据え、その反省のうえに立って戦後の日本があることを忘れてはならない。若い世代もこれを知っておかねばならない」と強調し、何らかの形で「反省」を明確に打ち出す必要があるとの考えを明らかにした。」と記事に書かれてあるのですけれども、日本国政府としての考え方は栗山大使のおっしゃった方向だと考えてよろしいでしょうか。
河野外務大臣 大使の記者会見を私、詳細承知しておりませんので、今それについてコメントをするだけのものを持っておりません。しかし、大使が記者会見で述べる問題につきましても、すべて国を代表して述べているというふうには私ども思ってはおりません。
高市委員 しかし、先ほど確認させていただきましたとおり、大使というのは国を代表する存在で、それも何かプライベートな会合でお友達に言ったというのじゃなくて、わざわざ記者会見を開いておっしゃったことなんですから、外務大臣として外務省職員の公的な場での発言には責任を持っていただきたいと私は思います。大使が外で記者会見を開いて何を言っても、それは別に国を代表することじゃない、関知しないというお考えになるのでしょうか。
河野外務大臣 会見のすべてをそうだとは思っていないと申し上げております。
(中略)
高市委員 栗山大使の発言、…手元にございますのでもう少し紹介させていただきます。憲法と反省の関係について言っておられることなんですが、「日本国民全体の反省があるから戦後の平和憲法に対する国民の熱心な支持がある。また、新憲法の下で政治的自由、民主主義体制の支持があるのも反省があるからこそ。日本国民は反省をきちんと持ち続けなければならない」と、日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております(強調は大久保)。(中略)
私自身は、このような歴史の問題というのは国民一人一人の思想や価値観にもかかわることですし、国会決議にはなじまないだろうなと思っているわけですが、民主主義という言葉を記者会見で持ち出した栗山大使自身が民主主義を軽んじているんじゃないか、私は彼の発言を新聞記事で読んでそう思ったのですけれども、大臣自身はこの問題についてどうお考えでしょうか、御見解をお聞かせください。
河野外務大臣 私は議員と全く見解を異にいたします。
高市委員 どのように違うんでしょうか。
河野外務大臣 過去の戦争について全く反省もしない、謝罪をする意味がないという議員の御発言には私は見解を異にすると申し上げました。
河野氏は、高市氏の「戦争責任を認めるな。反省するな。謝罪するな」という立場からの質問に対して「見解を異にする」と断言しているのである。私は、この発言に河野氏の政治家としての矜持を見ている。
「河野談話」
ところで、河野氏はそれに先立つ1993年8月に、宮澤喜一政権時の官房長官として「従軍慰安婦」に係る談話を発している。次のとおりである。
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。(中略) 慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。(中略) 本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。(中略) われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。(後略)
ここでは、「お詫びと反省」が表明され、「歴史の教訓とすること」と「同じ過ちを繰り返さない」決意が述べられているのである。これは、当時の政府の態度である。
高市氏は1993年に国会議員になっている。この政府見解を知らないはずはない。彼女の1995年の質問は、この政府の姿勢を真っ向から否定する信念に基づいてのものである。彼女がその信念を変えたという話はない。現在、彼女は「私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」という信念のもとに内閣総理大臣として働いているのである。
「村山談話」
ところで、1995年8月15日、村山富市内閣は「村山談話」を発出している(河野氏は副総理兼外務大臣)。そこには次のような言葉がある。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。
ここでは「歴史の事実を謙虚に受け止め」、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」が表明されている。あわせて、「国際協調の促進」や「軍縮の積極的推進」が語られているのである。
まとめ
それから30年余の時が経過している。政府が表明していたこれらの反省や決意はどこに行ってしまったのであろうか。今、この国では、中国、北朝鮮、ロシアとの対立が煽られ、「日米同盟」が基軸とされている。「先軍思想」に基づいて「国家総動員体制」が進行している。「新たな戦前」だと言われている。それを引率しているのは、30年余前の国会で河野氏をして「過去の戦争について全く反省もしない、謝罪をする意味がないという議員の御発言には私は見解を異にする。」と言わしめた高市早苗氏である。
彼女は、2000年9月28日の衆議院憲法調査会では「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている」との見解を表明していた。
また、「私に国際法はいらない」とうそぶくトランプにしがみつく人であることは何度か目撃しているところである。その彼女がこの国の政治責任者なのである。自衛隊はこの人の指揮の下で動くことになっている。しかも、その支持率は高いとされているのである。このままで、この国は「過ち」を犯すことになるのではないだろうか。
私はこの国は危険水域に入っているように思う。せめて、河野氏が示したような気概を示す議員が多数になることを期待したい。(2026年6月12日記)
2026.6.9
―高市早苗氏のスタンスと覚悟―
高市早苗氏の改憲優先テーマ
高市早苗氏は、2000年9月28日の衆議院憲法調査会で、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っている。」と発言している。この発言は、調査会に「21世紀のあるべき姿」についての参考人として呼ばれた作家の小田実氏に対する質問に際してのものであった(以下「調査会議事録」に依拠しているが、要約である)。
小田氏は「これからの日本は、良心的軍事拒否国家として生きるべき」との意見を展開した。「日本国憲法の平和主義を非常に大事にして、これを基本にして世界構想を立てよう」という問題意識である。「私たちの周りの誰が攻めてくるんですか。東西も南北朝鮮も、これから仲良くやろうじゃないかと言っていますね。中国もそういうところはないと思うんです。我々は、国是を立てて良心的軍事拒否国家でいくんだ。我々が提言して、実際具体的に実現していくことが必要だ。」とも言っている。
高市氏は、その意見に次のように質問する。
誰が攻めてくるのかというお話もありましたけれど、あらゆる外交手段を尽くしたものの、不幸にして他国から武力による侵略を受けたという事態が発生した場合、どこも絶対に攻めてこないとおっしゃるのかもしれませんが、それなら現在の国際紛争は一切発生しないわけで。私は国際社会というのは何が起きるかわからないという冷厳な事実があると思います。不幸にして武力による侵略を受けた場合、この場合の自衛戦争というものも100パーセント否定されますか。
これに対する小田氏の答えは次のとおりである。
私は、長期的展望でやろうじゃないかと申しあげたんです。しかし、今動かなければそういう世界は一切来ないと思うんです。私は21世紀の展望を考えてこの憲法を考えていこうと申し上げているんです。明日どこかが攻めてきたらどうするんだとか、その繰り返しできた。全世界がそうなんですよ。私は、もうちょっと違う次元でしゃべっています。根本的次元の違いがあって、違う形でやろうじゃないかということを今やろうじゃないか、具体的な地盤があるんだということを申し上げているわけです。
これに対する高市氏の発言が次のようなものだった(冒頭でも紹介)。
「かなり次元が違って申し訳ないのですが」と枕に振ったうえで、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っているものでございます」。その理由は、諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが「政治家としての責務」だとされていた。そして、彼女は「全くこの点においては基本的スタンスが食い違っている。」ともしていた。
高市早苗氏の基本的スタンス
彼女は、小田氏と「基本的スタンスが食い違っている」としているけれど、それは小田氏とだけではなく、憲法の非軍事平和主義と食い違っていることも明らかである。彼女は憲法の平和主義を変えることが「政治家としての責務」だとしていたのだ。そのことを確認しておこう。
ところで、彼女は、1995年 3月16日の衆議院外務委員会で、栗山尚一駐米大使(当時)の日本の戦争責任を認める発言を題材に質問しているが、その際に、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない。」としていた。これは大日本帝国時代のわが国の諸外国に対する行為についてなどは無視するという宣言である。彼女には歴史から学ぶ意思などないのだ。それは愚かであるだけではなく危険だ。過去に目を閉ざす者は過ちを繰り返すかもしれないからだ。
また、彼女は首相として、今年2 月20日に行った施政方針演説で、「どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。」と言っていた。けれども、この憲法理解は誤解というよりも無知に等しい。そもそも、憲法は「理想物語」などではない。権力者に権力を与える規範(授権規範)であり、権力者の暴走を制限する規範(制限規範)という二つの任務を持つ「最高規範」なのである。彼女の憲法理解は政治家としてはありえないレベルといえよう。
ここから導かれる彼女の政治家としてのスタンスは「憲法を理想物語として棚上げし、戦前の歴史など振り向きもせず、憲法の非軍事平和主義を変えて戦争ができる体制を作る」ということになる。このように、彼女は憲法も歴史も無視する愚か者であるだけではなく、平和を愛する諸国民の公正や信義を信じられない軍事力依存のキャラクターなのである。その彼女が「政治家としての責務」として、憲法の非軍事平和主義を変えるという覚悟を示しているのは、彼女の「素の姿」なのである。
彼女はこの国の宰相
宰相とは、古くは天子様に仕えた最高位の大臣を意味したけれど、現代では総理大臣を意味している。総理大臣は、憲法上、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限を持っている(72条)。極めて強い権力者である。現在の総理大臣は高市早苗氏なのだ。愚かで軍事力依存の人がこの国の宰相なのである。その彼女をその地位につかせているのは、神様でも先祖でもなく、この国の選挙民である。のみならず、その支持率は高いのだ。これがこの国の現実である。その現実から自由になるためには、彼女を退陣に追い込まなければならない。ぼやぼやしていたら、退陣に追い込むどころか、こちらが反日だのスパイだなどとして、抵抗の術を奪われることになってしまう。そうならないためには、彼女の正体を暴露しなければならないのだ。問題は、何をどうすることが正体の暴露になるかだ。
平和主義は説得力を持っているのか
高市氏が「諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが政治家としての責務だ。」としていたことは先に述べた。私の眼から見れば、彼女は日本国憲法の非軍事平和主義を無視する首相にあるまじき人ということになる。けれども、他方では、中国、北朝鮮、ロシアの脅威からこの国を守ろうとしている最初の女性宰相と評価されているのである。なぜそのような違いが起きるのだろうか。それは「基本的スタンス」の違いがあるからだ。戦争がない世界など理想だけれどありえない。隙を見せれば、必ず誰かが攻めてくる。軍隊なくして国は守れない。軍隊のない国などありえない。アメリカとの同盟は大事だ、と考える人は決して少なくない。世界には26の軍隊のない国があるけれど(国連加盟国は193)、そんなことは知らされないままに、軍隊があることが「普通の国」とされているのだ。だから、高市氏が語っていることが説得力を持ち、「丸腰になる」ことなど「お花畑」か「狂気の沙汰」とされてしまうのだ。それがこの国の現実である。その現実を無視することはできない。では、どうするかである。
宮澤俊義氏のコメント
憲法学者の宮澤俊義氏(1899年~1976年)は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分ついてこんな注釈をしている(コンメンタール編『日本國憲法』、1955年、日本評論社。一部現代用語にした)。
この点については、「他国の善意などというものは、今日の国際社会の現実において、いざという場合に、頼りになるものではない」との批判は以前からあり、ことに独立回復後は、「いやしくも独立国が他国民の善意に信頼して、自らの安全と生存を保持しようというのは不当であるし、また、無責任でもある」という意見が唱えられる。しかし、これに対しては、「この原子力時代には、自国の武力だけで自国の安全と生存を保持することは不可能だ。平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しないで、いったいどうやってこの世界で生存して行かれるのか」という反対論も有力である。
ここでは、「原子力時代」における安全と生存は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する以外の方策はないとする学説が有力であるとコメントされているのである。
まとめ
このコンメンタールは1952年に日本が独立を回復した後の1955年に発刊されている。ここに紹介されているように、当時からどのように安全と生存を確保するのかについての対立はあったのだ。そもそも、「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」はローマ時代から言われていたことである。だから、高市氏のような人がいても不思議ではないのである。世界はまだそれが普通だからである。
けれども、ここで留意してほしいのは、このコンメンタールも「原子力時代」に言及していることだ。「原子力時代」とは人類が自らを滅ぼしかねない道具(原子爆弾)を手に入れた時代を意味している。それは1945年8月に原爆が投下された時に実証されている。だから、1946年11月に政府が刊行した「新憲法の解説」は「原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に到達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えているのである。ここに於いて本章(2章・九条)の有する重大な積極的意義を知るのである。」としていたのである。
日本国憲法は「原子力時代」に人類が生き延びるための知恵を提供しているのである。私は宮澤氏にはそのことをもっと強調して欲しかったと思う。そうすれば、高市氏はもう少し恥ずかし気に語るのではないかと思うからである。(そんなことはありえないか。)
戦争で物事を解決しようとすれば「最終兵器」である核兵器が使用され、国家を守るはずの核兵器が国家を滅ぼすという「究極のパラドックス」が起きるかもしれないことは、容易に推論できることである。核兵器も戦争もなくさなければならないのだ。
私は高市早苗氏を説得したいとは思わない。けれども、高市氏の正体を知らないままの人には、高市氏に同調することは自分と自分につながる人の現在と未来を失うことになるという警告を発し続けたいと思う。「基本的スタンスが違う」ということでは片付けられないほど、私たちが抱えている課題は深刻だからである。(2026年6月9日記)
2026.5.26
―「死神のパシリ」に負けるな―
核軍縮への合意の不在
今回のNPT再検討会議でも合意文書は作られなかった。3回続けて、再検討会議での合意が成立していないことになる。これは、国際社会に「核兵器のない世界」実現の具体的合意が形成されていないことを意味している。この事態がNPT体制の崩壊を意味するとは思わないけれど、「『骨抜き』になった最終草案が基準として残らなかったことを考えれば、悪いことではなかった」などというコメント(秋山信将一橋大学教授)にも同意できない。国際社会に核軍縮に向けた合意がないということは、私たちは核兵器が使用され「壊滅的人道上の結末」に襲われる危険の中に放置され続けることになるからである。これは深刻な事態だ。秋山コメントにはその切迫感が欠けている。私たちは、核兵器使用の危険性がかつてなく高まっているにもかかわらず、核軍縮を進めるための合意が形成されていない現実を直視しなければならない。その上で、「核兵器のない世界」への道程を探索しなければならない。まず、合意が成立しなかった理由を考えてみよう。
合意が成立しなかった理由
合意が成立しなかった理由は、核兵器に依存する国があるからだ。毎日新聞は「責任は、核兵器保有の既得権にしがみつく大国にある。条約が定める軍縮交渉の義務を果たそうとせず、身勝手な核軍拡に走り、互いを責めあう」と指摘し「大国エゴが深めた核危機」と論評している(5月24日付社説)。私は共感を覚えている。アメリカは自国の核は棚上げしてイランの核開発を責め立てている。しかも、イランの核開発を制御するための合意から離脱しただけではなく、協議中にもかかわらず武力の行使を開始したのである。「俺は持つお前は持つな核兵器」という身勝手な論理でイランに無法な武力攻撃をしているのだ。再検討会議で、アメリカは自らの無法を棚に上げて振る舞うだけではなく、他の国からもアメリカの行動に対する批判は少なかったと言われている。何とも情けないことだと思う。また、他の核兵器国も核軍縮には消極的であった。彼らには核兵器を手放す意思などないのだ。NPTは核不拡散だけではなく、核兵器国の軍縮義務も定めているけれど、核大国はそんなことは無視しているのだ。核兵器国と非核兵器国の溝の深さを原因とする見解もあるけれど、それは皮相というものであろう。合意不成立の原因は、核兵器国の核兵器依存体質にあることを見抜いておきたい。
日本政府の態度
日本政府の中途半端な態度も指摘しておく。日本政府は今回の会議に閣僚は派遣していない。「核なき世界」のために核兵器国と非核兵器国の橋渡しをするというのなら、それなりの態勢で臨むべきであろうが、その熱意は見られなかった。そもそも、日本政府は「核なき世界」を言うけれど、アメリカの核の傘に依存することを国策としている。自国の防衛力を強めるだけではなく、アメリカの核を含む拡大抑止力によって自国の安全保障を確保するというのが基本戦略なのである。アメリカの核兵器の役割を減ずるような政策選択などありえないのだ。要するに、今すぐ核兵器をなくすことなど考えていないのである。「核なき世界」はいつ実現するかわからない「見果てぬ夢」とされているのだ。核兵器を実際に使用された唯一の国が、使用した唯一の国の核兵器を頼りにしているようでは、核兵器はタブーではないことになってしまう。しかも、高市早苗首相は「非核三原則」の見直しを言っている人だし、官邸には「核保有」を主張する人が執務している。そんな政府が核軍縮のために率先して行動することなどありえないであろう。茂木敏允外相は「核軍縮を巡る国際社会の分断が深まる中、NPTの維持・役割は重要だ。日本は『核兵器のない世界』実現へ現実的かつ実践的な取り組みを一歩ずつ進める」などと言っているが、私にはむなしい言い訳にしか聞こえない。
核兵器を必要する勢力がいる
核兵器国も日本政府も、国家の安全保障のために核兵器は必要だとしている。核兵器は敵国の侵略を抑止する道具だというのである。いわゆる核抑止論である。だから、彼らは核兵器の不拡散には熱心だけれど、核軍縮などサボりたいのだ。その点、アメリカは露骨である。けれども、日本政府は、被爆者をはじめとする反核世論にも配慮しなければならない立場にある。だから、政府は「核なき世界」を口にするのだ。核兵器を必要としながらそれを口にすることは「二枚舌」である。政府は、その謗りを避けるために「核兵器がなくても安全が確保できれば、核兵器を廃絶する」などと意味不明のことを言い募るのである。核兵器を必要だとする国がある限り「核兵器のない世界」は実現しない。安全保障のために核兵器が必要だということは、私たちの命運を「死神」や「悪魔」に任せろということを意味している。それをベスト&ブライテストだとする勢力が核兵器国や日本にもいるのだ。私は「死神のパシリ」と見做している。
ではどうするか
核兵器の必要性を説く勢力を駆逐することである。今回の会議でも、核抑止論批判は多くの国が述べていた。もちろん、市民社会はそのようなスタンスである。正論を述べる勢力は存在しているのだ。NPT6条は核兵器国に核軍縮義務を課している。約束を守ることは文明と「法の支配」の基盤である。また、核兵器禁止条約の署名国や加盟国は99か国になっている。国際法は「核兵器のない世界」に向けて発展しているのである。そのことに確信を持ちたい。
市民社会の存在理由は政府がやらないことをやろうとすることにある。王や皇帝がいない国では、政府の正統性の根拠は国民の支持にある。政府は国民の支持がなければその正統性を失うことになるのだ。だから、市民社会は政府を批判するだけではなく、自分たちの政府を創る母体でもあるのだ。日本でも世界でも平和を愛する人たちは多数である。戦争を表立って望む者はいない。ただし「平和を望む者は戦争に備えよ」と呪文を唱える者やそれを信じてしまう人はいる。
万国の反核平和勢力の大同団結が求められている。その団結の力で、NPT6条の実現を求めなければならない。中満泉国連事務次長は、「NPTは平和と安全の基礎であり、すべての国にとって利益であることは変わらない。次に向かって動き出さなければ」としている。その提案に協力したい。
そして、核抑止論を克服している核兵器禁止条約が発効していることも想起しておこう。「核兵器のない世界」の法的枠組みは存在しているのである。
更に、戦争も一切の戦力も交戦権も放棄する日本国憲法は「核兵器も戦争もない世界」の法的枠組みであることも確認しておこう。「核兵器も戦争もない世界」は決して「見果てぬ夢」ではない。私たちの意思と行動で実現できる世界なのだ。私たちにその力があるのだ。「死神のパシリ」たちに負けるわけにはいかない。(2026年5月25日記)
2026.5.26
はじめに
川崎哲さんと浅野英男さんが『非核三原則―いま何が問われているのか』を出版した。(地平社ブックレット。贈呈ありがとう)「国是」とされる「非核三原則」(持たず、作らず、持ち込ませず)が揺らいでいる中での、きわめてタイムリーな出版である。
高市早苗首相は「非核三原則を堅持する」との言明をしていない。これは、歴代首相にはなかった姿勢である。彼女は「安保三文書」閣議決定に際して、「国家安全保障戦略」にある「非核三原則を堅持する」という文言について、「拡大抑止(核の傘)の提供を含む日米同盟は、我が国の安全保障政策の基軸であり続ける」と矛盾すると考えていた。だから、非核三原則のうち「持たず」「作らず」は引き続き堅持するにしても、「持ち込ませず」については、究極の事態に至った場合、「邪魔になることを懸念」して「削除して欲しい」と要請したという(本書60頁~61頁)。
要するに、高市氏は、非核三原則の「持ち込ませず」は削除して、アメリカの核を持ち込みたいと考えているのである。だから、いま、改定されようとしている「国家安全保障戦略」から「非核三原則の堅持」という言葉は消えるかもしれない。唯一の戦争被爆国に唯一の原爆使用国の核兵器が持ち込まれることになるかもしれないのである。「国是」が揺らいでいるのだ。こういう状況の中で、本書は出版されたのである。
本書の内容
本書は、はじめに―今、なぜ「核」を問うのか、第1章非核三原則とは何か、第2章非核三原則成立の歴史、第3章激動する世界と非核三原則、第4章安保強化で揺らぐ「核のタブー」、第5章非核三原則はどこに向かうのか―四つのシナリオで構成されている。「入門書」らしく分かりやすく解説されているので、ぜひ、手に取って欲しい。
そもそも、「非核三原則」とは、核兵器を持たない、作らない、持ち込まないという原則である。ヒロシマ・ナガサキを知れば、そんな原則など当然ではないかと思われそうだが、決してそうではないのだ。日本にも、原爆を開発していた時期もあるし、現在でも、核兵器を持ちたい、作りたいという政治勢力は存在している。そういう勢力との力関係の中で、この原則は形成されてきたのだ。以下では、本書の記述を理解する上での基礎知識を整理しておく。
<持たない、作らない、のテーマ>
日本で核兵器の保有が真剣に議論されたのは、1964年の中国の核実験成功の時である。当時、日本は核兵器を持つ能力のある「潜在的核保有国」とされていた。けれども、この「核保有の野望」は実現しなかった。国内の反核世論とアメリカの意向がそれを許さなかったからである。アメリカは日本が核武装することは認めなかったけれど、それに代わって、アメリカは「核の傘」で日本を守る約束した(拡大核抑止)。それがあったので、日本はNPTへの参加を選択したのである(1970年署名、1976年批准)。今でも、「核共有」や「核保有」を言い立てる諸君もいるけれど、NPTの壁は厚い。だから、持たない、作らないは、一応、決着がついているのだ。NPT脱退を選択枝とすることは非現実的だからである。問題は「持ち込ませず」だ。
<持ち込ませずの背景>
1967年1月、佐藤栄作首相(当時)は「核は保有しない、核は製造しない、核を持ち込ませないという核に対する三原則のもとにおいて、日本の安全をどう確保したらいいのか、それが私に課せられた責任」と言明した。この姿勢は、翌年の「施政方針演説」で再確認されている。そして、1971年11月24日の衆議院本会議で、非核三原則は「国是」と決議された。「国是」とは国の基本方針という意味である。このことは歓迎すべきことである。
ところで、当時、この問題がクローズアップされた理由は沖縄の返還交渉が行われていたからである。当時の沖縄にはアメリカの核兵器が配備されていた。誤発射の事故もあった。返還にあたって、その核をどうするかが問題になったのだ。返還するなら「核抜き」にすべきだという要求は無理もない。けれども、沖縄に核兵器を配備しておきたいと考える勢力も存在していた。
当時の佐藤栄作首相は、核兵器が存在したままでの返還はありえないという声を無視することはできなかった。加えて、自ら「非核三原則」を提起していたのである。他方、彼は日本の安全保障上アメリカの核の傘は必要と考えていたし、アメリカも世界戦略の上で沖縄の核の役割を失いたくはなかった。そこで、考え出されたのが「持ち込まず」という原則はそのままにして、持ち込みは「密約」で処理するという作戦である。国民にはウソついて、アメリカの核兵器に依存したのである。
<持ち込まないという政策の矛盾>
この選択は、アメリカの核の傘に依存しながら核の持ち込みを禁止するという、そもそもの矛盾と相まって、ことあるごとに政治問題化することになる。その根本にあるのは、核兵器を国家安全保障のために必要とするのか、それとも核兵器を禁止し、なくそうとするのかの対立である。核兵器使用がもたらすカタストロフィーを避けようとすれば、核兵器をなくすことが唯一の方法である。核兵器に依存しながら、核兵器のない世界をめざすことは、論理的には成立しない。それを政策として実現しようとすれば、ウソとゴマカシが必要となり、それを続けるしかなくなる。ウソとゴマカシをなくそうとすれば、「非核三原則」を見直さなければならないのである。
「非核三原則」は国是とされているけれど、核兵器に依存して国家の安全を確保しようとする勢力からすれば「目の上のたんこぶ」なのである。核兵器使用の危険性がかつてなく高まっている状況の中で、高市首相が「非核三原則の堅持」を表明しないのは、この「目の上のたんこぶ」を取り去りたいからである。
本書は、その根本的対立を基軸として、諸問題をわかりやすく解説している。ぜひ、学習して欲しい。
非核三原則を堅持するために
本書は、「核の傘か、核武装か」という枠組みから抜け出さない限り非核三原則を真の意味で維持し続けることはできないとしている(72頁~73頁)。肝心なことは核に頼るのかそれを排除するのかだという問題提起である。本書は次のように提案する(75頁)。
核兵器の非人道性を訴え、核兵器は許されないという規範を強化する。「核には核」ではなく、核兵器に対する地域的な包囲網を作る。「専守防衛」や『軍事大国とならない』ことと並んで「非核三原則」を堅持して、日本が脅威にならないとの安心を供与する。核兵器禁止条約の締約国会議に参加すること。東アジアにおける軍縮対話を進め信頼醸成と脅威の削減に取り組む。東アジアにおける核リスクの低減についての対話を主導する。
これらの提案は「核兵器が国際的な平和と安定をもたらすというのは幻想」という姿勢から導かれるものであって、いずれも傾聴に値するものである。私もその実現に尽力したい。けれども、私には更なる注文がある。
私の注文
憲法9条の背景には「原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に到達した」、「文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまう」、ここに9条の「重大な積極的意義」があるという認識があった(『新憲法の解説』)。日本国憲法は「核の時代」の規範なのである。だから、一切の戦力を放棄し「平和を愛する諸国民の公正と信義」に信頼して「われらの安全と生存を保持」しようと決意しているのである(憲法前文)。
私は、本書が田中熙巳さんのノーベル平和賞受賞スピーチを引用しながら提起している核兵器に代わる「現実的で理性的な安全保障構想」は、この日本国憲法にあると考えている。「核兵器も戦争もない世界」の実現は「人類共通の希望」であり、日本国憲法の非軍事平和主義は、それを展望しているからである。
本書で、憲法は「専守防衛」として援用されているけれど、私はここに記載したように理解している。こんな考えにも関心を寄せて欲しいと思う。(2026年5月14日記)
2026.4.2
はじめに
2025 年11月1日から5日、「世界パグウォッシュ会議広島大会」が開催された。広島での開催は20年ぶりだという。その会議で、パグウォッシュ会議評議会が「広島宣言」を発出している。本稿はその「広島宣言」についての共感と期待のコメントである。結論を示しておくと、憲法9条への言及についての共感ともう一歩の踏み込みへの期待である。(「広島宣言」は仮訳に拠っている。)
「広島宣言」の冒頭
宣言の冒頭はこうである。
広島と長崎への原爆投下から80年、人類は将来を左右する重大な分岐点に立っている。世界は、対立の激化、外交の弱体化、核兵器使用を抑制してきた規範の崩壊に直面している。国連憲章と国際法に基づく国際秩序は今まで以上に危機に瀕している。核兵器保有国は核軍拡と近代化を進め、核拡散のリスクは高まり、「核タブー」は明白な核威嚇の脅威にさらされている。核施設に対する最近の通常兵器による攻撃は、保障措置が適用される核施設への攻撃または攻撃の威嚇を禁止する約束に対する明らかな違反である。科学者や技術者を標的とした殺害は、国際法をないがしろにするものである。終末時計は現在あと89秒を指しており、これは史上最悪であり、核の危険性が増大しているという厳しい警告である。
私はこの情勢認識に同意する。今年1月、「終末時計」は85秒とされた。トランプ米国大統領は「私は国際法はいらない」としてベネズエラへの武力の行使を行い、大統領夫妻を拉致した。2月には、イスラエルとともに、イランへの再度の武力行使に踏み切り、政治指導者をその家族ともども爆殺し、学校や病院も攻撃している。「史上最悪」の状況がますます悪化している。
そのような状況の中で「宣言」は次のように述べている。
核兵器は二度と使用されてはならない
いかなる状況下においても核兵器は二度と使用されてはならない。核戦争は国家のみならず人類そのものの未来をも破壊するからだ。広島と長崎への原爆投下は、戦争の悲劇であるだけでなく、未来に続く人類の良心と道徳の破壊を象徴するものだ。
私はこの見解に共感している。核戦争は人類の未来をも破壊するという指摘は、「原爆裁判」に際して、岡本尚一弁護士が原爆の使用禁止を「天地の公理」としていたことを先駆けとして、NPTの前文は「核戦争は全人類に惨害をもたらす」としているし、TPNWは「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす」としていることからして、そのとおりである。また、核兵器国の首脳たちも「核戦争に勝者はない。核戦争はたたかってはならない」としていることからして、核兵器使用禁止はまさに「天地の公理」なのである。そのような未来を避けるために「宣言」は次のように提案している。
「対立ではなく対話を」
そのような未来を回避するためには、対立ではなく対話が不可欠である。パグウォッシュ会議は「対立を越えた対話」を基盤として創設された。深い敵意の時代でさえ、こうした対話が軍縮を可能にしてきたことを歴史が証明している。2010年の新戦略兵器削減条約(New START)が2026年に期限切れを迎えるにあたり、米国とロシアの新たな関与が不可欠であり、対話は全ての核保有国に拡大されねばならない。信頼醸成措置、地域協力、新興技術の責任ある管理がそれに続くべきである。来年に開催される核拡散防止条約(NPT)及び核兵器禁止条約(TPNW)の再検討会議は、信頼回復と軍縮を国際安全保障の中核に戻す絶好の機会である。また、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効にむけて、あらゆる努力を傾注せねばならない。宇宙環境の兵器化を防ぐため、各国は宇宙条約の原則と義務を再確認し強化すべきである。
ここで述べられている「対立を超えた対話」(dialogue across divides)とは、パグウォッシュ会議の精神であり、軍事に頼らない手段で紛争を解決することを意味している。そのことに反対する理由はない。人間は言葉を持ち合わせているからだ。
ただし、トランプがやっているような軍事力で脅しながらの交渉は、対話ではない。トランプ流の「ディール」でもない。偽善であり欺瞞であり「力による支配」である。
ところで、ここで述べられている「対話は全ての核保有国に拡大されねばならない。」という部分には異議がある。中国の核軍拡には反対であるけれど、現実の核弾頭の保有数を比較すると米ロ(数千発)と中国(数百発)では一桁ちがう数である。そのことを無視して、中国をテーブルにつけようとしても無理だと思うからである。せめて、米ロが核弾頭数を同じ程度にしてからでなければ中国は乗らないであろう。米ロへの注文が先行されなければならない。
そのような異議は留保したうえで次に進む。「宣言」は壊滅の脅威をもたらす政策への批判と対案を示している。
真の安全保障を
壊滅の脅威をもたらす核政策では本当の平和は築けず、真の安全保障を提供しない。核兵器への依存を排除することは、道義的義務であると同時に戦略としても必要である。
各国は先制不使用政策を採用し、非核保有国に対して消極的安全保証を無条件に供与し、協力と共通の安全保障の枠組みを強化すべきである。非核兵器地帯のような取り組みは、信頼と協力を通じて軍縮が達成可能であることを示している。
これらのことは一般論としても、また、具体的提案としても、全くその通りである。核兵器国が先制不使用政策を採用すれば核兵器国間の核戦争はなくなるし、非核兵器国への核攻撃を行わないとすれば非核兵器国の核被害は回避することができるからである。それを求めることは当然である。また、北東アジアにも非核兵器地帯をつくろうとする運動も存在していることも確認しておきたい。
ところで、ここでは「核兵器への依存を排除すること」は語られているけれど「核抑止論」という言葉は使われていない。TPNW第3回締約国会議では「核抑止は核使用の威嚇に依存しており、TPNW締約国にとってはこのリスクと帰結は同じである。核武装国のリスク削減措置は核抑止の改良に重点があるだけである。不安定化する世界の安全保障環境では、核抑止からのパラダイムシフトが緊急に必要である。」とされていたことと比較すれば、いささかトーンは弱いといえよう。
「宣言」は科学者たちにも注文をしている
科学者と専門家は、知識と科学的根拠、倫理的判断に基づいて指導者を導く特別な責任を負っている。科学コミュニティは、核兵器禁止条約科学諮問グループと国連核戦争影響科学パネルの活動を強化し、人工知能、量子技術、バイオテクノロジーといった新技術がもたらす不安定化のリスクに対処するため断固たる行動を取らねばならない。
ここでは、TPNWの締約国会議で設置された科学諮問グループや国連の核戦争影響パネルにも触れられている。科学者や専門家がどのようなスタンスで核問題に取り組むかは重要である。私は、その人の知性の有無や程度は、その人が核兵器どのように考えているかで判断している。核兵器を容認する人の知性は評価しない。それはともかくとして、科学的根拠と倫理的判断は全ての人にとって不可欠であろう。
「宣言」は市民社会にも注文を出している
さらに、市民社会は道徳面で平和のための原動力であり続けている。ノーベル乎和賞を受賞した、パグウォッシュ会議、国際核兵器廃絶キャンペーン(ICAN)、国際核戦争防止医師会議(IPPNW)、日本被団協の取り組みは、市民と科学者が良心を呼び覚まし未来を形成していけることを証明している。世代を超えて響き渡る彼らのメッセージは、今も私たちの羅針盤だ:ノーモアーヒロシマ。ノーモアーナガサキ。ノーモアーウォー。戦争と武力行使を放棄する日本国憲法第9条は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言が訴えた「戦争そのものの廃絶」に繋がるものだ。両者は良心の不滅の灯台として、真の安全保障は武器や武力の行使ではなく、多国間主義、法の尊重、対話と正義、そして私たちが共有する人間性にこそあると確信させる。
私も市民社会は「歴史の竈」だと思っているので市民社会が「平和のための原動力」であるとすることに賛成である。ただ、私は「歴史の竈」とは、社会の根底的変革をもたらす母胎と理解しているので「道徳面で」と限定する必要はないと考えている。
ところで、私は、今回の宣言が日本国憲法9条について触れていることについては大いに共感している。パグウォッシュ会議が9条について正面から触れていることに初めて接したからである。「戦争そのものの廃絶」というテーマでいうと、1946年の9条は1955年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」に先行しているのだけれど、そのことはパグウォッシュ会議では明言されてこなかった。それが、今回、核兵器を廃絶するためには「戦争そのものの廃絶」を展望しなければならないことを、日本国憲法9条に触れながら宣言されたのである。これは画期的である。
けれども、「戦争と武力行使を放棄する日本国憲法第9条」という記述には注文がある。なぜなら、9条は「戦争と武力行使」を放棄しただけではなく、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」としているからである(9条2項)。この「戦力の不保持」が日本国憲法の先駆的なところであることを再確認しておきたい。
この9条の「絶対平和主義」の背景にあるのは、広島会議の主催者の一人である鈴木達治郎氏が『軍縮研究』2026年3月号で幣原喜重郎を引用して指摘しているように、「破壊的武器の発明、発見がこの勢いを持って進むならば、次回の世界大戦は一挙にして人類を木っ端みじんに粉砕する」、「文明と戦争とは結局両立し得ない。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになる」(1946年8月27日答弁)という「核の時代」における最高規範の在り方だったのである。ここでいわれている「壊滅的武器」とは核兵器のことである。憲法9条は「核のホロコースト」の上に築かれた「核の時代」における人類が自滅しないための知恵であることを想起しておきたい。
「広島宣言」の結び
「宣言」の結びはこうである。
2025年広島パグウォッシュ会議が、ラッセル=アインシュタイン宣言の不屈の次のメッセージに導かれ、対話と軍縮、そして全人類のための恒久平和への転換点となることを願う。「人類の一員であることを心にとどめ、他のことは忘れよ」
私たちは人類の一員として「核の時代」に生きている。それは、核兵器を安全保障の要とする勢力が政治権力を握っている中での生活を意味している。私たちは核兵器という「死であり世界の破壊者」(オッペンハイマー)が国家の「守護神」とされている世界に生きているのである。その中で「本当の平和を築くための真の安全保障」の確立が求められている。「広島宣言」はその重要な提起である。私はおおいに尊重したい。
まとめ
ところで、「宣言」は触れてはいるけれど正面からは取り上げていないことが二つある。一つは「核抑止論」を名指ししての批判である。もう一つは日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼しての生存と安全の確保の提案である。
私は、ヒトという種が生き延びるために克服しなければならないのは「核抑止論」であり、到達したいのは「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依拠しての人間の安全保障であると考えている。それこそが「私たちが共有する人間性」だと思うからである。
私は、平和を愛する諸国民は、いつの時代でも、またどこの国にも存在していることを確信している。だから、私はこれらのことにも踏み込んでもらいたかったのである。近い将来、私の希望が実現することを楽しみにしている。(2026年4月1日記)
2026.3.30
はじめに
3月14日、全日本教職員組合(全教)と教組共闘連絡会主催の「平和な未来を子どもたちに手渡したい」をテーマとする憲法闘争学習交流会に講師として参加した。第1部は「戦争も核兵器もない世界を創るのはわたしたち」と題する私の講演、第2部は「行動する子どもたち・その想いをききとるとりくみ」というテーマで、高校生平和ゼミナールのメンバーの報告と高校で戦争展を企画した愛知の県立高校の先生の報告、第3部では「子どもたちと深めたい平和のための学びのテーマ」を題材にする小グループによるディスカッションだった。参加者はオンラインを含めて120名と報告されていた。
『赤旗』の報道
3月17日付の『赤旗』は次のように報じていた(要旨)。
全教などは憲法闘争交流集会を開き、「憲法を守る闘いは正念場だ」として改憲阻止の運動強化を呼びかけました。全教の檀原毅也委員長は、高市政権による国会審議の軽視や地元への説明もないミサイル配備など憲法の理念をないがしろにする状況や、改憲準備の危険性を指摘。政府の行為による戦争の惨禍を二度と起こさないようと決意した憲法を不断の努力で守っていこうと訴えました。大久保氏は、政府の核兵器の見解は原爆投下を国際法違反と言えなかった原爆裁判の時から変わらず、米国の「核の傘」への依存を強めていることを指摘。憲法を土台に核兵器禁止条約を普遍化し、核兵器も戦争もない世界を創ろうと呼びかけました。高校生平和ゼミナールで活動する青年は「若い世代は決して無関心ではない。戦争反対や核兵器をなくさないといけないという点では一致できる」と強調。参加者が「子どもたちと深めたい平和の学び」を交流し、「日本が平和なのはなぜ」、「教室は平和だろうか」などを切り口に実践を語りました。
私の講演
私は、事前に資料をPDFにして渡しておいた。カラー版で66頁のものだ。ふつうは、白黒で集約されたものが配布されるのだけれど、なんと、今回は小冊子にされていた。これはうれしかった。私は、私の話は時間切れになることがあるので、資料はできるだけ丁寧に作っている。だから、小冊子の体裁にされていたことはうれしいのだ。
ところで、講演が終わった後、檀原委員長が真剣な面持ちで近寄ってきた。その資料を示しながら、「反核平和勢力と護憲平和勢力の相互理解と相互協力が必要不可欠」とあるけれど、その意味をもう少し詳しく教えてほしいというのだ。確かに、私は「核兵器廃絶や9条の擁護と世界化を希求する私たちには、『戦争前夜』と言われているほどに急速に進行している戦争の準備を阻止する運動が求められている。」として、そのために両勢力の共同が必要だと話したのだ。檀原さんは、二つの課題をテーマにたたかいを組んでいるので、私がそのような言い方をすることに違和感を覚えたのであろう。「反核平和勢力と護憲平和勢力の相互理解と相互協力など当たり前」と考えることは無理もないことだからである。
私は、檀原委員長が、そこに注目してくれたことはうれしかった。というのは、私は、反核平和勢力と護憲平和勢力との間で十分な相互理解と協力が行われていないという問題意識があるので「核兵器廃絶と9条擁護・世界化を!!」という公開書簡を、私のかかわる「平和勢力」に出したことがあるからだ。これは拙著『「原爆裁判」を現代に活かす』(日本評論社、2024年)にも収録されている。
私は檀原さんに「核兵器廃絶と9条擁護は、平和運動としては共通項もあるけれど、核兵器がなくても戦争はできるので、別々の課題もある。それはそうなのだけれど、もっとリンクしてもいいと思っている。双方の共闘があれば、それぞれの課題を実現しやすくなるのではないかと考えている。」という問題意識を伝えておいた。あわせて、講演で志位和夫共産党議長が、原子爆弾の出現と9条の誕生を結び付けていることを紹介したのもその問題意識からなのだということも伝えた。きっと、その問題意識は共有してもらえたと思っている。9条誕生背景に「核のホロコースト」があったことは厳然たる史実だからだ。
長野高校の先生
私も最後まで参加したので、高校生や先生方がどのような実践を行い、どのように工夫しているのかを知ることができて本当に楽しかった。特に、私の出身校である長野高校の先生と同じグループで議論できたことは、なんとも言えない不思議な体験だった。高校時代の先生たちの顔を思い出したり、今、私と話をしている先生は、私が高校生の頃はまだ生まれていなかったのではないかなどと思ってしまったからだ。遠い記憶になるけれど、私が中学生や高校生の頃、組合員といわれていた先生の授業は面白かったように思い出す。その長野高校の先生は「戦争はダメだは当たり前のこと」ということと「社会情勢の厳しさの中での高校生の平和活動の大切さ」を感想として述べていた。
長野高校の図書館には何冊かの拙著を贈呈しているので参考にしてもらえればと思う。
まとめ
高校生平和ゼミに参加している青年の話や先生の実践報告は感動的だった。「サナエ推し」が蔓延る風潮の中でも、まっとうな問題意識を持ち、それを実践している生徒や先生がいることを確認できたからだ。もちろん、それが大きな流れではないかもしれない。むしろ、私が高校生だったころと比較すれば戦争が近づいているのかもしれない。
けれども、それが現実であるならば、それを前提として行動しなければならない。
アンケートにはこんなことが書かれていた。
核兵器使用や戦争があってはならないことは感覚的なものだったのが、法律・法理として間違っているということが整理できた。…今起こっている例えばトランプ政権やイスラエルの一方的な戦争をどのように止めればいいのか、深く考えました。
豊富な事実や資料を提示していただきとても勉強になりました。原爆裁判のことで改めて考えると、戦争で被害を受けた人々(他国の人々も含めて)の補償もなく、補償もできない戦争なんて初めからするなと言いたいし、国が始めたのだから責任をきちんと取るべきだと改めて思いました。…日々無力感に押しつぶされそうになりますが、周囲の人と対話し続けていかないといけないと思いました。
最初に感じているのは政府の無責任、行政の失策について何も責任を負わず反省しないという悲しさ。今、戦争中な現実があって、この地球上では、一つの戦争は世界中にマイナスの影響を与えるという事。まさに今、戦争が続くほど、日々生活が苦しく平和な日々が失われているという事。国民の意思を示さなければならない。
高校生平和ゼミの子も「とても学びになりました」と書いていた。私も少しは役に立てたようだ。こういう機会を提供してくれた主催者に感謝している。
そして、私の子どもの頃の先生がそうしてくれたように、私も「平和な未来を子どもたちに手渡すために」今できることをしておくこととする。(2026年3月20日記)
2026.3.17
はじめに
私は、2年前、「核兵器廃絶と9条擁護・世界化を!!―被爆80年・敗戦80年に向けての提案―」と題する公開書簡を発出した(拙著『「原爆裁判」を現代に活かす』(日本評論社、2024年所収)。埼玉弁護士会などいくつかの組織からは好意的返信はあったけれど、多くは「梨の礫」状態になっている。「核兵器も戦争もない世界」を一刻も早く実現したいと思っている私からすれば、凄く残念だし悲しいことなのだ。そこで、ここでは、その公開書簡の趣旨を再確認した上で、先人たちの「原爆投下と憲法9条」の関係についての見識を紹介しておく。「核兵器廃絶と9条擁護・世界化」には密接な関係があることを共有することは、反核運動と憲法擁護運動の連携強化に役立つと思うからだ。
呼びかけの趣旨と動機(以下「公開書簡」の要約)
呼びかけの趣旨は、核兵器廃絶運動と9条の擁護・世界化の運動の連帯と共同で、非核・非軍事平和の日本と世界を実現しようというものです。
核廃絶運動と9条運動とには共通性もありますが、別の課題です。核兵器抜きでも戦争はできるからです。けれども、現実に行われている武力の行使において、核兵器使用の威嚇が行われている状況からして、核兵器廃絶と戦争を関連付けて考える必要性が高まっているように思われてなりません。
そこで、被爆80年・敗戦80年という節目の年を前に、核兵器廃絶と9条の課題をリンクさせる共同行動を呼びかけるものです。
9条は「核の時代の申し子」
現在の政府は「純法理的な問題」として「核兵器であっても、必要最小限度の実力にとどまるものがあるとすれば、それは必ずしも憲法の禁止するところではない。このことは核兵器の使用についても妥当する。」としています。憲法は核兵器の保有や使用を排除していないというのです。
けれども、1946年の「制憲議会」おいて、幣原喜重郎は政府を代表して「次回の世界戦争は人類を木っ端みじんに粉砕する」、「文明が戦争を全滅しなければ、戦争が文明を全滅する」と答弁していました。当時の政府は、次の世界戦争では核兵器が使用され、人類社会は滅びることになると予測して、核兵器のみならず、全ての戦力の放棄を提案していたのです。
憲法9条は、「核の時代」を自覚し、核兵器だけではなく「一切の戦力」を放棄する徹底した非軍事平和思想に基づく最高規範として誕生したのです。憲法9条は「核のホロコースト」を経て創られた「核の時代の申し子」なのです。「核の時代」にあっては、戦争は政治的意思を実現するための手段にはなりえないのです。自衛という目的を実現するための核兵器が、防衛の対象である国家と社会を壊滅させてしまうからです。9条はそのような事態を避けるために残された唯一の方法であることを確認しておきましょう。
先人たちの見識
主な見識を紹介する。(前掲拙著ではさらに多くの見識を紹介している。)
まとめ
原爆が絶対的非軍事平和主義に基づく憲法9条を生み出したことを確認していただけただろうか。今、世界と日本は、核兵器を容認する勢力によって破壊されつつある。それと対抗して「核兵器も戦争もない世界」を実現しなければならない。その核心が9条にあるのだ。(2026年3月16日記)
2026.3.3
はじめに
志位和夫共産党議長が、2月21日に仙台で行われた革新懇のシンポで、憲法9条がどうして生まれ、戦後どういう役割を果たしてきたか丁寧に明らかにすることが大切だという話をしている。その中で、原爆投下と9条の関係を深く解明した文書として当時の政府が作成した『新憲法の解説』を紹介している。そして、そこに書かれている「文明が戦争を抹殺しなければやがて戦争が文明を抹殺するであろう。ここに、憲法9条の持つ『重大な積極的意義』がある。」という記述を引用している。
『新憲法の解説』と「制憲議会」での議論
『新憲法の解説』のこの一節は、私もよく引用している(拙著「『原爆裁判』を現代に活かす」など)。該当部分は次のとおりである
一度び戦争が起れば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に到達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えているのである。ここ於いて本章(2章・九条)の有する重大な積極的意義を知るのである。
この中で識者とされているのは幣原喜重郎である。彼は、「制憲議会」において、吉田茂首相(当時)や金森徳次郎憲法担当大臣(当時)と政府答弁に立っている。その中で、彼は次のような答弁をしている。
我々は今日、広い国際関係の原野に於きまして、単独にこの戦争放棄の旗を掲げて行くのでありますけれども、他日必ず我々の後についてくるものがあると私は確信しているのであります。原子爆弾というものが発見されただけでも、戦争論者に対して、再考を促すことになっています。日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、この一つの大きな旗を担いで進んで行くのであります。即ち戦争を放棄するということになると、一切の軍備は不要になります。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になるのであります(1946年8月30日貴族院本会議)。
「新憲法」は、衆議院では賛成421票、反対8。貴族院では賛298、反対2で採択されている。
当時の国会や政府は、「新憲法」についてこのように理解して制定していたのである。
『新憲法の解説』には、吉田茂の「新憲法は、国民の真摯なる熱意と自由なる意思により、第九十議会を通じて成立した。」との序と金森徳次郎の「…国民諸君が速やかにこの憲法の本体に親しみ、これと融合し、いわばこれと一体となり、歴史の導く新たな段階に、全身を歓喜に奮わせて、突入せられんことを希望してやまない。」との序が掲載されている。私は、これらの序に感動を覚えている。
『綱領教室』での記述
ところで、志位さんは『綱領教室』(新日本出版社・2013年)で次のように書いている。
原子爆弾の出現によってもはや文明と戦争は両立できなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがては戦争が文明を抹殺してしまう。それならば文明の力で戦争を抹殺しよう。戦争を放棄し、陸海空一切の戦力を放棄しよう。それを世界に先駆けて実行しよう。ここから私たちが誇る、世界に誇る日本国憲法9条が生まれたのです。
志位さんには原爆と9条との関係についてのこだわりがあるのだ。私は志位さんのそのこだわりに共感している。なぜかというと、志位さんがいうように、原爆投下と9条誕生とは、深いかかわりがあるからである。
先にみたように、当時の政府や議会は、人類は核兵器を手に入れてしまった、このまま戦争をするようであれば、人類は滅びてしまう。だから、戦争をなくさなければいけない。そのためには戦力を持たないことだ。そうすれば、戦力にかけていたお金も不要になる、という価値観と論理に基づいて9条を制定したのである。
私は、当時の政府や議会の判断は正しいと思っている。核兵器に依存すれば人類が滅びる。そうならないためには、戦争も戦力もなくし、生存と安全を「平和を愛する諸国民の公正と信義」に委ねようとしたのである。それは「核の時代」における人類の最良の知恵なのだ。
まとめ
そして、この知恵は、核兵器禁止条約が「核兵器のいかなる使用も『壊滅的人道上の結末』をもたらすので、それを避けるための唯一の方法は核兵器をなくすことだ」としていることよりも、「一切の戦力をなくす」としていることからして、一歩先を進んでいるのである。
現在の政府や与党とそれに迎合する勢力は、巨額の軍事予算を計上し、自衛隊という戦力と米国の「核の傘」に依存している。核兵器に依拠して自国と自国民の命と財産を確保しようというのである。そのことを疑いもせずに「サナエ推し」に狂奔する人々もいる。
今、私たちは「死神であり破壊者である核兵器に依存するのか」、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼するのか」の選択を迫られているのである。「核持って絶滅危惧種仲間入り」といわれる時代であるからこそ迫られている「究極の選択」である。
私は、80年前の議会と政府の結論を共有し、その再生(ルネサンス)を提起したい。
それこそが「核兵器も戦争もない世界」を実現する道だからである。
(2026年2月27日記)
2026.2.25
はじめに
2月21日、「非核の政府を求める大阪の会」で講演をした。テーマは「激動する国際情勢と法の支配」だ。憲法公布80年、被団協発足70年、核兵器禁止条約発効5年ということで「原爆裁判」を題材に話をした。「原爆裁判」は核兵器という究極の暴力に法という理性を対置した裁判だ。「終末」まで85秒とされているのに「私に国際法はいらない」と高言するトランプ米国大統領のような人がのさばっている今、「法の支配」を考える絶好の題材なのだ。
その講演で、総選挙での自民党の「躍進」と革新の「退潮」の原因をどう考えるか、この状況をどう変えればいいのかという質問があった。私は「正解」を持っているわけではないとしたうえで、選挙制度のトリックがあるけれど、それだけではなく、人々は自分が欲しいものをどうすれば実現できるのか、それを考える力を身につけていないのではないかと答えた。
元教師の指摘
そうしたら、元教師だった方が、子どもたちは憲法について学ぶ機会がない、教職免許で憲法が必須科目でなくなってからもう永い。その影響ではないかと発言した。
「我が意を得たり」である。学校教育の中で憲法の諸価値を学ぶ機会は少ないそうだ。そもそも、それを教える先生が養成されていないのだ。これでは、憲法が生活の中で生かされるはずがない。私は「くらしに憲法を生かそう」のスローガンのもとに、この半世紀近く、仕事と活動をしてきた。1988年には『憲法ルネサンス-パンと自由と平和を求めて―』を出版している。そんな個人的努力など何の役にも立っていないのだ。
憲法は、国民を主権者として、絶対平和主義の下で、一人ひとりの生命と自由と幸福追求権が尊重される社会を創ろうとしている。けれども、この国はこの憲法的価値とかけ離れようとしている。「先軍思想」に基づく「国家総動員体制」が築かれつつあり「新たな戦前」になっている。憲法は忘れ去られているかのようである。
私は憲法がくらしの中に生かされていないことが問題だと思っている。その正体は、憲法がもつ合理的思考と行動を学ぶ機会がないことによる未熟さである。それは高市首相だけではなく「サナエ推し」をしている選挙民も同様である。
高市首相の憲法観のお粗末さ
2月20日に行われた施政方針演説で、高市首相は次のように言っている。
どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。憲法改正に関し、衆議院及び参議院に設置された憲法審査会において、党派を超えた建設的な議論が加速するとともに、最終的に判断を行う国民の皆様の間でもこれまで以上に積極的な議論が深まり、国会における発議が早期に実現されることを期待します。
彼女は、憲法を「国の理想を物語るもの」としている。けれども、この憲法理解は誤解というよりも無知に等しいのである。
そもそも、憲法は「理想物語」などではない。権力者を暴走させないための「最高規範」である。例えば、米国の「建国の父」の一人であるトーマス・ジェファーソン第3代大統領は「権力の問題においては、人間への信頼を語るな。悪さなどしないよう、憲法の鎖で縛りつけよ。」と言っている。「憲法は権力の乱用を防ぐ鉄鎖」だという意味だ。
日弁連は「憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。このように、国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを『立憲主義』といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です。」としている(絵本『憲法って何だろう』)。
彼女は憲法が何たるかを知らないのだ。彼女に権力を与えているのは憲法である。だから、彼女は憲法に従わなければならない立場にある。憲法も「国務大臣の憲法擁護義務」を定めている(99条)。彼女の憲法理解は政治家として「ありえないレベル」なのである。にもかかわらず、彼女は改憲までいうのである。「何様のつもり」なのだろうか。
「サナエ推し」の恐ろしさ
高市首相の憲法観のお粗末さは以上のとおりである。けれども、彼女の人気は極めて高いのだ。例えば、2月23日付『毎日新聞』によれば、高市内閣の支持率は前回1月の57%から61%に上昇している。そして、その支持する理由として、59%の人が「首相の指導力に期待するから」としている。この国には憲法を理解していない首相の「指導力」に期待している人が多数のようである。おそろしいことだ。
けれども、この国でサナエを批判することにはリスクが伴うのだ。なぜなら、彼女がNHKの党首討論に欠席したことを批判したら「サナエをいじめるな」と批判した方が悪者にされ、それが自民党大勝へと潮目が変わったという先例があるからだ。
それはそれとして、高市首相がどのような憲法観を持っているかは重要である。自分に権限を付与している憲法を「理想を語るもの」としてその規範性を無視することは、憲法の「最高規範」としての役割を無視することを意味しているからである。
これは、トランプ大統領が「私に国際法はいらない」としていることと同質の無知と傲慢である。この無知と傲慢は「自分は戦後生まれだから戦争責任など関係ない」という歴史観と相まって「自覚なき暴走」の原因となるであろう。「自覚なき暴走」とは偏狭な正義感と安直な高揚感に基づく強権政治を意味している。その暴走は、理性や道理を黙らせ、むき出しの欲望と力の猛威をもたらすことになる。そして、人々の生命や自由や幸福追求権などは、完全に無視されるディストピアが出現する。国民は重税にあえぎながら、スパイ容疑で情報機関の監視下に置かれ、自衛隊員は米軍の先兵として死地に送り込まれ、国土のあちこちに核ミサイルが飛来するかもしれないことになる。「サナエ推し」は「貧乏神」や「死神」の呪いのようなものなのだ。
施政方針演説を乗り越えるために
施政方針演説次のように結ばれている。
若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、「未来は明るい」と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。今の時代を生きる私達には、その大きな責任があります。皆様、未来への挑戦を共に進めてまいりましょう。「希望」を生み出す政治を、共に進めていこうではありませんか。
彼女は「明るい未来」と「希望」を語っている。憲法も歴史も無視し「自覚なき暴走」をすでに始めている人がそれを語っているのである。そして、熱狂的な「サナエ推し」が喝采を送っている。それがこの国の現状なのだ。
かつて、幣原喜重郎は「軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る」、「集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿である。」と予言していた(『平野文書』)。その予言を知っている私は今の状況に危機感を抱くのである。
だとすれば、私たちは何をすればいいのだろうか。私は、日本国憲法が指し示す、国民主権、基本的人権の擁護、絶対平和主義といった諸価値と権力制約という憲法の役割の再確認から始めたいと思っている。「急がば回れ」と昔からいわれているからだ。改憲阻止や悪法阻止のたたかいはもとよりとして「憲法のルネサンス」が求められている。
(2026年2月24日記)
2026.2.17
はじめに
選挙結果について色々とコメントが飛び交っている。それはこのような結果なのだから無理もないことであろう。ただ、少し気になるのは、自分の政治へ要求や自分はどのような行動をとったのかという自分自身の主権者としての体験を踏まえたものが少ないことだ。自分が、今という時代に、この世界で生活している人間として、何を求め、どんな行動をしているのかを土台にしてこそ、何をすればいいのかが見つかるはずである。今求められているのは解説者や傍観者ではない。
そこでここでは、私が、今回の総選挙にあたって、何を求め、何をしたのかを紹介しながら、何をすればいいのか、ささやかな提案をしてみる。
私の政治への期待と選択
私の政治への期待は「核兵器も戦争もない世界」を創って、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活できる社会、人々がその命と自由と幸福追求権を尊重される社会を創りたいということにある。私は、この基準に照らして、日本共産党の躍進(せめて現状維持)を願っていた。だから、日本共産党埼玉法律事務所後援会の会長として、埼玉弁護士会の全会員に呼びかけ文を出したり、依頼者や友人やそうでない人にも、直接あるいはFBで、共産党への支持を呼び掛けたりした。
けれども、共産党は比例代表で、得票数は前回336万票から251万票に、得票率は6.1%から4.4%に、議席は8から4となった。れいわ新選組と合わせれば16あった議席は合計で5である。社民党は議席を得ることはできなかった。「左翼」の衆議院での議席は全議席465の2%に満たないのだ。
この事態は深刻である。完全比例だったら違う議席数だとか、自民党の比例での絶対得票率は20.3%だなどと言ってみたところで、この現実が変わるわけではない。私は、この国は危険水域に入ったと憂えている。
私は絶望などしていない
けれども、私は絶望などしていないし、どう立て直せばいいのかを考えている。絶望などしていても、私の政治的要求は実現しないからである。このような事態になった原因は、単純化すれば「高市旋風」である。
その「旋風」とはどのような内実のものであったのか。三例ほど挙げておく。
第1例。私は、昨年12月広島で被爆者やその支援者を対象に講演をする機会があった。その際に、被爆2世の方で高市首相に期待している人がいることを知った。高市首相は「非核三原則」の見直しを言い、近くに「核保有論者」をおいている人である。被爆2世の期待に応える人ではない。
第2例。娘から聞いた共産党の田村智子委員長の「たむともストリート対話」のエピソードだ。
田村さんが、見ず知らずの人に話しかける「ストリート対話」で、生活保護受給者が高市さん支持だというのでその理由を聞いたら「女性だし、はっきりものを言ってくれるし、何かしてくれそうだから」ということだった。田村さんは、その人に「あなたが支持している人を悪く言いたくはないけれど、高市さんは生活保護費を削ろうとしているのよ。」と話した。そうしたら、その人は「そうなんですか、知らなかった」と言ったそうだ。
第3例。私のFB投稿にこんな反応があった。
「非核三原則」というと、「持ち込むのはいいんじゃないかな?」という人がいます。議論してみました。「だって、攻められたら、何にもしないでいるしかないの?」。「いいよ。じゃ、そのとき、核を持って、それで反撃するの?」「いや、それはまずいから、通常兵器で…」「向こうが持っていたら。ボーンと核攻撃されるよ?」「そうなったら使う…」「でもそのとき、もう核兵器は潰されていてないでしょう?」「イヤね、核兵器どころか、国の中枢は黒焦げで何もないんだよ! どこか、辺境の基地から反撃するの?」、「そっかーっ」……。大事なことは、ものすごく曖昧でいい加減ないまの風潮をもうすこし論理的で、原則的なものにして行くことではないか、と思います。
ここに観られるのは、被爆2世、生活保護受給者、「非核三原則」の見直しが何をもたらすのかを想像できない人が「サナエ推し」をしている現象である。本人からすれば欲しいものがあるので、それを補充するために「サナエ推し」をするのであろう。けれども、高市首相に期待することは、その期待に応えてもらえないどころか、むしろ真逆の結果がもたらされことになるのだ。
客観的に欠乏していることと主観的に求めることの間に齟齬があるのに、それに気が付かないまま行動してしまう人はいる。その誘導を仕事にしている人もいる。こうして、高市首相や自民党に投票することが、自分の求めていることにつながるのではなく、むしろそれを遠ざけてしまうことに気が付かないで投票した人もいたであろう。
私はこれが「高市旋風」の一側面だと考えている。そしてこのことは、自民党の議席を極大化した選挙制度と相まって、この国の深部での危うさだと考えている。なぜなら、憲法を無視する首相を、その被害を受ける選挙民が支持するという現象が起きているからである。それは、国民のなかに憲法が根付いていないことを意味している。
ではどうすればいいのか
こんな意見を紹介しておく。
「経済的に追い詰められ、精神的に閉塞感の中にいる人たちに、論理的に正しい、倫理的に正しい言葉が刺さらなくなっているように思います。彼ら彼女らに通じる言葉は?伝え方も含めて考え直しています」。
確かに、客観的な欠乏と主観的行動とにズレがあることは論理的に正しくない。また、正しい言葉を受け入れず虚言を受け入れることは倫理的に正しくない。論理や倫理を無視してしまえば人間でなくなってしまう。そんなことは絶対に避けなければならない。
けれども、私たちに、言葉以外に何があるというのだろうか。だとすれば、言葉が通じるように工夫するしかないのだ。滅亡に向かって熱狂する愚かさを説き、欠けているものの正体とその原因を見抜き、その対処策を共有しなければならないのだ。
人は対話によって変わりうるし、対話がなければ何も変わらない。対話をするためにはそれをする人が必要なのだ。人を増やさなければならないのだ。それなくしてはどのような変革もありえないであろう。
私は、自分が求めていることとその実現を阻んでいる原因を冷静に見抜き、必要な行動をとることから始めたいと思っている。そして、そのために、仲間内のおしゃべりに止まらずに、もう一歩、外に踏み出して、多くの人と対話したいと決意している。
このような時代を作り出してしまった私を含む老人たちの反省と覚悟が求められている。(2026年2月17日記)
2026.2.10
総選挙の結果をどう見る
今回の総選挙の特徴は、定数465の3分の2を超える316議席を獲得するという自民党の「大勝利」、現有議席を118減らしての49議席という中道の惨敗、「左翼」の衰退にある。
「大勝利」と「」を付けたのは、比例の得票率は36.07%なのに議席占有率は67.07%であることにも着目してほしいからだ。小選挙区での得票率が49.1%なのに議席占有率は85.8%となる小選挙区制トリックのことだ。けれども、候補者名簿が足りなくて他党に割り振られた議席が14あったので、これを含めれば議席占有率は70.08%になるということも含めて考えれば「大勝利」という表現は大袈裟ではないであろう。自民党が単独で3分の2以上の議席を得たことはないので「歴史的大勝利」ともいえるであろう。
中道は118議席を減らして49議席となった。118は自民党の増加分と同数である。中道の惨敗を物語る数字だ。その原因は立憲民主党が有権者の期待を裏切ったからだ。その端的な例が新潟だ。安保法制を違憲だとして共産党と協力した時、5小選挙区すべてで立憲は勝利していたが、今回は全滅である。公明党と組めば大丈夫だ。その見返りに比例の上位は公明党などと考えたのだろうけれど、それは余りにも「猿知恵」というものだろう。立憲の指導者たちの底の浅さと志の低さが露呈したのである。
「左翼」とは共産党とれいわ新選組のことをいう。社民党も「左翼」だけれど元々衆議院に議席はないので、ここでは除外しておく。これまで両党合わせて16議席があったけれど5議席に減った。共産党は8から4に、れいわは8から1になった。両方とも減ったのだ。しかも、共産党の比例での得票率は5%を切って4.4%になった。ドイツであれば議席獲得要件(5%)を欠くことになる。ちなみに、れいわ新選組は2.9%、社民党は1.2%だ。「左翼」の衰退は明らかだ。
これが、現時点での有権者の意思の表れだ。私は「日本社会は危険水域に入った」と受け止めている。「暴走」に拍車をかける勢力が巨大化し、ブレーキ役が衰退したからだ。
高市首相は「暴走」する
この結果を受けて高市首相は「暴走」するであろう。「暴走」とは憲法や歴史などを無視して主観を優先する政治を意味している。彼女は「非核三原則」の見直しを言っていたし、台湾有事においては自衛隊の出動がありうるとしている。アメリカの核兵器や日本の武力強化が必要という立場だし、中国と事を構えることもあるとしているのだ。憲法の非軍事平和主義などは全く視野にない。自分に政治権力を付与している憲法を最高規範とは思っていないかのようである。
また、日本の戦争責任については「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」としていた人でもある(1995年3月16日の衆議院外務委員会)。
憲法を無視するとは最高規範に仇をなすということである。歴史を無視するとは「過去に目を閉ざす」ということなので「過ちを繰り返す」ということになる。
こういう自らの立場をわきまえない無知で傲慢な人間が権力を持つと「暴走」する危険性は高くなる。自分を見失っているからである。そして、民衆のところには「貧乏神」や「死神」が訪れることになる。
高市首相とトランプ米国大統領との類似性
その姿勢はトランプ大統領と酷似している。彼はあちこちで武力を行使し、外国の大統領夫妻まで拉致している。「国際法はいらない」と豪語する無法者である。加えて、核実験も再開するようだし「核兵器の現代化も進める」と「国家安全保障戦略」に書き込む核兵器依存論者でもある。彼は核兵器を含む武力で自らの欲望を満たそうとしているのだ。私は彼を「死神のパシリ」と見做している。
高市首相は昨年10月の臨時国会の所信表明演説で次のように言っていた。「日米同盟は日本の外交・安全保障政策の基軸です。日米両国が直面する課題に対し、しっかりと連携し、日米同盟の抑止力・対処力を高めていきます。私自身、トランプ大統領が訪日される機会にお会いし、首脳同士の信頼関係を構築しつつ、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります」。
その高市首相について、トランプ大統領は、今回の総選挙は「日本の未来にとって極めて重要」としたうえで、高市氏を「力強く、賢明で、祖国を愛する指導者」と評価し、「高市首相は日本国民を決して失望させない!」と強く支持を訴えていた。私には、二人が「死神のパシリ」とそれに「かしづくメイド」のように見えてならない。
私が避けたいこと
「トランプは稀代の無法者」と見做している私からすれば、それに取り入る高市早苗氏をこの国の首相としておくことはどうしても避けたい事態なのだ。核兵器も戦争もなくし、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活できるようにと希望している私からすれば、それをしたり顔で阻んでいる二人は「不倶戴天の敵」なのだ。
けれども彼らは、選挙で選ばれた大統領であり、自民党に「歴史的勝利」をもたらす首相なのだ。私の意見など「蟷螂之斧」、「ごまめの歯ぎしり」というところだろう。
けれども、黙っていることなど出来ないのだ。「平和を望むなら戦争に備えよ」、「平和を望むなら核兵器に依存せよ」というスローガンは「壊滅的人道上の結末」をもたらすかもしれないからだ。トランプ大統領の大言壮語や高市首相の作り笑いに騙されてはならない。(2026年2月10日記)
2025.11.28
はじめに
政府・与党内で非核三原則の見直し論が浮上している。「持たず、作らず、持ち込ませず」の三原則のうち「持ち込ませず」の原則を見直して、日本に米国の核兵器を「持ち込む」という動きである。もちろん、現段階では、どのような核兵器を持ち込むのか、いつ持ち込むのか、どこに持ち込むのか、その管理を誰がするのか、その使用について日本が関与できるかなどは何も決まっていない。けれども、日本に米国の核兵器を持ち込もうとしていることははっきりしている。核兵器を使用された唯一の国が、使用した唯一の国の核兵器を持ち込もうとしているである。留意しておかなければならないことは、アメリカが核兵器を「持ち込みたい」と要求しているのではなく、日本が「持ちこんでくれ」と要望していることである。
ところで、非核三原則は「国是」である。「国是」とは、国を挙げて是と認められたもの、国家としての方針、国家行動の基本原則を意味している(広辞苑)。だから、非核三原則を見直すということは核政策の大転換を意味している。しかも、その内容は米国の核兵器を日本に正面切って持ち込もうとするのだから事は重大である。そこで、ここでは、なぜ、このような見直しが言われているのかを考えてみたい。
非核三原則の発端と国是とされた時期
非核三原則は、1967年12月11日の衆議院予算委員会で、当時の佐藤栄作首相が、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を表明したことに始まっている。その背景には沖縄の施政権返還に際して、沖縄に配備されている核兵器をどうするかの問題があった。佐藤首相はこの三原則に基づいて沖縄の核兵器は撤去されるとしたのである。それもあって、1974年、彼はノーベル平和賞を受賞している。
国会においては次のような動きがあった。1971年11月24日衆議院本会議では「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである」との決議が行われている。ここでは、まだ「国是」という言葉は使用されていない。更に、核兵器不拡散条約(NPT)批准後である1976年4月27日には、衆議院外務委員会において「政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずとの非核三原則が国是として確立されていることにかんがみ、いかなる場合においても、これを忠実に履行すること」という決議が採択されている。ここで初めて「国是」という言葉が使用されている。そしてその後、同趣旨の決議が衆参両院の委員会や本会議で行われている。このように非核三原則は、国権の最高機関である国会において「国是」とされてきたのである。内閣と与党だけで、軽々に見直せるような原則ではないことを確認しておきたい。
「国是」扱いの影
けれども、この国是という扱いは非核三原則法制化の妨害物として機能するのである。例えば、被団協は 非核三原則の法制化を求めてきたけれど、政府は「国是であるからあえて法制化の必要なし」として拒否するのである。国是は国の基本方針を意味するのだから「非核法」を制定しても何の不思議もないのだけれど、政府も与党(自民党だけではない)もそれをしないのである。法律になっていなければ、仮に、米国の核兵器を持ち込ませたとしても「違法行為」と非難されなくて済むという思惑である。だから、2010年、民主党政権時代の岡田克也外務大臣は「日本の安全保障が危機的状況に陥った場合には、核兵器の一時的持ち込みを政治的責任で判断する可能性がある。」と述べ、その後の政府も踏襲するとしているのだ。何とも姑息な態度ではあるけれど、それだけ違法とされることは避けたいということなのでもあろう。
もう一つ留意しておきたいことは「持ち込ませず」としていても、そのことを確認する方法があるのかということである。米軍は艦船や航空機が核兵器を搭載しているかどうかは「肯定も否定もしない」(NCND)としている。けれども、搭載していないという証明書を出さなければならない神戸港には入港しないのである。そういう意味では彼らも順法精神は持ち合わせている。だから、持ち込んでいるかどうか確認しようと思えばできないことではない。けれども、日本政府は確認しようとしないのである。
また、政府は、日米安保条約の事前協議制度では、核兵器の持ち込みは協議対象である。したがって「もし米国が核兵器を持ち込むなら事前協議を要請するはずだ、事前協議の要請は一度もなかったため、核兵器は持ち込まれていない」とも主張してきた。更に忘れてならないことは、日本政府と米国政府との間には「核密約」があることだ。要するに「国是」などとされているけれど政府と与党は米国の核に依存するという姿勢は崩していないのである。にもかかわらず、そのような原則を尊重するかのように振舞うのは日本国民の反核感情に配慮しているからである。高市政権は、これらのことを承知しながら「見直し」をしようとしているのである。
ここにきてなぜ見直そうというのか
それは、中国、北朝鮮、ロシアなどと対抗するためとして、自衛隊に「敵基地攻撃能力」を持たせ、国家挙げての防衛力の強化を図り、米国の核も含む「拡大抑止力」を一層強化しようとしている「安保三文書」を前倒しようとしているからである。その一環として、日本が使用して欲しい時に、米国に核兵器を使用して欲しいのである。米国が先制不使用政策をとろうとしても、日本政府が反対している理由もここにある。非核兵器による攻撃であったとしても、米国に核兵器を先制使用して欲しいていう思惑なのである。これが、日本政府の核兵器依存体質である。使用されれば「全人類に惨害をもたらす」核兵器に依存して、この国の安全を守ろうというのである。「悪魔の兵器」がこの国の「守護神」と位置付けられているのである。その「守護神」を近くに置きたいというのが「持ち込ませない」という原則見直しの動機である。
見直し論者は、核兵器使用が人類に何をもたらすのかを無視したまま、核兵器に依存しようとしているのである。中国も北朝鮮もロシアも核兵器保有国である。日本のために米国が核兵器を使用するとは思わないけれど、米国が核兵器を使用すれば核兵器の応酬となりうるのである。それがもたらすのは「全人類の惨害」であり「壊滅的人道上の結末」である。彼らの振る舞いは「死神のパシリ」そのものである。
しかも彼らは、自分たちの発想は「愛国心」に基づくと思い込んでいるのである。だから彼らに躊躇いはない。むしろ反対するものは「反日の輩」、「中国のスパイ」と見做されるのである。何とも恐ろしい状況となっている。狂気に囚われたかのような妄動を止めなければならない。(2025年11月27日記)
2025.11.21
中国が怒っている
中国政府が高市早苗首相の国会答弁を怒っている。在大阪領事が「勝手に突っ込んできたその汚い首は、一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない。覚悟が出来ているのか」と投稿したり、中国政府は日本への旅行や留学を控えるよう要請したり、外務省の局長に対してケンモホロロの対応をしている。「高市答弁を撤回しろ」とその怒りは尋常ではない。
他方、日本政府は、高市答弁は「従前の政府の方針と違いはない」として、撤回も謝罪も不要としている。このままでは、日中間の溝が深まるだけでいいことは何もない。むしろ、両国間の軋轢が強まり、予想しがたい事態が発生するかもしれない。そこで、ここでは、その発言を確認し、中国政府の怒りを検証してみることにする。
高市答弁
問題になっているのは、11月7日の衆議院予算委員会での岡田克也議員に対する高市首相の答弁である。その答弁は次のとおりである(11月19日現在、議事録は公表されていないので井上正信論稿の速記録速報版による。衆議院TVで確認はできる)。
先 ほ ど 有 事 と い う 言 葉 が ご ざ い ま し た 。 そ れ は い ろ い ろ な 形 が あ り ま し ょ う 。 例 え ば 、 台 湾 を 完 全 に 中 国 北 京 政 府 の 支 配 下 に 置 く よ う な こ と の た め に ど う い う 手 段 を 使 う か 。 そ れ は 単 な る シーレーン の 封 鎖 で あ る か も し れ な い し 、 武 力 行 使 で あ る か も し れ な い し 、 そ れ か ら 偽 情 報 、 サイバープロパガンダ で あ る か も し れ な い し 、 そ れ は い ろ い ろ な ケース が 考 え ら れ る と 思 い ま す よ 。 だ け れ ど も 、 そ れ が 戦 艦 を 使 っ て 、 そ し て 武 力 の 行 使 も 伴 う も の で あ れ ば 、 こ れ は ど う 考 え て も 存 立 危 機 事 態 に な り 得 る ケース で あ る と 私 は 考 え ま す。
この答弁は「北京政府」が台湾を「完全に支配下に置くようなこと」を想定して、それは「存立危機事態になりうる」としているのである。これまでの政府の公式見解は「いか な る 事 態 が 存 立 危 機 事 態 に 該 当 す る か と い う の は 、 実 際 に そ の 発 生 し た 事 態 の 個 別 具 体 的 な 状 況 に 即 し て 、 全 て の 情 報 を 総 合 し て 判 断 し な け れ ば な ら な い と 考 え て お り ま す」というもので、台湾を念頭に置いているとはしていなかったのである。ところが、高市首相は「台湾」に係る「存立危機事態」がありうると答弁したのである。それは、論理的には、北京政府と台湾との間で事が起きた場合、日本政府は自衛隊を防衛出動させるかもしれないと言明したことになる。自衛隊法は「存立危機事態」における自衛隊の防衛出動を想定しているからである。防衛出動は敵軍との交戦である。だから、この答弁は「北京政府」と敵対し、台湾に味方して自衛隊を出動させ、中国軍と交戦する場合があると公言したことを意味しているのである。
日本の台湾に対する基本的スタンス
ところで、1972年の「日中共同声明」は、日本と中国は国交を正常化し、外交関係を樹立することに合意している。そして、日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府として承認し、台湾との外交関係を断絶している。台湾については、中国側は「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である」と表明し、日本側はこの中国政府の立場を「十分理解し、尊重する」とされている。日本は台湾が中国の一部であるとは正面から認めていないとしても、中国の立場は「十分理解し、尊重する」としているのである。この合意は、両国は「台湾問題は中国の内政問題と理解している」と理解するのが合理的である。これが日中両国間の大前提だったのである。
ところが、高市首相は、北京政府と台湾が争えば台湾のために自衛隊を出すこともありうると答弁をしたのだから、中国からすれば「共同声明」の合意はどこに行ったのかということになるのである。自分たちの立場を「理解し尊重する」としていたのにそれは反故にするのかと怒りに襲われているのである。「自分たちの想いが踏みつけにされた」と怒るのは無理もないであろう。メンツを潰されるのは誰にとっても嫌なものなのだ。私はその怒りを理解する。しかもそれは、単なるメンツの問題ではなく国際合意のあり方にもかかわっているのである。
中国の怒りへの無理解
ところが、その怒りを理解しない言説が巷に溢れている。中国の態度を行きすぎとしたり、どっちもどっち論が幅を利かせているようである。それは、怒りの原因を見ないままに、怒りの表現の仕方を問題にする皮相な言説である。怒り方を問題にする前にその怒りの質と原因を理解することから始めるべきであろう。
そもそも、国際法の基礎は「合意は拘束する」ということにある。その合意を一方的に破られた場合、破られた側としては、外交的抗議・交渉、報復的・制裁的措置などは許容されている。現在、中国がとっている措置はこの理屈に拠っているのである。言葉使いには気を付けた方がいいかもしれないけれどけれど「合意を破ること」はそういう重大な行為だということを肝に据えておかなければならない。日本政府にはその自覚がないようである。
もちろん、このことを理由とする「武力の行使」は国際法違反ということになるけれど、非軍事的な対抗措置を責めることはできない。逆に、日本側の対抗措置はその根拠を欠いているのである。これ以上事態を悪化させない唯一の方法は答弁を撤回し謝罪することである。「中国の怒りはその内おさまるだろう」などという方策は下策中の下策である。それは当面の外交どころか「国家百年の計」を誤ることになるであろう。
日本政府の本音
ところで、政府は、高市答弁は従前の政府答弁を変更するものではないとしている。私は、その答弁には大きな転換があるし、それが中国の怒りの原因だと考えているので、日本政府のこのような姿勢は火に油を注ぐことになるであろうと予測している。
けれども、日本政府は、そもそも「台湾有事」に際して自衛隊を出動できる仕組みを考えてきたのである。そういう意味では、従前の姿勢と高市答弁は何も変わらないのである。むしろ、高市首相は正直に語っただけなのである。
「安保法制」や「安保三文書」は中国の行動を制御するための法制度であり戦略文書である。外交上の配慮をして曖昧にしている部分はあるけれど、日本政府が米国の対中国政策の転換を受けて、米国の走狗となっていることなど、中国が見抜かないわけがないであろう。「安保三文書」を前倒ししようとしている高市首相は、外交的配慮を欠いたまま「走狗としての本性」をさらしてしまったのである。幼稚で浅はかというしかない。けれども、私たちはそれを嘲笑しているわけにはいかない。この国で現実に起きていることだからである。私たちには、新たな犠牲者の発生を止めるための努力が求められているのである。
トランプ大統領は「新たな核実験再開」を指示し、高市首相はそのトランプ大統領に「ノーベル平和賞を」と言い立て「非核三原則」の見直しも視野に入れていることも忘れてはならない。彼女は「死神のパシリ」でもあるのだ。新たな犠牲者には新たな被爆者が含まれるかもしれないのである。史上最悪の危険な政権が高い支持率の中で暴走している現実を見据えての対抗策を構築しなければならない。まずは、高市発言の撤回と謝罪であり、続いては「安保三文書」の廃絶と「安保法制」の廃止である。(2025年11月20日記)
2025.11.6
『毎日新聞』のコラム
『毎日新聞』の夕刊に「今日も惑いて日が暮れる」というコラムがある。吉井理記氏の筆である。10月29日は「高市さんの憲法観」というテーマだった。憲法学者の小林節氏と高市早苗氏の「立憲主義」についてのやり取りを紹介している興味深いものだった。小林氏は、もともとは憲法9条改正を訴え、自民党や読売新聞の憲法改正の理論的支柱だった人だけれど、今は、「護憲派」として『赤旗日曜版』の拡大に協力している人だ。「変節」という人もいるけれど、ご本人は「今なお学んで、進化し続けているということだ。成長の一過程だ」として意に介していないようだ。私も「護憲派」から「改憲派」に鞍替えするのは「転向」だと思うけれど、この「進化」は大いに歓迎している。
コラムによると、その小林氏が高市氏を痛烈に批判していたことがあるという。小林氏が「憲法は、国家権力が乱用されて国民の人権を侵害しないよう、あらかじめ縛っておくものだ。近代国家の前提である『立憲主義』という考えだ」だと説明したら、高市氏が「私はその考えをとりません」と言ったというのだ。それは、2006年5月18日の衆議院憲法特別委員会に端を発している。
憲法特別委員会でのやり取り
2006年5月18日、衆議院憲法特別委員会に小林節氏が参考人として出席している。高市氏は自民党の議員として小林氏にこんな質問している。「おそらく先生は、憲法というのは国家の権力を制限する、国民の権利を守るための制限規範的なとらえ方を主に持ってくるべきだというお考えなのだろうと思います。それは憲法の重要な役割なんだと思うんですが、私自身は、昨今、やはり国民の命を確実に守る、それから領土の保全、独立統治というものを確保するために、国家に新たな役割を担ってもらう授権規範的な要素もいくらかは必要だと思います…。」
これに対し小林氏は「権力というのは、歴史上、本質的に濫用、堕落する危険がある。それは人間の本質で、これは一向に改まっていません。古今東西」、「だから歯止めをかけておく。濫用されたとき跳ね返す。これ憲法の基本的役割なんですね。これなくしては憲法じゃなくなっちゃうんですね。…制限規範、授権規範なんて、…そこを強調することは非常に目新しいけれども、それは誤用であると申し上げておきます。」と答えている。
それに対して高市氏は「私自身は誤用であると思っていない」と反応するのである。
高市首相の「立憲主義」理解
この質疑には「私はその説を取りません」という言葉は出てこない けれども、高市氏の質問は、制限規範とか授権規範とかの用語を使用しながら、憲法の権力に対する制限規範としての役割を減殺しようとしていることは見え見えである。また、小林氏に、その用語の使用について「非常に目新しい」などと(私から見れば)皮肉られているにもかかわらず「誤用ではない」と言い張っているのである。このやり取りを体験している小林氏が、高市氏は立憲主義について「私はその考えをとりません」と言っていると紹介しても曲解ではないであろう。彼女の立憲主義についての無理解は明白だからである。
高市首相の理解の問題点
小林氏が説明している「立憲主義」はいわば憲法学における「公理」のようなもので、個人が採用するかどうかという問題ではない。彼女の物言いはあえて言えば「私は『1+1=2』という考えはとりません」と言っているようなものなのだ。フェイスブックでは「これは驚きましたね。立憲主義って国家の動かし方は憲法で決めるというものですが、それを取らないということは、憲法にしたがって就いた内閣総理大臣という地位も、私は認めないということですよ」、「うちは労働基準法採用していません、っていう中小企業のシャチョサンみたい」、「この人は憲法を校則ぐらいにしか考えていないのだろうか?だとしたら危険極まりない人だ」、「国会議員にも憲法学や法学概論に関する研修の履修を義務付けるべきかと思いますね」などと盛り上がっている。
まとめ
今、この国ではこういう人が首相をしているのだ。私は、高市氏が「戦後生まれだから戦争責任などはない」とか「さもしい顔して貰えるものは貰おうとか、弱者のフリをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまう」という発言をしていることは知っていたけれど、立憲主義を理解していないことは知らなかった。おまけに、彼女は非核三原則の「持ち込ませず」を見直そうと言っているし、トランプ大統領の核実験再開指示に反対していないのである。彼女は「悪魔の兵器」に依存しているのである。そもそも日本国憲法など眼中にない人なのであろう。
けれども、彼女の支持率は高いのだ。しかも、若年層の支持率が高いのだ。「その国の民度はその国の宰相を見ればわかる」そうだから、この国の民度はこの程度なのかもしれない。けれとも、この国で同時代を生きているのだから、それを冷笑すればいいというわけにもいかないであろう。何とかしなければいけない。(2025年11月4日記)
2025.11.6
より危険になった世界
トランプが核実験再開を言い出した。「核爆発を伴うものではなく未臨界実験だから心配いらない」などという言説も流布されているけれど、トランプは「爆発を伴わない実験」に限定していない。そもそも、どちらの実験であれ核実験であることには変わりがない。核実験の再開は核兵器使用の準備である。使わない兵器の実験など無意味であり無駄だからだ。トランプは核戦争の準備を始めたのである。
トランプに核兵器を使用しない意思もなくす意思もないことは明らかだ。彼は、第1期政権の時「なぜ核兵器を使用してはいけないのか」を何度も確認したそうだ。彼には核兵器使用についての躊躇いはなかったのだ。そして、今、彼は再び「核のボタン」を押す権限を持っている。彼がそのボタンを押せば核ミサイルが発射されることになる。そのミサイルを呼び戻す方法はない。トランプによって、世界はより危険になったのだ。まず、そのことの確認をしておきたい。
核兵器使用は「タブー」
米国も締約国である核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争が全人類に惨害をもたらす」のでそれを避けるための条約である。だから、NPT6条は、核兵器の拡散だけではなく、核軍拡競争の停止や核軍縮を核兵器国に求めているのである。また、「核戦争に勝者はない。核戦争を戦ってはならない」ことは核兵器国の首脳の一致した見解でもある。核戦争は国際法上も国際政治の上でも「タブー」なのである。これは「核兵器禁止条約」の要請ではないので、トランプも拘束されている原則である。トランプはそのタブーに挑戦したのである。
また、米国は包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名している。この条約は発効していないけれど、署名国には「条約の目的と趣旨を損なわないよう行動する義務」がある(ウィーン条約法条約18条)。彼は国際法も国際政治の到達点も完全に無視しているのである。彼は、大統領選に敗北した時、支持者を議会に乱入させた「無法者」だけれど、今回も「無法者」ぶりを発揮しているのである。
日本政府の態度
高市政権は「核実験再開指示」についてコメントしないとしている。「唯一の戦争被爆国」である日本政府が反対しないのである。なぜそのような態度なのであろうか。それは、トランプや高市は核兵器を必要だと考えているからである。彼らにとって核兵器は自国の安全を確保するための最終兵器(「守護神」)なのである。核兵器によって「敵国」からの攻撃を抑止し、万一攻撃すれば「核兵器で反撃してお前を抹殺するぞ」という脅しで自国の安全を確保するという「核抑止論」に帰依しているのである。
核戦力を強化している中国、挑発を繰り返す北朝鮮、侵略戦争を継続するロシアなどに対抗するためには、自衛隊の「敵基地攻撃能力」だけではなく、国を挙げて防衛力の強化を推進し、米国の核戦力を含む拡大抑止に依存するとしている日本政府からすれば、米国の核戦力が強化されることに反対する理由はないのである。むしろお願いしたいことであろう。反対するわけにはいかないし賛成ともいえないので「ノーコメント」なのである。
「安保三文書」の前倒しと自民と維新の「合意文書」
高市政権は、トランプの核実験再開指示に反対しないだけではなく「安保三文書」を前倒しで進めると米国政府に約束している。これは、日本の軍国主義化の速度を速めるということを意味している。しかも、自民党と維新の「連立政権合意文書」には「憲法9条改正に関する両党の条文起草協議会を設置する。設置時期は、25年臨時国会中とする」との条項もある。
高市政権は核兵器の力によって日本の安全を確保するとするだけではなく、日本国憲法9条を廃棄しようとしているのである。「国家安全保障戦略」によれば、中国、北朝鮮、ロシアに対抗して防衛力を強化することが「希望の世界」への道だとされている。他方、日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持する」としている。「核のホロコースト」の上に徹底した非軍事平和思想にもとづいているのである。
「核を含む軍事力による安全」を求める勢力からすれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義による安全」などを想定する日本国憲法は「獅子身中の虫」なのである。彼らはその虫を退治したいのである。
私たちは「核兵器による平和」か「平和を愛する諸国民との公正と信義による平和」かの大分岐点にあるのだ。
トランプの核実験再開指示発言は、私たちに、改めてそれを問いかけている(文中敬称略)。(2025年11月5日記)
2025.10.20
はじめに
自民党と日本維新の会(以下、維新)の癒着が進行している。このままいくと、高市早苗氏が総理大臣になりそうである。私は、高市氏は「歴史に学ぶ」という最も基本的な営みを拒否する人なので総理大臣に相応しくないと思っている。けれども、維新の諸君はそうではなく、条件が整えば共同してもいいとしているのである。その条件としていくつかのことを挙げているけれど、もっとも大事なことは「国会議員定数の削減」だという。そして、自民党もその条件を受け入れたと報道されている。
その定数削減が衆議院なのか参議院なのか、何人にするのか、比例部分なのか小選挙区部分なのかなどについては未定であるが、とにかく減らすことは合意されたようである。10月17日時点では、削減数は50人程度とされ、比例部分のようである。そして、その削減の理由は「身を切る改革」だとされている。要するに、国会議員のために使われる国庫金を減らすために議員を減らすというのである。
国会議員を減らすことの問題点
これは大問題である。国会は唯一の立法機関であり、国権の最高機関である(憲法41条)。国会は「全国民を代表する選挙された議員で組織する」とされている(憲法43条1項)。国会議員は民意を国会に反映させる任務を負っているのである。その定数は法律で定められるけれど(憲法43条2項)、その数が少なければ少ないほど国民の声が届きにくくなることは自明である。自民党と維新は現在の数を減らそうというのである。
しかも、比例代表部分を減らそうとしているのである。そうなれば、少数派の意見が反映しにくくなる。これは選挙制度のイロハの知識である。現行の選挙制度は「小選挙区比例並立制」とされている。その比例部分を削減することは「少数派を切り捨てる」という小選挙区制の弊害が一層顕著になる。少数派の意見を尊重することは、社会の活性化のために不可欠なシステムである。「社会が荒廃した精神的軽薄さと退廃から自分を防御する唯一の道は、少数者の権利の承認である。」(ゲオルク・イェリネック『少数者の権利』)という指摘を思い出しておきたい。
自民党と維新は、国民主権国家における代議制民主主義の原理を理解していないのである。彼らの無知と無責任さを確認しておく。
国会議員の定数を50減らした場合の試算
現在、国家議員一人当たりに費やされている国庫金は年間約7531万円である(2024年の予算ベース)。その内訳は、歳費約2180万円、調査研究広報滞在費約1200万円、立法事務費約780万円、公設秘書給与三人分約3180万円、JRパス・航空機利用経費約190万円である(生成AIによる。合計は1万円合わないがそれは四捨五入の影響)。この数字を基にして、国会議員の数を50人減らすと、国庫金の負担は37億6550万円減ることになる。
彼らは、その金額のために代議制民主主義の機能を減殺しようとしているのである。それはまた、国民の参政権の実質的価値を減殺することにもなる。民意を立法府に届きにくくするとはそういう意味なのである。彼らにとって、民主主義も参政権もその程度のものなのであろう。これが、彼らがいう「身を切る改革」の正体である。
政党助成金の温存
さらに看過できないことは、彼らは政党助成金を温存していることである。そもそも、政党助成金は税金が原資なので、自分の納めた税金が全く支持していない政党に交付されることもありうる。共産党は「政党助成金は憲法違反」としてその受領を拒否しているので共産党支持者の場合は間違いなくそうなる。
国民が納めた税金のうち250円が自働的に各政党に交付されている。国民の「思想及び良心の自由」(憲法19条)の一場面である「政党への寄付の自由」は完全に無視されているのである。徴収を拒否できない税金が、個人の意思に関係なく、自民党や維新に交付されているのだ。支持しない政党への強制カンパといえよう。彼らはそのことには全く触れない。(おまけに、企業・団体献金の禁止は棚上げされている。)
ところで、今年度の政党助成金の交付総額は315億3652万円である。うち自民党へは136億3952万2千円、維新へは32億922万7千円である。彼らが本気で「身を切る改革」をやるというのなら政党助成金を廃止すればいいだけの話で、国会議員の定数を減らす必要などは全くない。その方が国会議員を50名減らすよりも桁違いに効果的なのである。「身を切る改革としての定数削減」などというのは限りなくフェイクである。
まとめ
このように、自民党と維新が進めている国会議員の定数を減らすという合意は「改革もどき」というだけではなく、代議制民主主義を軽視する「有害な代物」なのである。彼らは何が大事なことなのかを全く判っていない。国民主権国家における定数削減問題がもっている「ことの重大性」を完全に無視し、「数合わせ」だけに関心を寄せているのである。無知と強欲がのさばり、国民主権や基本的人権は忘却されている。
自民党と維新は、37億円の国庫金を巡っての合意で、この国の政治を決めようとしているのである。なんとも情けないと思う。何とかしなければならない。まずは、彼らのいう「身を切る改革」の正体を広げることにしよう。(2025年10月18日記)
2025.10.15
参政党の塩入清香(しおいり さやか)氏が、7月3日に配信された日本テレビの番組で「あの北朝鮮ですらも核兵器を保有すると、国際社会の中でトランプ大統領と話ができるぐらいまでにはいく」、「核武装が最も安上がりで、最も安全を強化する策の一つ」と述べたことは記憶に新しい。参政党の国会議員のうち6人は「日本は核兵器を保有すべきだ」としているから(『毎日新聞』8月1日付)、参政党の諸君は核兵器を廃絶するなどとは全く考えておらず、日本も核武装すべきだとしているようである。私はこのような考えを心の底から忌み嫌っている。
その理由は、そもそも「核と人類は共存できない」と考えているからだ。私は被爆者の証言や「原爆裁判」などから核兵器が「死神であり、世界の破壊者」あることを知っている。だから、核兵器が必要だとか役に立つなどという連中は人間として許せないし「死神のパシリ」とみなしているのである。
それに加えて、日本は核兵器不拡散条約(NPT)の加盟国として、核兵器を保有しないという条約上の義務を負っているからである。憲法は、締結した条約は誠実に遵守するとしているし(98条)、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負っている(99条)。だから、国会議員は「核兵器保有」を言ってはならない立場にあるのだ。よって、日本が核武装すべきだとする議員はNPTや憲法を無視する「無法者」ということになる。
このことだけでも、参政党の諸君の非人間性と無知は明らかではあるけれど、それに加えて、核武装は決して安上がりではないことも知らないようだ。核兵器がいかに「高くつくか」について『毎日新聞』10月10日付夕刊が興味深い記事を掲載している。「『核兵器が安上がりである』と吹聴する人、安易に信じる人がいる。本当なの? あえて核武装の費用対効果を専門家と検証」するという記事である。
記事は三例を挙げている。1968年と70年に内閣調査室がまとめた「日本の核政策に関する基礎的研究」、山崎正勝東京工業大学名誉教授の見解、鈴木達治郎長崎大学核兵器廃絶研究センター前センター長の見解である。
内閣調査室の報告
この報告は政府の秘密研究の成果である。その結論は「核武装は可能だが持てない」である。技術や組織、政治、外交などの幅広い観点から検討し、わずかな核兵器で抑止力を維持するのは困難、外交的孤立は不可避、国民の支持も得にくいという理由である。コストについては「10年間に年平均2016億円」とされ、現在の価値に換算すると「8千億円から9千億円」だという。報告書は「財政状況から見て極めて難しい」としていた。政府はコスパも検討したうえで、「核武装」を断念し、米国の核の傘と核兵器不拡散条約(NPT)を選択したのである。
山崎正勝氏の見解
山崎氏は「核武装すれば世界で孤立する。孤立したら経済的損失は計り知れない」としている。今になって核を持てば、NPTを脱退することになり、北朝鮮のように国連の経済制裁を科され、食料もエネルギーも自給率の低いわが国では国民生活が成り立たなくなるというのである。「核武装するから米国製の兵器は買いませんなんて言えるのか」とも言う。また、核兵器にすれば数千発分に相当するプルトニウムも保有しているけれど、使用済み燃料から取り出したプルトニウムは核兵器に不向きな同位体の比率が高く「現実には1発も作れないのではないか」としている。核武装は政治的選択としても技術的にも無理という結論である。私は現有のプルトニウムが核兵器に向かないということは知らなかった。
鈴木達治郎氏の見解
「核爆弾を作れたとしても、核武装が安上がりと主張する人は核兵器システムの構築と維持にかかる巨大コストをご存じないのでは」。「抑止力だというなら核弾頭を運搬するミサイル、爆撃機、原子力潜水艦の外、相手の攻撃を検知して反撃するシステムも欠かせない。膨大な投資と時間が必要。核実験も必要だけど、狭い国のどこでやるの? 地震国だから地下でやるのも巨費がかかります」と指摘している。そして、核兵器国の核兵器予算は年約15兆円だったというICANの報告を紹介している。「そもそも、核を持てば安全だなどというのは幻想。米国は9.11の攻撃を受けたし、イギリスもフォークランドで攻められ、イスラエルもハマスの攻撃を受けた。核抑止なんて、結局、相手次第なんだから」という指摘もある。注目したいのは、日米韓の共同研究の結果である。最悪の想定は、台湾有事をめぐる米中の争いで、計24発の核兵器が使用され、短期で260万人が死亡し、放射線の影響で長期的には最大83万人が亡くなる可能性があるとされている。何とも身の毛のよだつようなシミュレーションである。
記事は「唯一の戦争被爆国が核武装すれば国際的信用は失われ、被爆者を中心とした核廃絶の取組も水泡に帰す。その損失は、もはや金銭では代替できまい」、「新政権発足前に一言お伝えしたい。核武装は決して安くありません」と結ばれている。
参政党の諸君がどこまで考えて行動しているかは知らない。多分、体系的な思考などしていないであろう。核兵器という究極の暴力についての認識の浅さからして、彼らの無知と無責任さは度を越していると言えよう。彼らのような勢力が一定の力を持っていることも視野に入れなければならないけれど、彼らの言動の虚妄と危険性を暴いてくれる知性も間違いなく存在しているのである。そのことに確信をもって「核兵器も戦争もない世界」を創るための努力を続けることにしよう。(2025年10月13日記)
2025.10.9
はじめに
麻生太郎氏(1940年9月20日生)が、高市早苗自民党総裁によって、副総裁に指名された。麻生氏は最高顧問だったけれど副総裁となったのだ。最高顧問は元首相や重鎮議員などが就任する名誉職的ポジションだけれど、副総裁は党内で総裁に次ぐナンバー2であり、役職政策・選挙・人事などに関与するとされている。高市・麻生体制となったのである。私は、高市氏は歴史に学ぶ必要性を否定する危険人物だと評価しているけれど、麻生氏も高市氏に劣らない危険人物だと思っている。その理由は、一つは彼の「ナチスに学べ」発言であり、もう一つは「台湾有事は日本有事」発言である。この小論では、彼の二つの発言を紹介し、その無責任さと危険性を検証する。
「ナチスに学べ」発言
2013年7月29日。麻生氏は、民間シンクタンク国家基本問題研究所のシンポジウムで「僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)三分の二(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。(略)ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。…憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。」と講演した(辻本清美氏の質問主意書からの引用)。このことは、当時、マスコミでも報道されたので、記憶している人も多いであろう。
この発言は「ナチスの手法を参考にして憲法改正を進めるべきだ」という主張として受け止められた。私もその一人だった。だから、この発言を「プロパガンダの天才」と言われたナチスの宣伝相ゲッペルスが、どのような手法で大衆を動員したかを批判する文脈の中で紹介したことがある(「ゲッペルスのプロパガンダを表現の自由で擁護してはならない」。『「核の時代」と憲法9条』日本評論社、2019年所収)。憲法改正手続きの中で、ナチスの手法など持ち込まれたら大変なことになるという危機感があったのだ。
ところで、この「ナチスの手口に学べ」という表現が、ナチスの独裁的手法を肯定しているように受け取られたので、国内外からの強い批判が寄せられることになった。だから、麻生氏は、8月1日、その発言の一部を撤回している。その理由は「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。この例示が誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。」というものであった。
彼は「ナチスのようにワーワー騒がないで静かにやっていく」と言ったけれど、それは「喧騒にまぎれて国民的議論がなかった悪しき例」として挙げたのだ。誤解を招いたので撤回するとしたのだ。これは説明になっていない。そして、誰も誤解などしていない。麻生氏は、ナチスは暴力と陰謀と懐柔で権力奪取をしていたにもかかわらず「ナチスに学べ」と言ったのである。
麻生氏の発言と撤回の意味
当時、麻生氏は副総理兼財務大臣という要職にあった。私は、そのような立場にある人が「憲法改正」という重要事項について「ナチスに学べ」という発言をすることも大問題だと思うけれど、それをたやすく撤回して、なかったことにすることも大問題だと思っている。「綸言汗の如し」(りんげんあせのごとし。一度口にした君主の言は取り消すことができない、という意味)をここで引用することは適切かどうかわからないけれど、麻生氏が責任感を持つ政治家ならば、たやすく撤回するような発言はすべきではないであろう。権力の中枢にある者は、その発する言葉の重さを自覚すべきだからである。麻生氏にその自覚はないようである。彼はそのような無責任な資質の持ち主なのである。
ところで、麻生氏の危険性は彼が「ナチスに学べ」としていることである。彼は、ナチスが、ワイマール体制下において政権を奪取していく方法や手段を否定していないのである。そして、ナチスが大戦争を仕掛けていったことにも反対しないどころか、むしろ共感を示しているようである。
私は彼の論理を次のように受け止めている。ドイツ国民はナチスを選んだ。国民の多数が選んだものは正しい。ナチスは多数を確保するために工夫した。だから、ナチスに学んで「憲法改正」で多数派になろう。政治的多数派は何をしてもいいのだ。多数派になるために何でもやろう、という論理である。
現役の国務大臣が現行憲法の改正を進めるために「ナチスに学べ」というのは、立憲主義も平和主義も全く無視していることになる。立憲主義や平和主義が失われた時「政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされる」ことになる。麻生氏の危険性の本質はここにある。
「台湾有事は日本有事」
2024年1月10日。麻生氏(自民党副総裁・当時)は、米国で記者団に「(台湾海峡有事は)日本の存立危機事態だと日本政府が判断をする可能性が極めて大きい」と述べ、日本は中国の台湾侵攻時に集団的自衛権を発動する可能性が高いという考えを示した(『朝日新聞』2024年1月11日)。麻生氏はこれに先立ち「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠。日本・台湾・米国は戦う覚悟を持ち、それを相手に伝えることが抑止力になる」 (2023年8月8日の台湾訪問時)とか、「台湾海峡で戦争となれば、日本は潜水艦や軍艦で戦う。台湾有事は間違いなく日本の存立危機事態だ」(2024年1月8日の福岡での国政報告会)などと発言している。彼は「台湾有事は日本の存立危機事態、すなわち日本有事」としているのである。
ところで、存立危機事態とは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と定義されている(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律2条4号)。
だから、台湾で日本以外の当事者間での武力衝突が起きたとしても「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」でなければ「存立危機事態」ではないのである。
けれども、麻生氏は、そのことには触れようとしないで「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠」として「日本は潜水艦や軍艦で戦う」としているのである。
彼の発想には中国と米国(台湾)が武力衝突しても「日本はどちらにも与しない」という選択肢はない。米国が戦闘態勢に入れば「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとして、内閣総理大臣が自衛隊に防衛出動を命ずる(自衛隊法76条)ことを当然としているのである。日本に武力攻撃がないにもかかわらず、日本が戦争当事者になることを当然視しているのである。戦争を放棄している日本国憲法のもとで、日本に対する攻撃がないにもかかわらず、戦争が起きるのである。それは、自衛隊による中国本土の基地攻撃や、中国からの攻撃を意味している。政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされるのである。
まとめ
確認しておくと、麻生氏はナチスへの親近感がある人だということと、「台湾有事」を「日本有事」にしないという発想は皆無の人だということである。こういう人が、自民党副総裁として、「戦後生まれだから戦争責任など問われるいわれはない」として「過去に学ぼうとしない」総裁とタッグを組んだのである。私たちはその危険な組み合わせに敏感でなければならない。危険が相乗効果を発揮するかもしれないからである。
2016年5月27日。広島を訪問したにオバマ元米国大統領は「71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました。一つの閃光と火の海が街を破壊し、人類が自らを破壊する手段を手に入れたことがはっきりと示されたのです。」と演説している。現代は「人類が自らを破壊する手段を手に入れた」時代なのだ。
中国は核兵器保有国である。米国が日本のために中国に対して核兵器を使用するなどといことはあり得ないであろう。米国の核が中国の日本に対する攻撃を抑止し、日本の安全を保障するなどというのは「天動説」並みの謬論である。
このままでは、日本が、長崎以降、初めての核兵器を使用される戦場になるかもしれない。新たな被爆者が生まれるかもしれないのだ。私たちには「空から死が落ちてくる」事態を阻止する営みが求められている。(2025年10月9日記)
2025.10.6
はじめに
9月27日、シンポジュウム「世界終末時計、あと89秒。私たちは止めることができるか」にパネリストとして参加した。主催はNGO IALRW JAPANだ。IALRWの正式名称はInternational Association of Liberal Religious Womenで、1910年にベルリンで設立され、以来、世界中のリベラルな宗教家の女性たちを結びつけてきた組織だそうだ。その日本委員長の松井ケティさんに誘われたのだ。彼女とは1999年の「ハーグ平和市民会議」以来の友人であれこれの交流がある。私が彼女に日本反核法律家協会の声明の英訳をお願いしたり、私が彼女の依頼で米国のロータリークラブの人に話をしたりしている。私も人類の自滅を避けるために「核兵器も戦争もない世界」を創りたいと思っているので、喜んで参加させてもらった。
シンポのテーマは「世界終末時計、あと89秒。私たちは止めることができるか」とされているけれど、これは本当に深刻な事態なのだ。この警告をしているのは、核兵器の威力を最もよく知っている米国の科学者たちだ。決してフェイクニュースを流すようないかがわしい人たちではない。その彼らが、1947年以降、世界の終わりに最も近づいていると警告しているのだから、しっかりと耳を傾けなければいけないであろう。
今、国連で語られていること
そのことで、共有しておきたいことがある。それは、9月26日に開催された「核兵器全面廃絶国際デー」の会合で、国連のグテーレス事務総長が「世界は無自覚なままに、より複雑かつ予測不可能で、より危険な核軍拡競争に陥っている。」と警鐘を鳴らしていることと田中聰司日本被団協代表理事が「核を持つ国の戦争を止められず、第3次世界大戦の感があります。核兵器が使われるリスクは極限に達しました。核兵器禁止条約ができたものの、核軍拡競争は止まりません。人類は全滅の瀬戸際です。被爆者が10年経ったらいなくなると、若者たちからしばしば心配されます。その度に私は答えます。『被爆者の余命を心配する前に、自分たちの命の方が短いことを心配しよう』と。人類最後の日までの時間を示す終末時計は89秒しかなくなったのです。」と「被爆者からのメッセージ」を述べていることだ(『赤旗』9月28日付)。グテーレス氏は世界の情勢をもっとも良く知る立場にあるし、日本被団協は核のタブーを形成し「核兵器も戦争もない世界」を創ることを提案している人たちだ。このシンボは、今、国連で語られていることと共鳴しているのである。
シンポの内容
パネリストは私とICANの川崎哲さん、ヒロシマ宗教平和センター理事長で被爆2世の上田知子さん。松井さんがモデレーターを務めた。核戦争や気候変動などによる人類絶滅の危機まであと89秒と言われているけれど、それを止めることができるのか、パネリストの話を聞くだけではなく、自分に何ができるのかを考えようということもテーマとされていた。講師の話を聞くだけではなく、自分事として考えようというのだ。大切な視点だと思う。
私は「原爆裁判」を題材に、原爆投下の国際法違反、被爆者支援についての「政治の貧困」、戦争のない世界は「全人類の希望」でありそれは9条が想定しているという話をさせてもらった。結論は「核兵器も戦争もなくすことはできる。それは人間が作ったものであり、人間の営みだからだ。」である。
川崎さんは「核兵器全面廃絶国際デー」を期して、核兵器禁止条約の署名・批准・加盟国が99か国になり。条約加盟資格のある197か国の半数を超えたことを報告していた。最新のニュースだ。中央アジアのキルギスが署名して署名国が95、西アフリカのガーナが批准したので批准国は74、加盟した国が4カ国あるので、条約に参加している国家は99になったのである。
上田さんは広島平和文化センター被爆体験伝承者としての活動などを生き生きと報告していた。こういう機会は初めてなのでなどと言っていたけれど、やはり、被爆者と直接かかわる運動をしている方の報告は心に響く。
このシンポでは、話を聞くだけではなく、参加者(約70名)同士がグループに分かれて自分たちに何ができるのか話し合うということも行われた。私が参加したグループでは「弁護士さんの話は難しかったけど、自分も何かしなければならないことはわかった。何から始めればいいのか。」という話が出ていた。私は、川崎さんが「核兵器廃絶日本キャンペーン」のチラシを持ち込んでいたので「まず、このキャンペーンに参加することはどうでしょうか。」と勧めておいた。参加者の主体性を尊重するイベントはこういう形で実を結ぶのであろう。
三つのエピソード
シンポ終了後、『朝日新聞』がエマニエル・トッドを日本に呼ぶようだけれど心配だという研究者と話をする機会があった。彼女は、核保有を言い立てる政治勢力が国会で議席を占めるような状況の中で、日本に核武装を勧めるトッドを呼ぶことを憂慮していたのだ。私は『朝日』のその企画は知らなかったけれど彼女の憂慮には共感した。そして、うれしかった。私は核武装を口にする人間を「死神のパシリ」とみなしているからだ。私は拙著『「核兵器廃絶」と憲法9条』(日本評論社、2023年)でトッドの『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年)を取り上げて、トッドの「日本への核武装のお勧め」を拒否しておいた。その結びは「私は、ある人の知性の有無やその程度については、その人物の核兵器についての認識で計測することにしている。私は、彼を「現代最高の知性」などと持ち上げることに同意できない。」である。私は、当日持ち込んでいた同書を彼女に購入してもらった。
もう一つ紹介しておきたいのは、シンポの全体の進行役をしていた博士課程に学ぶ女性からこんなメールをもらったことだ。「大久保様の講演を通じて、核兵器廃絶に至らない日本が抱える矛盾がはっきりと示され、法律に関して全くの無知である私でさえも、心にスッと入ってくる内容ばかりで、大変貴重な学びとなりました。…本日得た学びを今後の研究に活かしていく所存でございます」。こういうメールは本当にうれしいものだ。自分が話したことがきちんと伝わっていることを確認できるからだ。
三つめは、松井さんの学生二人と栗の入ったモンブランを食べながらおしゃべりをしたことだ。私は彼女たちの祖父母と同世代である。二人とも真剣に考えていた。勉強が好きとも言っていた。学生時代の問題意識や勉強を活かす場所がないということも話題になった。核兵器や戦争をなくすなどという問題意識を持っていても、会社勤めをしてしまうと、どうにも活かす方法はないのだ。私の近くには、その問題意識を持ちながら、起業する若者もいるけれど、それを多くの人に求めることはできないであろう。何ともじれったい課題である。
今回のシンポに参加して、核兵器も戦争もない世界を創る営みは、色々な形があるのだと改めて感じた。誘ってくれた松井さんとシンポを運営していただいた皆さんに心から感謝したい。(2025年9月29日記)
2025.8.4
参政党が躍進した
今回の参議院選挙の結果について、あなたはどう感じていますか。私は、自公が参議院でも過半数を割ったことはいいことだけれど、手放しでは喜べないと思っています。なぜなら、参政党が大きく議席を増やし、他方で、日本共産党が得票数も得票率も議席も大きく減らしているからです。自公が少数になったとしても、参政党のような政党が増えることは、今後の日本社会にとって、むしろ危険だと思えてならないのです。加えて、共産党のような、現在の政治状況にきちんと向き合い、科学的な分析と説得的な政策を提示する政党が衰退するということは、二重の意味で危険な兆候だと思うからです。
そこで、参政党の危険性はどこにあるのかについて考えてみることにします。ただし、自民党衰退の原因を作った旧安倍派の諸君が石破首相に退陣を迫ったり、高市早苗氏のような極右よりましだということで「石破辞めるな」のデモも行われていますが、ここではそのことには触れません。また、一人区での共闘が功を奏していることにも触れません。
そして、共産党がなぜ減少したのかについても触れないことにします。私は、伊藤岳さんの当選と共産党の躍進を願って行動したけれど、共産党全体の選挙方針について知りうる立場にないからです。共産党は、党内外の意見を踏まえて、その原因を探求するとしているので、その結果に期待することにしています。
まず、参政党の基本的スタンスを確認しましょう。
参政党の主張
参政党は次のようなことを言っています。
今のままの政治では日本が日本ではなくなってしまう。参政党はそんな危機感から有志が集まり、ゼロからつくった国政政党です。私たちには特定の支援団体も資金源もありません。同じ想いを持った普通の国民が集まり、「子供や孫の世代によい日本を残したい」
という想いひとつで活動を続けています。
ここでは、ある種の危機意識が述べられています。そして、普通の国民が、より良い日本を残したいという想いで活動しているとされています。「次は俺たちの番だ―これ以上日本を壊すな」ということです。けれども、関心は日本のことだけです。「日本人ファースト」が大前提なのです。
参政党の重大三大政策は次のとおりです。
① 笑顔の子どもたち 教育・人づくり 学力(テストの点数)より 学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の高い日本人の育成
② 生い茂る木々 食と健康・ 環境保全 化学的な物質に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求
③ 笑顔の日本地図 国のまもり 日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり
何気なく見ていると、そうだよねと思われるかもしれません。けれども、「日本人の育成」であり、「化学物質に依存しない」であり、「国を守る体制」が強調されているのです。このように、参政党の三大政策には、排外主義や科学軽視や自前の軍事力依存などが埋め込まれているのです。
次に、参政党の核兵器観と憲法観を検討します。私は、その人や組織の正体を見破る物差しとして、その核兵器観と憲法観を物差しにしています。核兵器に依存しようとしているのかそれとも廃絶しようとしているのか、憲法の諸価値をどのように評価しているのかを物差しにすれば、その人や組織の知性と理性の程度が見えてくるからです。まず、核兵器観です。
参政党の核兵器観
参政党の神谷宗幣(かみや そうへい)氏は、2022年当時、ただ一人の核兵器保有賛成の議員でした。今回、東京選挙区から当選した塩入清香 (しおいり さやか)氏は「核武装が最も安上がりで、最も安全を強化する策の一つ」と発言しました。参政党の国会議員のうち6人は「日本は核兵器を保有すべきだ」としているそうです(『毎日新聞』8月1日付)。こうしてみると、参政党の諸君は核兵器を廃絶するなどとは全く考えておらず、日本も核武装すべきだとしているようです。
私は、そもそも「核と人類は共存できない」と考えています。被爆者のたたかいや「原爆裁判」などから核兵器が「死神であり、世界の破壊者」であることを知っているからです。だから、核兵器が必要だとか役に立つなどと言い立てる連中は人間として許せないし「死神のパシリ」とみなしています。
それに加えて、日本は核兵器不拡散条約(NPT)の加盟国です。日本は非核兵器国として核兵器を保有しないという条約上の義務を負っているのです。そして、憲法は、日本国が締結した条約は誠実に順守するとしていますし(98条)、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負っているのです(99条)。国会議員は「核兵器保有」を言ってはならない立場にあるのです。だから、日本が核武装すべきだとする議員は、NPTや憲法を知らないか、無視しているのです。愚かでなければ無責任な諸君ということになります。いずれにしても、国会議員の資格はないのです。参政党はそのような諸君の群れなのです。
参政党の新日本憲法
参政党のHPには、「新日本憲法」の構想案が掲載されています。それは、現行憲法の一部を改正する「改憲」ではなく、国民自身が主体となって憲法を一から創り直す「創憲」だとされています。
確かに、この構想案は憲法を一から創り直しています。天皇は悠久であり、国民もまた天皇を敬慕するとされ、国民主権などは消えています。主権は国にあるとされ、君が代や日章旗が憲法上の存在になります。国民は子孫のために国を守る義務を負います。もちろん、自衛軍は設置されます。夫婦同姓が義務付けられ、帰化人は差別され、基本的人権などは見る影もない扱いを受けています。
要するに、日本国憲法の国民主権、基本的人権の擁護、非軍事平和主義などは完全に否定されているのです。彼らは、核兵器を容認し、憲法の基本的価値などを完全に無視しているのです。核兵器という究極の暴力を容認し、天皇を賛美し外国人を排斥しているのです。「尊王攘夷」の時代に戻ったかのようです。
まとめ
にもかかわらず、彼らは躍進しているのです。彼らに投票した人たちがどこまで彼らの正体を知っていたかは分かりません。知っていて投票する人もいたかもしれませんが「厳しい現実」の中で醸成された不安や不満のはけ口として選択したのかもしれません。「甘い言葉」に騙されているのかもしれません。「厳しい現実」に主体的に抵抗することは決して簡単なことではないからです。
私たちの隣には、不安や不満を覚え、将来に希望が持てないでいる人は大勢いるのではないでしょうか。人は、決して、一人では生きられません。他者との交流は不可欠です。これを「類的存在」という人もいます。そして、人は誰でも自分を大事にしたいし、誰かに認めてもらいたいものです。自己礼賛や承認欲求は人間の性です。だから、「同じ想いを持った普通の国民が集まり、子供や孫の世代によい日本を残したい」などというショート動画がスマホの画面に流れると「参政党いいね」になるのでしょう。
参政党のような政党が存在しうる素地はあるのです。けれども、その正体は時代遅れの「悪魔の兵器」を容認する排外主義者なのです。私たちはその正体を暴かなければなりません。彼らを跳梁跋扈させてはなりません。けれども、それだけでは足りないのです。私たちは、隣人の不安や不満を共有し、その原因がどこにあるのかを解明し、未来社会を展望する運動を創らなければならないのです。そして、その運動を支える政党を大きくすることも求められているのです。(2025年8月2日記)
2025.6.19
はじめに
吉田敏浩さんから『ルポ軍事優先社会』(岩波新書・2025年)の贈呈を受けた。この本のサブタイトルは「暮らしの中の『戦争準備』」だ。帯には「いま、この国に必要なのは、他国を攻撃できるミサイルか、生きるためのケアの充実か。全国各地で進行する軍事化の実態を明らかにし、主体性なき安保政策を問う。」とある。カバーには「集団的自衛権行使を容認した安倍政権以降、日本の軍事化が加速している。自衛隊のミサイル部隊の配備や弾薬庫の建設は地域を戦争への拠点と変え、自治体による自衛隊への若者の名簿提供なども広がる。私たちの暮らしを犠牲に、戦争の準備が進行する実態を丹念な取材で明らかにし、対米従属の主体性なき安保法制を問う。」とある。
吉田さんの問題意識は、対米従属と主体性なき軍拡、主権なき「軍事大国」化と侵食される社会保障と生存権、有事法制に組み込まれる自治体などである。軍事大国化が進む一方で、国民生活が蔑ろにされているということに対する怒りといえよう。そして、私が特に注目したのは「『安保三文書』による軍事優先の国策は、新たな“総動員体制”を築こうとしている。」との指摘である(202頁)。
私も、現在の日本は、日本版「先軍思想」に基づいて現代版「国家総動員体制」が進行していると考えているので、吉田さんの問題意識に共感している。また、私は、その総動員体制が着々と進行していることはそれなりに理解しているつもりだったけれど、この本は、その総動員体制が、全国各地でどのように進行しているのかについて、「丹念な取材」で私の想像を超えて明らかにしている。まさに、日本がどのような「軍事優先社会」にあるのかについての迫真のルポルタージュなのである。私は「そうだったのか。そこまで進行していたのか。」と驚きを禁じえなかった。この国では、米国の世界戦略の下で、対中国を念頭に「熱い戦い」の準備が急ピッチで進行しているのである。ただし、この本は決して政府の行為を暴露するだけではなく、それに抵抗する市民や専門家や弁護士、そして首長たちのたたかいも紹介している。吉田さんは希望も語っているのである。大切なことだと思う。
この本の構成
第1章は「地域が戦争の拠点に」である。ミサイル基地・弾薬庫がもたらす棄民政策が取り上げられている。有事の扇動と自衛隊だけは生き残る基地の強靭化がすすめられ、住民は国民保護という名目で棄民される。その背景にあるのは、日本や台湾や韓国への武器輸出の増大で潤う米国の兵器産業と、組織の維持・拡大を図る米軍、科学技術の軍事利用を推進する学術界とが結びついた「軍産学複合体」だとされている。
第2章は「徴兵制はよみがえるのか」である。自治体が自衛隊に若者名簿を提供している事態が紹介されている。高校卒業時や大学卒業時の若者に自衛隊からの勧誘文書が直接届くそうだ。その対象者の選別に協力する自治体があるというのだ。戦前、各市町村には兵事係があり、国民を戦争に動員する任務を担っていたけれど、日本国憲法下ではありえない事態である。自衛隊員になろうとする若者が減少しているので、自衛隊も焦っているのであろう。けれども、そもそも、見ず知らずの人間との殺し合いをしたいなどと考える若者はいないであろうし、また、そういう状況に彼らを追い込むべきではない。昔、「9条があるから入った自衛隊」という川柳があったけれど、今はそんな牧歌的なことを言える時代ではないようである。
第3章は「軍事費の膨張と国民負担」だ。ミサイル特需と軍需産業の利益は拡大する一方で、社会保障は侵食され生存権は脅かされている実態にかかわる論述だ。この章の特色は、防衛省が設置する「防衛力の抜本的な強化に関する有識者会議」に防衛省と最も取引のある三菱重工会長が参加していることを指摘していることと「いのちのとりで裁判」を対比していることである。「死の商人」の優遇と最低限度の生活さえ維持できない人とが対照されている。吉田さんは「私たちの社会はいま『ミサイルか、ケアの充実か』の岐路に立たされている。」と結んでいる。吉田さんは憲法9条と25条も視野に入れているのである。
第4章は「主体性なき軍拡、主権なき『軍事大国』化」である。米戦略への歯止めなき従属がテーマである。本書の肝ともいえるパートである。吉田茂首相(当時)の自衛隊指揮権は米軍にあるとする「密約」や「統帥権はアメリカにある」ことなどにも触れられている。この章の結論は「日本は、台湾有事を煽るアメリカの対中封じ込め・攻撃戦略の軍事的ニーズ(集団的自衛権の実効性)に合わせて、敵基地攻撃能力を持つ長距離ミサイル中心の大軍拡を進めている。『安全保障のジレンマ』を招き、日本が戦場となるリスクまで高めている。」である。軍事優先社会の背景には米国の世界戦略があるという指摘だ。「昔天皇、いま米軍」という言葉を髣髴とする記述である。
第5章は「対米従属の象徴・オスプレイ」である。危険な欠陥機を受け入れる唯一の国であること。オスプレイの超低空飛行を認めていることなどだけではなく、佐賀空港へのオスプレイ配備をめぐる裁判などについても触れられている。この章の結びは「台湾有事を煽って武器輸出で儲けるアメリカの軍産学複合体、『ミサイル特需』など軍需景気を期待してうごめき始めた日本版軍産学複合体。このような有事を煽り、戦争を欲する構造にからめとられて、軍事優先に踏み込み迷う社会を未来の世代に残してしまっていいのか、いまそれが問われている。」である。私たちはその問いに真剣に応えなければならないであろう。
第6章は「有事法制に組み込まれる自治体」である。自治体が管理する空港や港湾を、自衛隊や米軍が使いやすくするよう法制度が整備されつつある。大軍拡の下で、これらを軍が優先的に使用しようというのである。吉田さんは「新たな総動員体制」を築こうしていると表現している。他方で、吉田さんは「自治体は空港・港湾の軍事利用は拒否できる」として「非核神戸方式」などを紹介している。この章の結論は、「アメリカ優先、米軍優先の、主権なき軍拡を進める〈安全保障政策〉に反対しなければ、『再び戦争の惨禍』を招くことになる。いまその分岐点に私たちは立たされている。」である。
まとめ
私も、吉田さんと同じように私たちは分岐点に立たされていると考えている。核兵器に依存して「壊滅的人道上の結末が訪れる世界」へと進むのか、それとも、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存できる世界」を創るのかの分岐点にあると考えているのだ。ついでに言うと、吉田さんがこの本で何度も言及している『国家安全保障戦略』も「我々は今、希望の世界か、困難と不信の世界のいずれかに進む分岐点にある」としている。政府は「希望の世界」に進むためには、中国を封じ込め、北朝鮮やロシアに対抗する力がなければならない。そのためには、自衛隊の強化はもとより、国家挙げての防衛体制を強化し、米国との核の傘を含む「拡大抑止」の一層の強化や「同志国」との連携が必要だとしているのである。そうしなければ、国民の命や財産を守れないという理屈である。
政府は、吉田さんが報告している「軍事優先社会」は「希望の世界」への道だとしているのである。他方、吉田さんは、それを止めなければ「再び戦争の惨禍」を招くと指摘しているのである。私もその意見に賛成である。このように、私たちと政府の溝は深い。まさに、私たちは大分岐点にあるのだ。吉田さんのこの本は、改めてその冷厳な現実と、それに抗う市民社会の動きを丁寧に紹介している。(2025年6月14日記)
2024.12.18
問題の所在
石破茂首相(自民党総裁)は、12月10日の衆院予算委員会で、企業・団体献金の禁止に関し「企業も表現の自由は有している。献金を禁じることは、少なくとも憲法21条には抵触すると考える。」との見解を示した。その見解は「違反するとは言わないけれど、企業・団体献金の憲法上の根拠が憲法21条である以上、禁止となれば、21条との関連は法律学上、議論されなければならない。」と修正されたけれど、企業・団体献金は憲法21条の権利であるかのように主張しているのである。
企業・団体の政治献金は憲法上の権利なのだろうか。それを検討してみよう。
「政党への寄付」の憲法上の位置づけ
まず、「政党への寄付の自由」の憲法上の位置づけを確認しておこう。参考になるのは、税理士会の政治団体への寄付の合憲性が争点になった「南九州税理士会事件」についての最高裁判決(平成8年3月19日)である。
この判決は「政党などに対しての寄付」は「選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄」であるとしている。「政党への寄付」は「投票の自由」と同様に「各個人の自由な選択」というのである。「思想 および良心の自由」(19条)とか「結社の自由」(21条)などは引用されていないが、それらの基本的人権が背景にあることは自明であろう。
また、政党助成法の違憲性が問われた事件についての東京高裁判決(平成17年1月27日)は「政党への寄付の自由、すなわち、政党に寄付をするかどうか、どの政党にいくら寄付するか等は、国民が個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に判断すべき事柄であり、それは思想および良心の自由(憲法19条)の一側面であり、このような自由権はすべての国民が享受する。」としている。
このように、裁判所は個人の「政党への寄付の自由」は憲法上の権利としているのである。なお、この東京高裁のこの部分の判断は2002年(平成14年)に埼玉県飯能市の市民が提起した「政党助成金違憲訴訟」の原告の主張を受け入れたものである(ただし、政党助成金を違憲とはしていない)。
「政党への寄付の自由」は法人にも認められるか
次の問題は「政党への寄付の自由」はすべての国民が享受するのであるが、その国民に法人も含まれるかである。
「南九州税理士会事件」の判決は「政党や政治団体に寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題」であるので、「公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできない。」としている。
税理士会が政党などに寄付することは、会を構成する税理士個人の「政党への寄付の自由」を侵害することになるので、税理士会の目的の範囲外であり、税理士会という法人が政治献金をすることは出来ないとしたのである。
この最高裁判決は、税理士会という強制加入団体に係るものであるが、その論理を一般化すれば「法人の『政党などへの寄付』は法人構成員の『政党への寄付の自由』を侵害することになるので、そのような寄付は許されない。」という結論になるであろう。
この判決は会社の場合にも当てはまるのか
そこで問題は会社の政治献金はどうなのかである。判決は次のように言う。
法人は、法令の規定に従い定款で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の目的の範囲内の行為とすることを妨げない(この部分は「八幡製鉄事件」判決の引用である)。
判決は、法人は目的の範囲内でしか権利を有しないという理は会社にも「基本的には妥当する」としている。これは、会社の政治献金は「基本的には禁止される」ことを意味している。けれども、「客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすため」であれば許容されるとしているのである。
この判決は、会社にも法人の権利についての制約はあるけれど、税理士会にはない例外が認められるとしているのである。原則は禁止であり、許容は例外なのである。
ここで、この判決が引用する「八幡製鉄事件」最高裁判決( 昭和45年6月24日)を検討してみよう。なお、石破茂首相たちはこの判決を「錦の御旗」としている。
「八幡製鉄事件」判決
この判決は次のように言う。
会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄附をする能力がないとはいえないのである。要するに、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。
この判決も会社の意思と会社の構成員の政治的信条とが違う場合があることを認めている。だから、判決は会社の政治献金をフリーハンドとはしておらず「客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものである限り」と限定しているのである。それを無視して「会社の献金はフリーハンド」であるかのように引用することは「我田引水」あるいは「牽強付会」として説得力を欠くことになる。石破首相たちの議論に説得力がないのはそういう理由である。
会社の政治献金は「社会的役割を果たす」ものなのか
こうして、問題は会社や業界団体の自民党に対する政治献金は「社会的役割を果たす」と評価できるかということになる。端的に言えば、会社や業界に有利な法制度を作ることや予算配分を受けるために行われる自民党への政治献金は「社会的役割を果たすため」と言えるかである。
それは、主観的には私的で強欲な行為であるし、「客観的、抽象的に観察」すれば自民党に対する「贈賄」行為である。これを「社会的役割」と評価することは正常な感覚の持ち主であれば出来ないであろう。
このように、企業・団体献金は「八幡製鉄事件」に当てはめてみても、とうてい合理化できないのである。「最高裁も会社の献金を認めている」とか「企業団体献金の禁止は憲法21条に抵触する」などという言説は判例の誤読である。
ところで、石破茂首相たちの議論には更に欠落している視点と論点がある。それは、民主政治の主体は個人だということである。
民主政治の主体は個人
民主政治は国民個人の政治参加のシステムである。そのために個人の参政権がある。参政権は選挙という形で実現される。参政権や選挙権の主体は個人であって、法人が被選挙権や選挙権を持つことなど、憲法はまったく想定していない。近代憲法は個人を基礎単位としているからである。もちろん、参政権や選挙権の行使を目的とする法人は存在しない。法人は民主政治の主体ではないのである。石破首相たちはこの民主政治の根本を理解していなのである。しかもその無知は選挙以外の手段で政治に影響を与えようとする傲慢としてあらわれる。
選挙以外の政治への関与
民主政治は選挙によって実現される。だから、選挙以外の方法で政治に影響を与えようとすることは、民主政治の根幹に抵触することになる。
ところで、企業や業界団体が自民党に寄付をするのは、自分たちの要求を政治に反映したいからである。会社は利潤追求を目的とする社団法人なので、その役員がその目的に合うように行動することは彼らの任務である。だから、企業の経営者は、自分に有利な政治体制、経済体制、社会状況を求めることになる。利潤追求のためには政治も動かしたいのである。こうして、彼らは自らの手駒として動かすために有用な政党に献金するのである。要するに、企業・団体献金は金の力で政治を動かすためのシステムなのである。
このように、自民党に対する企業・団体献金とは、選挙という制度以外で政治に影響を与える行動であり、個人の選挙を通じて国政を運用するという民主主義の基本システムに異質なものを持ち込んでいるのである。
こうして、企業・団体献金は国民個人の参政権の意義を減殺し、民主政治を根底から揺るがしているのである。
自民党の「企業・団体献金自由論」は民主政治を理解しない謬論であるだけではなく、憲法21条とは無縁の開き直りなのである。
自民党が抱える「難問」
では、なぜ、企業・団体(財界)は自民党を必要とし、自民党はそれを受け入れるのであろうか。それは、選挙での多数派の確保が必要だからである。
経済力を持つ財界といえども、その要求をストレートに政治に反映させることは出来ない。彼らの欲求を政治分野で実現してくれる部隊が必要となる。そして、双方にとって選挙で多数派を占めることが至上命題となる。財界の要求が選挙で支持されている体裁を整えなければならないからである。彼らも民主制を正面から否定することはしない。
ところで、財界の要望と有権者の要望とが重なるのであれば何の問題はないけれど、大企業と国民個人の要求が一致するとは限らない。むしろ矛盾する。
例えば、軍事産業の強化、原発の再稼働、消費税の税率アップなどだ。軍事力が行使されれば民衆に被害は発生するし、行使されないとしても膨大な資源が無駄になる。いずれにしても「防衛産業」は儲かるが、国民は戦争の危険にさらされ資源不足に苦しめられることになる。原発再稼働や増設などは電力会社には好都合だが、国民の安全はないがしろにされる。消費税によって法人税や所得税が軽減されれば企業や大金持ちは助かるけれど、低所得者の負担は大きくなる。
要するに、大企業や大金持ちの要求は国民圧倒的多数の要求とは相いれないのである。にもかかわらず、選挙では多数派にならなければならないのである。これは「難問」である。
自民党はその「難問」をどう解決するのか
その「難問」を解決するのが自民党の政治活動である。それは、多くの国民の要求の実現ではなく、大企業やその他の特権層(米国の支配層を含む)のために、庶民を自民党への投票に動員するという営みである。
そのために、あらゆる知恵と工夫が求められる。御用学者やマスコミなども動員される。安全保障環境が厳しいから核抑止力が必要だとか、貧乏なのは「自己責任」だとか、法人にも政治活動の自由があるなどと言い立てる諸君が高給で優遇される。また、「後援会」へのサービスも必要となる。例えば「桜を見る会」に連れて行くことなどである。もちろん支持者への有形無形の付け届けも必要になる。そのためには多額の資金が必要ななことは自明であろう。党費や政党助成金だけでは足りないのである。
自民党が「政治資金」(裏金を含む)を必要とする理由は、実施しようとしている政策が有権者の利益に反するにもかかわらず財界のために実施しなければならないので、有権者を騙したり買収したりするための金が必要だからである。
自民党がこの企業・団体献金にこだわるのはこの支配体制を維持したいからである。
結局、自民党は、憲法や最高裁判決を曲解し、民主主義の根幹を無視して、企業・団体献金を温存しようとしているのである。それは、財界とともに支配者としての地位を維持したいという欲望のためである。
企業・団体献金の禁止は、民主政治を定着させるための第一歩なのである。
(2024年12月17日記)
2024.12.11
新潟からのお誘い
12月1日、新潟で「『原爆裁判』を現代に活かす―核兵器も戦争もない世界を創るために-」と題する講演をする機会がありました。「新潟の新しい未来を考える会」の片桐奈保美会長からの依頼でした。この会は原発の再稼働に反対して小泉純一郎元首相の講演会を開催したり、「柏崎・刈羽原発再稼働を問う県民投票条例」の制定を求める運動をしている市民団体です。
片桐さんから、NHKの「視点・論点」を視ていたら興味深い話をしているので、新潟に呼びたいという連絡をもらったのは、9月半ばのことでした。「虎に翼」は終わっていませんでしたし、被団協のノーベル平和賞受賞はまだの時期でした。片桐さんは、「視点・論点」を録画して仲間に相談したそうです。「視点・論点」のテーマは「現代に生きる原爆裁判」で、その結びは「(日本国憲法の)徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、原爆裁判の現代的意義を再確認し、核兵器も戦争もない世界を創造することが、原爆裁判からの私たちへの宿題だと受け止めています。」でした。片桐さんは、その番組に共感して、共通の知人である和田光弘元日弁連副会長の紹介で連絡をくれたのです。
私は喜んでお受けしました。核兵器廃絶や憲法9条の話を聞いてもらえる機会を大事にしたいと思っているからです。
当日の様子
当日、会場の万代シルバーホテルには、220名からの人たちが参加していました。西村智奈美議員と米山隆一議員お二人とあいさつを交わしました。赤井純治新潟大学名誉教授が「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」を呼びかけていました。赤井さんからは「原水爆禁止世界大会2023年科学者集会の記録」をいただきました。
会場がホテルというのは凄いことです。私の講演はだいたいが公共施設だからです。しかも、社会派講談師の神田香織さんとのコラボでした。こういうこともありません。だいたいが一人なのです。神田さんの演題は「はだしのゲン」でした。私は中沢啓治さんの原作を読んでいますが、神田さんの創作講談は初めてでした。神田さんの語りに漫画のゲンの姿を重ね合わせながら聞き入りました。神田さんは「はだしのゲン」が広島の学校教材から外されることに強い怒りを持っていることや、被団協のノーベル平和賞受賞は核兵器が使用される危険性が高まっていることを意味しているなどと「前口上」で語っていました。「そうだ、そうだ」と共感したし、講談がこんなに胸に迫ってくることを初めて体験しました。
私の話
そのあと私の話です。神田さんの語りの後なので、「原爆裁判」の話は大変やりやすくなりました。原爆が人間に何をもたらしたかを神田さんが表現してくれていたからです。「はだしのゲン」と「原爆裁判」のコラボです。
私は「原爆裁判」は被爆者支援についても、核兵器の違法性を確立する国際法の分野でも大きな役割を果たしているということと、憲法9条の背景には原爆投下があったことを話しました。パワーポイントの資料を参加者に配布してもらうだけではなく大型スクリーンも利用しました。口を開けて上を向いて寝ている参加者は気になりましたが、多くの人は静まり返るように聞いてくれていました。リアルで講演していると参加者の受け止め方は痛いほど感ずるのです。
うれしかったこと
私を最初に迎えてくれて、しかも最後までお付き合いしてくれた近藤正道弁護士(元参議院議員・会派は社民党護憲連合)は、「憲法は『専守防衛』とか『集団的自衛権の禁止』ではないもっと徹底した平和主義だということが分かった。そこから話し始めていたことを反省しなければならない。」と懇親会のスピーチで述べていました。私は日本国憲法の到達点を「専守防衛」に留めてしまうことは「核のホロコースト」の上に制定されている憲法の現代的意義を過小評価することになると考えています。だから、近藤さんの受け止めは本当にうれしいことでした。
また、神田さんは「ゲンの話をこういう形で深めてもらえることは嬉しい」と言っていました。私は神田さんの講談を講演の中で大いに活用させてもらいました。こういうタッグは聞く人にとっても理解しやすくなるのではないでしょうか。企画した人は凄いと思ったし、「またこういう機会を持ちましょう」と神田さんと約束しました。
ところで、先の総選挙で、新潟の5小選挙区は全て立憲民主党の候補者が当選しました。当日、新潟を訪れていた野田佳彦代表は「全員当選は2009年以来で画期的なこと」と評価しています(「新潟日報」12月2日付)。その背景には新潟での「市民と野党の共闘の伝統」があることは間違いないでしょう。私は、今回、新潟の皆さんと触れ合うことによって、新潟には地道で包摂性のある運動があるのだということを実感しました。「市民と野党の共闘」があれば政治は変えられます。それがなければ政治の停滞は続くでしょう。
昭和40年に東北大学法学部に一緒に入学した中村哲也君(新潟大学名誉教授)もその活動に参加していました。故広中俊雄先生の愛弟子だった彼らしいことだと、何ともうれしい思いになりました。なお「新潟日報」が写真入りで報道していました。貴重で有意義な新潟行きでした。新潟の皆さん、ありがとうござました。(2024年12月2日記)
2024.10.17
はじめに
日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。
「虎に翼」は面白かった
「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。
特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。
「原爆裁判」が提起したこと
「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。
核兵器使用禁止は「公理」なのに
核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。
核兵器の特質
核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。
核兵器の最も特異な効果
判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。
ダモクレスの剣
「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。
私たちの課題
石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)
2024.7.11
腐敗した自民党による改憲を許さない【2】から続く
「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」
この「ラッセル・アインシュタイン宣言」の問いかけに私たちはどのように答えたらいいのでしょうか。
まず、核兵器のことを考えてみましょう。核兵器をなくすことは決して不可能ではありません。そもそも、核兵器は人間が作ったものだからです。現に、1986年に7万発というピークを数えた核弾頭は、現在1万2500発程度に減っています。しかもそれは検証されています。減った数の方が残っている数より多いのです。やればできるのです。
加えて、核兵器保有国は、国連加盟国193カ国のうち9ヵ国です。極めて少数です。核兵器禁止条約の署名国は93、加盟国は70を数えています。「核なき世界」に向けて、世界は間違いなく前進しているのです。
「核なき世界」の実現は「私が生きている間は無理」(オバマ)とか「果てなき夢」(岸田文雄)などというのは「今はやらない」という先行自白です。「口先男」に騙されるのはもう止めましょう。
憲法9条は、核兵器を使用しての世界戦争は人類社会を崩壊させてしまうと想定し、それを避けるために「一切の戦力」を否定したことは前に述べました。戦力がなければ戦争はできないのですから極めて論理的です。逆に、自衛のためであれ、正義の実現のためであれ、武力の行使を認めれば「悪魔の兵器」である核兵器に頼ることになります。それは、理屈だけではなく、現実がそうなっています。では、自衛あるいは安全保障ための核兵器は合理的なのでしょうか。
自衛のために核兵器を自国内で使用することはありえません。使用すれば自国民も死ぬからです。また、どこで使用しようとも、核兵器の特性からして、国境を越えて被害が発生します。中立国にも被害は及ぶし、地球環境も汚染されます。
そして、相手方が核兵器で反撃すれば―間違いなくするでしょう―双方が滅びることになります。「相互確証破壊」です。自衛のための核兵器が自滅のための兵器となるのです。「平穏は墓場にある」という「最悪のパラドックス(逆説)」です。
「核の時代」にあっては、戦争は政治的意思を実現するための手段にはなりえないのです。自衛という目的を実現するための核兵器が、防衛の対象である国家と社会を壊滅させてしまうからです。それが核兵器なのです。
9条はそのような事態を避けるために残された唯一の方法であることを確認しておきましょう。
なぜその確認が必要かというと、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が「たとえ平時に水爆を使用しないという合意に達していたとしても、戦時ともなれば、そのような合意は拘束力を持つとは思われず、戦争が勃発するやいなや、双方ともに水爆の製造にとりかかることになるでしょう。一方が水爆を製造し、他方が製造しなければ、製造した側が勝利するにちがいないからです」と予言しているからです。核兵器をなくそうとするのであれば、戦争もなくさなければならないとしているのです。
9条の先駆性が確認できるのではないでしょうか。
ここで、国際人道法に触れておきます。国際人道法は、戦争において、戦闘の方法や手段は無制限ではないという規範です。戦争を違法とするものではありませが、自衛戦争や正義実現の戦争であっても、無差別攻撃や残虐な戦闘手段は禁止されるという戦時における国際法です。「一切の戦争は非人道的なので、戦争をなくす」という考え方ではなく「人道的な戦争」を想定しているのです。
それはそうなのですが、核兵器は大量、無差別、残虐、永続的な被害をもたらす非人道的兵器であることに着目して、核兵器を禁止する法理として活用することは可能ですし、必要なことなのです。
核兵器についての最初の法的判断は、1963年の東京地方裁判所の「原爆裁判」です。裁判所は「原爆投下は当時の国際法に照らして違法」と判決したのです。1996年、国際司法裁判所の勧告的意見は「核兵器の使用や使用の威嚇は、一般的に違法である」としましたが、「国家存亡の危機」における核兵器の使用や威嚇についての判断は避けていました。
ところが、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も国際人道法に反する」としたのです。「国家存亡の危機」における核兵器使用も違法とされ、国際司法裁判所の限界は克服されたのです。
いずれも判断の背景には核兵器の非人道性がありました。法は非人道性を無視できないのです。核兵器廃絶のための「人道アプローチ」は有効だったのです。
確認しておくと、核兵器禁止条約は、戦争を一般的に違法化したり、一切の戦力を禁止する条約ではないのです。そして、核兵器を廃絶したからといって非核兵器が残れば戦争は可能です。また、いったんなくなったとしても復活することは、ラッセルたちがいうとおりです。そういう意味では、核兵器禁止条約は「戦争のない世界」を実現する上では過渡期の法規範なのです。
もちろん、そのことは、核兵器禁止条約の意義をいささかも減殺するものではありませんが、その守備範囲を確認しておくことも必要でしょう。核兵器禁止条約の発効は「核なき世界」に向けての大きな前進ですが、「戦争のない世界」に向けては、もう一歩の質的前進が求められているのです。それが9条の世界化です。
核兵器がなくなったからといって戦争がなくならなければ核兵器は復活するであろうことは、先に述べたとおりです。だから、核廃絶運動に関わる人は9条の擁護と世界化を展望しなければならないのです。戦争という制度が残る限り、「核なき世界」への到達と維持が元の木阿弥になってしまうからです。核兵器をなくした後にも仕事は残るのです。
他方、9条の擁護と世界化を求める人は、核兵器を廃絶できないようでは、戦力一般の廃絶など絵に描いた餅になってしまうでしょう。
ここで、9条は何を期待されて誕生したのかを再確認しておきます。
先に紹介した幣原喜重郎は、「憲法9条は、我が国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的な地位を占めることを示すもの」という答弁もしていました。9条は、「核の時代」にあって、「徹底的な平和運動」の先頭に立つ「指導的地位」を期待されていたのです。核兵器廃絶がその射程に入ることは自明でしょう。
戦争の廃絶について考えてみましょう。確かに、戦争の廃絶は決して簡単なことではありません。けれども、戦争は人の営みです。人の営みを人間が制御できないことはありません。人類は奴隷制度も植民地支配もアパルトヘイトもなくしてきました。いずれも、手強い反対にあいながらです。強欲な頑迷保守や好戦論者や悲観論者はいつの時代も存在します。変革を求めないことを「現実的」として受容し、変革を求めることは「理想的に過ぎる」として敬遠する人々も少なくありません。
けれども、人類は戦争をなくすための思想も育んできました。1920年代の米国の「戦争非合法化」の思想と運動もその一例です。戦争という制度を「無法者」として社会から放逐してしまおうという思想と運動です。戦争の方法や手段の制限だけではなく、戦争そのものを非合法化しようという発想です。
そうです。この「戦争非合法化」の思想は憲法9条の淵源のひとつなのです。このような徹底した非軍事平和思想が日本国憲法に影響を与えているのです。
「戦争非合法化思想」が「核のホロコースト」を契機として日本国憲法9条に結実したのです。言い換えれば、徹底した平和思想が、人類最悪の悲劇を梃子として、憲法規範として昇華したのです。「転禍為福」(災い転じて福となす)と言えるでしょう。
けれども、ややこしく考える必要はありません。そもそも、核兵器が使用されれば「皆くたばってしまう」ことなど、誰にでも理解できるからです。そういう意味では、憲法9条は、「核の時代」においては、当たり前の法規範なのです。法は人々を生かすための知恵でもあるのです。
この79年間、核兵器は実戦で使用されていません。使用計画もあったし、核戦争の瀬戸際もありました。事故もあったし、誤発射の危険性もありました。けれども、現実に使用されたことはなかったし、地球は吹き飛んでいないのです。
その理由は、被爆者をはじめとする反核平和勢力の運動もありましたが、「運がよかった」だけかもしれません。地球の未来を運任せにすることはできません。意識的な戦略としなければ、地球にひびが入ったり、吹き飛ぶかもしれないからです。
だから、今求められていることは、核兵器不使用の継続ではなく、核兵器廃絶なのです。廃絶までの法的枠組みは既に核兵器禁止条約があります。その国際法規範を普遍化することによって「核なき世界」の実現は可能なのでする。
当面、日本政府に署名・批准させることが必要です。その運動を反核平和勢力だけではなく、護憲運動(立憲主義回復運動を含む)をしている方たちの理解と協力をえて進めることが求められています。
他方、憲法9条も風雪に耐えてきました。憲法に拘束される立場にある政府や国会議員(護憲派は除く)だけではなく、多くの改憲勢力からの攻撃に耐えてきたのです。「お疲れ様日本国憲法」などと引退を迫ったり、「憲法を現実に合わせろ」という憲法が何のためにあるのかを理解しない意見もあります。
既に、個別的自衛権のみならず集団的自衛権も認められるという「法的クーデター」といわれる現実もあります。しかも、裁判所もそれを制止しようとしないのです。
そして、米軍とともに世界のあちこちで武力の行使を可能とするための改憲策動も、執念深くかつ陰険に続けられているのです。
現在、政府は、中国、北朝鮮、ロシアとの対立(もっぱら中国)を前提に、米軍との一体化、自衛隊基地の強化、武器の爆買いなど戦争の準備を着々と進めています。戦争を避けるのではなく、戦争に備えているのです。
敵基地攻撃を行えば敵国からの反撃は避けられません。だから、「国民保護」も必要となります。「国民保護計画」は核攻撃があった場合も想定しています。「ヨード剤を飲んで雨合羽を被って風上に逃げろ」というものです。被爆者は「爆心地に向かえと言うのか」と怒っています。雨合羽とヨード剤で被害を食い止められるのなら、核戦争など「たいしたことはない」でしょう。政府は「被爆の実相」を無視しているのです。
岸田首相は「敵基地攻撃」や「戦闘機の共同開発」も「憲法の平和主義の理念の範囲内」と言っています。それが彼の憲法感覚なのです。そういう首相の下で、武力の行使を前提とする「国を挙げての防衛体制の確立」が進んでいます。「国を挙げて」の中には、自衛隊や政府機関、財界や読売新聞などのマスコミだけではなく、学界や地方自治体も含まれています。「防衛体制の確立」とは、米国とのグローバル・パートナーシップや同盟国・同志国との連携強化に基づく対中国包囲網の構築を意味しているのです。
学術団体や地方自治体や民間企業を戦争協力へと誘導あるいは強制するための仕組みも次々と作られようとしています。日本学術会議の法人化、政府の自治体に対する指示権、セキュリティ・クリアランス制度の導入などです。学問・研究、自治体、企業を経由して、個人生活も軍事色に染められようとしているのです。
それに対抗するたたかいも展開されていますが、事態は予断を許しません。
今、日本は、「核兵器を含む武力による安全と生存の維持」なのか「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しての安全と生存の維持」なのかが正面から問われているのです。「武力による平和の道」は人類社会の終わりへの道です。「諸国民の公正と信義による平和への道」は78年前から示されている道です。「核の時代」の後にどのように未来社会を創るのか、その選択は私たちに委ねられているのです。
核兵器廃絶よりも前に、政府が「熱い戦い」を始めるかもしれません。「政府の行為によって再び戦争の惨禍」が起きるかもしれないのです。もちろんそれは他国の民衆の殺傷も意味しています。核兵器廃絶運動は政府や与党の動きに敏感でなければなりません。
核兵器廃絶や9条の擁護と世界化を希求する私たちには、「戦争前夜」といわれるほどに急速に進行している戦争の準備を阻止する運動が求められています。そのためには、反核平和勢力と護憲平和勢力との相互理解と相互協力とが必要不可欠です。
被爆80年・敗戦80年という節目の年を、この国の進路を大きく転換し、核兵器も戦争もない世界に一歩でも近づく機会にしようではありませんか。
腐敗し堕落した自民党政治を終わらせ、全ての人が、恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに、その個性を生かしながら、自由に生活できる社会をつくるために、引き続き頑張ろうではありませんか。
2024.7.11
引き続き、自民党政治の特徴についての話をします。
岸田文雄首相は、吉田茂元首相を「傑出した政治指導者の一人」と評価しています。その理由は、吉田氏が日本防衛を米国に任せ、米国資本を導入して、日本に奇跡的な高度成長をもたらしたからだということです。「日本は核とドルの下で生きていく」という「吉田ドクトリン」を最大限の評価しているのです。この「日本国の命運を米国の核とドルに委ねる」という基本姿勢は、現在も、何も変わっていません。岸田首相はそのことを私たちに判りやすく教えてくれているのです。
このことを違う言葉でいえば、米国に「自発的に従属する」ということです。この思考パターンによれば、米国に逆らったり、独自の政策をとることなど出来ないことになります。米国の「核の傘」という究極の暴力に依拠し、経済関係での利害を同一にしている立場からすれば、自主・自立など想定できないからです。「昔天皇、今アメリカ」という現象が起きているのです。日米安保条約の解消などは「国体の変革」を求めることと同様に「危険思想」扱いされるのです。
米国では、戦争を商売とする軍人と金儲けの機会とする軍事産業とその使い走りをする議員とそれを支持する愚かで野蛮な選挙民がいまだ力を持っています。「軍産複合体」の支配です。日本の支配層はその勢力に抵抗せずむしろ迎合しようというのです。それが「核とドルに依存する」という意味です。
私たちは、日米関係の基礎には、このような発想が根強くはびこっていることを視野に入れておかなければならないのです。その端的な表れが核兵器禁止条約についての日本政府の姿勢です。
核兵器のいかなる使用も「壊滅的人道上の結末」をもたらすので、それを避けるための唯一の方法は、核兵器を廃絶することであるとして「核兵器禁止条約」が発効しています。ところが、日本政府は「禁止条約は国民の命と財産を危うくする」として、禁止条約への署名・批准は拒否しているし、締約国会議へのオブザーバ参加にも消極的です。
ところが、岸田首相は核兵器廃絶を言っているのです。それは、核兵器がもたらす「容認できない苦痛と被害」や「壊滅的人道上の結末」、そして国民の反核感情を無視できないからでしょう。核兵器廃絶をいうことは大事なことです。けれども、氏は「核とドルの支配」を全面的に受け入れているので、米国の核兵器を否定する禁止条約を容認することはできないのです。だから、岸田さんは「今すぐなくす」とは言わないのです。それが日本の首相の正体です。
私たちは、核兵器廃絶を未来永劫の理想ではなく、喫緊の現実的課題とするリアリストでなければなりません。核戦争の危機が迫っているからです。被爆者の願いに応えるためにも、また、私たちと次世代の未来のためにも、核廃絶の掛け声だけでない行動が求められているのです。そして、そのたたかいは「核とドルの支配」を全面的に受け入れている政治勢力との戦いでもあることを忘れてはならないのです。
ここで、核兵器廃絶と憲法9条擁護の関係について考えておきましょう。
ここで、政府が1946年11月に発行した『新憲法の解説』を紹介しておきます。
一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、または逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂えているのである。ここに、本章(2章・9条)の有する重大な積極的意義を知るのである。
ここで識者とは幣原喜重郎氏のことです。幣原氏は、憲法改正が議論されていた帝国議会で政府を代表して次のような答弁をしています。
我々は今日、広い国際関係の原野に於きまして、単独にこの戦争放棄の旗を掲げて行くのでありますけれども、他日必ず我々の後についてくるものがあると私は確信しているものである。…原子爆弾というものが発見されただけでも、或戦争論者に対して、余程再考を促すことになっている、…日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、此の一つの大きな旗を担いで進んで行くものである。即ち戦争を放棄するということになると、一切の軍備は不要になります。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になるのであります。
当時の政府は、次の世界戦争では核兵器が使用され、人類社会は滅びることになると予測して、核兵器のみならず、全ての戦力の放棄を提案していたのです。
日本国憲法9条は、「核の時代」を自覚し、核兵器だけではなく「一切の戦力」を放棄する徹底した非軍事平和思想に基づく最高規範として誕生したのです。憲法9条は「核のホロコースト」を経て創られた「核の時代の申し子」なのです。
現在の政府はそのことを忘れたかのようです。政府が忘れても、私たちは忘れてはならない「平和思想の到達点」なのです。9条の改悪は許さず、これを世界の規範としなければならないのです。
人類社会が水爆時代に入った1955年(ビキニ水爆実験は1954年)。ラッセルやアインシュタインたちは「もし多数の水爆が使用されれば、全世界的な死が訪れるでしょう。瞬間的に死を迎えるのは少数に過ぎず、大多数の人々は、病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいくことになります」としていました。そして「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていました。
この「ラッセル・アインシュタイン宣言」の問いかけに私たちはどのように答えたらいいのでしょうか。
-->2024.7.11
この記事は、『やめさせよう裏金政治ー「政治とカネ」問題を考える-』をテーマに
「憲法改悪反対飯能日高共同センター」「小選挙区制・政党助成法の廃止をめざす飯能連絡会」が共催した学習会にて、講師としてお話させていただいた内容をまとめたものです。
世界を見ると、ロシアのウクライナ侵略やイスラエルのガザ地区でのジェノサイドなど、目を覆いたくなる事態が続いています。侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する武力の行使です。ロシアの行為はこれに該当します。ジェノサイド( genocide)とは、(種族:英語のgenos)と(殺害:英語のcide)の合成語で、国民的、民族的、人種的又は宗教集団の全部又は一部を集団それ自体として破壊する意図をもって行われる行為です。日本語では「集団殺害」、「集団虐殺」などと言われます。イスラエルの行為はこれに該当します。
けれども、ロシアに対する制裁は強調されていますが、イスラエルの暴挙を止めようとする動きは鈍いままです。
同時に、気候危機が進行し、地球という人類の生息環境そのものが脅かされています。国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来したのです」としています。
にもかかわらず、「民主主義国家」と「権威主義国家」などと対立が煽り立てられ、人類の危機に対する国際社会の足並みはそろっていません。
ロシアは核兵器使用をちらつかせているし、イスラエルも核兵器国であることを隠そうとしません。米国も未臨界核実験を継続しているし、中国も核兵器を増産しているようですし、北朝鮮も核兵器先制使用を憲法に書き込んでいます。日本や韓国は米国の「核の傘」依存を強めています。
国際情勢をもっともよく知る立場にある国連のグテーレス事務総長は、冷戦終結後最大の「核戦争の危機」だと言っています。米国の核兵器のことをよく知る科学者たちは、1947年以降で最も「終末」に近づいているとしています。
核戦争になれば「壊滅的人道上の結末」が起きることになることや「核戦争に勝者はない。核戦争を戦ってはならない」ことは、誰でも知っていることだけれど、核戦争は近づいているし、核兵器はなくなりそうもないのです。
気候危機を前にして、戦争や軍拡競争などしている場合ではないのに、「先進国」の政治リーダーたちは対立と分断を前提に物事を考えているのです。
G7が開催されているけど、そこで語られているのは、ロシアや中国との対立を前提とする話ばかりですし、核兵器への依存はそのままです。
国内では、「台湾有事は日本有事」と言われ、対中国戦争を念頭に、米軍と自衛隊の一体化や南西諸島の要塞化が進められています。まさに、日本版「先軍思想」に基づいて、現代版「国家総動員体制」が進行しているのです。
それを進めているのは自公政権です。それをサポートするのは日本維新の会や国民民主党などです。その中核にある自民党の腐敗と堕落は目を覆うばかりです。
私は、その腐敗と堕落が深刻化する原因は、30年前の1994年の「政治改革」にあると考えています。政治改革の柱は小選挙区の導入と政党助成金の導入でした。
ところで、当時、飯能では「小選挙区制・政党助成法の廃止を目指す飯能連絡会」が結成されており、2001年11月には「政党助成金訴訟の会」が結成されました。そして、2002年3月には、飯能、日高、名栗の住民113名が原告となって、東京地裁に「政党助成金違憲訴訟」を提起しました。
政党助成金は、1994年、政治改革と称して小選挙区制とともに導入された制度です。国会議員数や国政選挙での得票数に比例して、国民一人当たり年間250円の税金を各政党に交付する仕組みです。年間320億円もの税金が各政党に分配されることになったのです。
けれども、国民のなかには政党を支持している人もいれば、どの政党も支持していない人もいます。一方、国民は憲法によって思想・表現の自由や、集会・結社の自由が保障されていますから、どの政党に政治資金を寄付するか、寄付しないかというのは、各個人の自由に属することです。
だから、その各個人が支払った税金が勝手に支持もしていない政党に分配されてしまうというのは、憲法に保障された「良心の自由」の一形態である「政党支持の自由」を侵害することになるのです。
自民党などは、党員や支持者などの個々人から政治資金をコツコツと集める努力をせず、財界・大企業から巨額の政治献金をもとめる一方、より安定的に税金からも政治資金を得ようとして政党助成金制度を導入したのです。
また、政党というものは本来、国などから独立した存在ですから、税金で政党の運営資金をまかなうなどは邪道です。
ということで、原告は裁判を起こしたのです。
この裁判は、地裁・高裁で勝つことはできませんでした。裁判所は「政党への寄付への自由」は「思想・良心の自由」の一側面であって、憲法19条の保障を受けることは認めました。けれども、政党助成法は原告に対して特定の思想を強制したり、不利益を強制したりするものではない。税金の徴収と政党交付金の交付とは、その法的根拠や手続きが異なり、原告らの支払った税金が直ちに政党交付金としてそのまま政党に交付されているわけではないなどとして、請求を棄却したのです。
税金の徴収と助成金の交付は別の法律によるものだから、「政党への寄付の自由」とは関係ないという理屈です。税金の徴収も政党への交付も、国家の行為によって行われていることを無視した形式論なのです。
とうてい納得できない「肩透かし判決」と言えるでしょう。
もちろん上告し、最高裁への要請行動も数次にわたって行われました。
上告の理由は、政党助成法は、個人の直接的かつ自主的判断で決定されるべき「政党への寄付の自由」を侵害する法律であり、その制定と執行は憲法19条に違反する、というものでした。憲法判断を求めたのです。
飯能市の杉田實さんは、六年生は社会科教科書で、税金は本来、国民生活を豊かにするものと学習していることを紹介し、「政党が税金から自分たちの活動費を分けてもらうことは、小学生が学ぶ、税金の正しい使い方に照らして本来の姿ではないでしょう。純真な小学生にも理解できるような正しい判断を切望します」との陳述書を提出しました。
残念ながら、上告は棄却されました。憲法問題ではないという理由です。政党助成金は国民個人の「政党支持の自由」という基本的人権にかかわる事柄であるし、政党という私的団体に公費を投入することは民主主義の在り方にかかわる事柄であるにもかかわらず、最高裁は憲法問題ではないとしたのです。
これが、最高裁の人権観であり民主主義観なのです。
1994年当時の政権は日本新党の細川護熙氏を首班とする連立政権でした。政治改革関連法案は否決されたのですが、衆議院議長だった土井たか子氏は、細川総理と自民党の河野洋平総裁との「総総協定」を斡旋し、法案を成立させました。
国民の政治的意思と国会の議席との間に乖離が生ずる小選挙区比例並立制と憲法違反の政党助成金が日本の政治に導入されたのです。私は、この時に、現在の日本の政治の歪みが始まったと考えています。
「政党支持の自由」という基本的人権を侵害し、少数派の意思を切り捨てることにより国民の政治的意思を国会に反映しない選挙制度が、国会の多数派によって制定されたのです。しかも、最高裁は「問題なし」としたのです。立法も司法も基本的人権と民主主義の原理を軽視してしまったのです。
これでは、日本の政治状況や人権状況が悪化することは避けられないでしょう。それにしても、「総総協定」を仲立ちした土井たか子氏はとんでもないことをしたものです。
私は、その「政治改革」の歪みが、今、自民党の腐敗と堕落という形で噴出していると考えています。自民党の支持率と議席の占有率には大きな乖離が生まれています。2021年の衆議院選挙の自民党の小選挙区の得票率は48.4%だったけれど、65.4%の議席を確保しています。半分以下の得票率で3分の2近い議席を確保しているのです。小選挙区制は一人しか当選しないので、相対的多数派は議席においては絶対的多数を得ることが可能なのです。
また、政党助成金の導入と企業・団体献金の禁止は一体となるはずでした。それが、政治家個人への寄付は禁止されるけれど、政党や政治団体への寄付は許容されたのです。政党助成金と企業・団体献金の二重取りが始まったのです。
「政治改革」によって、自民党にとっては、議席も金も自分に都合よくなったのです。それが腐敗と堕落の温床となっているのです。
企業・団体からの政治家個人への寄付は禁止されています。政党や政治団体への寄付は、制限がありますが、禁止はされていません。対価を求めないで寄付をすることは背任となりうるし、対価を求めれば贈賄ということになります。税理士団体が自民党に献金することは、税理士個人の「政党支持の自由」を侵害することになるというのは最高裁の判断です。企業・団体献金は、そもそもそのような問題を抱えているのですから、禁止されなければならないのですが、そうはなっていないのです。
ところで、本来、パーティ券販売は寄付ではありません。会費をパーティで使えば余りはないからです。けれども、実際に販売されるパーティ券は対価性がありませんから寄付になります。政党や政治団体に対する寄付の制限の脱法行為ということになります。
更に問題は、ノルマを超えて販売されたパーティ券の代金は、政治家個人にキックバックされていたことです。政治家個人にかかわる政治団体がそのキックバック分を帳簿に記載しなければ「裏金」となるのです。これでは、政治家個人に対する献金が禁止されている意味がありません。その仕組みを誰が創ったのかは明らかにされていませんが、自民党が創ったことは間違いありません。
政治資金規正法は「議会制民主政治における政党や政治団体の重要性にかんがみ、政治資金の収支の公開などの措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、民主政治の健全な発達に寄与する」ために制定されています。
キックバック議員は、正確な「政治資金の収支」が大前提なのに、それを意図的にごまかしたのです。今回の事態は、政治の「公明と公正」を害し「民主政治」の根幹を揺るがす大問題なのです。彼らは「民主政治」を理解しない「犯罪者」であることを確認しておくことにしましょう。そもそも、彼らに国政を担う資格がないのです。
これは、政治資金規正法に問題があるのではなく、自民党や自民党議員に問題があるのです。規正法改正などと大騒ぎしていますが、どんな規制をしても、自民党の金権体質は変わらないでしょう。企業や保守系団体から献金を受け、その献金をした勢力のための政治を行うために、その勢力とは違う勢力の票も集めなければならないからです。要するに買収や供応による票集めです。河井夫妻の買収や「桜を見る会」の経緯を観れば、容易に理解できるのではないでしょうか。
領収書のいらない金を欲しがる人やタダの飲み食いが好きな人はいるのでしょう。だから、政治活動費の「透明化」など出来ないのです。河井夫婦の買収事件など、氷山の一角だと私は思っています。大企業や米国の利益とは縁のない人たちの票を集めるには「現ナマ」が有効なのでしょう。「後援会」の維持のためにもお金が必要なのでしょう。
そういう政治家に群がる人にも問題があるとしても、そういう政治家こそが問題であることは言うまでもありません。それがこの国の「民度」であるとすれば、私たちはその改善に取り組まなくてはなりません。
また、世論誘導をするためにも金は必要です。2013年、麻生太郎氏は「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と言っていました。
そのナチスの宣伝大臣などを務めたゲッペルスは、ナチスが初めて第一党として選挙に臨んだとき、「われわれは国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。われわれは政治宣伝の傑作を作るつもりだ。金は有り余っている」としていました。麻生太郎氏は、きっと、そのゲッペルスの手口を念頭に置いているのでしょう。自民党の諸君は「支持上げるちょろいもんだぜ民なんて」と思っているのかもしれません。
改憲のための国民投票に際して、金にものを言わせた、フェイクがあふれかえるような気がしてなりません。今、日本では、自民党流改憲に正面から反対するマスコミはほとんどありませんから、その危険性は一層高くなるでしょう。
各党に2024年に交付される政党助成金(もちろん国庫金です)総額は315億3652万円で、その内、自民党は160億5328万円です。
このようなことが、この30年間行われてきたのです。
2021年9月24日のNHKによれば、政党交付金を使い切らず積立てられた金額は、総額323億円で、その内、自民党は252億7200万円とされています。「金は有り余っている」のではないかと思うのですが、まだまだ足りないようです。腐敗と堕落に貪欲も加わっているようです。
ただし、彼らの腐敗と堕落を政治不信一般にしてはなりません。この事態は「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という箴言のとおりの自民党の腐敗だということを見抜かなければなりません。マスコミは「政治不信」という言葉を使用し、自民党の問題だということを隠ぺいしようとしているので注意が必要です。
この「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉は、イギリスの思想家であるアクトン卿が1887年に使用したそうです。何とも鋭い指摘だと思います。
「権力を担当する者がすべての権力を濫用しがちであることは永遠の経験が示すところである。権力が濫用されないようにするためには、権力が権力を抑制するようにしておかなければならない。」(モンテスキュー『法の精神』・1748年)という言葉と合わせて記憶しておきたいと思います。これは、三権分立の考え方であり、権力を憲法という鎖で縛るという「立憲主義」の源流となる思想だからです。
自民党も永年権力を握ってきたので腐敗することは「永遠の経験」なので避けられないのでしょう。けれども、私たちはそれを許してはなりません。腐ったリンゴを排除しないと他のリンゴもダメになるからです。市民社会から腐ったリンゴを排除することは、市民社会の健全さを維持するために必要なことですが、腐ったリンゴではなく、リンゴ全体の問題とすることは、問題のすり替えです。
自民党が腐っているのに、政治一般に問題があるような言説は事態の把握としては不正確です。「政治不信」などと言う言葉は、リンゴ全体に問題があるかのように取り扱っているのです。これでは、「無関心層」を増やし、結果として、自民党の延命に手を貸すことにしかなりません。
私たちは、そのことをしっかり見抜き、自民党政治を終わりにしなければならないのです。そのための工夫が求められています。立憲野党の共同はその最も大きな課題です。
また、中長期的には、小選挙区制を基本とする選挙制度を改め、政党助成金を廃止することが求められています。これは、日本社会に民主主義と基本的人権を根付かせるために必要な作業だからです。
引き続き、自民党政治の特徴についての話をします。
-->2024.6.3
はじめに
5月22日~26日の5日間、日本AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)が企画した、台湾・金門島、花蓮市をめぐる「平和のための市民交流の旅」に参加した。参加の動機は、「台湾有事」がいわれているので、台湾の状況を少しでも肌で感じたいということにあった。
丁度、中国が台湾の頼清徳新総裁の姿勢に反発して軍事演習をしている最中だった。台北のホテルではNHKニュースを視ることができるので、日本では「大騒ぎ」になっていることを知ることはできた。もちろん、台湾でもニュースになっているけれど、現地のガイドは「いつものことです」として緊張感はまったくなかった。
現地の新聞報道によれば、中国軍は米国の対応を考えて実弾は使用していなかったという。事務所のメンバーや家族には心配かけたけれど、金門島も含めて平穏な旅であった。
それはそれとして、いくつかの貴重な体験もした。「平和、武力反対、自主、気候重視」と題する反戦声明を発した学者グループとの対話、大日本帝国が台湾から撤退した後、台湾では民衆の抵抗や「白色テロ」があったことを知ったことなどである。ここでは、台湾の研究者との交流について報告する。
台湾の学者の反戦声明
昨年3月20日、台湾の学者・研究者37人が「反戦声明」を発出している。その内容は、⓵ウクライナの平和 停戦交渉を。②米国の軍国主義と経済制裁の中止を。③米中戦争はいらない 台湾は自主を 大国とは友好的で等距離の関係の維持を。④国家予算は人々の生活・気候変動緩和に使え 戦争や軍事に使うな。の4項目である。
⓵では、和平交渉は停戦の唯一の道であるとして、NATOに対して、外交的努力を妨害することを止めることなどを求めている。⓶では、アメリカは建国以来、戦争をしなかった年はほとんどない。2001年以降の20年間で米国の国防支出は14兆ドルに達し、そのうちの2分の1から3分の1が軍需産業の懐に入っている。NATOの兵器がウクライナに入り続ける限りこの戦争の終わりは見えない、ということなどに触れられている。③では、米中双方は、すべての意見の相違を平和的手段で解決しなければならない。台湾は自主独立の立場をとり、全人類の平等・福祉・平和を増進できる分野で各国と協力すべきである。各大国とは等距離の外交を維持し、知恵のある戦略と手腕をもって台湾海峡両岸の安全を守るべきである。アメリカの覇権主義の弟分や子分になるべきではなく、逆に、中国の「戦狼」の対抗関係の一環となるべきでもない、とされている。④では、世界が異常気象、水資源枯渇、生物多様性喪失などの多重の危機に直面している今、国家予算はこれらのために使用されるべきであって、軍拡競争や相互挑発というブラックホールにつぎ込むべきではない。13000発もの核弾頭を保有する世界において、迫り来る核による壊滅の脅威が気候変動の危機を覆い隠している。全てが静寂になってしまったとき、政治家たちが戦争で守れると主張する「主権」、「民主主義」、「自由」はどこにあるというのだろうか、とされている。
その結びはこうである。
私たちは大陸中国による台湾に対するあらゆる侮蔑、弾圧や武力による威嚇に反対する。しかし、台湾の主要メディアの戦狼・中国に対する批判を繰り返すことは、この声明の役割ではない。私たちが望むのは、人々の英知を集め、米中対抗の下でのより冷静で平和的な台湾独自の進むべき道を考え出すことである。
王さんたちとの交流
私たちは、この声明に署名している台湾中央研究院の王智明氏たちと交流した。台湾中央研究院は国立の研究機関で3千人からのメンバーがいて、自由に研究しているという。王氏の見解は声明に示されたとおりだし、同席した二人の若い研究員も「ロシアの武力行使は侵略だけれど、NATOの東方展開も問題だ」、「中国との緊張の責任はもっぱら米国にある」とか「べ平連の活動や全共闘の研究をしている」などと報告していたので、自由に研究をしているというのは本当だと思った。台湾では「学問の自由」や「言論の自由」は保障されているようである。
私の発言
私も日本の平和活動家として発言した。私は、まず、「13000発もの核弾頭を保有する世界において、迫り来る核による壊滅の脅威が気候変動の危機を覆い隠している。全てが静寂になってしまったとき、政治家たちが戦争で守れると主張する「主権」、「民主主義」、「自由」はどこにあるというのだろうか」という部分に強く共感すると述べた。私も、核兵器使用の危機は迫っているし、日本では国家あげての戦争準備が進められていることに危機感を抱いているだけではなく、「全てが静寂になってしまったとき」というフレーズにカントの「永遠平和のために」を感じたからである。
その上で、日本反核法律家協会の紹介と日本国憲法9条の話を続けた。9条の背景には原爆投下があったこと。つまり、今度、世界戦争になれば核兵器が使用されて人類社会は滅びるかもしれない。だから戦争をしてはならない。戦争をしないのであれば戦力はいらない、という論理を時の政府は展開していたことなどを紹介した。また、世界には軍隊のない国が26ヵ国あるのだから、核兵器も戦争もない世界の実現は決して夢物語ではないことも発言した。
そして、現在問われているのは「核兵器による平和か」、「平和を愛する諸国民の公正と信義による平和」かである。私たちの選択は明らかではないかと提起した。
最後に、皆さん方の考えが台湾では多数派でないことは承知している。私たちの主張も同様に国内では少数だ。けれども、皆さん方のような人が台湾にいることを知ったことはうれしい。私たちのような日本人がいることも知って欲しいと結んだ。
三人とも大きく頷きながら聞いてくれていた(ように見えた)。同行したメンバーは「いい交流ができた」と言ってくれた。有意義な時間だった。
まとめ
米国の対中政策が「関与」から「対立」へと変わったせいで、日本も台湾も中国との「熱い戦い」に巻き込まれるかもしれない。5月20日、中国の呉江浩駐日大使が、日本が「台湾独立」や「中国分裂」に加担すれば「民衆が火の中に連れ込まれることになる」と発言したという。それを問題発言だと騒ぎ立てる勢力があるけれど、「敵国」の大使が言っているのだからその危険はあると受け止めることが肝要であろう。「台湾有事は日本有事」というのは、「火の中に巻き込まれる」危険を自ら招くようなものだということを忘れてはならない。
私たちに求められていることは、米国の扇動に乗って軍事力を強化することでも、台湾に味方することでもなく、人々の英知を集め、米中対抗の下でのより冷静で平和的な日本独自の進むべき道を考え出すことであろう。武力衝突となれば核兵器が使用され「すべてが静寂となる」かもしれないからである。(2024年5月30日記)
2024.5.31
私は、寅子は幸せだと思う。父の直言は寅子を宝物だとしていたし、夫の優三は、寅子が自分らしい人生を送ることが望みだとしていたからだ。父や夫からそんな風に思われている女性は多くはないだろう。私はそう思われている人は幸せだろうし、また、そう思う対象がいる人も幸せだろうと思う。
では、寅子はどうして父や夫からそう思われたのだろか。直言や優三のキャラもあるだろうけれど、二人とも寅子の飽くなき挑戦心に魅力を覚えていたのではないだろうか。高い目標を持ち人並外れた努力をする人に喝采を贈りたいことは理解しやすい心情である。けれども、自分の身内が、世間の常識とは外れた行動をとろうとすると、それに水をかけようとする現象もありふれている。自分の子どもが困難な道を進もうとすることに不安を覚えたり、パートナーの幸せよりも自分の幸せを優先することなど決して不思議ではない。けれども、寅子はそうではなかった。父と夫がよき理解者だったのだ。だから、寅子は幸せだと思う。もちろん、そんな期待をされれば責任を伴う。
寅子が素晴らしいのは、そんな父や夫の期待に応えて、「男女平等」に挑戦し続けたことだ。
日本国憲法14条と13条がドラマの中で紹介されていた。
14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において差別されない。」、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と読まれていた、ドラマでは割愛されていたけれど、14条には、栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない…、などという条項もある。
13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と全文読まれていた。
女性差別を身をもって味わい、それに抗ってきた寅子からすれば、「性別により、社会的関係において差別されない」などというフレーズは「天からの贈り物」のように思われたであろう。
自分が個人として尊重され、その生命や自由や幸福になりたいという欲求が国政の最優先事項になることなど、誰もが想像できなかったことであろう。戦争や戦力の放棄と合わせて、「新しい時代が始まる」という解放感を多くの人が覚えたであろう。
ところで、性別による差別を考えるうえで忘れてはならない条文がある。憲法24条だ。
その1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」その2項は、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」とされている。長い条文なので朝ドラで紹介するのは難しいかもしれないけれど、寅子の今後の仕事にもかかわるので、引用される機会があるかもしれない。
ご承知の方も多いと思うけれど、この条文が憲法に書き込まれるうえで大きな役割を果たしたのが、ベアテ・シロタ・ゴードンである。彼女は、1923年(大正12年)、父レオ・シロタと母オーギュスティーヌの間にウィーンで生まれ、1929年(昭和6年)5歳で来日する。15歳で、サンフランシスコのカレッジに留学し、米国で生活する(両親は日本在住なので、往来はあった)。1945年(昭和20年)12月24日、GHQの民間人要員として日本に赴任。当時、22歳の彼女は、GHQ民生局の一員として、日本国憲法の男女平等の条項を起案する。日本の実情を知っている彼女は、「私は日本の国がよくなることは、女性と子供が幸せになることだと考えていた。だから、色々な国の憲法を読んでも、その部分だけが目に入ってきた。」と回想している(『1945年のクリスマス』・朝日文庫・2016年)。
三淵嘉子さんは1914年(大正3年)生まれだから、憲法が公布された1946年(昭和21年)は32歳である。司法省に裁判官としての採用を申し出るのは1947年3月である。その時の人事課長は石田和外氏(ドラマでは桂場等一郎)。その後、嘉子さんは裁判官になる。
嘉子さんがベアテさんのことをどの程度知っていたかどうかは知らない。けれども、寅子がひたすら求めた男女の平等が、嘉子さんよりも10歳ほど若いベアテさんの尽力があって、日本国憲法24条として結実したことは史実である。
ベアテさんは私の母と同じ年に生まれている。私の母は101歳を迎えた。ベアテさんは2012年89歳で永眠している。私は日本国憲法が施行された1947年に生まれている。私はベアテさんの想いを継承したいと思う。母は私を宝物だという。私は、嘉子さんやベアテさんや母たちがこの100年をどんな想いで生きてきたのか、その想いにどう応えればいいのか、朝ドラの超速い展開の中で考えている。(2024年5月31日記)
2024.5.21
「虎に翼」の寅子が高等文官試験司法科(司法試験)に合格するのは1938年(昭和13年)のことだ。その時の憲法の試験問題は「天皇ノ国法上ノ地位ヲ明ラカニス」と「立法権ノ意義及範囲ヲ論ス」だったそうだ。埼玉弁護士会憲法委員会のメーリスで教えてくれた人がいたのだ。このメーリスでは「虎に翼」をめぐって面白いやり取りが行われていて楽しい。「虎に翼」は憲法問題の宝庫なのだ。
教えてくれた長沼正敏弁護士は、「第1問は天皇機関説を書きますかね」と問題提起していた。私は「凄い問題だね。忠誠心を確認しようというのだろうか。天皇機関説攻撃は1935年だからね」とレスしておいた。
もちろん、寅子がどんな答えを書いたのかは知らない。もし、自分がその時の試験を受けていたらどんな答えを書いただろうかと想像してみても何も浮かんでこない。現在の司法試験では自衛隊の合・違憲性を問う問題は出ないという「都市伝説」があるようだけれど、当時は、ストレートに天皇政府への忠誠心を問いかけたのかもしれない。
ところで、『新版体系憲法事典』(杉原泰雄執筆)によれば、「天皇機関説」というのは、美濃部達吉の「国家は地域を基礎とする団体的人格者(法人)であって、統治権を固有する。天皇は統治権の所有者(権利主体)ではなく法人たる国家の機関だ」という考え方である。他方、上杉愼吉は「天皇をもって統治権の主体なりとなすのみ、共同体をもって、統治権の主体となさざるのみ」として天皇即国家という立場をとっていた、とされている。
この「天皇機関説」については、「美濃部は、天皇を国家の機関とすることによって、絶対君主制を否定しようとした」と評価されているので(杉原泰雄)、当時の支配層がこの学説を「危険思想」とみなし、美濃部を「異端者」として追放しようとしたことは、容易に想像できる。古今東西を問わず、異端を許さないことは権力の属性だからだ。「焚書坑儒」や「マッカーシー旋風」(赤狩り)がその例だ。
それはそれとして、寅子は憲法を誰の教科書で勉強したかである。前川喜平氏は、東京新聞5月12日の「本音のコラム」で、5月7日の放送で寅子の机の上に置いてあったのは上杉愼吉の『新稿憲法述義』だったとしている。私はそのことに気が付かなかったので、前川氏の観察眼は凄いと思うし、前川氏も言うように製作者の「念入りな考証」はさすがだとも思う。だとすれば、寅子は「天皇即国家」という「正統学派」の教科書で勉強し、答案を書いたことになる。
「天皇機関説」は学会では多数説だったようであるが、政治の世界では「国体の本義に悖る」として貴族院・衆議院で糾弾され、内務省は美濃部の主要著書を発禁処分とし、全ての大学で国家法人説の講義は排除された。1935年のことである。
何やら、最近の学術会議に対する政府や与党の対応と通底している。権力者が学問の世界に口を出すとき、その国は破綻に近づくことになる。「真理」よりも「ご都合主義」が蔓延るからだ。だから、この国も危ない。
前川氏は「自主憲法制定運動を率いた岸信介は上杉の愛弟子だった。戦後の歴代首相の指南役といわれた安岡正篤や四元義隆も上杉の門下生だった」と書いている。上杉愼吉は、政治の世界で日本をおかしくした人たちに影響を与え続けたようである。
寅子は上杉本で勉強したようではあるけれど、「ハテ?」という精神を持ち続けたので、私たちをひきつけているのであろう。
自民党「改憲草案」第1条は「天皇は日本国の元首である」としている。自民党の諸君は、いまだ大日本帝国憲法当時の「天皇観」、「国家観」に囚われているようである。
寅子たちの受験時代は「こんな人たち」がもっともっと幅を利かしていたのであろう。
寅子はその後「新憲法」に勇気づけられることになる。
私も、再度、「新憲法」を反芻してみようと思う。(2024年5月13日記)
2024.5.9
5月8日、午後1時から2時30分までの1時間30分、参議院の憲法審査会を傍聴してきました。8会派(自民、立憲・社民、公明、維新、国民、共産、れいわ、沖縄の風)各7分の意見表明と個人の意見表明各3分間話を聞いてきました。
早く改憲案を提起すべきだとしていたのは維新でした。時間も金もかけた、改憲案ができていないのは怠慢だというのです。審査会の様子をNHKで中継するべきだとも言っていました。私も中継には賛成ですが、維新はその正体がばれるのが心配ではないのだろうかと思いました。私は維新の基本姿勢も創設者たちも嫌いなのです。物は知らないし、論理は無視するし、倫理観は低いし、目先のことしか言わないからです。
裏金にまみれた議員が沢山いるのに、それを棚に上げて改憲を進めるのはおかしいという意見が、立憲・社民、共産、れいわから出ていました。れいわの山本太郎議員は「犯罪者集団」にそんな資格はないと言っていました。不穏当発言だとして幹事会で議論されるようです。 彼の話を聞くのは2回目だけれど、私は彼の話は好きです。共産党の山添議員の話も引き込まれるように聞くことが多いけれど、山本さんの話は耳に入りやすいのです。ただ、言葉を選んだ方が無用なトラブルは少なくなるだろうとは思います。
社民の福島議員は、裏金議員を除けば、各議院の改憲派は3分の2を切るだろうと言っていました。なるほどそうなのかと感心しました。
立憲の辻本議員は、裏金議員が審査会に出ていることを暗に非難していました。「そうだ」との掛け声が飛んでいましたが、私は誰か分からなかったので名指しして欲しいと思いました。
自民党佐藤正久議員(元自衛隊の髭の隊長)は、緊急事態に際して参議院緊急集会がほんとうに機能するのかどうか、論点整理をするべきだと言っていました。公明党の西田議員も同趣旨のことを言っていました。立憲の小西議員もその点は大事な論点だと言っていました。緊急集会は参議院の最も重要な機能ですから、その議論は不可欠です。この論点での審査が進むかもしれません。緊急集会があれば緊急事態における議員任期延長など不要だという結論を出して欲しいて思っています。その議論に時間をかければ、改憲発議の時期は遅れます。参議院の与党議員の足を止める必要があるし可能かもと思いました。
共産党の仁比議員は、喫緊の課題は憲法の人権条項を実現することだとして、例えば、裁判所が違憲だと言っている同性婚などについての議論をするべきだと言っていました。改憲よりも憲法の実施が先だろうという立論です。「さすが、仁比くん」と思って聞いていました。
LGBTQの当事者だという立憲の石川大我議員も同性婚について触れていました。こういう場所で少数者の意見を堂々と言えることはうれしいと言っていました。心がこもっていました。
地方自治法の改正は地方自治を否定するものだという議論もされていました。木村草太さんの意見を引用する議員もいました。これも必要な議論だと思います。
記憶に残ったのは、ある自民党の委員が、ウクライナ憲法には緊急事態条項があったから、戒厳令も出せたし、選挙の先送りも可能だったので、現在のような状況に収まっている。もしなかったら、もっと混乱していただろう。だから、日本にも緊急事態条項が必要だと言っていたことです。
ところで、佐藤正久氏は、日本列島は地政学上、最も危険な場所だとしています。中国やロシアについては、こんなことを言っています。
太平洋に出ようとするときに、通せんぼするように日本列島がある。ロシアや中国からすれば、「あぁ、邪魔だ。日本が自国領ならスムースに太平洋に出られるのに」と、地団駄踏みたい気持ちでしょう(『知らないと後悔する日本が侵略される日』幻冬舎新書、2022年)。
彼らは、中国やロシアが日本を攻めてくることを前提に物事を考えているのです。だから防衛力を強化しようというのです。どうすれば攻めたり攻められたりしないようになるかという問題意識はないようでする。どうしても武力(米国の「核の傘」も含め)が必要だというのです。彼は本気でそう思っているのです。それが国と国民を守る唯一の方法だというのです。そして、そういう人は決して少なくないのです。
もう一つ。山本太郎議員は、現に発生している災害被害に具体的対策を講じない政府や与党に緊急事態を語る資格はないとしていました。無策の災害をいくつか挙げての議論でした。与党批判だけではなく野党に対する批判も言っていました。支持者が増えるのは無理もないなと思って聞いていました。
あっという間の1時間30分でした。皆さんが原稿を用意していて時間を守っていました。納得できない意見はありますが、真剣さは伝わってきました。貴重な時間でした。
傍聴席に着くまでにいろいろチェックがあることはいかがなものかと思うけれど(とにかく面倒だった)、議員の皆さんの生の声を聴けたことはよかったです。ぜひ、多くの皆さんに傍聴して欲しいと思いました。
私たちは主権者であり、憲法改正権者であることは忘れないようにしたいと思っています。この国の未来は自分たちで創らなければならないのだから。(2024年5月9日記)
2024.5.7
寅子の父の直言(なおこと)が、汚職事件にかかわったとして、逮捕、勾留、予審、公判を体験している。ドラマでは「共亜事件」とされているけれど、「帝人事件」がモデルだといわれている。「帝人事件」というのは、帝国人造絹糸(株)(現、帝人)の株式売買が汚職として追及され,斎藤実内閣の倒壊を招いた事件。被疑者には200日以上の長期拘留、革手錠などの過酷な扱いがなされ、〈司法ファッショ〉の非難を呼んだ。16名が背任罪・贈賄罪などで起訴されたが,1937年12月虚構による起訴として全員無罪の判決が下った。平沼騏一郎を中心とする右翼勢力の倒閣策動に連なって仕組まれた事件(改訂新版「世界大百科事典 」)とされている。
三淵嘉子さんの父は台湾銀行に勤めていたけれど、「帝人事件」にはかかわっていないので、直言の受難はフィクションである。ドラマでは、寅子やその友だちが取調調書と母の日記の矛盾に気がついて、検察のでっち上げが暴かれるというストーリーになっていて、なかなか面白かった。
けれども、面白かっただけではすまないことがある。検事が無実の直言を逮捕し、4か月にわたって身柄を拘束し、トラウマになるくらい脅し、関係者のためだなどと噓をついて、直言に自白を強要していたことだ。
直言は事件に関与していないし、そもそも、その事件は「池の水に映った月」だったのだから、自白しようにも自白の材料などないのだ。にもかかわらず、直言は自白しているのだ。なぜ、やってもいないことを自白するのだろうか。
18世紀のイタリア人啓蒙思想家ベッカリーアは『犯罪と刑罰』の中で書いている。
「われわれの意思行為は、その行為の原因となっている感覚に及ぼす影響に比例する。しかも人間の感受性には限界がある。だから苦痛の圧力が、被告の魂の根かぎりの力を食いつくしてしまうまで強まったとき、彼はその瞬間もう目の前の苦痛から逃れる最も手っ取り早い方法をとることしか考えなくなる。こうして、責め苦に対する抵抗力の弱い無実の者は、自分は有罪だと自分で叫ぶのだ。」
直言の行動を観ていると、このベッカリーアの指摘がいかに正しいかが理解できる。直言は、検事の責め苦に負けて、「自分はやっている」と叫んだのである。これは、直言が弱いからではない。普通の人はそういう反応を示すのだ。ベッカリーアのこの文章は「拷問」にかかわることではあるけれど、検事の取調べは「拷問」と同じ効果を直言に与えていたのである。これが、大日本帝国時代の刑事司法の実情である。
だから、日本国憲法は、拷問を絶対的に禁止しているし(36条)、不利益供述の強制もされないとしている(38条1項)。そして、自白だけで有罪とはされないとことにもなっている(38条3項)。
けれども、現在の日本においても、長期間の勾留や捜査官による事件の捏造は後を絶っていない。その端的な例が、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、2020年3月11日に警視庁公安部が横浜市の大川原化工機株式会社の代表取締役らを逮捕したけれど、杜撰な捜査と証拠により冤罪が明るみになった「大河原化工機事件」である。現在も、犯罪の捏造が行われているのだ。
捜査官憲による長期の身柄拘束は「冤罪」の温床である。ちなみに、「冤」という字は、兔が網にかかっている状態を意味しているそうだ。
その身柄の拘束権限は裁判官にある。大日本帝国憲法時代、「司法権は天皇の名において裁判所が行う」とされていた(57条)。日本国憲法の下では、「司法権は裁判所に属する」とされている(76条1項)。法廷に菊の御紋章はない。
裁判官は天皇の官吏ではないし「独立してその職権」を行使するとされている(76条3項)。けれども、この国の刑事司法は未だ冤罪を生み出しているし、「人質司法」から解放されていないのである。
私は、この間の「虎に翼」には、直言の受難を組み込み、無罪判決を5月3日に放映したことからして、日本国憲法や現在の司法の実情にも目を向けて欲しいとのメッセージが込められていたのではないかと受け止めている。
寅子たちの活躍も楽しいけれど、制作にかかわる人たちも、それぞれの立場で、視聴者に訴えたいテーマを持っているのかもしれない。今後も楽しみにしよう。
(2024年5月6日記)
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