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大久保賢一法律事務所



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2025.3.13

あなたは「北御門二郎」を知っていますか

 あなたは北御門二郎さんを知っていますか。私が彼のことを知ったのはつい最近です。彼は、1913年に生まれ、2004年7月17日に91歳で亡くなられた方です。私の父より4年早く生まれ、4年遅く亡くなっているので、私の父とほぼ同時代を生きた人です。
ぶな葉一著『北御門二郎 魂の自由を求めて』(銀の鈴社、2014年)では「トルストイに魅せられた良心的兵役拒否者」と紹介されています。「人を殺すくらいなら、殺される方を選ぶ」と太平洋戦争の折、死刑覚悟で戦争に行くことを拒否した人物とされています。

 トルストイは“絶対的非暴力、絶対平和”を主張したロシアの作家で、ガンジーやキング牧師に大きな影響を与えたとされています。私も、トルストイの作品は、半世紀以上も前の学生時代に読んだことはあるし、その影響の大きさについては知っているけれど、北御門さんのことは何も知りませんでした。北御門さんはトルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレニーナ』、『復活』なども訳していますが、それは1978年以降なので、既にロシア文学に接する機会はなくなっていた私には縁遠い人だったのです。

 加えて、あの大日本帝国時代に「兵役拒否」をした人がいたことも知らなかったのです。「良心的兵役拒否」は、憲法上の論点の一つですから、問題意識はありましたが、北御門さんのことは承知していなかったのです。何とも情けないことのように思われてなりません。ちなみに、彼は私の知る憲法の教科書には登場していません。

 『北御門二郎 魂の自由を求めて』によれば、彼は、1938年(25歳)の時に、「徴兵検査」に呼び出されますが、それを拒否します。そして、結局は「兵役には無関係」とされて兵役についていないのです。彼は、主観的には銃殺覚悟で兵役を拒否したのですが、手続き的には「拒否」という扱いにはなっていなかったのです。
 ところで、兵役法(昭和2年~昭和20年)によれば「兵役を免れるために逃亡などをした者は3年以下の懲役」とされていました。ご本人は銃殺を覚悟していたようですが、兵役拒否での死刑はありません。もちろん、だからといって、彼の覚悟が無意味だということにはなりません。殺すことを拒否し、殺されることを選択することなどは、誰にでもできることではない「究極の選択」だからです。加えて、当時は、治安維持法もあったのです。治安維持法には死刑もあったし、逮捕されれば、小林多喜二のように拷問で殺されてしまう時代だったのです。多喜二が殺されたのは1933年です。
 そして、兵役法には「兵役に適せざる者は兵役を免除する」という条文や「徴兵検査を受けるべき者勅令の定るところにより兵役に適さずと認める疾病その他身体または精神の異常の者なるときはその事実を證明すべき書類に基づき身体検査を行うことなく兵役を免除することを得る」という条文もありました。どの条文が適用されたのかは知りませんが、彼は「兵役に適さない」として生き残ったのです。私は、彼は「狂人」とされたのだろうと推測しています。「アカ」でなければ「狂人」とされる時代だったからです。

 彼の存在を知ったのは、石田昭義さんの2025年2月21日付『週刊読書新聞』の拙著『「原爆裁判」を現代に活かす』の書評によってでした。ちなみに、ぶな葉一は石田さんのペンネームです。石田さんは、拙著を「核兵器廃絶に向けた重く深く丁寧な語り」であり「弁護士として生涯をかけてきた著者の思いが凝縮」と評価してくれました。
 そして、それだけではなく「ロシアのトルストイは絶対平和、絶対非暴力の道を唱え、インドのガンジー、キング牧師が続き、その流れは地下水脈のように今も流れている。まさに憲法9条の、そして人類が滅びずに生きていくための源流ではないか。トルストイの思想に共鳴した北御門二郎も、『人は人を殺すために生まれてきたのではない』と、大学在学中、死刑覚悟で徴兵を拒否し奇跡的に命を永らえ、トルストイの翻訳と農業者としての生涯を終えた。」と9条につながる思想との関連で北御門二郎に触れていたのです。

 日本国憲法の徹底した非軍事平和思想がトルストイにつながるということはそのとおりだと思っている私は、書評のお礼を兼ねて石田さんに手紙を書いたのです。
 そうしたところ、石田さんは、返事と合わせて『北御門二郎 魂の自由を求めて』を贈ってくれたのです。そして、その本は私の蒙を啓いてくれたのです。この本は2023年4月には第5版となっています。「たった一つの命、一度きりの人生を悔いなく貫くための指針がぎっしり詰まった1冊」というキャッチコピーにふさわしい本です。私の本も版を重ねて欲しいと思われてなりません。

 石田さんは「大久保さんのこの著書が高校などでせめて副読本としてでも生徒さんの討論の材料となれば、日本は大きく変わるのにと思い、又、世界を変えることもできるのにと思います。」と手紙にしたためてくれました。私より3歳ほど年上の信州生まれの方から、こんな風に言われると、本当にうれしいものです。「同志」と巡り会えたように思われるからです。(2025年3月11日記)

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2025.3.13

被団協のノーベル平和賞受賞を活かそう!!

 被団協がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきたし、それなりに伴走してきた私としても本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が三度使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞を「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大いに活用したい。


核兵器も戦争もなくなっていない
 世界では武力の行使が続いているし、1万2千発からの核兵器が存在している。ピーク時である1986年の7万発と比較すれば大幅に減少しているとはいえ、そのうちの数千発はいつでも発射される態勢(警戒即発射態勢)にある。しかも、その能力は「近代化」され破壊力を増している。プーチン・ロシア大統領は核兵器使用を公言し、イスラエルも核の影をチラつかせている。中国は核戦力を強化し、北朝鮮は核兵器の先制使用を憲法に書き込んでいる。核兵器使用の危険性が高まっているのである。


授賞の理由
 ノーベル委員会は平和賞授与の理由として、被団協が1945年8月の原爆投下を受けて「核兵器使用がもたらす壊滅的な人道的結末に対する認識を高める運動」をしてきたことをあげている。そのたゆまぬ努力が「核のタブー」を形成してきたというのである。ノーベル委員会はまさに慧眼であろう。そして、ノーベル委員会は「核のタブー」が圧力を受けていること、すなわち核兵器使用の危険性が高まっていることを危惧して、被団協に授与していることにも注目しなければならない。私はそのノーベル委員会の「核のタブー」が破られようとしているとの危機感を共有している。

「核のタブー」を破るのは誰だ
 その「核のタブー」を破ろうとしているのは、核兵器保有国であり核兵器依存国である。米国政府はイスラエルの暴虐を止めようとしないし、ウクライナに停戦を呼び掛けていない。米国大統領に再び就任するトランプ氏は、かつて「核兵器をなぜ使ってはならないのか」と何度も聞き返した人である。彼らは核兵器を廃絶するのは核兵器がなくても自国の安全が確保されてきたからだとしている。自分たちで対立と分断を煽りながら、安全保障のために核兵器が必要だというのである。おまけに、他国にはその「安全保障の道具」を持たせないというのだから質が悪い。

核兵器使用はタブー
 核兵器使用は「タブー」である。核不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も、壊滅的人道上の結末をたらす。」としている。核大国の首脳も「核戦争に勝者はない。核戦争は戦ってはならない。」としている。核兵器使用がタブーであることは、1955年に「原爆裁判」を提起した故岡本尚一弁護士が「原爆使用が禁止されるべきであることは天地の公理」としていた時代から指摘されていたことなのである。


核兵器使用禁止から廃絶へ
 にもかかわらず、核兵器はなくならないどころか、核戦争の危機が迫っている。その原因は、核兵器は自国の安全保障のために必要だと主張する「核抑止論者」が政治権力を持ち続けているからである。そして、民衆が彼らにその力を提供しているのである。
 核兵器は意図的に使用されるだけではなく、事故や誤算で発射される危険性を排除することはできない。ミスをしない人間や故障しない機械はないからである。現に危機一髪の事態は発生している。発射されたミサイルを呼び戻す方法はない。
 このままでは、私たちは「被爆者候補」(田中熙巳 被団協代表委員)であり続け、「核地雷原」での生活を強いられることになる。だから、私たちの課題は、核兵器不使用禁止の継続ではなく、核兵器廃絶ということになる。

被団協のたたかい
 被団協の結成は1956年である。その「結成宣言」は次のように言う。私たちは全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から「生きていてよかった」とよろこぶことができるでしょう。
 1984年の「原爆被害者の基本要求」は次のように言う。私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。
 2001年の「21世紀被爆者宣言」は次のように言う。日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」しています。戦争被害を受忍させる政策は憲法の平和の願いを踏みにじるものです。憲法が生きる日本、核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。
 被団協はこのような決意のもとに「核兵器も戦争もない世界」を求めてきた。しかも、刮目しておきたいことは、核兵器廃絶と憲法9条をしっかりとリンクさせていることである。「平和憲法」が公布された1946年11月3日、当時の日本政府は、原爆を念頭に「文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えている。ここに九条の有する重大な積極的意義を知る。」としていた。被団協も被爆体験の中から「核兵器も戦争もない世界」を希求し続けてきたのである。


まとめ
 私たちは、核兵器に依存しながら核兵器廃絶をいう勢力に騙されてはならない。世界のヒバクシャと団結して、核兵器廃絶のたたかいを強化しなければならない。既に、核兵器を全面的に禁止しその廃絶を予定する核兵器禁止条約は発効している。それに背を向ける日本政府を、憲法に依拠しながら、変えなければならない。「核兵器も戦争もない世界」を創るために。(2025年1月14日記)

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2025.3.13

核兵器も戦争もない世界を創るために!!
―甲府での講演―

非核の政府を求める会と「非核5項目」
 1月11日、甲府で講演をする機会があった。「非核の政府を求める山梨の会」の2024年度総会に際しての記念講演を依頼されたのだ。「非核の政府を求める会」というのは、1986年に、核戦争の不安と日本の核戦場化の危険を根絶したいと願う団体・個人によって結成された非政府組織(NGO)だ。この会の特徴は、そのホームページによると「主権者である国民の手によって、『非核の政府』実現を目的としていることです。私たちは、そのための国民共通の目標として「非核5項目」を掲げています。」とされている。
 「非核5項目」とは、①全人類共通の緊急課題として核戦争防止、核兵器廃絶の実現を求める。②国是とされる非核3原則を厳守する。③日本の核戦場化へのすべての措置を阻止する。④国家補償による被爆者援護法を制定する。⑤原水爆禁止世界大会のこれまでの合意にもとづいて国際連帯を強化する、である。
 私は、この会の常任世話人の一人なのだ。

山梨の会の世話人
 ところで、この山梨の会の世話人の一人を友人の加藤啓二弁護士(33期、75歳)がやっている。彼とは自衛隊がカンボジアに派遣された1992年、その実態を調査したいとして企画された「自由法曹団カンボジア調査団」の一行として行動を共にした仲だ。その後30年以上会っていなかったけれど、連絡をくれたのだ。山梨の会で講演して欲しいと言うのだ。テーマは核廃絶であれば好きにしゃべっていいとも言っていた。私にどのように言えば動くかは先刻お見通しのようだ。もちろん、私に断る理由はないし、被団協のノーベル平和賞受賞もあったので引き受けたのだ。

講演のテーマ
 演題は「核兵器も戦争もない世界を創るために」として、サブタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」にした。私の新著(日本評論社、2024年12月)のタイトルは「『原爆裁判』を現代に活かす」サブタイトルは「核兵器も戦争もない世界を創るために」だけれど、それを逆にしたのだ。その理由は二つあった。一つは、2021年に「学習の友社」から『核兵器も戦争もない世界を創る提案―「核の時代」を生きるあなたに―』を出版していることだ。もう一つは、ノーベル平和賞受賞式での田中熙巳さんの記念スピーチの最後が「人類が核兵器で自滅することのないように‼そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう‼」となっているので、その呼びかけに応えたいという気持ちだった。私には被団協や田中さんと伴走してきたという自負はあるので「共に頑張りましょう!!」という言葉を受け止めたいと思ったのだ。

講演の内容
 私は58枚に及ぶスライドを用意した。「虎に翼」やノーベル平和賞などを大いに活用して、「原爆裁判」の背景や原告と被告国の主張、鑑定人の意見、裁判所の判断、判決に対する評価、被爆者運動への影響、国際法への影響、核兵器禁止条約の到達点、憲法9条との関係、ラッセル・アインシュタイン宣言、現在の情勢などについて、90分ばかり話をした。結論は、「核の時代」の非軍事平和規範である憲法9条を土台に、「原爆裁判」をルーツに持つ核兵器禁止条約を普遍化し、核兵器も戦争もない世界の一刻も早い実現を!!である。主催者からは80分程度と言われていたのだけれど、会場の皆さんが一生懸命聞いてくれているのが伝わってくるので、ついつい伸びてしまったのだ。リアルで話していると参加者の感じ方が伝わってくる。聞いていてもらえるとなるとこちらもノッてくる。今回もそんな感じだった。30人ばかりの会だったけれど楽しく話すことができた。

質問と意見
 質問や意見交換の時間は短くなってしまったけれど、こんな質問があった。「何で政府は核兵器に依存したり、原発依存を続けるのか。」というものだ。核心を突いた質問である。核兵器に依存する理由は、講演の中で、政府は「米国の核とドルの傘」に依存するという姿勢でいると説明しておいたので、それと原発依存の関係での質問であろう。私は「電力会社の意向に応え、その利潤を確保するためと、石破さんがいうように原発は『抑止力』という軍事的必要性によるものだ。国民の安全よりも、利潤追求と軍事力を優先する発想だ。」と答えておいた。あわせて、私たちは核兵器と原発という二本の「ダモクレスの剣」の下で生活しているという私の新著で紹介している話も付け加えておいた。
 感想としては「こんな話を全国でやって欲しい。」とか「よく理解できたので、質問はないけれど、この話を活動に活かしたい。」などと言われていた。また、被爆者運動に深くかかわっていた伊東 壯(いとう たけし1929年~ 2000年。経済学者で平和運動家。山梨大学学長、日本被団協代表委員などを歴任)と一緒に活動していたという方の発言もあった。私は、伊東さんとの交流はなかったけれどその著作には触れているし尊敬している方なので、感謝の言葉を述べておいた。

まとめ
 閉会後、トイレに入ったらある参加者が「今日はいい話を聞かせてもらった。」と隣で用を足している人に話しかけていた。順番待ちをしていた私は、思わず「ありがとうございました」と声をかけてしまった。二人が振り向いて会釈をしてくれた。「あ、やばい。途中だったら…」と思ったけれど、事故は起きていなかったようだ。こういうシーンに出会うと、核兵器廃絶は決して夢ではないと思う。また、どこかで話をしたくなる。
 私に何ができるか分からないけれど、愚直に運動を続けようと思う。甲府の駅まで送って、甲州ワインをお土産に持たせてくれた加藤さんと「お互いに後期高齢者だ。健康は大事にしよう!」と握手をして別れた。加藤さん。甲府の会の皆さん。お世話になりました。
(2025年1月12日記)

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2025.1.24

「あの夏の絵」所沢公演と田中熙巳さん

 広島の高校生たちが被爆者の話を聞きその体験談を絵に描くという実話をもとにした青年劇場の「あの夏の絵」を所沢でも上演した。昨年12月17日のミューズでの公演には300名を超える観客が訪れてくれた。

 上演の前には、ノルウェー・オスロでのノーベル平和賞授賞式から帰国したばかりの田中熙巳 日本被団協代表委員からのご挨拶もいただいた。何とも光栄なことであった。

 この公演を企画したのは、核兵器廃絶を一刻も早く実現するための運動の一環としたいとの想いだった。青年劇場からのお誘いを受け、一年以上をかけて準備をしてきた。所沢市内の著名人に呼びかけ人になってもらい実行委員会を立ち上げた。演劇と映画や講演との大きな違いは、生身の人間が観客の面前で演技をすることにある。私も、こまつ座を含めて演劇を鑑賞する機会はあるけれど、自らが公演を企画するなどということは初めての体験だった。

 やってみようと思ったのは、核兵器使用の危険性が迫っているにもかかわらず、核兵器廃絶を「永遠の彼方」に追いやっている日本政府や核兵器国の姿勢を見ていて、何とかしなければという気持ちからだった。そして、「あの夏の絵」のビデオや青年劇場の舞台を観ていると、この劇はきっと多くの人の心を動かせるとも思ったのだ。

 もちろん、不安がなかったわけではない。そこに、日本被団協のノーベル平和賞受賞のビッグニュースが飛び込んできたのだ。平和賞の評価は様々あるけれど、この六十数年間、「被爆者は私たちを最後にして欲しい」、「人類と核兵器は共存できない」として、「核のタブー」を形成し、核兵器が三度使用されることを阻止してきた被団協の受賞に異議を唱える人はいないだろう。
ということで、親しくお付き合いをしている田中熙巳さんに協力を得ることにしたのだ。

 12月11日、田中さんは平和賞受賞記念スピーチをしている。その演説は多くの人の心に響いている。その田中さんが会場に来てくれることは「あの夏の絵」公演に花を添えたことは間違いない。田中さんが舞台に現れた時の観衆の拍手は本当に心のこもったものだった。そして、俳優の皆さんも熱演だった。 実行委員長としてこんなにうれしいことはなかった。関係者の皆さんとともに喜び合いたい。
 あわせて、一刻も早く「核兵器も戦争もない世界」を創るための運動を続けたいと決意を新たにしている。(2025年1月14日記 写真は公演後、盛寿司にて) 

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