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大久保賢一法律事務所



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2024.12.16

田中熙巳ノーベル平和賞講演を活かそう
―核兵器も戦争もない世界は可能だ―

はじめに
 2024年のノーベル平和賞を受賞した日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員の一人田中熙巳さんが、12月10日、ノルウェー・オスロでの授賞式で講演をしています。その結びの言葉は「人類が核兵器で自滅することのないように!!」、「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!」です。田中さんは、「核兵器も戦争もない世界」、そういう「人間社会」を創るための共同を呼び掛けているのです。私はその呼びかけにどのよう応えればいいのかと思案しています。そこで、ここでは、田中さんとの交流も含めてこの講演を振り返ることにします。

田中さんと私
 田中さんとは四半世紀の交流になります。1999年、オランダのハーグで開催された「世界市民平和会議」(Hague・Appeal・for・Peace、HAP)で共同したことをきっかでした。HAPは、21世紀に戦争を根絶することをめざして開催された市民社会の会議でした。会議では「10の基本原則」が採択されました。その中に「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである。」や「核兵器禁止条約の締結をめざす交渉が直ちに開始されるべきである。」という原則も含まれていました。
 それから25年、「核兵器禁止条約」は発効しているのです。核兵器も戦争も廃絶しようとする運動は間違いなく前進しているのです。
それはそれとして、講演の内容に触れましょう。

田中さんの被爆体験
 私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえると間もなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕(きょうがく)し2階から階下に駆け降りました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました。その後の記憶はなく、気が付いた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが1枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。
惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた2人の伯母の安否を尋ねて訪れた時です。私と母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろしてがくぜんとしました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃虚が広がっていました。れんが造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、見る影もありませんでした。麓に下りていく道筋の家は全て焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されているたくさんの人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。
 1人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体と共に黒焦げの姿で転がっていました。もう1人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘(だび)に付しました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。1発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。
 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

 13歳の多感な少年にとって、この体験がいかに重いものであるか容易に想像できるのではないでしょうか。その体験が田中さんをして被団協の活動を継続するネルギー源になっているのかもしれません。
次に、被団協についてです。

被団協の誕生
 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被曝して急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3千万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。
 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

講演で触れられていない被団協の基本文書
 講演では触れられていませんが、被団協はいくつかの基本文書を採択しています。被団協の運動を理解する上で必要と思われるのでそれを紹介しておきます。
まず、1984年の「原爆被害者の基本要求」です。
 私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、二度とだれにも味わわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は、私たち被爆者のいのちをかけた訴えです。それはまた、日本国民と世界の人々のねがいでもあります。核兵器は絶対に許してはなりません。広島・長崎の犠牲がやむをえないものとされるなら、それは、核戦争を許すことにつながります。 
 
 ここでは、「核兵器を絶対に許してはならない」とされているのです。核兵器が国家安全保障のために必要だなどという発想(核抑止論)は、「核戦争を許すこと」になると批判しているのです。日本政府の姿勢とは真逆であることを確認しておきましよう。
 
 次に、2001年の「21世紀被爆者宣言」です。
原爆被害は、国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたことによってもたらされたものです。国がその被害を償うのは当然のことです。
 戦争への反省から生まれた日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」しています。戦争被害を受忍させる政策は憲法の平和の願いを踏みにじるものです。
核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。

 被団協は、68年間、このような決意のもとに「核兵器も戦争もない世界」を求めてきたのです。しかも、刮目しておきたいことは、核兵器廃絶と憲法9条をしっかりとリンクさせていることです。被団協は、被爆体験の中から「核兵器も戦争もない世界」を希求し続けてきたことのです。田中講演の結びの言葉は、この「21世紀被爆者宣言」を踏まえてのものなのです。


被団協の被爆者援護を求める運動
 田中さんは、被爆者に対する補償を求める運動について次のように述べています。
1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律(原爆医療法)」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。
 1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(原爆特別措置法)」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。
 1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。
1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。

 田中さんの怒りが伝わってきます。1963年の「原爆裁判」判決は、国の被爆者に対する施策について「政治の貧困を嘆かざるを得ない」としていましたが、その「政治の貧困」は解消されていないのです。この「政治の貧困」は、単に原爆被爆者に対してだけではなく、空襲被害者など戦争被害者に対する冷酷さとしても現れています。戦争被害は「国民等しく受忍すべき」であって(受任論)、国には責任はないという論理です(国家無答責論)。私たちは、この「国家無答責論」に基づく政府の政策を克服して、「国が戦争を開始し、その終結を引きのばしたこと」による責任に基づく国家補償を実現しなければならないのです。

田中さんの現状認識
 田中さんは現在の世界情勢について次のように語っています。
 今日、依然として1万2千発の核弾頭が地球上に存在し、4千発が即座に発射可能に配備がされている中で、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザに対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。

 私はこの認識に共感しています。核兵器の使用について、核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす」としています。核兵器国の首脳たちも「核戦争に勝者はない。核戦争は戦ってはならない」などと宣言しています。けれども、核兵器保有国は核兵器をなくそうとはしてないだけではなく、核兵器の近代化を図り、核戦争に備えているのです。ノーベル委員会も「今日、核兵器使用のタブーが圧力を受けていることは憂慮すべきことである。」と婉曲な表現ですが、核兵器使用の危険が高まっていることを指摘しているのです。

核兵器廃絶に向けての被団協のたたかい
 田中さんは、核兵器廃絶に向けての被団協の戦いを振り返っています。
私たちは、核兵器の速やかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。
 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。
 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加しました。
核拡散防止条約(NPT)の再検討会議とその準備委員会で発言機会を確保し、併せて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
 2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受け止められ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。
 2016年4月、「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。
 2017年7月7日に122カ国の賛同を得て「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。

 こうしてみると、被団協は倦まず弛まず国内外で活動を続けてきたことが分かります。そして、核兵器禁止条約(TPNW)は2021年1月発効しているのです。TPNWが、ヒバクシャの「容認しがたい苦痛と被害」や核兵器廃絶のためのヒバクシャの努力に言及していることは周知のとおりです。

核抑止論批判
 田中さんは核抑止論を次のように批判しています。
 核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4千発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。皆さんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中の皆さんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

 核兵器を日本政府や核兵器国のように「安全保障の道具」とするのではなく、「一発たりとも持つな」というのが「心からの願い」だというのです。もし核兵器がなくならないなら、私たちが被害者になるか、加害者になるかもしれないというのです。そして、核兵器をなくすためにどうしたらいいか共に話し合い、その廃絶を求めていきたいとしているのです。私たちは、その問いかけに真剣に応えなければならないのです。

原爆被爆者の高齢化
 田中さんは次のように言います。
 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代の皆さんが、工夫して築いていくことを期待しています。
 一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきたNPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

 被爆者が高齢化していることについては、ノーベル委員会も「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなるでしょう。」としているとおり厳しい現実です。こういう状況の中で、田中さんは「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」に期待するとしているのです。
この会のことは知らない方も多いと思いますが、田中さんが言うようにこの15年間被団協と伴走してきた組織です。田中さんはNHKのインタビューで、「この会が集め、補完している資料を上手に使えば、被爆2世でも3世でも普通の人でもできるので、被爆者ができなかったこと、やり通せなかったことを受け継いでもらえるかなと期待をしている。」と言っています。
 私もこの会の理事の一人として田中さんの期待に応えなければ思っています。

田中講演の結び
 世界中の皆さん。「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!
核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

 田中さんは、核兵器禁止条約の普遍化を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止める機会となる被爆証言の場を確保して、核兵器国やその同盟国の市民の中で「核兵器と人類は共存できない」という信念の醸成し、「自国の政府の核政策を変える力」になって欲しいとしているのです。まさにそのとおりです。核兵器国やその同盟国の市民社会の変化なくしてこれらの国の政府の核政策は変わらないからです。
 田中さんは、今日まで、被爆者は闘ってきたけれど、命は尽きようとしている。その闘いを引き継いで欲しい。核兵器で自滅することのないようにしようと言っているのです。そうしなければ「被害者になるか、加害者になるかだ」というのです。
こうして 田中さんは、私たちに「核兵器も戦争もない世界」を求めて共同しようと呼びかけているのです。
 ノーベル委員会は、被団協の「記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています。彼らは世界中の人々を鼓舞し、教育しています。このようにして、人類の平和な未来の前提条件である核兵器のタブーを維持する手助けをしているのです。」としています。
 私の周囲にも新しい息吹は存在しています。「核兵器も戦争もない世界」を創ることは決して夢物語ではありません。核兵器は人間の作ったものであり、戦争は人間の営みだからです。核兵器のみならず軍隊のない国は26ヵ国も存在していることを思い出しておきましょう。核兵器や軍隊がなくても人間は生活できるのです。
 田中さんの呼びかけに応えようではありませんか。(2024年12月11日記)

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2024.11.28

なぜ、日本政府は核兵器禁止条約(TPNW)に背を向けるのか
―アメリカのロータリークラブのメンバーに答える―

はじめに
 先日(11月26日)、アメリカのロータリークラブのメンバーとオンラインで話をする機会があった。テーマは「なぜ、日本政府は核兵器禁止条約に背を向けるのか」だ。きっかけは、清泉女子大学の松井ケティさんからの、このテーマでロータリーの仲間に話をしてくれないかという依頼だった。彼女とは、1999年にオランダ・ハーグで開催された「世界市民平和会議」(Hague・Appeal・for・Peace、HAP)で共同したことをきっかけとして友人なのだ。友だちの頼みだし、こういうことに興味を持っているアメリカ人がいるとは思っていなかったので、後先を考えないで引き受けた。事前にケティさんに私の見解を渡して、彼女がそれを翻訳して、メンバーと共有したうえでの対話だった。

私の見解
 私の見解の概要は次のようなものだった(被団協のことも紹介したけれど割愛する)。

 日本政府はTPNWを敵視していますが、日本の市民社会は、速やかな署名と批准を求めています。とりわけ、被爆者の願いは切実です。1945年8月、広島、長崎への原爆投下によって「容認しがたい苦痛と被害」を被った被爆者は高齢化しているからです。
なぜ、日本政府はそのような姿勢をとるかですが、TPNWは核兵器を全面的に禁止しているからです。日本政府は、アメリカの核兵器を自国の安全保障の「守護神」としているので、そのカードを取り上げてしまうTPNWは国家の安全を危うくするというのです。国家の安全なくして国民の命と財産を守ることは出来ない。国家の安全を危うくするTPNWは、国民の生命と財産を危うくするので絶対に容認できないという論理です。「笑えない喜劇」あるいは「泣けない悲劇」のようですが、それ現実です。
 けれども、この姿勢は日本政府だけのものではありません。TPNWの発効が現実化しようとした2020年10月、アメリカは、各国に「核兵器禁止条約に関するアメリカの懸念」と題する「書簡」を送りました。批准国には「この条約は、効果的な検証の必要性や悪化する安全保障環境に対処していない」ので「批准・加入書を撤回すべき」だとしていました。未批准国には、TPNWは「危険なまでに非生産的だ」、「国際社会の分裂に拍車をかける」などとしてTPNWへの賛同を阻止しようとしたのです。アメリカも核兵器は自国の安全を確保するための抑止力だとしているので、それを否定するTPNWは容認できないのです。
 このように、核兵器によって自国の安全を確保しようとする国家は「絶滅だけを目的とした狂気の兵器」である核兵器の保有を続け、TPNWを敵視しているのです。

メンバーからの質問
 メンバーからはいくつかの質問が寄せられた。
①日本は核開発をしなかったのか。
②今、日本に核兵器はないのか。
③地方自治体はどのような姿勢をとっているのか。
④日本のロータリークラブはどのような姿勢なのか。
⑤ノーベル平和賞の授賞式が行われる時、日本は何時なのか、などと言うものだった。最後の質問は授賞式をリアルタイムで視られるのかという心配だったようだ。

 私のそれぞれの問いに対する答えは次のとおりだ。
①戦前、日本でも核開発を行っていたが、敗戦によって途絶えた。現在は、公式には行われてはいないが、陰でのことは判らない。
②かつて、沖縄の米軍基地などには配備されていたが、現在は配備されていない。持ち込まれているかどうかは、アメリカが「肯定も否定もしない」という態度なので分からない。
③地方自治体には「非核都市宣言」をしているところや、TPNWへの参加を求める決議をしているところもある。また、世論調査では、TPNW参加賛成が多数だ。
④日本のロータリークラブが、核兵器廃絶のためにどのような活動をしているかは承知していない。
⑤オスロと日本の時差はあると思うけれど、テレビは大きく取りあげるだろうし、国民の関心は高い。とにかくビッグニュースなのだ。

メンバーからの意見
 メンバーからは日本のロータリーと繋がりたいという意見もあったけれど、私にその伝手はないので、別ルートでやって欲しいと応えた。ワシントン州から参加していたメンバーは、ニューメキシコ州のメンバーとは交流しているし、4月にはシアトルで核廃絶や先住民の核被害についてのイベントをする計画だと教えてくれた。ニューメキシコ州にはロスアラモスやトリニティ実験場がある。ワシントン州には長崎に投下された原爆の材料プルトニウムを製造していたハンフォード・サイトがあるし、核被害者による訴訟も提起されている。「なるほど」と納得できる話だった。シアトルでのイベントに参加してもらえたらうれしいと言われたけれど、とりあえず、デュポール大学に宮本ゆきさんという核問題の研究者がいることと、日本でもそのイベントは紹介するので詳細が分かり次第教えて欲しいと伝えた。アメリカで核兵器廃絶や被爆者支援のために活動している人たちとの交流は大切にしなければならない。

感想
 参加メンバーは、ケティさんと私以外に5名だった。うち女性は4名で唯一の男性はインドの人だった。ケティさんの集まりには、ウォード・ウィルソンという「核をめぐる5つの神話」(黒澤満監訳、法律文化社、2016年)という本を書いている研究者もいるけれど、この日の参加はなかった。ちなみに、この本は有意義で私も引用させてもらっている。共通の言語で語り合えればうれしいけれど、私には無理だ。ケティさんの通訳に依存するしかない。けれども、「あなたの意見は解りやすかったし、理解できた」という人もいたし、ケティさんによれば「皆さん喜んでおられました」とのことなので、引き受けてよかったと思っている。貴重で楽しい時間だった。(2024年11月28日記)

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2024.11.22

核兵器廃絶のために、今、私がしていること。これからしたいこと。

はじめに
 「核兵器廃絶のために、今、私がしていること。これからしたいこと」は、11月16日に広島で開催された日本反核法律家協会創立30年記念イベントでのリレートークのテーマです。日本反核法律家協会は1994年8月に、被爆者支援と核兵器廃絶を目的として設立されました。初代会長は松井康浩弁護士でした。その後、2011年の福島原発事故を受けて「原発廃止」も目的としました。創立以来、国内外の反核平和運動の人たちと交流してきました。特に、この8年間は「朝鮮半島の非核化」をテーマに意見交換会を開催してきました。今年もそのテーマでとも思いましたが、来年被爆80年を迎えるので、核兵器廃絶のために運動している様々な人にリレートークをしてもらうことにしたのです。核兵器廃絶の運動は被団協をはじめ原水協などの伝統的な運動体もありますが、むしろ、それぞれの想いで活動している人に話をしてもらおうと試みたのです。持ち時間は10分ということにしました。NHKの「時論・公論」や「視点・論点」などの例にならったのです。

多彩なスピーカー
 発言者は次の13名でした(予定していた平岡敬元広島市長は体調が悪くて登壇できませんでした)。最年長は87歳の英語で被爆体験を語る小倉桂子さん。最も若いのは盈進中学高校のヒューマンライツ部の生徒たち。女優の斎藤とも子さん、詩人のアーサー・ナードさん、歌手であり映画プロデューサーの中村里美さん。元外交官の小溝泰義さん、韓国の弁護士崔鳳泰さん、反核医師の会の原和人さん。カクワカ・ヒロシマの田中美穂さん、第5福竜丸展示館学芸員の市田真理さん、ANTヒロシマの渡部朋子さん、核廃絶日本キャンペーンの浅野英男さん、非核の政府を求める会富山の渡邊眞一さんです。
 皆さんのスピーチはそれぞれの体験に基づく反核の想いを込めた素晴らしいものでした。普段は口うるさい弁護士たちも何人か参加していましたが、その彼らが「話を聞いていて泣きそうになった」、「涙がにじんできた」、「泣いてしまった」などと言うのです。私もその一人でした。参加していたNHK関係者からは「皆様の素晴らしいお話をうかがい実りある時間でした」、「多様な方々、とりわけ若い世代の反核の取り組みが広がっていることが喜びとともに学びとなりました」などという感想が寄せられています。

寄せられたメッセージとご挨拶
 ポーランドやカザフスタンの反核法律家、被団協、青法協、ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会、原水禁などからのメッセージが寄せられました。被団協の田中熙巳代表委員からはビデオメッセージを寄せてもらい、広島の被団協関係者、参議院議員で非核の政府を求める会常任世話人の井上智士さん、ICANの川崎哲さんからはリアルでのご挨拶をいただきました。田中熙巳さんは「発言者の中に、被団協のメンバーがいない。」と言っていましたが、主催者としては「被団協の活動を継承する決意を持っている人たちを選択した。」ということだとご理解いただければと思っています。このイベントは、被団協のノーベル平和賞受賞よりも前に企画したものでしたが、受賞によって「錦上花を添える」ことになったと思っています。     ノーベル賞受賞団体のICANおよび被団協の双方からご挨拶をいただけたことは本当に光栄でした。

主催者の想い
 私は主催者として次のような挨拶をしました。
今年は私たち協会が発足して30年になりますが、今年ほど、うれしいことがあった年はありません。まずは、被団協のノーベル平和賞受賞です。被爆者支援と核兵器廃絶をめざす私たちも被団協に伴走してきました。被団協の平和賞受賞はまさに「同志」の受賞として心からうれしいことでした。
 また、NHKの朝ドラ「虎に翼」では「原爆裁判」が丁寧に取り上げられました。松井康浩初代会長が残してくれた裁判資料が大いに役に立ったことをうれしく思っています。
これらのことは私たちに大きな励ましと勇気を与えてくれています。けれども、世界にはまだ核兵器は存在していますし、被爆者を含む戦争被害者の救済も不十分です。
来年、被爆80年を迎えます。ノーベル委員会は「今日、核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされている」としています。核兵器使用の危険性が高まっていると警告しているのです。また、「被爆者はわれわれの前からいなくなる」ともしています。私たちは核兵器廃絶を「自分事」として実現しなければならないのです。
 今日は、様々な世代の様々なポジションでたたかっている方たちにスピーチをお願いしています。限られた時間ですが、ぜひ、それぞれの想いを語っていただいて、一刻も早く「核兵器のない世界」を実現したいと思っています。
 私たち日本反核法律家協会も「原爆裁判」を提起した先輩たちに思いを馳せながら、引き続き市民社会の一員としての役割を果たす所存でいます。

むすび
 来年被爆80年です。まだ、世界には約12200発の核兵器があります。「核戦争は戦ってはならない。」と言われていますが、核兵器に依存しての国家の安全をいう勢力が政治権力を握っています。彼らは核兵器を「平和の道具」だというのです(核抑止論)。核兵器という「悪魔の兵器」に命と安全託すという「最悪の集団的誤謬」からの脱出が求められているのです。私たちの手には、既に、核兵器禁止条約という国際法の枠組みと日本国憲法という「核の時代」の非軍事平和規範があります。それらは最大限活用し、核兵器も戦争もない世界を実現しなければならないのです。そのための主体的力は、間違いなく、市民社会の中で育っています。「市民社会は歴史の竈である」(マルクス)という言葉を実感することのできるリレートークでした。ご協力、ご尽力いただいた皆さん。本当にありがとうございました。なお、イベントの様子は以下のYouTubeで視聴できます。
https://youtube.com/live/jmLBZHDJPsE?feature=share (2024年11月22日記)

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2024.10.17

「虎に翼」から「核も戦争もない世界」を展望する!!

はじめに
 日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。

「虎に翼」は面白かった
 「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。 
 特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。

「原爆裁判」が提起したこと
 「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。

核兵器使用禁止は「公理」なのに
 核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
 核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
 にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。

核兵器の特質
 核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
 原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
 原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。

核兵器の最も特異な効果
 判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
 要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。

ダモクレスの剣
 「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
 私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
 私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。

私たちの課題
 石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
 結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
 この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
 「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)

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2024.9.13

NHK「視点・論点」に出演しました

現代に生きる「原爆裁判」


初回放送日:2024年9月9日



連続テレビ小説「虎に翼」でも描かれた「原爆裁判」。
戦後まもなく被爆者が原爆投下の責任を追及し、訴えを起こした裁判が、現代に何をもたらしたのかを考えます。



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2024.8.9

“非核と平和を一体に”

 非核とは核兵器廃絶のことです。平和とは、究極的には敵意が存在しないことですが、ここでは戦争の放棄としておきましょう。私は、平和委員会のメンバーですから、非核も平和も求めています。だから、「非核と平和を一体に」と言われれば「そりゃそうだ」と思う一人です。

 けれども、核兵器廃絶と戦争放棄は別の問題なのです。その理由は核兵器がなくても戦争はできるからです。ロシアは核兵器使用なしでウクライナ侵略をしていますし、イスラエルもパレスチナでの虐殺を継続しています。核兵器廃絶と戦争放棄は別問題だということがよくわかります。


 そういう事情があるので、反核運動の中で、9条の擁護や世界化には消極的な人もいますし、「改憲阻止」をいう人に核兵器禁止条約を語ってもスルーされてしまうこともあるのです。

 けれども、戦争という手段がある限り、核兵器は最終兵器ですから手放さない人が出てくるのです。現に世界はそうなっています。だから、核兵器廃絶と9条の擁護・世界化をリンクさせなければ、核兵器も戦争もなくならないことになるのです。

 
 このように「非核と平和を一体に」というスローガンは重要な意味を持つのです。
 

 ところで、今年の原水禁世界大会で志位和夫さんは、憲法9条には「戦争を二度と引き起こしてはならないという決意とともに、この地球上のどこでも核戦争を絶対に惹き起こしてはならないという決意が込められています」、「非核の世界をつくるたたかいと平和なアジアをつくるたたかいは、憲法9条という点でも深く結びついています」として、「”非核と平和を一体”として、草の根から運動を進めよう」と呼びかけています。私はこの呼びかけに「我が意を得たり」と共感しています。核兵器も戦争もない世界を一刻も早く実現したいからです。(2024年8月7日記)

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2024.7.11

現代に生きる「原爆裁判」(下田事件)

 今、「原爆裁判」が人々の関心を集めている。NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルの三淵嘉子さんが「原爆裁判」にかかわったことが知られつつあるからだ。以前から「原爆裁判」を多くの人に知って欲しいと考えていた私にとってはうれしいことである。朝ドラで「原爆裁判」がどのように描かれるかはともかくとして、ここでは「原爆裁判」の基礎知識と現代への影響について触れておく。「原爆裁判」が現代に生きていることを共有したい。

「原爆裁判」とは

 「原爆裁判」とは、1955年、被爆者5名が、米国の原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判である。1963年、東京地裁は請求を棄却したけれど、米国の原爆投下を違法とし、あわせて「政治の貧困」を指摘したことによって、国内外に影響を与えた。

原告たちの事情

原告は次の5人である。


下田隆一 47歳。
広島で被爆 長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害。就業不能。


多田マキ
広島で被爆 顔、肩、胸、足にむごたらしいケロイド。疼痛のため日雇労働も続かず。夫は容貌の醜さを厭って家出。


浜部寿次 54歳
東京に単身赴任。長崎で妻と四人の娘たち全員が爆死。


岩渕文治
広島での原爆投下により養女とその夫及び子どもをなくす。


川島登智子
広島で被爆 14歳 顔面、左腕などを負傷 両親も原爆でなくす。


 原爆投下から10年を経ていたけれど、政府は被爆者に何の支援もしていなかった。被爆者は病や社会的差別の中で貧困にあえいでいた。

原告代理人岡本尚一

 岡本尚一弁護士は、1892年に生まれ、提訴3年後の1958年に没している。岡本さんが、なぜ、この裁判を考えたのか。その理由を彼の短歌に探ってみたい。


・東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る 

・夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり

・朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか 


 私には歌心はないけれど、岡本さんの東京裁判に対する怒りと被爆者への同情と人類社会の未来についての懸念が痛いほど伝わってくる。

 
 岡本さんは「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるということだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう。」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼び掛けた。けれども、現実に応えたのは松井康浩弁護士だけであった。


この裁判の当初の目的は「賠償責任の追及」と「原爆使用の禁止」だったことを確認しておきたい。

原爆裁判の請求の趣旨と原因

 請求の趣旨は、被告国は、原告下田に対して金三十万円。原告多田、浜部、岩渕、川島に対して各金二十万円を支払え、である。


請求の原因の骨子は次のとおり。

 米国は広島と長崎に原爆を投下した。原爆は人類の想像を絶した加害影響力を発した。「人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した酸鼻なる様相を呈した」。


 原爆投下は、戦闘員・非戦闘員たるを問わず無差別に殺傷するものであり、かつ広島・長崎は日本の戦力の核心地ではなかった(「防守都市」ではない)。


 広域破壊力と特殊加害影響力は人類の滅亡をさえ予測せしめるものであるから国際法と相容れない。


 国家免責規定を原爆投下に適用することは人類社会の安全と発達に有害であり、著しく信義公平に反する。米国は平和的人民の生命財産に対する加害について責任を負う。被害者個人に賠償請求権が発生する。


 対日平和条約によって、国民個人の請求権が雲散霧消することはあり得ない。憲法29条3項により補償されなければならない。補償されないということであれば、日本国民の請求権を故意に侵害したことになるので、国家賠償法による賠償義務が生ずる。

被告の答弁の骨子

 原子爆弾の投下と炸裂により多数人が殺傷されたことは認めるが、被害の結果が原告主張のとおりであるかどうか、及び原爆の性能などは知らない。


 原爆の使用は、日本の降伏を早め、交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。


 原爆使用が、国際法に違反するとは直ちには断定できない。

したがって、原告らに損害賠償請求権はない。


 敗戦国の国民の請求が認められることなど歴史的になかった。


 原告らの請求は、法律以前の抽象的観念であって、講和に際して、当然放棄されるべき宿命のもの。それは権利たるに値しない。


 憲法29条によって直ちに具体的補償請求権が発生するわけではない。


 国は、原告らの権利を侵害していない。平和条約は適法に成立しているので、締結行為を違法視することはできない。

 
 慰藉の道は、他の一般戦争被害者との均衡や財政状況等を勘案して決定されるべき政治問題。

裁判所の判断

 1963年12月7日、裁判長古関敏正、裁判官三淵嘉子、同高桑昭による判決が出される。判決は、高野雄一、田畑茂二郎、安井郁の三人の国際法学者の鑑定を踏まえていた。なお、口頭弁論の全期日に関与したのは三淵嘉子さんだけであった。その要旨は次のとおり。


 米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反する。かつ原爆は非人道的兵器であるから、戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならないとの国際法に違反する。


 しかし、国際法上の権利をもつのは、国家だけである。被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかない。

日本の裁判所は米国を裁けない。

 米国法では、公務員が職を遂行するにあたって犯した不法行為については賠償責任を負わないのが原則。

 結局、原告は国際法上も国内法上も権利をもっていない。


 人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ、原爆の投下によって損害を被った国民に対して、心からの同情の念を抱かないものはいないであろう。

 戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずる。

「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは到底救済にならない。

 国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのだから、十分な救済策を執るべきである。


 しかしながら、それは裁判所の職責ではなく国会及び内閣の職責。そこに立法及び行政の存在理由がある。本件訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かざるを得ない。

松井弁護士の裁判の評価

松井康浩弁護士(1922年~2008年)は次のように総括している。


 戦勝国アメリカの戦闘行為を国際法に照らして日本の裁判所で裁くこの訴訟は、日米の友好を損なう、途方もないこと、そのような訴訟が成立するわけがないなどさまざまな理由で弁護士の協力者も少なく、被爆者その他国民の支援もなかったことが示すように、困難な訴訟であった。

 
 この訴訟の特徴は、原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する点にあった。判決は広島・長崎への原爆投下という限定の下に国際法違反と断定した。しかし、その無差別爆撃性と非人道性は、いつ、いかなる原爆投下にも適用されるであろう。


 裁判所は、「政治の貧困さを嘆かずにはおられない」として、最大限の言葉を用いて、被爆者援護法を未だに制定しない立法府と行政府を批判している。この批判の意義はきわめて高く、原爆投下の国際法違反とともに、この判決の価値を大ならしめている。 


 松井さんは、困難な訴訟ではあったけれど、原爆投下の違法性を認めたことと政治の貧困を嘆いたことの二点でこの判決の「大きな価値」を認めているのである。

日本の政治の対応

 日本の政治は被爆者援護のために次のように法制度を整備してきた。

 裁判継続中の1957年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。判決後の1968年9月、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」施行。1995年7月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)施行などである。


 「原爆症認定訴訟」は、被爆者援護法を活用して厚労大臣の原爆症不認定を争い、大きな成果を上げた。


 「黒い雨訴訟」は、被爆者援護法の「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当するかどうかが争われている。


 被爆者援護が十分ということではないけれど、「原爆裁判」判決が指摘した「政治の貧困」がこのような形で「改善」されていることは確認できるであろう。

国際法への影響

 1996年、国際司法裁判所は国連総会の「核兵器の威嚇または使用は、いかなる状況においても国際法に違反するか」という諮問に対して「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機の場合には、合法とも違法とも判断できない」との勧告的意見を発出している。この結論に「いかなる場合にも違反する」として反対したウィラマントリー判事は次のように言っている。


 この事件はそもそもの初めより裁判所の歴史にも例を見ない世界的な関心の的になる問題であった。下田事件で日本の裁判所に考察されたことはあるが、この問題に関する国際的な司法による考察はなされていない。


 「原爆裁判」(下田事件)は国際司法裁判所で参照されているのである。


 その国際司法裁判所は次のように判断していた。


 戦争の手段や方法は無制限ではないとの人道法は核兵器に適用される。武力紛争に適用される法は、文民の目標と軍事目標の区別を一切排除する、または不必要な苦痛を戦闘員に与える戦争の方法と手段を禁止する。核兵器の特性を考えれば、核兵器の使用はほとんどこの法と両立できない。ではあるが、裁判所は必ずいかなる状況下においても矛盾するという結論には至らなかった。


 この判断枠組みは「原爆裁判」と同様である。ただし、国際司法裁判所は「核抑止論」の呪縛から免れていなかったことに留意しておきたい。

「核抑止論」の克服

 その限界を克服したのは2021年発効の核兵器禁止条約である。核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」として例外を認めていない。そして、その締約国会議は、⼈類は「世界的な核の破局」に近づいている。安全保障上の政策として、核抑⽌が永続し実施されることは、不拡散を損ない、核軍縮に向けた前進も妨害している」として「核抑止論」を批判している。


 日本政府は、核兵器禁止条約が「核抑止論」を否定するがゆえに、これを敵視しているけれど、国際法は核兵器廃絶に向けて着実に発展しているのである。日本政府はこの潮流に逆らっているのである。

まとめ

 このように見てくると、「原爆裁判」は核兵器廃絶についても被爆者援護についても「事始め」になっていることが確認できるであろう。「原爆裁判」は現代に生きているのだ。


 今、世界は「核兵器による安全保障」をいう勢力が力を持っている。日本国憲法の「諸国民の公正と信義を信頼しての安全の保持」は現実的日程に上っていない。


 憲法9条の背景には、今度世界戦争になれば核兵器が使用され、人類が滅んでしまう。戦争をしないのであれば、戦力はいらないという価値と論理があった。

 また、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていた。

 私たちは、日本国憲法の徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、「原爆裁判」の歴史的意義を更に発展させ、核兵器の廃絶と世界のヒバクシャの救済を実現しなければならない。(2024年7月1日記)

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