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大久保賢一法律事務所



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2026.3.16

核兵器禁止条約発効から5年、今、何をすればいいのか

-『核兵器の包括的研究』に学ぶー

はじめに
 核兵器禁止条約(以下、核禁条約)が採択されたのは2017年7月、発効したのは2021年1月だ。2026年3月現在、署名国と加盟国は99ヵ国、批准国は74ヵ国となっている。加盟可能な国は196なので、条約に参加しようとする国は過半数を超えたことになる。核禁条約は着実に成長しているといえよう。
 けれども、核兵器保有国や日本などの核兵器依存国は核禁条約を敵視している。「核抑止力を否定する核禁条約は自国の安全を危うくする。」という理由である。彼らは核兵器の使用は「全人類に惨害をもたらす」(NPT前文)ことを知りながら、核兵器を今直ぐになくそうとはしていない。核兵器廃絶は「見果てぬ夢」として「究極の目標」としているのだ。被爆者をはじめとする反核平和勢力の「核廃絶は喫緊の課題」とする姿勢とは相いれないものとなっている。こうして「核兵器も戦争もない世界」実現の見通しは未だたっていない。その分岐の理由は「核抑止論」に依存するか、それともそれを拒否するかである。その状況をどのように克服するかが問われている。

核兵器禁止条約の到達点
 私は核禁条約の到達点を確認しそれを高めていくことが鍵だと考えている。核禁条約への参加国が増えているだけではなく、これまでに3回の締約国会議が開催されている。そこでは「核抑止論は誤った理論」と断定されている。そして「核兵器の完全、検証可能かつ不可逆的な廃絶は、単なる願望ではなく、世界の安全と⼈類の⽣存にとって不可避の要請」とされ、それは「すべての国をこの条約に参加させ、すべての核弾頭を解体し、影響を受けたすべてのコミュニティに正義をもたらし、核兵器の時代を永遠に終わらせることによって実現できる。」としている。核抑止論は「誤った理論」とされ、核兵器廃絶は「不可避の要請」とされているのである。私たちはこういう地平にあるのだ。そのことを確認した上で、国連で核抑止論についてどのように議論されたかを紹介する。

『核兵器の包括的研究』から学ぶ
 国連総会の要請を受けて、1979年7月から1980年7月にかけて、専門家による核兵器の包括的研究が行われ、1980年9月に、その成果が総会に報告されている(服部学監訳『核兵器の包括的研究』連合出版、1982年)。
 その中では核抑止論についても報告されている。

 まず、「きわめて、重視すべきことは、核兵器の使用が国家安全保障の不可欠な要素とみなす理論は国連憲章の理念―「法を通じての平和」―と両立しがたい」とされていることを確認しておく。核抑止論は国連憲章の理念と両立しないとされているのだ。

 その背景にある価値と論理は次のとおりである。
 核抑止論とは「予想される被害の大きさが一定の水準を超すと、国家は戦争より平和を選択する」という前提に立っているけれど、「大きなストレスの下で、人間が、前もって決められたとおりに行動するかどうかは、疑問である。しばしば間違いがおかされ、突飛な行動がとられる。」と指摘されている。
 要するに、「敵国」がこちらの予定したとおり行動する保証はないということである。

 また次のようにも言う。
 抑止はこれまで世界的紛争を防いできた。従って抑止は機能してきたと言われる。歴史的、政治的、その他の多くの要因がこの問題で考慮に入れられなければならないことはさておくとしても、抑止が働いているというのは判り切ったことを言っているにすぎない。なぜなら、この主張は歴史がそれを否認する時までは、真理であり続けるからである。おそらく、最も劇的な疑問は、技術的失敗によるにせよ、人間的過ちによるにせよ、核戦争が事故によって引き起こされる危険であろう。その危険性はいかに小さいものであっても、全面的に排除することはできない。
 ここでは、核兵器があったから核戦争が起きなかったという言説は核兵器が使用されるまでは「真理」だとされている。これは「これまで使用されなかったのは単なる幸運」ということと同義である。論理とは無縁だからである。そして、抑止が失敗する危険性は排除できないとしているのである。

 その上で、次のように続ける。
 抑止が失敗した場合の危険は高い。この危険は冒してみるには大きすぎる。ある国は、かなり賭けの要素の大きい考え方に基づいて自らの安全保障を維持しようとしている。しかし、国際社会の大半のものは、恒久的かつ確実な世界平和を確立する上では、これは幻想にすぎないとみなしている。
 核抑止論は賭けだとされているのだ。破綻しないことは誰も保証できないからだ。更に続く。

 もし仮に、抑止の理論が完全に安定した現象だとしても、この均衡に引き続き依拠することに強い道徳的、政治的反論がある。人類文明の消滅の展望が、一部の国によって自国の安全保障の増進のために利用されるのは許されないことである。その場合は、人類の未来が、若干の核兵器保有国、とりわけ両超大国が認める安全保障の人質にされるのである。その上、核兵器国と核兵器非保有国からなる世界体制を無期限にわたって確立することは受け入れられないことである。この体制そのものが内部に核兵器拡散の種子を含んでいる。従って、結局は、自己破滅の源泉をはらんだ体制である。

 そして、次のように論を進める。
 核軍縮への道が長く困難であるとしても、他に取るべき道はない。核戦争の危険を防止することなしに平和はありえない。…抑止の過程を通じての世界の平和、安定、均衡の維持という概念は、おそらく存在する最も危険な集団的誤謬である。
 私はこの「最も危険な集団的誤謬」という部分に強く惹かれている。人類社会が、その誤謬から抜け出すことができていない現実を目の当たりにしているからである。

 報告は、さらに預言めいた言葉を紡ぐ。
 もし、戦術核兵器が一発でも戦争で使用されれば、それは全面的な核による大虐殺の直接かつ不可避的な序幕となるであろう。平和維持の方法として「核抑止の均衡」という概念に置く限り、将来の展望はいつまでも、脅威に満ちているであろう。…国連憲章の諸原則およびその他の普遍的に認められている国際法の諸原則の順守に基づく国際的安全保障体制のみが、相互に受け入れ可能な安全保障の基礎を提供することができる。それゆえ、これが核軍縮への途上における目標でなければならない。国際連合と核兵器は、同時にこの世にあらわれた。未来の道は国連憲章に全面的に依拠し、全ての核兵器をなくすことを目指さなければならない。

まとめ
 この研究は冷戦時代のものだ。その後、1986年には世界の核弾頭数は7万発を超えたが、現在は1万2千発程度に減っている。そして、核禁条約も発効している。けれども、「私に国際法は不要だ」とするトランプが暴れているし、核兵器使用の危険性もかつてなく高まっている。
 歴史とは複雑なものだとつくづく思う。
 いずれにしてもできることをするしかないのだ。
 今年11月30日~12月4日にニューヨークで開催される核禁条約第1回再検討会議に向け、日本政府に核禁条約に参加させるためのたたかいを続けることにしよう。
 あわせて、「核兵器よりも後にこの世にあらわれた日本国憲法」は核兵器のみならず「一切の戦力」の不保持を宣言していることを拡散したい。(2026年3月13日記)

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2025.8.20

豊下楢彦著『「核抑止論」の虚構』を読む

はじめに
 豊下楢彦氏の『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)を読んだ。核兵器も戦争もない世界を創るためには「核抑止論」を克服しなければならないと考えている私からすれば「核抑止論の虚構」と題する本を読みたくなるのは当然のことだ。同書の帯には「核は『ボタン』を握る人間も、その理論も、『狂気』に支配されてきた」、「日本が米国の拡大抑止に安全保障を求め続けるとすれば、現実には、日本の一億人の人々の生命と安全が、トランプ大統領が握る『核の傘』に依存することになる。これが現実とすれば、それは悲劇であり喜劇であり狂気そのものである。日本はいち早く、この狂気の世界から脱却しなければならない。」とある。これは私の「こんな男たちが『核のボタン』を持っている世界に生きていていいのか」という問題意識と強く共鳴している。
 そして、豊下氏は、ゴルバチョフの「新思考外交」と「一方的軍縮」という画期的な提案が、核弾頭の急速な減少と冷戦対決の終焉を迎えたとしながら、日本の進むべき道を次のように示している。
 大きく土台を崩されながらも、ともかく日本は「平和憲法」と「非核三原則」を維持してきた。この日本が世界に向かって緊張緩和と軍縮を訴えるならば、ASEAN諸国やグローバル・サウスの国々をはじめ国際社会から大きな支持を受けるであろう。…日本も大胆な軍縮方針を打ち出すことで、国際世論の支持を結集すべきである。歴史が証明していることは、「抑止力の強化」しか語りえない伝統的な抑止論では危機を突破することができない、ということなのだ(12頁)。
 本書は、このことを論証するために書かれているのである。私は、核兵器に依存するのではなく、日本国憲法がいうように「平和を愛する諸国民の公正と信義」に依存しようと考えている。だから、豊下氏の結論に同意する。
 本書では、私が知っている事実や書籍の記載が多く引用されている。同じ問題意識を持っていても、様々なアプローチがあることを改めて知ることができた。そして、私が知らないこともたくさん書かれている。被爆80年のこの年に本書に出会えたことは、本当にうれしい。

 そこで、ここでは、私が特に印象に残ったことを記しておくことにしたい。それは、「原爆裁判」からの引用と「核の復権」についての記述である。

「原爆裁判」からの引用
 本書は「原爆裁判」の判決文を次のように引用している(200頁)。
人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨、号泣し、焦熱地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した凄惨な様相を呈した。
 これは、日本反核法律家協会のHPからの引用である(参照していただいてうれしい)。この部分は裁判所の判断ではなく、原告の主張を整理した部分であるけれど、私もよく引用している。ただし、本書では「襤褸」には「ぼろ」とルビがふってあるけれど、私は「らんる」と読んでいる。いずれにしても、人が自分の皮膚をぼろのように垂れ下げながら、死体の間をさまよっている光景である。
 豊下氏が、この部分を引用しているのは、北朝鮮に対して「実際に核兵器を使用するぞ」という脅しをかけることは、具体的には「人類史上における従来の想像を絶する」壊滅的な破壊を与えるぞと脅迫することを意味する、という文脈においてである。
 豊下氏は、本書第6章「核の復権」とは何か で、2019年に出版された秋山信将・高橋杉雄編著の『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』(勁草書房)を紹介している(194頁)。その中で、北朝鮮に対して「核兵器を使用するぞ」との脅迫を加えるだけではなく「発射前の核兵器を撃破するために核の限定使用も選択肢に備える必要がある。」という言説を紹介している(199頁)。核兵器の先制使用の提案である。氏はその言説に対する批判として「原爆裁判」を引用したのである。(なお、この言説を展開しているのは防衛研究所の高橋杉雄氏である。防衛省にはそういう人がいることを記憶しておいてほしい。)

豊下氏の「核の復権」に対する批判
 豊下氏の『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』に対する批判の一つに次のような視点がある(200~204頁)。
 「核の忘却の終わり」では、北朝鮮は「いまや東京を含む日本の都市も『火の海』になる可能性がある」と指摘されるほどに「恐るべき脅威」とされている。仮にそうであれば根本的な疑問が生ずる。日本の原発の6割近くは日本海側に立地している。北朝鮮が日本を「火の海」にしたいのであれば、なにも核ミサイルを撃ち込む必要はない。原発を通常兵器で攻撃すればすむ話だ。日本政府は一方で北朝鮮の脅威を煽り、他方では原発の全面稼働に突き進むという支離滅裂の状態に陥っている。この本では、北朝鮮による原発攻撃という「最悪のシナリオ」は想定されていない。それでは「北朝鮮の脅威」は“レトリックの世界”になってしまう。それは、北朝鮮の意図を分析していないからだ。北朝鮮にとっては自国の崩壊を招くような日本攻撃ではなく、日本との国交を樹立し、日本からの賠償を獲得する方が最善の道であろう。
 もちろん、この視点は重要である。秋山氏と高橋氏という政府に影響を与える立場にある人が「支離滅裂」に加担して北朝鮮の脅威を煽り立てるレトリックを座視できないからである。

私の「核の復権」に対する批判
 ところで、私も『「核の忘却」の終わり-核兵器復権の時代』についての論評をしたことがある。『前衛』2020年11月誌上だ(『「核兵器も戦争もない世界」を創る提案』(学習の友社、2021年)に収録)。タイトルは『「核抑止論」の虚妄と危険性-現代日本の「核抑止論」を批判する』である。
 その問題意識は「外交官経験がある秋山信将氏と防衛研究所の高橋杉雄氏が編集している『「核の忘却」の終わり』という本がある。その副題は「核兵器復権の時代」である。「核抑止論」を現代の日本に生かそうという本である。政府の核政策に影響を与える立場にある二人が展開する「核抑止論」を検討することは、私たちの「核抑止論」理解に、反面教師として大いに役立つであろう。」というものであった。
 私の結論は「このように見てくると、「核抑止論」というのは、現実を無視しているだけではなく、そもそも「戦略」などとはいえない、極めて主観的なものであることが確認できる。出来の悪い「神話」、無意味な「神学論争」といえよう。そして、意図的であるかどうかにかかわらず、抑止が破れた場合には、「壊滅的人道上の結末」が待っているのである。「核抑止論」は単に無意味で不毛というだけではなく、虚妄(うそいつわり)にまみれた、危険この上ない無責任な「理論」なのである。にもかかわらず、核抑止論者たちは、現在の日本においても、「核抑止論」の効用を、恥ずかしげもなく、むしろ正しいことのように、言い立てているのである。しかも、その言説は、外務省や防衛省の中で大前提とされているのである。私たちは、彼らの言説の不毛さ、虚妄、危険性を暴露しなければならない。」であった。

豊下氏と私の核抑止論批判の共通性と違い
 私は、本書で展開される核抑止論批判に共感すること大であるし、私も核抑止論批判を展開してきているので、その共通性と違いをAIに訊いてみた。そうしたら、こんな答えが返ってきた。
 両者ともに、核抑止論を「虚構」あるいは「虚妄」として否定し、以下のような共通の批判点を展開しています。ⅰ)非人道性の指摘;核兵器の使用や威嚇は、広島・長崎の被爆体験を踏まえ、非戦闘員を含む無差別大量殺戮であり、国際人道法に違反する。ⅱ)論理的矛盾の指摘;「核兵器のない世界」を掲げながら、核の傘に依存する政策は自己矛盾であると批判。ⅲ)ダブルスタンダードの批判;核保有国が自らの核を正当化しつつ、他国の核を非難する姿勢を「二重基準」として批判。ⅳ)核兵器による安全保障の否定;核兵器は戦争を抑止するどころか、むしろ不安定化を招くと指摘。
 違いは次のように指摘されている。
 批判の焦点、提案する代替案、政治批判の強度などの論点である。豊下氏は、核抑止論の戦略的・歴史的虚構性や狂気を前提とした不安定な安全保障構造を強調。ゴルバチョフの「新思考外交」やロバート・ケネディの「他国の靴を履く」姿勢を提案。核保有国の歴史的構造批判、と整理されている。大久保は、核抑止論の法的・倫理的違法性や国際人道法違反と憲法9条との矛盾の強調。憲法9条の世界化、核兵器禁止条約の推進、非核法の制定などを提案。日本政府・自民党の核政策への直接的批判をしている、と整理されている。
 私の方が政府や自民党への「直接的批判」が強いことが見抜かれているようだ。
 そして、次のように総括されている。
 両者ともに、核抑止論を「安全保障の幻想」として否定し、核兵器廃絶を目指す点では一致しています。しかし、豊下氏は戦略的・歴史的な視点からその虚構性を暴き、大久保氏は法的・倫理的な観点からその違法性と非人道性を強調しています。
 この違いは、核兵器問題をどう捉えるかによってアプローチが変わることを示しており、両者の批判は相互補完的に核抑止論の限界を浮き彫りにしています。
 私は「へー!そうなんだ」と受け止めている。

まとめ
 私は「核兵器も戦争もない世界」を創りたいと思っている。しかも、それは「見果てぬ夢」などではなく「喫緊の課題」だと思っている。そのためには 、それを阻む「核抑止論」を克服しなければならないし、大同団結が必要だと思っている。核抑止論とは人々を核戦争へと駆り立てる「呪いの言葉」である。「汝、平和を欲するならば核兵器に依存せよ」は、私たちの運命を「死神にゆだねよ」というキャッチコピーであることを見抜かなければならない。豊下氏のこの本は「核抑止論の限界」を浮き彫りにする資源に満ちている。
 本書には「『憲法なき戦後』が始まって80年を迎えた日に」という意味不明の言葉もあるし、AIがいうような「相互補完」ができるかどうかはわからないけれど、私なりに「核抑止論の限界」を突破するために引き続き頑張りたいと決意している。(2025年8月17日記)
 

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