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大久保賢一法律事務所



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2026.6.9

憲法の「非常におめでたい一文」とはどの部分か

―高市早苗氏のスタンスと覚悟―

高市早苗氏の改憲優先テーマ
 高市早苗氏は、2000年9月28日の衆議院憲法調査会で、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っている。」と発言している。この発言は、調査会に「21世紀のあるべき姿」についての参考人として呼ばれた作家の小田実氏に対する質問に際してのものであった(以下「調査会議事録」に依拠しているが、要約である)。

 小田氏は「これからの日本は、良心的軍事拒否国家として生きるべき」との意見を展開した。「日本国憲法の平和主義を非常に大事にして、これを基本にして世界構想を立てよう」という問題意識である。「私たちの周りの誰が攻めてくるんですか。東西も南北朝鮮も、これから仲良くやろうじゃないかと言っていますね。中国もそういうところはないと思うんです。我々は、国是を立てて良心的軍事拒否国家でいくんだ。我々が提言して、実際具体的に実現していくことが必要だ。」とも言っている。

 高市氏は、その意見に次のように質問する。
 誰が攻めてくるのかというお話もありましたけれど、あらゆる外交手段を尽くしたものの、不幸にして他国から武力による侵略を受けたという事態が発生した場合、どこも絶対に攻めてこないとおっしゃるのかもしれませんが、それなら現在の国際紛争は一切発生しないわけで。私は国際社会というのは何が起きるかわからないという冷厳な事実があると思います。不幸にして武力による侵略を受けた場合、この場合の自衛戦争というものも100パーセント否定されますか。

 これに対する小田氏の答えは次のとおりである。
 私は、長期的展望でやろうじゃないかと申しあげたんです。しかし、今動かなければそういう世界は一切来ないと思うんです。私は21世紀の展望を考えてこの憲法を考えていこうと申し上げているんです。明日どこかが攻めてきたらどうするんだとか、その繰り返しできた。全世界がそうなんですよ。私は、もうちょっと違う次元でしゃべっています。根本的次元の違いがあって、違う形でやろうじゃないかということを今やろうじゃないか、具体的な地盤があるんだということを申し上げているわけです。

 これに対する高市氏の発言が次のようなものだった(冒頭でも紹介)。
「かなり次元が違って申し訳ないのですが」と枕に振ったうえで、「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』この非常におめでたい一文を、もし、改憲の機会があれば真っ先に替えようと思っているものでございます」。その理由は、諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが「政治家としての責務」だとされていた。そして、彼女は「全くこの点においては基本的スタンスが食い違っている。」ともしていた。
 
高市早苗氏の基本的スタンス
 彼女は、小田氏と「基本的スタンスが食い違っている」としているけれど、それは小田氏とだけではなく、憲法の非軍事平和主義と食い違っていることも明らかである。彼女は憲法の平和主義を変えることが「政治家としての責務」だとしていたのだ。そのことを確認しておこう。

 ところで、彼女は、1995年 3月16日の衆議院外務委員会で、栗山尚一駐米大使(当時)の日本の戦争責任を認める発言を題材に質問しているが、その際に、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない。」としていた。これは大日本帝国時代のわが国の諸外国に対する行為についてなどは無視するという宣言である。彼女には歴史から学ぶ意思などないのだ。それは愚かであるだけではなく危険だ。過去に目を閉ざす者は過ちを繰り返すかもしれないからだ。

 また、彼女は首相として、今年2 月20日に行った施政方針演説で、「どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。」と言っていた。けれども、この憲法理解は誤解というよりも無知に等しい。そもそも、憲法は「理想物語」などではない。権力者に権力を与える規範(授権規範)であり、権力者の暴走を制限する規範(制限規範)という二つの任務を持つ「最高規範」なのである。彼女の憲法理解は政治家としてはありえないレベルといえよう。

 ここから導かれる彼女の政治家としてのスタンスは「憲法を理想物語として棚上げし、戦前の歴史など振り向きもせず、憲法の非軍事平和主義を変えて戦争ができる体制を作る」ということになる。このように、彼女は憲法も歴史も無視する愚か者であるだけではなく、平和を愛する諸国民の公正や信義を信じられない軍事力依存のキャラクターなのである。その彼女が「政治家としての責務」として、憲法の非軍事平和主義を変えるという覚悟を示しているのは、彼女の「素の姿」なのである。

彼女はこの国の宰相
 宰相とは、古くは天子様に仕えた最高位の大臣を意味したけれど、現代では総理大臣を意味している。総理大臣は、憲法上、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限を持っている(72条)。極めて強い権力者である。現在の総理大臣は高市早苗氏なのだ。愚かで軍事力依存の人がこの国の宰相なのである。その彼女をその地位につかせているのは、神様でも先祖でもなく、この国の選挙民である。のみならず、その支持率は高いのだ。これがこの国の現実である。その現実から自由になるためには、彼女を退陣に追い込まなければならない。ぼやぼやしていたら、退陣に追い込むどころか、こちらが反日だのスパイだなどとして、抵抗の術を奪われることになってしまう。そうならないためには、彼女の正体を暴露しなければならないのだ。問題は、何をどうすることが正体の暴露になるかだ。

平和主義は説得力を持っているのか
 高市氏が「諸外国がすべて平和を愛するようになれば理想的だけれど、50年後、万が一のことが起きても国家の主権と国民の命を守りうる体制を作ることが政治家としての責務だ。」としていたことは先に述べた。私の眼から見れば、彼女は日本国憲法の非軍事平和主義を無視する首相にあるまじき人ということになる。けれども、他方では、中国、北朝鮮、ロシアの脅威からこの国を守ろうとしている最初の女性宰相と評価されているのである。なぜそのような違いが起きるのだろうか。それは「基本的スタンス」の違いがあるからだ。戦争がない世界など理想だけれどありえない。隙を見せれば、必ず誰かが攻めてくる。軍隊なくして国は守れない。軍隊のない国などありえない。アメリカとの同盟は大事だ、と考える人は決して少なくない。世界には26の軍隊のない国があるけれど(国連加盟国は193)、そんなことは知らされないままに、軍隊があることが「普通の国」とされているのだ。だから、高市氏が語っていることが説得力を持ち、「丸腰になる」ことなど「お花畑」か「狂気の沙汰」とされてしまうのだ。それがこの国の現実である。その現実を無視することはできない。では、どうするかである。

宮澤俊義氏のコメント
 憲法学者の宮澤俊義氏(1899年~1976年)は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分ついてこんな注釈をしている(コンメンタール編『日本國憲法』、1955年、日本評論社。一部現代用語にした)。
 この点については、「他国の善意などというものは、今日の国際社会の現実において、いざという場合に、頼りになるものではない」との批判は以前からあり、ことに独立回復後は、「いやしくも独立国が他国民の善意に信頼して、自らの安全と生存を保持しようというのは不当であるし、また、無責任でもある」という意見が唱えられる。しかし、これに対しては、「この原子力時代には、自国の武力だけで自国の安全と生存を保持することは不可能だ。平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しないで、いったいどうやってこの世界で生存して行かれるのか」という反対論も有力である。
 ここでは、「原子力時代」における安全と生存は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する以外の方策はないとする学説が有力であるとコメントされているのである。

まとめ
 このコンメンタールは1952年に日本が独立を回復した後の1955年に発刊されている。ここに紹介されているように、当時からどのように安全と生存を確保するのかについての対立はあったのだ。そもそも、「汝、平和を欲するならば戦争に備えよ」はローマ時代から言われていたことである。だから、高市氏のような人がいても不思議ではないのである。世界はまだそれが普通だからである。

 けれども、ここで留意してほしいのは、このコンメンタールも「原子力時代」に言及していることだ。「原子力時代」とは人類が自らを滅ぼしかねない道具(原子爆弾)を手に入れた時代を意味している。それは1945年8月に原爆が投下された時に実証されている。だから、1946年11月に政府が刊行した「新憲法の解説」は「原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に到達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を滅ぼしてしまうことを真剣に憂えているのである。ここに於いて本章(2章・九条)の有する重大な積極的意義を知るのである。」としていたのである。
 日本国憲法は「原子力時代」に人類が生き延びるための知恵を提供しているのである。私は宮澤氏にはそのことをもっと強調して欲しかったと思う。そうすれば、高市氏はもう少し恥ずかし気に語るのではないかと思うからである。(そんなことはありえないか。)

 戦争で物事を解決しようとすれば「最終兵器」である核兵器が使用され、国家を守るはずの核兵器が国家を滅ぼすという「究極のパラドックス」が起きるかもしれないことは、容易に推論できることである。核兵器も戦争もなくさなければならないのだ。

 私は高市早苗氏を説得したいとは思わない。けれども、高市氏の正体を知らないままの人には、高市氏に同調することは自分と自分につながる人の現在と未来を失うことになるという警告を発し続けたいと思う。「基本的スタンスが違う」ということでは片付けられないほど、私たちが抱えている課題は深刻だからである。(2026年6月9日記)

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2026.2.25

憲法のルネサンスを!!

はじめに
 2月21日、「非核の政府を求める大阪の会」で講演をした。テーマは「激動する国際情勢と法の支配」だ。憲法公布80年、被団協発足70年、核兵器禁止条約発効5年ということで「原爆裁判」を題材に話をした。「原爆裁判」は核兵器という究極の暴力に法という理性を対置した裁判だ。「終末」まで85秒とされているのに「私に国際法はいらない」と高言するトランプ米国大統領のような人がのさばっている今、「法の支配」を考える絶好の題材なのだ。
 その講演で、総選挙での自民党の「躍進」と革新の「退潮」の原因をどう考えるか、この状況をどう変えればいいのかという質問があった。私は「正解」を持っているわけではないとしたうえで、選挙制度のトリックがあるけれど、それだけではなく、人々は自分が欲しいものをどうすれば実現できるのか、それを考える力を身につけていないのではないかと答えた。

元教師の指摘
 そうしたら、元教師だった方が、子どもたちは憲法について学ぶ機会がない、教職免許で憲法が必須科目でなくなってからもう永い。その影響ではないかと発言した。
 「我が意を得たり」である。学校教育の中で憲法の諸価値を学ぶ機会は少ないそうだ。そもそも、それを教える先生が養成されていないのだ。これでは、憲法が生活の中で生かされるはずがない。私は「くらしに憲法を生かそう」のスローガンのもとに、この半世紀近く、仕事と活動をしてきた。1988年には『憲法ルネサンス-パンと自由と平和を求めて―』を出版している。そんな個人的努力など何の役にも立っていないのだ。
 憲法は、国民を主権者として、絶対平和主義の下で、一人ひとりの生命と自由と幸福追求権が尊重される社会を創ろうとしている。けれども、この国はこの憲法的価値とかけ離れようとしている。「先軍思想」に基づく「国家総動員体制」が築かれつつあり「新たな戦前」になっている。憲法は忘れ去られているかのようである。
 私は憲法がくらしの中に生かされていないことが問題だと思っている。その正体は、憲法がもつ合理的思考と行動を学ぶ機会がないことによる未熟さである。それは高市首相だけではなく「サナエ推し」をしている選挙民も同様である。
 
高市首相の憲法観のお粗末さ
 2月20日に行われた施政方針演説で、高市首相は次のように言っている。

どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です。憲法改正に関し、衆議院及び参議院に設置された憲法審査会において、党派を超えた建設的な議論が加速するとともに、最終的に判断を行う国民の皆様の間でもこれまで以上に積極的な議論が深まり、国会における発議が早期に実現されることを期待します。

 彼女は、憲法を「国の理想を物語るもの」としている。けれども、この憲法理解は誤解というよりも無知に等しいのである。
 そもそも、憲法は「理想物語」などではない。権力者を暴走させないための「最高規範」である。例えば、米国の「建国の父」の一人であるトーマス・ジェファーソン第3代大統領は「権力の問題においては、人間への信頼を語るな。悪さなどしないよう、憲法の鎖で縛りつけよ。」と言っている。「憲法は権力の乱用を防ぐ鉄鎖」だという意味だ。
 日弁連は「憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。このように、国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを『立憲主義』といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です。」としている(絵本『憲法って何だろう』)。
 
 彼女は憲法が何たるかを知らないのだ。彼女に権力を与えているのは憲法である。だから、彼女は憲法に従わなければならない立場にある。憲法も「国務大臣の憲法擁護義務」を定めている(99条)。彼女の憲法理解は政治家として「ありえないレベル」なのである。にもかかわらず、彼女は改憲までいうのである。「何様のつもり」なのだろうか。

「サナエ推し」の恐ろしさ
 高市首相の憲法観のお粗末さは以上のとおりである。けれども、彼女の人気は極めて高いのだ。例えば、2月23日付『毎日新聞』によれば、高市内閣の支持率は前回1月の57%から61%に上昇している。そして、その支持する理由として、59%の人が「首相の指導力に期待するから」としている。この国には憲法を理解していない首相の「指導力」に期待している人が多数のようである。おそろしいことだ。

 けれども、この国でサナエを批判することにはリスクが伴うのだ。なぜなら、彼女がNHKの党首討論に欠席したことを批判したら「サナエをいじめるな」と批判した方が悪者にされ、それが自民党大勝へと潮目が変わったという先例があるからだ。
 
 それはそれとして、高市首相がどのような憲法観を持っているかは重要である。自分に権限を付与している憲法を「理想を語るもの」としてその規範性を無視することは、憲法の「最高規範」としての役割を無視することを意味しているからである。
 これは、トランプ大統領が「私に国際法はいらない」としていることと同質の無知と傲慢である。この無知と傲慢は「自分は戦後生まれだから戦争責任など関係ない」という歴史観と相まって「自覚なき暴走」の原因となるであろう。「自覚なき暴走」とは偏狭な正義感と安直な高揚感に基づく強権政治を意味している。その暴走は、理性や道理を黙らせ、むき出しの欲望と力の猛威をもたらすことになる。そして、人々の生命や自由や幸福追求権などは、完全に無視されるディストピアが出現する。国民は重税にあえぎながら、スパイ容疑で情報機関の監視下に置かれ、自衛隊員は米軍の先兵として死地に送り込まれ、国土のあちこちに核ミサイルが飛来するかもしれないことになる。「サナエ推し」は「貧乏神」や「死神」の呪いのようなものなのだ。
 
施政方針演説を乗り越えるために
 施政方針演説次のように結ばれている。

若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、「未来は明るい」と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。今の時代を生きる私達には、その大きな責任があります。皆様、未来への挑戦を共に進めてまいりましょう。「希望」を生み出す政治を、共に進めていこうではありませんか。

 彼女は「明るい未来」と「希望」を語っている。憲法も歴史も無視し「自覚なき暴走」をすでに始めている人がそれを語っているのである。そして、熱狂的な「サナエ推し」が喝采を送っている。それがこの国の現状なのだ。

 かつて、幣原喜重郎は「軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る」、「集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿である。」と予言していた(『平野文書』)。その予言を知っている私は今の状況に危機感を抱くのである。

 だとすれば、私たちは何をすればいいのだろうか。私は、日本国憲法が指し示す、国民主権、基本的人権の擁護、絶対平和主義といった諸価値と権力制約という憲法の役割の再確認から始めたいと思っている。「急がば回れ」と昔からいわれているからだ。改憲阻止や悪法阻止のたたかいはもとよりとして「憲法のルネサンス」が求められている。
(2026年2月24日記)
  

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2026.2.17

これから何をすればいいのか。―個人的体験を踏まえて―

はじめに
 選挙結果について色々とコメントが飛び交っている。それはこのような結果なのだから無理もないことであろう。ただ、少し気になるのは、自分の政治へ要求や自分はどのような行動をとったのかという自分自身の主権者としての体験を踏まえたものが少ないことだ。自分が、今という時代に、この世界で生活している人間として、何を求め、どんな行動をしているのかを土台にしてこそ、何をすればいいのかが見つかるはずである。今求められているのは解説者や傍観者ではない。 
 そこでここでは、私が、今回の総選挙にあたって、何を求め、何をしたのかを紹介しながら、何をすればいいのか、ささやかな提案をしてみる。

私の政治への期待と選択
 私の政治への期待は「核兵器も戦争もない世界」を創って、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活できる社会、人々がその命と自由と幸福追求権を尊重される社会を創りたいということにある。私は、この基準に照らして、日本共産党の躍進(せめて現状維持)を願っていた。だから、日本共産党埼玉法律事務所後援会の会長として、埼玉弁護士会の全会員に呼びかけ文を出したり、依頼者や友人やそうでない人にも、直接あるいはFBで、共産党への支持を呼び掛けたりした。
 けれども、共産党は比例代表で、得票数は前回336万票から251万票に、得票率は6.1%から4.4%に、議席は8から4となった。れいわ新選組と合わせれば16あった議席は合計で5である。社民党は議席を得ることはできなかった。「左翼」の衆議院での議席は全議席465の2%に満たないのだ。 
 この事態は深刻である。完全比例だったら違う議席数だとか、自民党の比例での絶対得票率は20.3%だなどと言ってみたところで、この現実が変わるわけではない。私は、この国は危険水域に入ったと憂えている。

私は絶望などしていない
 けれども、私は絶望などしていないし、どう立て直せばいいのかを考えている。絶望などしていても、私の政治的要求は実現しないからである。このような事態になった原因は、単純化すれば「高市旋風」である。
 その「旋風」とはどのような内実のものであったのか。三例ほど挙げておく。

 第1例。私は、昨年12月広島で被爆者やその支援者を対象に講演をする機会があった。その際に、被爆2世の方で高市首相に期待している人がいることを知った。高市首相は「非核三原則」の見直しを言い、近くに「核保有論者」をおいている人である。被爆2世の期待に応える人ではない。

 第2例。娘から聞いた共産党の田村智子委員長の「たむともストリート対話」のエピソードだ。
 田村さんが、見ず知らずの人に話しかける「ストリート対話」で、生活保護受給者が高市さん支持だというのでその理由を聞いたら「女性だし、はっきりものを言ってくれるし、何かしてくれそうだから」ということだった。田村さんは、その人に「あなたが支持している人を悪く言いたくはないけれど、高市さんは生活保護費を削ろうとしているのよ。」と話した。そうしたら、その人は「そうなんですか、知らなかった」と言ったそうだ。

 第3例。私のFB投稿にこんな反応があった。
「非核三原則」というと、「持ち込むのはいいんじゃないかな?」という人がいます。議論してみました。「だって、攻められたら、何にもしないでいるしかないの?」。「いいよ。じゃ、そのとき、核を持って、それで反撃するの?」「いや、それはまずいから、通常兵器で…」「向こうが持っていたら。ボーンと核攻撃されるよ?」「そうなったら使う…」「でもそのとき、もう核兵器は潰されていてないでしょう?」「イヤね、核兵器どころか、国の中枢は黒焦げで何もないんだよ! どこか、辺境の基地から反撃するの?」、「そっかーっ」……。大事なことは、ものすごく曖昧でいい加減ないまの風潮をもうすこし論理的で、原則的なものにして行くことではないか、と思います。

 ここに観られるのは、被爆2世、生活保護受給者、「非核三原則」の見直しが何をもたらすのかを想像できない人が「サナエ推し」をしている現象である。本人からすれば欲しいものがあるので、それを補充するために「サナエ推し」をするのであろう。けれども、高市首相に期待することは、その期待に応えてもらえないどころか、むしろ真逆の結果がもたらされことになるのだ。
 客観的に欠乏していることと主観的に求めることの間に齟齬があるのに、それに気が付かないまま行動してしまう人はいる。その誘導を仕事にしている人もいる。こうして、高市首相や自民党に投票することが、自分の求めていることにつながるのではなく、むしろそれを遠ざけてしまうことに気が付かないで投票した人もいたであろう。
 私はこれが「高市旋風」の一側面だと考えている。そしてこのことは、自民党の議席を極大化した選挙制度と相まって、この国の深部での危うさだと考えている。なぜなら、憲法を無視する首相を、その被害を受ける選挙民が支持するという現象が起きているからである。それは、国民のなかに憲法が根付いていないことを意味している。
 
ではどうすればいいのか
 こんな意見を紹介しておく。
「経済的に追い詰められ、精神的に閉塞感の中にいる人たちに、論理的に正しい、倫理的に正しい言葉が刺さらなくなっているように思います。彼ら彼女らに通じる言葉は?伝え方も含めて考え直しています」。
 確かに、客観的な欠乏と主観的行動とにズレがあることは論理的に正しくない。また、正しい言葉を受け入れず虚言を受け入れることは倫理的に正しくない。論理や倫理を無視してしまえば人間でなくなってしまう。そんなことは絶対に避けなければならない。
 けれども、私たちに、言葉以外に何があるというのだろうか。だとすれば、言葉が通じるように工夫するしかないのだ。滅亡に向かって熱狂する愚かさを説き、欠けているものの正体とその原因を見抜き、その対処策を共有しなければならないのだ。
 人は対話によって変わりうるし、対話がなければ何も変わらない。対話をするためにはそれをする人が必要なのだ。人を増やさなければならないのだ。それなくしてはどのような変革もありえないであろう。
 私は、自分が求めていることとその実現を阻んでいる原因を冷静に見抜き、必要な行動をとることから始めたいと思っている。そして、そのために、仲間内のおしゃべりに止まらずに、もう一歩、外に踏み出して、多くの人と対話したいと決意している。
このような時代を作り出してしまった私を含む老人たちの反省と覚悟が求められている。(2026年2月17日記)

 

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2026.2.10

この国は危険水域に入った

総選挙の結果をどう見る
 今回の総選挙の特徴は、定数465の3分の2を超える316議席を獲得するという自民党の「大勝利」、現有議席を118減らしての49議席という中道の惨敗、「左翼」の衰退にある。
 「大勝利」と「」を付けたのは、比例の得票率は36.07%なのに議席占有率は67.07%であることにも着目してほしいからだ。小選挙区での得票率が49.1%なのに議席占有率は85.8%となる小選挙区制トリックのことだ。けれども、候補者名簿が足りなくて他党に割り振られた議席が14あったので、これを含めれば議席占有率は70.08%になるということも含めて考えれば「大勝利」という表現は大袈裟ではないであろう。自民党が単独で3分の2以上の議席を得たことはないので「歴史的大勝利」ともいえるであろう。
 中道は118議席を減らして49議席となった。118は自民党の増加分と同数である。中道の惨敗を物語る数字だ。その原因は立憲民主党が有権者の期待を裏切ったからだ。その端的な例が新潟だ。安保法制を違憲だとして共産党と協力した時、5小選挙区すべてで立憲は勝利していたが、今回は全滅である。公明党と組めば大丈夫だ。その見返りに比例の上位は公明党などと考えたのだろうけれど、それは余りにも「猿知恵」というものだろう。立憲の指導者たちの底の浅さと志の低さが露呈したのである。
 「左翼」とは共産党とれいわ新選組のことをいう。社民党も「左翼」だけれど元々衆議院に議席はないので、ここでは除外しておく。これまで両党合わせて16議席があったけれど5議席に減った。共産党は8から4に、れいわは8から1になった。両方とも減ったのだ。しかも、共産党の比例での得票率は5%を切って4.4%になった。ドイツであれば議席獲得要件(5%)を欠くことになる。ちなみに、れいわ新選組は2.9%、社民党は1.2%だ。「左翼」の衰退は明らかだ。
 これが、現時点での有権者の意思の表れだ。私は「日本社会は危険水域に入った」と受け止めている。「暴走」に拍車をかける勢力が巨大化し、ブレーキ役が衰退したからだ。

高市首相は「暴走」する
 この結果を受けて高市首相は「暴走」するであろう。「暴走」とは憲法や歴史などを無視して主観を優先する政治を意味している。彼女は「非核三原則」の見直しを言っていたし、台湾有事においては自衛隊の出動がありうるとしている。アメリカの核兵器や日本の武力強化が必要という立場だし、中国と事を構えることもあるとしているのだ。憲法の非軍事平和主義などは全く視野にない。自分に政治権力を付与している憲法を最高規範とは思っていないかのようである。
また、日本の戦争責任については「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」としていた人でもある(1995年3月16日の衆議院外務委員会)。
 憲法を無視するとは最高規範に仇をなすということである。歴史を無視するとは「過去に目を閉ざす」ということなので「過ちを繰り返す」ということになる。
 こういう自らの立場をわきまえない無知で傲慢な人間が権力を持つと「暴走」する危険性は高くなる。自分を見失っているからである。そして、民衆のところには「貧乏神」や「死神」が訪れることになる。

高市首相とトランプ米国大統領との類似性
 その姿勢はトランプ大統領と酷似している。彼はあちこちで武力を行使し、外国の大統領夫妻まで拉致している。「国際法はいらない」と豪語する無法者である。加えて、核実験も再開するようだし「核兵器の現代化も進める」と「国家安全保障戦略」に書き込む核兵器依存論者でもある。彼は核兵器を含む武力で自らの欲望を満たそうとしているのだ。私は彼を「死神のパシリ」と見做している。
 高市首相は昨年10月の臨時国会の所信表明演説で次のように言っていた。「日米同盟は日本の外交・安全保障政策の基軸です。日米両国が直面する課題に対し、しっかりと連携し、日米同盟の抑止力・対処力を高めていきます。私自身、トランプ大統領が訪日される機会にお会いし、首脳同士の信頼関係を構築しつつ、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります」。
 その高市首相について、トランプ大統領は、今回の総選挙は「日本の未来にとって極めて重要」としたうえで、高市氏を「力強く、賢明で、祖国を愛する指導者」と評価し、「高市首相は日本国民を決して失望させない!」と強く支持を訴えていた。私には、二人が「死神のパシリ」とそれに「かしづくメイド」のように見えてならない。

私が避けたいこと
 「トランプは稀代の無法者」と見做している私からすれば、それに取り入る高市早苗氏をこの国の首相としておくことはどうしても避けたい事態なのだ。核兵器も戦争もなくし、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生活できるようにと希望している私からすれば、それをしたり顔で阻んでいる二人は「不倶戴天の敵」なのだ。
 けれども彼らは、選挙で選ばれた大統領であり、自民党に「歴史的勝利」をもたらす首相なのだ。私の意見など「蟷螂之斧」、「ごまめの歯ぎしり」というところだろう。
 けれども、黙っていることなど出来ないのだ。「平和を望むなら戦争に備えよ」、「平和を望むなら核兵器に依存せよ」というスローガンは「壊滅的人道上の結末」をもたらすかもしれないからだ。トランプ大統領の大言壮語や高市首相の作り笑いに騙されてはならない。(2026年2月10日記)

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2026.1.6

トランプをのさばらせるな!!

トランプは「悪質な犯罪者」だ
 トランプ米国大統領が、ベネズエラに武力の行使をして、マドゥロ大統領夫妻を拉致した。これは、ベネズエラの主権を侵害する行為であり、大統領夫妻の人身の自由を侵害する行為だ。武力で外国の主権を侵害する行為は国際法上の「侵略罪」だ。人身の自由を侵害することは、どの国でも「誘拐罪」である。米国の行為は国家犯罪だし、トランプは犯罪者だ。トランプは、マドゥロが米国への麻薬輸出の親玉だということを理由にしているが、そんな証拠は示されていない。仮にそのとおりだとしても、武力で他国の大統領夫妻をさらうなどという行為は非合法だ。マドゥロは正当な大統領でないというのは言いがかりでしかない。アメリカにマドゥロ大統領に対する裁判権などない。トランプの行為を正当化する理由はない。むしろ、大統領夫妻をターゲットにしていることでは、プーチン・ロシア大統領よりも悪質だ。にもかかわらず、トランプは「作戦は大成功だ」と叫んでいる。そこには、自由、民主主義、「法の支配」などのかけらもない。トランプはそんなことに関心はないのだ。トランプは自らの犯罪行為を自覚しない「悪質な犯罪者」なのだ。

トランプの動機
 トランプがなぜそのような犯罪に走ったのか。その動機はいくつか指摘できる。まず、マドゥロがトランプになびいていないことだ。トランプはそれが気に食わないのだ。「尾を振る犬はかわいい」けれど、そうしない者は蹴飛ばしたいのだ。カリブ海の覇権は俺が握るという支配欲だ。次に、ベネズエラの石油の埋蔵量だ。米国はその石油の利権を持っていたけれど、それが奪われたので、取り返したいということだ。石油という資源を米国のものにしようという欲望だ。わかり易い金銭欲だ。更に、正しいことは武力で実現するという発想だ。自分が欲しいものを手に入れることは正しいことであり、そのためにはいかなる力を使ってもいいのだという身勝手な論理だ。ここには、善悪の判断を自分でするということと、むき出しの暴力の使用を躊躇わないという「米国流の伝統」がある。要するに、トランプは、支配欲と金銭欲と身勝手な論理で、歴史上時々現れる暴君のように振る舞っているのだ。新たな帝国主義であり植民地支配だ。これ以上のさばらせることは国際社会にとって大いに危険だ。何としても止めなければならない。

日本政府の態度
 ところで、日本政府は、そのような価値観と論理で行動するトランプを非難していないし、やめろとも言っていない。自由、民主主義、「法の支配」を根底から覆す「力による現状変更」を目の前にして、それをとがめていないのだ。中国の行動やロシアのウクライナ侵略や北朝鮮の拉致には厳しく対応していることと比べれば、明らかな「ダブルスタンダード」だ。日本政府がいう自由、民主主義、「法の支配」という「普遍的価値観の共有」などというのは、その程度のものなのだろう。アメリカのやることには注文を付けないどころか、ご機嫌取りはやるのだ。本当に、自由や民主主義や「法の支配」を「普遍的価値」といい「力による現状変更はダメ」というのなら、トランプの行動を戒めるべきであろう。このダブルスタンダードは日本の命取りになってしまう。高市早苗首相は、トランプに「いつでも電話してきてほしい」といわれているようだから、「大統領。それはおやめください!」と電話したらどうだろうか。トランプがどうするかは知らないけれど、高市首相がそれをしたら、私は「アッパレ」をあげる。

まとめ
 日本政府がこのような情けない態度をとっているのは、アメリカに「自発的隷従」をしているからだ。日本が独立を回復したとき、日本は「アメリカの核とドルの傘」を選択した。その吉田茂首相の選択の結果、現在の日本がある。今、その選択の適否を語っても意味はない。過去はやり直せないからだ。けれども、未来は違う。アメリカの価値観と論理だけに従うことの適否を考えることは可能なのだ。未来は不確かではあるけれど、トランプの野蛮な行動を非難し拒否することは可能なのだ。1951年の「吉田の選択」は、一つの選択であるとしも、その選択を継続しなければならない理由はない。アメリカに付き従うことに疑問を持ち、「自発的隷従」から抜け出て、「アメリカ・ファースト」ではないこの国を創っていきたい。(2026年1月6日記)

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2025.11.6

高市早苗首相の「立憲主義」の無理解

『毎日新聞』のコラム
 『毎日新聞』の夕刊に「今日も惑いて日が暮れる」というコラムがある。吉井理記氏の筆である。10月29日は「高市さんの憲法観」というテーマだった。憲法学者の小林節氏と高市早苗氏の「立憲主義」についてのやり取りを紹介している興味深いものだった。小林氏は、もともとは憲法9条改正を訴え、自民党や読売新聞の憲法改正の理論的支柱だった人だけれど、今は、「護憲派」として『赤旗日曜版』の拡大に協力している人だ。「変節」という人もいるけれど、ご本人は「今なお学んで、進化し続けているということだ。成長の一過程だ」として意に介していないようだ。私も「護憲派」から「改憲派」に鞍替えするのは「転向」だと思うけれど、この「進化」は大いに歓迎している。
 コラムによると、その小林氏が高市氏を痛烈に批判していたことがあるという。小林氏が「憲法は、国家権力が乱用されて国民の人権を侵害しないよう、あらかじめ縛っておくものだ。近代国家の前提である『立憲主義』という考えだ」だと説明したら、高市氏が「私はその考えをとりません」と言ったというのだ。それは、2006年5月18日の衆議院憲法特別委員会に端を発している。

憲法特別委員会でのやり取り
 2006年5月18日、衆議院憲法特別委員会に小林節氏が参考人として出席している。高市氏は自民党の議員として小林氏にこんな質問している。「おそらく先生は、憲法というのは国家の権力を制限する、国民の権利を守るための制限規範的なとらえ方を主に持ってくるべきだというお考えなのだろうと思います。それは憲法の重要な役割なんだと思うんですが、私自身は、昨今、やはり国民の命を確実に守る、それから領土の保全、独立統治というものを確保するために、国家に新たな役割を担ってもらう授権規範的な要素もいくらかは必要だと思います…。」
 これに対し小林氏は「権力というのは、歴史上、本質的に濫用、堕落する危険がある。それは人間の本質で、これは一向に改まっていません。古今東西」、「だから歯止めをかけておく。濫用されたとき跳ね返す。これ憲法の基本的役割なんですね。これなくしては憲法じゃなくなっちゃうんですね。…制限規範、授権規範なんて、…そこを強調することは非常に目新しいけれども、それは誤用であると申し上げておきます。」と答えている。
 それに対して高市氏は「私自身は誤用であると思っていない」と反応するのである。

高市首相の「立憲主義」理解
 この質疑には「私はその説を取りません」という言葉は出てこない けれども、高市氏の質問は、制限規範とか授権規範とかの用語を使用しながら、憲法の権力に対する制限規範としての役割を減殺しようとしていることは見え見えである。また、小林氏に、その用語の使用について「非常に目新しい」などと(私から見れば)皮肉られているにもかかわらず「誤用ではない」と言い張っているのである。このやり取りを体験している小林氏が、高市氏は立憲主義について「私はその考えをとりません」と言っていると紹介しても曲解ではないであろう。彼女の立憲主義についての無理解は明白だからである。

高市首相の理解の問題点
 小林氏が説明している「立憲主義」はいわば憲法学における「公理」のようなもので、個人が採用するかどうかという問題ではない。彼女の物言いはあえて言えば「私は『1+1=2』という考えはとりません」と言っているようなものなのだ。フェイスブックでは「これは驚きましたね。立憲主義って国家の動かし方は憲法で決めるというものですが、それを取らないということは、憲法にしたがって就いた内閣総理大臣という地位も、私は認めないということですよ」、「うちは労働基準法採用していません、っていう中小企業のシャチョサンみたい」、「この人は憲法を校則ぐらいにしか考えていないのだろうか?だとしたら危険極まりない人だ」、「国会議員にも憲法学や法学概論に関する研修の履修を義務付けるべきかと思いますね」などと盛り上がっている。

まとめ
 今、この国ではこういう人が首相をしているのだ。私は、高市氏が「戦後生まれだから戦争責任などはない」とか「さもしい顔して貰えるものは貰おうとか、弱者のフリをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまう」という発言をしていることは知っていたけれど、立憲主義を理解していないことは知らなかった。おまけに、彼女は非核三原則の「持ち込ませず」を見直そうと言っているし、トランプ大統領の核実験再開指示に反対していないのである。彼女は「悪魔の兵器」に依存しているのである。そもそも日本国憲法など眼中にない人なのであろう。
 けれども、彼女の支持率は高いのだ。しかも、若年層の支持率が高いのだ。「その国の民度はその国の宰相を見ればわかる」そうだから、この国の民度はこの程度なのかもしれない。けれとも、この国で同時代を生きているのだから、それを冷笑すればいいというわけにもいかないであろう。何とかしなければいけない。(2025年11月4日記)

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2025.11.6

トランプが核実験再開を言い出した!!

より危険になった世界
 トランプが核実験再開を言い出した。「核爆発を伴うものではなく未臨界実験だから心配いらない」などという言説も流布されているけれど、トランプは「爆発を伴わない実験」に限定していない。そもそも、どちらの実験であれ核実験であることには変わりがない。核実験の再開は核兵器使用の準備である。使わない兵器の実験など無意味であり無駄だからだ。トランプは核戦争の準備を始めたのである。
 トランプに核兵器を使用しない意思もなくす意思もないことは明らかだ。彼は、第1期政権の時「なぜ核兵器を使用してはいけないのか」を何度も確認したそうだ。彼には核兵器使用についての躊躇いはなかったのだ。そして、今、彼は再び「核のボタン」を押す権限を持っている。彼がそのボタンを押せば核ミサイルが発射されることになる。そのミサイルを呼び戻す方法はない。トランプによって、世界はより危険になったのだ。まず、そのことの確認をしておきたい。

核兵器使用は「タブー」
 米国も締約国である核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争が全人類に惨害をもたらす」のでそれを避けるための条約である。だから、NPT6条は、核兵器の拡散だけではなく、核軍拡競争の停止や核軍縮を核兵器国に求めているのである。また、「核戦争に勝者はない。核戦争を戦ってはならない」ことは核兵器国の首脳の一致した見解でもある。核戦争は国際法上も国際政治の上でも「タブー」なのである。これは「核兵器禁止条約」の要請ではないので、トランプも拘束されている原則である。トランプはそのタブーに挑戦したのである。
 また、米国は包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名している。この条約は発効していないけれど、署名国には「条約の目的と趣旨を損なわないよう行動する義務」がある(ウィーン条約法条約18条)。彼は国際法も国際政治の到達点も完全に無視しているのである。彼は、大統領選に敗北した時、支持者を議会に乱入させた「無法者」だけれど、今回も「無法者」ぶりを発揮しているのである。

日本政府の態度
 高市政権は「核実験再開指示」についてコメントしないとしている。「唯一の戦争被爆国」である日本政府が反対しないのである。なぜそのような態度なのであろうか。それは、トランプや高市は核兵器を必要だと考えているからである。彼らにとって核兵器は自国の安全を確保するための最終兵器(「守護神」)なのである。核兵器によって「敵国」からの攻撃を抑止し、万一攻撃すれば「核兵器で反撃してお前を抹殺するぞ」という脅しで自国の安全を確保するという「核抑止論」に帰依しているのである。
 核戦力を強化している中国、挑発を繰り返す北朝鮮、侵略戦争を継続するロシアなどに対抗するためには、自衛隊の「敵基地攻撃能力」だけではなく、国を挙げて防衛力の強化を推進し、米国の核戦力を含む拡大抑止に依存するとしている日本政府からすれば、米国の核戦力が強化されることに反対する理由はないのである。むしろお願いしたいことであろう。反対するわけにはいかないし賛成ともいえないので「ノーコメント」なのである。

「安保三文書」の前倒しと自民と維新の「合意文書」
 高市政権は、トランプの核実験再開指示に反対しないだけではなく「安保三文書」を前倒しで進めると米国政府に約束している。これは、日本の軍国主義化の速度を速めるということを意味している。しかも、自民党と維新の「連立政権合意文書」には「憲法9条改正に関する両党の条文起草協議会を設置する。設置時期は、25年臨時国会中とする」との条項もある。
 高市政権は核兵器の力によって日本の安全を確保するとするだけではなく、日本国憲法9条を廃棄しようとしているのである。「国家安全保障戦略」によれば、中国、北朝鮮、ロシアに対抗して防衛力を強化することが「希望の世界」への道だとされている。他方、日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持する」としている。「核のホロコースト」の上に徹底した非軍事平和思想にもとづいているのである。
 「核を含む軍事力による安全」を求める勢力からすれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義による安全」などを想定する日本国憲法は「獅子身中の虫」なのである。彼らはその虫を退治したいのである。
 私たちは「核兵器による平和」か「平和を愛する諸国民との公正と信義による平和」かの大分岐点にあるのだ。
 トランプの核実験再開指示発言は、私たちに、改めてそれを問いかけている(文中敬称略)。(2025年11月5日記)

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2025.10.20

「身を切る改革」の正体

はじめに
 自民党と日本維新の会(以下、維新)の癒着が進行している。このままいくと、高市早苗氏が総理大臣になりそうである。私は、高市氏は「歴史に学ぶ」という最も基本的な営みを拒否する人なので総理大臣に相応しくないと思っている。けれども、維新の諸君はそうではなく、条件が整えば共同してもいいとしているのである。その条件としていくつかのことを挙げているけれど、もっとも大事なことは「国会議員定数の削減」だという。そして、自民党もその条件を受け入れたと報道されている。
 その定数削減が衆議院なのか参議院なのか、何人にするのか、比例部分なのか小選挙区部分なのかなどについては未定であるが、とにかく減らすことは合意されたようである。10月17日時点では、削減数は50人程度とされ、比例部分のようである。そして、その削減の理由は「身を切る改革」だとされている。要するに、国会議員のために使われる国庫金を減らすために議員を減らすというのである。
 
国会議員を減らすことの問題点
 これは大問題である。国会は唯一の立法機関であり、国権の最高機関である(憲法41条)。国会は「全国民を代表する選挙された議員で組織する」とされている(憲法43条1項)。国会議員は民意を国会に反映させる任務を負っているのである。その定数は法律で定められるけれど(憲法43条2項)、その数が少なければ少ないほど国民の声が届きにくくなることは自明である。自民党と維新は現在の数を減らそうというのである。
 しかも、比例代表部分を減らそうとしているのである。そうなれば、少数派の意見が反映しにくくなる。これは選挙制度のイロハの知識である。現行の選挙制度は「小選挙区比例並立制」とされている。その比例部分を削減することは「少数派を切り捨てる」という小選挙区制の弊害が一層顕著になる。少数派の意見を尊重することは、社会の活性化のために不可欠なシステムである。「社会が荒廃した精神的軽薄さと退廃から自分を防御する唯一の道は、少数者の権利の承認である。」(ゲオルク・イェリネック『少数者の権利』)という指摘を思い出しておきたい。
 自民党と維新は、国民主権国家における代議制民主主義の原理を理解していないのである。彼らの無知と無責任さを確認しておく。
 
国会議員の定数を50減らした場合の試算
 現在、国家議員一人当たりに費やされている国庫金は年間約7531万円である(2024年の予算ベース)。その内訳は、歳費約2180万円、調査研究広報滞在費約1200万円、立法事務費約780万円、公設秘書給与三人分約3180万円、JRパス・航空機利用経費約190万円である(生成AIによる。合計は1万円合わないがそれは四捨五入の影響)。この数字を基にして、国会議員の数を50人減らすと、国庫金の負担は37億6550万円減ることになる。
 彼らは、その金額のために代議制民主主義の機能を減殺しようとしているのである。それはまた、国民の参政権の実質的価値を減殺することにもなる。民意を立法府に届きにくくするとはそういう意味なのである。彼らにとって、民主主義も参政権もその程度のものなのであろう。これが、彼らがいう「身を切る改革」の正体である。

政党助成金の温存
 さらに看過できないことは、彼らは政党助成金を温存していることである。そもそも、政党助成金は税金が原資なので、自分の納めた税金が全く支持していない政党に交付されることもありうる。共産党は「政党助成金は憲法違反」としてその受領を拒否しているので共産党支持者の場合は間違いなくそうなる。
 国民が納めた税金のうち250円が自働的に各政党に交付されている。国民の「思想及び良心の自由」(憲法19条)の一場面である「政党への寄付の自由」は完全に無視されているのである。徴収を拒否できない税金が、個人の意思に関係なく、自民党や維新に交付されているのだ。支持しない政党への強制カンパといえよう。彼らはそのことには全く触れない。(おまけに、企業・団体献金の禁止は棚上げされている。)
 ところで、今年度の政党助成金の交付総額は315億3652万円である。うち自民党へは136億3952万2千円、維新へは32億922万7千円である。彼らが本気で「身を切る改革」をやるというのなら政党助成金を廃止すればいいだけの話で、国会議員の定数を減らす必要などは全くない。その方が国会議員を50名減らすよりも桁違いに効果的なのである。「身を切る改革としての定数削減」などというのは限りなくフェイクである。

まとめ
 このように、自民党と維新が進めている国会議員の定数を減らすという合意は「改革もどき」というだけではなく、代議制民主主義を軽視する「有害な代物」なのである。彼らは何が大事なことなのかを全く判っていない。国民主権国家における定数削減問題がもっている「ことの重大性」を完全に無視し、「数合わせ」だけに関心を寄せているのである。無知と強欲がのさばり、国民主権や基本的人権は忘却されている。
 自民党と維新は、37億円の国庫金を巡っての合意で、この国の政治を決めようとしているのである。なんとも情けないと思う。何とかしなければならない。まずは、彼らのいう「身を切る改革」の正体を広げることにしよう。(2025年10月18日記)

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2025.10.9

麻生太郎氏の無責任さと危険性

はじめに
 麻生太郎氏(1940年9月20日生)が、高市早苗自民党総裁によって、副総裁に指名された。麻生氏は最高顧問だったけれど副総裁となったのだ。最高顧問は元首相や重鎮議員などが就任する名誉職的ポジションだけれど、副総裁は党内で総裁に次ぐナンバー2であり、役職政策・選挙・人事などに関与するとされている。高市・麻生体制となったのである。私は、高市氏は歴史に学ぶ必要性を否定する危険人物だと評価しているけれど、麻生氏も高市氏に劣らない危険人物だと思っている。その理由は、一つは彼の「ナチスに学べ」発言であり、もう一つは「台湾有事は日本有事」発言である。この小論では、彼の二つの発言を紹介し、その無責任さと危険性を検証する。

「ナチスに学べ」発言
 2013年7月29日。麻生氏は、民間シンクタンク国家基本問題研究所のシンポジウムで「僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)三分の二(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。(略)ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。…憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。」と講演した(辻本清美氏の質問主意書からの引用)。このことは、当時、マスコミでも報道されたので、記憶している人も多いであろう。
 
 この発言は「ナチスの手法を参考にして憲法改正を進めるべきだ」という主張として受け止められた。私もその一人だった。だから、この発言を「プロパガンダの天才」と言われたナチスの宣伝相ゲッペルスが、どのような手法で大衆を動員したかを批判する文脈の中で紹介したことがある(「ゲッペルスのプロパガンダを表現の自由で擁護してはならない」。『「核の時代」と憲法9条』日本評論社、2019年所収)。憲法改正手続きの中で、ナチスの手法など持ち込まれたら大変なことになるという危機感があったのだ。
 
 ところで、この「ナチスの手口に学べ」という表現が、ナチスの独裁的手法を肯定しているように受け取られたので、国内外からの強い批判が寄せられることになった。だから、麻生氏は、8月1日、その発言の一部を撤回している。その理由は「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。この例示が誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。」というものであった。
 彼は「ナチスのようにワーワー騒がないで静かにやっていく」と言ったけれど、それは「喧騒にまぎれて国民的議論がなかった悪しき例」として挙げたのだ。誤解を招いたので撤回するとしたのだ。これは説明になっていない。そして、誰も誤解などしていない。麻生氏は、ナチスは暴力と陰謀と懐柔で権力奪取をしていたにもかかわらず「ナチスに学べ」と言ったのである。

麻生氏の発言と撤回の意味
 当時、麻生氏は副総理兼財務大臣という要職にあった。私は、そのような立場にある人が「憲法改正」という重要事項について「ナチスに学べ」という発言をすることも大問題だと思うけれど、それをたやすく撤回して、なかったことにすることも大問題だと思っている。「綸言汗の如し」(りんげんあせのごとし。一度口にした君主の言は取り消すことができない、という意味)をここで引用することは適切かどうかわからないけれど、麻生氏が責任感を持つ政治家ならば、たやすく撤回するような発言はすべきではないであろう。権力の中枢にある者は、その発する言葉の重さを自覚すべきだからである。麻生氏にその自覚はないようである。彼はそのような無責任な資質の持ち主なのである。

 ところで、麻生氏の危険性は彼が「ナチスに学べ」としていることである。彼は、ナチスが、ワイマール体制下において政権を奪取していく方法や手段を否定していないのである。そして、ナチスが大戦争を仕掛けていったことにも反対しないどころか、むしろ共感を示しているようである。

 私は彼の論理を次のように受け止めている。ドイツ国民はナチスを選んだ。国民の多数が選んだものは正しい。ナチスは多数を確保するために工夫した。だから、ナチスに学んで「憲法改正」で多数派になろう。政治的多数派は何をしてもいいのだ。多数派になるために何でもやろう、という論理である。
現役の国務大臣が現行憲法の改正を進めるために「ナチスに学べ」というのは、立憲主義も平和主義も全く無視していることになる。立憲主義や平和主義が失われた時「政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされる」ことになる。麻生氏の危険性の本質はここにある。

「台湾有事は日本有事」
 2024年1月10日。麻生氏(自民党副総裁・当時)は、米国で記者団に「(台湾海峡有事は)日本の存立危機事態だと日本政府が判断をする可能性が極めて大きい」と述べ、日本は中国の台湾侵攻時に集団的自衛権を発動する可能性が高いという考えを示した(『朝日新聞』2024年1月11日)。麻生氏はこれに先立ち「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠。日本・台湾・米国は戦う覚悟を持ち、それを相手に伝えることが抑止力になる」 (2023年8月8日の台湾訪問時)とか、「台湾海峡で戦争となれば、日本は潜水艦や軍艦で戦う。台湾有事は間違いなく日本の存立危機事態だ」(2024年1月8日の福岡での国政報告会)などと発言している。彼は「台湾有事は日本の存立危機事態、すなわち日本有事」としているのである。 

 ところで、存立危機事態とは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と定義されている(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律2条4号)。
 だから、台湾で日本以外の当事者間での武力衝突が起きたとしても「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」でなければ「存立危機事態」ではないのである。

 けれども、麻生氏は、そのことには触れようとしないで「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠」として「日本は潜水艦や軍艦で戦う」としているのである。
 彼の発想には中国と米国(台湾)が武力衝突しても「日本はどちらにも与しない」という選択肢はない。米国が戦闘態勢に入れば「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとして、内閣総理大臣が自衛隊に防衛出動を命ずる(自衛隊法76条)ことを当然としているのである。日本に武力攻撃がないにもかかわらず、日本が戦争当事者になることを当然視しているのである。戦争を放棄している日本国憲法のもとで、日本に対する攻撃がないにもかかわらず、戦争が起きるのである。それは、自衛隊による中国本土の基地攻撃や、中国からの攻撃を意味している。政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされるのである。

まとめ
 確認しておくと、麻生氏はナチスへの親近感がある人だということと、「台湾有事」を「日本有事」にしないという発想は皆無の人だということである。こういう人が、自民党副総裁として、「戦後生まれだから戦争責任など問われるいわれはない」として「過去に学ぼうとしない」総裁とタッグを組んだのである。私たちはその危険な組み合わせに敏感でなければならない。危険が相乗効果を発揮するかもしれないからである。

 2016年5月27日。広島を訪問したにオバマ元米国大統領は「71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました。一つの閃光と火の海が街を破壊し、人類が自らを破壊する手段を手に入れたことがはっきりと示されたのです。」と演説している。現代は「人類が自らを破壊する手段を手に入れた」時代なのだ。
 中国は核兵器保有国である。米国が日本のために中国に対して核兵器を使用するなどといことはあり得ないであろう。米国の核が中国の日本に対する攻撃を抑止し、日本の安全を保障するなどというのは「天動説」並みの謬論である。
 このままでは、日本が、長崎以降、初めての核兵器を使用される戦場になるかもしれない。新たな被爆者が生まれるかもしれないのだ。私たちには「空から死が落ちてくる」事態を阻止する営みが求められている。(2025年10月9日記)

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2025.10.9

高市早苗氏が危険な理由

はじめに

 高市早苗氏(1961年3月7日生)が自民党の総裁に選出された。このままいくと内閣総理大臣になるようだ。私は何とも暗澹たる気分になっている。なぜなら、私は彼女が嫌いだし危険人物だと見做しているからだ。どうしても嫌悪感を覚えてしまうという個人的な感情にとどまらず、彼女は首相として危険な資質を持っていると考えているのだ。

 彼女は「自分は戦後生まれだから、戦争責任など問われる立場にない」と公言している。もちろん、彼女がどのような歴史観を持つかは彼女の自由だ。けれども、彼女は国会という「国権の最高機関」(憲法41条)のメンバーというだけではなく、法を執行し、国務を総理し、外交を処理する内閣(憲法73条)の責任者になるかもしれないのだ。ある国の政治的最高責任者がどのような歴史観を持つかは、その国の政治に直結することになる。

 だから、その責任者の歴史認識は問われなければならない。「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい。」というワイツゼッカーの言葉を引用するまでもなく、歴史から学ぶことは、誰にとっても、とりわけ政治家にとっては、必要不可欠な作業である。 けれども、彼女はそれを拒否しているのである。だから、彼女は危険なのだ。この小論は彼女のそのスタンスを紹介するためのものである。なお、出所は衆議院の資料である。

1994年10月12日衆議院予算委員会 
 この日、高市氏は次のような質問をしている。テーマは村山富市首相(当時)の歴史認識である。ちなみに、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する「村山談話」は1995年8月15日である。この談話には「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」という一文がある。この質問はこの談話以前の応酬であるが、事の本質は変わらない。

高市委員:
高市早苗でございます。改革(自由改革連合などを含む会派。大久保注)を代表して質問をさせていただきます。終戦五十周年を目前にしまして、私たちは歴史の見直しという政治家としての生涯最大のテーマにかかわろうとしているのではないかという緊張に、非常に恐れを感じております。選挙区で遺族会の方々から、出征して死んでいった夫というのは侵略戦争に行ったんでしょうかという問いかけをされております。また、奈良護国神社の宮司様は、おまえのところは犯罪人を祭っておるのかという嫌がらせの電話に悔し涙を流しておられました。そんなせつない思いをされている方々のために、きょうは侵略戦争について、いつもの答弁よりも具体的な御説明をお願いしたいと思います。(中略)
まず、総理は、七月、九月と二度の所信表明の中で、さきの大戦への反省、それから過去の侵略行為や植民地支配といったものに触れられまして、八月の全国戦没者追悼式におきましては、私たちの過ちによって惨たんたる犠牲を強いられたアジアの隣人たちという言葉をお使いでしたけれども、具体的にはどの行為を指して侵略行為と考えておられるのでしょうか。また、総理の言われる過ちというのは具体的に何を指すのか、法的な根拠のある過ちだったのかどうかもお答え願います。

村山内閣総理大臣:
私は、侵略的行為や植民地的支配という言葉を使わせていただいたわけですけれども、やはりあの戦争の中で日本の軍隊が中国本土をどんどんどんどん攻め込んでいった、それから東南アジアのいろいろな国に攻め込んでいった、そういう行為を指して侵略的な行為、こういうふうに申し上げておるわけです。

高市委員:
それでは、法的根拠のある過ちということではございませんか。

村山内閣総理大臣:
いや、その法的というのは何法に対してこう言っているのか、よくちょっと理解できないものですからね。

高市委員:
大戦当時は総理も一応若者だったと思うのですけれども、国民として侵略行為への参加の自覚がございましたでしょうか。

村山内閣総理大臣:
私は、一年間兵隊におりました。それで、幸か不幸か、外地に行かずに内地勤務でずっとおったわけです。しかし、あの当時のことを思い起こしますと、私もやはりそういう教育を受けたということもありまして、そして国のために一生懸命頑張ろうというような気持ちで参加をさせていただきました。

高市委員:
つまり、侵略行為への参加という自覚はその当時お持ちじゃなかったということなのですが、総理大臣という地位にある人は、五十年前の政権の決定を断罪し、その決定による戦争を支えた納税者やとうとい命をささげられた人々のしたことを過ちと決める権利があるとお考えでしょうか。

村山内閣総理大臣:
私は、兵役に服して、そして国のために一命をささげて働いてこられたすべての人方に対して誤りだったというようなことは申し上げておりませんよ。しかし、これはまあ歴史がそれぞれ評価する問題点もたくさんあるかと思いますけれども、しかし、当時の日本の軍閥なりそういう指導者のやってきたことについては、これは、今から考えてみますと、やはり大きな誤りを犯したのではないかということを言わざるを得ないと私は思います。

高市委員:
今のように、当時の軍閥ということで侵略行為そのものの責任の所在をある程度明らかにされたわけですけれども、それでしたら、アジアの人々に対してのみならず侵略行為に加担させられた英霊に対し、また軍恩や遺族会の皆様に対しても、この場で謝罪の意を表明していただけませんでしょうか。

村山内閣総理大臣:
ですから、私は慰霊祭にも集会にも参りまして、そして率直に今国の立場と、国の責任と考えていることを申し上げたわけでありまして、私自身がそういう方々にここで謝罪をしなきゃならぬという立場にあるかどうかというのは、もう少し慎重に考えさせてもらいたいと思います。

高市委員:
それにしてはアジアに行かれたとき随分謝罪的な言葉を発せられて、日本国を代表して謝っておられるのかと私は感じていたのですけれども、日本に過ちがあった、過去に過ちがあったと総理がおっしゃいます。その責任は、もちろん過ちがあったとすれば日本国全体が負うものですけれども、国内的にはそれではその責任の所在というのはだれにあるのか、個人名を挙げてお答えいただきたいと思います。

村山内閣総理大臣:
これはだれにあると個人名を一人一人挙げるわけにはまいりませんけれども、当時の、軍国主義と言われた日本の国家における当時の指導者はすべてやっぱりそういう責任があるのではないかというふうに言わなければならぬと思います。

高市委員:
その五十年前の当時の指導者がしたことを過ちと断定して謝られる権利が、現在、五十年後にこの国を預かっておられる村山総理におありだとお考えなのでしょうか。

村山内閣総理大臣:
私は、今日本の国の総理大臣として、総理として日本の国を代表してアジアの国々に行けば、そういうふうに被害を与えた方々に対しては、大変申しわけなかったと、やはりその反省の気持ちをあらわすのは当然ではないかと思うのですよね。それはやはり含めて日本国民全体が反省する問題として私は受けとめて、過ちは繰り返さないようにするというぐらいの決意はしっかり持って、平和を志向していく方向に努力していきたいというような意思もあわせて表明することは、当然ではないかというふうに思っています。

(中略)

高市委員:
とにかく来年終戦五十周年ということで何らかの国会決議がされる動きもあると聞いておりますけれども、これが一方的に謝罪決議、それも国民の合意なき謝罪決議ということでなく、私はむしろ不戦決議、これから戦争をしない、お互いに平和をつくっていこうという平和決議であるべきだと個人的には考えておりますけれども、とにかくあちらこちらに出向かれて謝罪をされる、過ちだと言われる。それでしたら、何が侵略行為であったのか、具体的にはだれに責任の所在があるのか、そして、国民的な議論を代表して、総理が日本国の代表として出ていかれる、そういった下地をぜひ整えていただきたいと思います。私たちの世代にとっても本当に大事な、これは歴史の見直し、大変な課題なんですね。特に戦争を知らない世代でございますから、その責任を非常に強く感じております。歴史的な検証も十分に行った上で決断を下していただきたく思います。

 このように、高市氏は、村山首相(当時)対して、戦後50年にあたっての反省と謝罪に注文を付けているのである。「何が侵略行為であったのか、具体的にはだれに責任の所在があるのか」それを明確にしろというのである。それは戦争を知らない世代である自分にとっては「歴史の見直しという大変な課題」だという立場からの質問である。反省と謝罪を拒否する執念がひしひしと伝わってくる。他方、統治者たる天皇とその「赤子」たる人民の違いを完全に無視する幼稚な論理でもある。これが彼女の正体なのであろう。

1995年3月16日の衆議院外務委員会
 高市氏の当時の所属会派は新進党である。彼女はこの場で栗山尚一駐米大使(当時)の発言が掲載された新聞記事を題材に質問している。答弁者は河野洋平外務大臣である。

高市委員:
三月七日にワシントンDCで栗山駐米大使が記者会見して、国会の謝罪決議に関連して話された記事を新聞で読んだのです。栗山大使は「日本がきちんと第二次世界大戦にいたった歴史を見据え、その反省のうえに立って戦後の日本があることを忘れてはならない。若い世代もこれを知っておかねばならない」と強調し、何らかの形で「反省」を明確に打ち出す必要があるとの考えを明らかにした。」と記事に書かれてあるのですけれども、日本国政府としての考え方は栗山大使のおっしゃった方向だと考えてよろしいでしょうか。

河野外務大臣:
大使の記者会見を私、詳細承知しておりませんので、今それについてコメントをするだけのものを持っておりません。しかし、大使が記者会見で述べる問題につきましても、すべて国を代表して述べているというふうには私ども思ってはおりません。

高市委員:
しかし、先ほど確認させていただきましたとおり、大使というのは国を代表する存在で、それも何かプライベートな会合でお友達に言ったというのじゃなくて、わざわざ記者会見を開いておっしゃったことなんですから、外務大臣として外務省職員の公的な場での発言には責任を持っていただきたいと私は思います。大使が外で記者会見を開いて何を言っても、それは別に国を代表することじゃない、関知しないというお考えになるのでしょうか。

河野外務大臣:
会見のすべてをそうだとは思っていないと申し上げております。
(中略)

高市委員:
栗山大使の発言、…手元にございますのでもう少し紹介させていただきます。
憲法と反省の関係について言っておられることなんですが、「日本国民全体の反省があるから戦後の平和憲法に対する国民の熱心な支持がある。また、新憲法の下で政治的自由、民主主義体制の支持があるのも反省があるからこそ。日本国民は反省をきちんと持ち続けなければならない」と、日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております(強調は大久保)
新聞社の世論調査では、謝罪すべきではないと答えた人が四七%、謝罪すべきだと答えた人が四三%でございまして、まさしく現在国論が謝罪ということについて真っ二つに割れている状態なんですが、このような状態のまま、国会での多数決で、わずかに多い方の意見を日本国民の総意として国際社会に示すことこそが民主主義への冒涜であり、また国民の代弁者たる国会議員の越権行為だと私は考えますので、私自身は、このような歴史の問題というのは国民一人一人の思想や価値観にもかかわることですし、国会決議にはなじまないだろうなと思っているわけですが、民主主義という言葉を記者会見で持ち出した栗山大使自身が民主主義を軽んじているんじゃないか、私は彼の発言を新聞記事で読んでそう思ったのですけれども、大臣自身はこの問題についてどうお考えでしょうか、御見解をお聞かせください。

河野外務大臣:私は議員と全く見解を異にいたします。

高市委員:どのように違うんでしょうか。

河野外務大臣:
過去の戦争について全く反省もしない、謝罪をする意味がないという議員の御発言には私は見解を異にすると申し上げました(強調は大久保)。

 当時、高市氏は新進党所属で野党である。政権与党は自民党、社会党、さきがけであった。彼女はここでもネチネチと質問をしている。日本国として反省や謝罪などはしてはならないという牢固としたと執念がそこにある。そして、それを頼もしく感ずる勢力が間違いなく存在するのである。
 ちなみに、高市氏の初当選は1993年である。所属は新進党である。その後、新進党 → 保守党 → 保守クラブ → 新党改革と保守系の小政党を経て2002年に自民党に合流している。

まとめ
 高市氏は栗山大使の発言は、「日本国民全体の反省がある」という決めつけであり「私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない。」と断言しているのである。ワイツゼッカーと対局の姿勢である。私はここに彼女の危険性を見ている。
 そして、河野洋平外務大臣(自民党総裁)は高市氏の質問に対して「私は見解を異にする」と正面から反論していた。この河野氏の評価はどこに消えたのだろうか。雲散霧消してしまったのであろうか。高市氏がその歴史認識を変えたという話は聞かない。自民党は河野氏の見解を放棄し、高市色に染められたのであろう。私はここに自民党の堕落を見ている。
 今、この国は「新憲法」の価値など眼中にない「戦争を知らない」ので戦争について「反省するいわれもない」と確信する政治家が首相になろうとしているのである。高市氏を恐れる必要はないけれど侮ってもならないであろう。私たちは心して対処しなければならない。(2025年10月5日記)

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