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2025.11.6
より危険になった世界
トランプが核実験再開を言い出した。「核爆発を伴うものではなく未臨界実験だから心配いらない」などという言説も流布されているけれど、トランプは「爆発を伴わない実験」に限定していない。そもそも、どちらの実験であれ核実験であることには変わりがない。核実験の再開は核兵器使用の準備である。使わない兵器の実験など無意味であり無駄だからだ。トランプは核戦争の準備を始めたのである。
トランプに核兵器を使用しない意思もなくす意思もないことは明らかだ。彼は、第1期政権の時「なぜ核兵器を使用してはいけないのか」を何度も確認したそうだ。彼には核兵器使用についての躊躇いはなかったのだ。そして、今、彼は再び「核のボタン」を押す権限を持っている。彼がそのボタンを押せば核ミサイルが発射されることになる。そのミサイルを呼び戻す方法はない。トランプによって、世界はより危険になったのだ。まず、そのことの確認をしておきたい。
核兵器使用は「タブー」
米国も締約国である核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争が全人類に惨害をもたらす」のでそれを避けるための条約である。だから、NPT6条は、核兵器の拡散だけではなく、核軍拡競争の停止や核軍縮を核兵器国に求めているのである。また、「核戦争に勝者はない。核戦争を戦ってはならない」ことは核兵器国の首脳の一致した見解でもある。核戦争は国際法上も国際政治の上でも「タブー」なのである。これは「核兵器禁止条約」の要請ではないので、トランプも拘束されている原則である。トランプはそのタブーに挑戦したのである。
また、米国は包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名している。この条約は発効していないけれど、署名国には「条約の目的と趣旨を損なわないよう行動する義務」がある(ウィーン条約法条約18条)。彼は国際法も国際政治の到達点も完全に無視しているのである。彼は、大統領選に敗北した時、支持者を議会に乱入させた「無法者」だけれど、今回も「無法者」ぶりを発揮しているのである。
日本政府の態度
高市政権は「核実験再開指示」についてコメントしないとしている。「唯一の戦争被爆国」である日本政府が反対しないのである。なぜそのような態度なのであろうか。それは、トランプや高市は核兵器を必要だと考えているからである。彼らにとって核兵器は自国の安全を確保するための最終兵器(「守護神」)なのである。核兵器によって「敵国」からの攻撃を抑止し、万一攻撃すれば「核兵器で反撃してお前を抹殺するぞ」という脅しで自国の安全を確保するという「核抑止論」に帰依しているのである。
核戦力を強化している中国、挑発を繰り返す北朝鮮、侵略戦争を継続するロシアなどに対抗するためには、自衛隊の「敵基地攻撃能力」だけではなく、国を挙げて防衛力の強化を推進し、米国の核戦力を含む拡大抑止に依存するとしている日本政府からすれば、米国の核戦力が強化されることに反対する理由はないのである。むしろお願いしたいことであろう。反対するわけにはいかないし賛成ともいえないので「ノーコメント」なのである。
「安保三文書」の前倒しと自民と維新の「合意文書」
高市政権は、トランプの核実験再開指示に反対しないだけではなく「安保三文書」を前倒しで進めると米国政府に約束している。これは、日本の軍国主義化の速度を速めるということを意味している。しかも、自民党と維新の「連立政権合意文書」には「憲法9条改正に関する両党の条文起草協議会を設置する。設置時期は、25年臨時国会中とする」との条項もある。
高市政権は核兵器の力によって日本の安全を確保するとするだけではなく、日本国憲法9条を廃棄しようとしているのである。「国家安全保障戦略」によれば、中国、北朝鮮、ロシアに対抗して防衛力を強化することが「希望の世界」への道だとされている。他方、日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持する」としている。「核のホロコースト」の上に徹底した非軍事平和思想にもとづいているのである。
「核を含む軍事力による安全」を求める勢力からすれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義による安全」などを想定する日本国憲法は「獅子身中の虫」なのである。彼らはその虫を退治したいのである。
私たちは「核兵器による平和」か「平和を愛する諸国民との公正と信義による平和」かの大分岐点にあるのだ。
トランプの核実験再開指示発言は、私たちに、改めてそれを問いかけている(文中敬称略)。(2025年11月5日記)
2025.10.20
はじめに
自民党と日本維新の会(以下、維新)の癒着が進行している。このままいくと、高市早苗氏が総理大臣になりそうである。私は、高市氏は「歴史に学ぶ」という最も基本的な営みを拒否する人なので総理大臣に相応しくないと思っている。けれども、維新の諸君はそうではなく、条件が整えば共同してもいいとしているのである。その条件としていくつかのことを挙げているけれど、もっとも大事なことは「国会議員定数の削減」だという。そして、自民党もその条件を受け入れたと報道されている。
その定数削減が衆議院なのか参議院なのか、何人にするのか、比例部分なのか小選挙区部分なのかなどについては未定であるが、とにかく減らすことは合意されたようである。10月17日時点では、削減数は50人程度とされ、比例部分のようである。そして、その削減の理由は「身を切る改革」だとされている。要するに、国会議員のために使われる国庫金を減らすために議員を減らすというのである。
国会議員を減らすことの問題点
これは大問題である。国会は唯一の立法機関であり、国権の最高機関である(憲法41条)。国会は「全国民を代表する選挙された議員で組織する」とされている(憲法43条1項)。国会議員は民意を国会に反映させる任務を負っているのである。その定数は法律で定められるけれど(憲法43条2項)、その数が少なければ少ないほど国民の声が届きにくくなることは自明である。自民党と維新は現在の数を減らそうというのである。
しかも、比例代表部分を減らそうとしているのである。そうなれば、少数派の意見が反映しにくくなる。これは選挙制度のイロハの知識である。現行の選挙制度は「小選挙区比例並立制」とされている。その比例部分を削減することは「少数派を切り捨てる」という小選挙区制の弊害が一層顕著になる。少数派の意見を尊重することは、社会の活性化のために不可欠なシステムである。「社会が荒廃した精神的軽薄さと退廃から自分を防御する唯一の道は、少数者の権利の承認である。」(ゲオルク・イェリネック『少数者の権利』)という指摘を思い出しておきたい。
自民党と維新は、国民主権国家における代議制民主主義の原理を理解していないのである。彼らの無知と無責任さを確認しておく。
国会議員の定数を50減らした場合の試算
現在、国家議員一人当たりに費やされている国庫金は年間約7531万円である(2024年の予算ベース)。その内訳は、歳費約2180万円、調査研究広報滞在費約1200万円、立法事務費約780万円、公設秘書給与三人分約3180万円、JRパス・航空機利用経費約190万円である(生成AIによる。合計は1万円合わないがそれは四捨五入の影響)。この数字を基にして、国会議員の数を50人減らすと、国庫金の負担は37億6550万円減ることになる。
彼らは、その金額のために代議制民主主義の機能を減殺しようとしているのである。それはまた、国民の参政権の実質的価値を減殺することにもなる。民意を立法府に届きにくくするとはそういう意味なのである。彼らにとって、民主主義も参政権もその程度のものなのであろう。これが、彼らがいう「身を切る改革」の正体である。
政党助成金の温存
さらに看過できないことは、彼らは政党助成金を温存していることである。そもそも、政党助成金は税金が原資なので、自分の納めた税金が全く支持していない政党に交付されることもありうる。共産党は「政党助成金は憲法違反」としてその受領を拒否しているので共産党支持者の場合は間違いなくそうなる。
国民が納めた税金のうち250円が自働的に各政党に交付されている。国民の「思想及び良心の自由」(憲法19条)の一場面である「政党への寄付の自由」は完全に無視されているのである。徴収を拒否できない税金が、個人の意思に関係なく、自民党や維新に交付されているのだ。支持しない政党への強制カンパといえよう。彼らはそのことには全く触れない。(おまけに、企業・団体献金の禁止は棚上げされている。)
ところで、今年度の政党助成金の交付総額は315億3652万円である。うち自民党へは136億3952万2千円、維新へは32億922万7千円である。彼らが本気で「身を切る改革」をやるというのなら政党助成金を廃止すればいいだけの話で、国会議員の定数を減らす必要などは全くない。その方が国会議員を50名減らすよりも桁違いに効果的なのである。「身を切る改革としての定数削減」などというのは限りなくフェイクである。
まとめ
このように、自民党と維新が進めている国会議員の定数を減らすという合意は「改革もどき」というだけではなく、代議制民主主義を軽視する「有害な代物」なのである。彼らは何が大事なことなのかを全く判っていない。国民主権国家における定数削減問題がもっている「ことの重大性」を完全に無視し、「数合わせ」だけに関心を寄せているのである。無知と強欲がのさばり、国民主権や基本的人権は忘却されている。
自民党と維新は、37億円の国庫金を巡っての合意で、この国の政治を決めようとしているのである。なんとも情けないと思う。何とかしなければならない。まずは、彼らのいう「身を切る改革」の正体を広げることにしよう。(2025年10月18日記)
2025.10.9
はじめに
麻生太郎氏(1940年9月20日生)が、高市早苗自民党総裁によって、副総裁に指名された。麻生氏は最高顧問だったけれど副総裁となったのだ。最高顧問は元首相や重鎮議員などが就任する名誉職的ポジションだけれど、副総裁は党内で総裁に次ぐナンバー2であり、役職政策・選挙・人事などに関与するとされている。高市・麻生体制となったのである。私は、高市氏は歴史に学ぶ必要性を否定する危険人物だと評価しているけれど、麻生氏も高市氏に劣らない危険人物だと思っている。その理由は、一つは彼の「ナチスに学べ」発言であり、もう一つは「台湾有事は日本有事」発言である。この小論では、彼の二つの発言を紹介し、その無責任さと危険性を検証する。
「ナチスに学べ」発言
2013年7月29日。麻生氏は、民間シンクタンク国家基本問題研究所のシンポジウムで「僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)三分の二(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。(略)ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。…憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。」と講演した(辻本清美氏の質問主意書からの引用)。このことは、当時、マスコミでも報道されたので、記憶している人も多いであろう。
この発言は「ナチスの手法を参考にして憲法改正を進めるべきだ」という主張として受け止められた。私もその一人だった。だから、この発言を「プロパガンダの天才」と言われたナチスの宣伝相ゲッペルスが、どのような手法で大衆を動員したかを批判する文脈の中で紹介したことがある(「ゲッペルスのプロパガンダを表現の自由で擁護してはならない」。『「核の時代」と憲法9条』日本評論社、2019年所収)。憲法改正手続きの中で、ナチスの手法など持ち込まれたら大変なことになるという危機感があったのだ。
ところで、この「ナチスの手口に学べ」という表現が、ナチスの独裁的手法を肯定しているように受け取られたので、国内外からの強い批判が寄せられることになった。だから、麻生氏は、8月1日、その発言の一部を撤回している。その理由は「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。この例示が誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。」というものであった。
彼は「ナチスのようにワーワー騒がないで静かにやっていく」と言ったけれど、それは「喧騒にまぎれて国民的議論がなかった悪しき例」として挙げたのだ。誤解を招いたので撤回するとしたのだ。これは説明になっていない。そして、誰も誤解などしていない。麻生氏は、ナチスは暴力と陰謀と懐柔で権力奪取をしていたにもかかわらず「ナチスに学べ」と言ったのである。
麻生氏の発言と撤回の意味
当時、麻生氏は副総理兼財務大臣という要職にあった。私は、そのような立場にある人が「憲法改正」という重要事項について「ナチスに学べ」という発言をすることも大問題だと思うけれど、それをたやすく撤回して、なかったことにすることも大問題だと思っている。「綸言汗の如し」(りんげんあせのごとし。一度口にした君主の言は取り消すことができない、という意味)をここで引用することは適切かどうかわからないけれど、麻生氏が責任感を持つ政治家ならば、たやすく撤回するような発言はすべきではないであろう。権力の中枢にある者は、その発する言葉の重さを自覚すべきだからである。麻生氏にその自覚はないようである。彼はそのような無責任な資質の持ち主なのである。
ところで、麻生氏の危険性は彼が「ナチスに学べ」としていることである。彼は、ナチスが、ワイマール体制下において政権を奪取していく方法や手段を否定していないのである。そして、ナチスが大戦争を仕掛けていったことにも反対しないどころか、むしろ共感を示しているようである。
私は彼の論理を次のように受け止めている。ドイツ国民はナチスを選んだ。国民の多数が選んだものは正しい。ナチスは多数を確保するために工夫した。だから、ナチスに学んで「憲法改正」で多数派になろう。政治的多数派は何をしてもいいのだ。多数派になるために何でもやろう、という論理である。
現役の国務大臣が現行憲法の改正を進めるために「ナチスに学べ」というのは、立憲主義も平和主義も全く無視していることになる。立憲主義や平和主義が失われた時「政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされる」ことになる。麻生氏の危険性の本質はここにある。
「台湾有事は日本有事」
2024年1月10日。麻生氏(自民党副総裁・当時)は、米国で記者団に「(台湾海峡有事は)日本の存立危機事態だと日本政府が判断をする可能性が極めて大きい」と述べ、日本は中国の台湾侵攻時に集団的自衛権を発動する可能性が高いという考えを示した(『朝日新聞』2024年1月11日)。麻生氏はこれに先立ち「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠。日本・台湾・米国は戦う覚悟を持ち、それを相手に伝えることが抑止力になる」 (2023年8月8日の台湾訪問時)とか、「台湾海峡で戦争となれば、日本は潜水艦や軍艦で戦う。台湾有事は間違いなく日本の存立危機事態だ」(2024年1月8日の福岡での国政報告会)などと発言している。彼は「台湾有事は日本の存立危機事態、すなわち日本有事」としているのである。
ところで、存立危機事態とは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。」と定義されている(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律2条4号)。
だから、台湾で日本以外の当事者間での武力衝突が起きたとしても「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」でなければ「存立危機事態」ではないのである。
けれども、麻生氏は、そのことには触れようとしないで「台湾海峡の平和と安定は国際社会の安定に不可欠」として「日本は潜水艦や軍艦で戦う」としているのである。
彼の発想には中国と米国(台湾)が武力衝突しても「日本はどちらにも与しない」という選択肢はない。米国が戦闘態勢に入れば「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとして、内閣総理大臣が自衛隊に防衛出動を命ずる(自衛隊法76条)ことを当然としているのである。日本に武力攻撃がないにもかかわらず、日本が戦争当事者になることを当然視しているのである。戦争を放棄している日本国憲法のもとで、日本に対する攻撃がないにもかかわらず、戦争が起きるのである。それは、自衛隊による中国本土の基地攻撃や、中国からの攻撃を意味している。政府の行為によって再び戦争の惨禍がもたらされるのである。
まとめ
確認しておくと、麻生氏はナチスへの親近感がある人だということと、「台湾有事」を「日本有事」にしないという発想は皆無の人だということである。こういう人が、自民党副総裁として、「戦後生まれだから戦争責任など問われるいわれはない」として「過去に学ぼうとしない」総裁とタッグを組んだのである。私たちはその危険な組み合わせに敏感でなければならない。危険が相乗効果を発揮するかもしれないからである。
2016年5月27日。広島を訪問したにオバマ元米国大統領は「71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました。一つの閃光と火の海が街を破壊し、人類が自らを破壊する手段を手に入れたことがはっきりと示されたのです。」と演説している。現代は「人類が自らを破壊する手段を手に入れた」時代なのだ。
中国は核兵器保有国である。米国が日本のために中国に対して核兵器を使用するなどといことはあり得ないであろう。米国の核が中国の日本に対する攻撃を抑止し、日本の安全を保障するなどというのは「天動説」並みの謬論である。
このままでは、日本が、長崎以降、初めての核兵器を使用される戦場になるかもしれない。新たな被爆者が生まれるかもしれないのだ。私たちには「空から死が落ちてくる」事態を阻止する営みが求められている。(2025年10月9日記)
2025.10.9
はじめに
高市早苗氏(1961年3月7日生)が自民党の総裁に選出された。このままいくと内閣総理大臣になるようだ。私は何とも暗澹たる気分になっている。なぜなら、私は彼女が嫌いだし危険人物だと見做しているからだ。どうしても嫌悪感を覚えてしまうという個人的な感情にとどまらず、彼女は首相として危険な資質を持っていると考えているのだ。
彼女は「自分は戦後生まれだから、戦争責任など問われる立場にない」と公言している。もちろん、彼女がどのような歴史観を持つかは彼女の自由だ。けれども、彼女は国会という「国権の最高機関」(憲法41条)のメンバーというだけではなく、法を執行し、国務を総理し、外交を処理する内閣(憲法73条)の責任者になるかもしれないのだ。ある国の政治的最高責任者がどのような歴史観を持つかは、その国の政治に直結することになる。
だから、その責任者の歴史認識は問われなければならない。「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい。」というワイツゼッカーの言葉を引用するまでもなく、歴史から学ぶことは、誰にとっても、とりわけ政治家にとっては、必要不可欠な作業である。 けれども、彼女はそれを拒否しているのである。だから、彼女は危険なのだ。この小論は彼女のそのスタンスを紹介するためのものである。なお、出所は衆議院の資料である。
1994年10月12日衆議院予算委員会
この日、高市氏は次のような質問をしている。テーマは村山富市首相(当時)の歴史認識である。ちなみに、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する「村山談話」は1995年8月15日である。この談話には「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」という一文がある。この質問はこの談話以前の応酬であるが、事の本質は変わらない。
高市委員:
高市早苗でございます。改革(自由改革連合などを含む会派。大久保注)を代表して質問をさせていただきます。終戦五十周年を目前にしまして、私たちは歴史の見直しという政治家としての生涯最大のテーマにかかわろうとしているのではないかという緊張に、非常に恐れを感じております。選挙区で遺族会の方々から、出征して死んでいった夫というのは侵略戦争に行ったんでしょうかという問いかけをされております。また、奈良護国神社の宮司様は、おまえのところは犯罪人を祭っておるのかという嫌がらせの電話に悔し涙を流しておられました。そんなせつない思いをされている方々のために、きょうは侵略戦争について、いつもの答弁よりも具体的な御説明をお願いしたいと思います。(中略)
まず、総理は、七月、九月と二度の所信表明の中で、さきの大戦への反省、それから過去の侵略行為や植民地支配といったものに触れられまして、八月の全国戦没者追悼式におきましては、私たちの過ちによって惨たんたる犠牲を強いられたアジアの隣人たちという言葉をお使いでしたけれども、具体的にはどの行為を指して侵略行為と考えておられるのでしょうか。また、総理の言われる過ちというのは具体的に何を指すのか、法的な根拠のある過ちだったのかどうかもお答え願います。
村山内閣総理大臣:
私は、侵略的行為や植民地的支配という言葉を使わせていただいたわけですけれども、やはりあの戦争の中で日本の軍隊が中国本土をどんどんどんどん攻め込んでいった、それから東南アジアのいろいろな国に攻め込んでいった、そういう行為を指して侵略的な行為、こういうふうに申し上げておるわけです。
高市委員:
それでは、法的根拠のある過ちということではございませんか。
村山内閣総理大臣:
いや、その法的というのは何法に対してこう言っているのか、よくちょっと理解できないものですからね。
高市委員:
大戦当時は総理も一応若者だったと思うのですけれども、国民として侵略行為への参加の自覚がございましたでしょうか。
村山内閣総理大臣:
私は、一年間兵隊におりました。それで、幸か不幸か、外地に行かずに内地勤務でずっとおったわけです。しかし、あの当時のことを思い起こしますと、私もやはりそういう教育を受けたということもありまして、そして国のために一生懸命頑張ろうというような気持ちで参加をさせていただきました。
高市委員:
つまり、侵略行為への参加という自覚はその当時お持ちじゃなかったということなのですが、総理大臣という地位にある人は、五十年前の政権の決定を断罪し、その決定による戦争を支えた納税者やとうとい命をささげられた人々のしたことを過ちと決める権利があるとお考えでしょうか。
村山内閣総理大臣:
私は、兵役に服して、そして国のために一命をささげて働いてこられたすべての人方に対して誤りだったというようなことは申し上げておりませんよ。しかし、これはまあ歴史がそれぞれ評価する問題点もたくさんあるかと思いますけれども、しかし、当時の日本の軍閥なりそういう指導者のやってきたことについては、これは、今から考えてみますと、やはり大きな誤りを犯したのではないかということを言わざるを得ないと私は思います。
高市委員:
今のように、当時の軍閥ということで侵略行為そのものの責任の所在をある程度明らかにされたわけですけれども、それでしたら、アジアの人々に対してのみならず侵略行為に加担させられた英霊に対し、また軍恩や遺族会の皆様に対しても、この場で謝罪の意を表明していただけませんでしょうか。
村山内閣総理大臣:
ですから、私は慰霊祭にも集会にも参りまして、そして率直に今国の立場と、国の責任と考えていることを申し上げたわけでありまして、私自身がそういう方々にここで謝罪をしなきゃならぬという立場にあるかどうかというのは、もう少し慎重に考えさせてもらいたいと思います。
高市委員:
それにしてはアジアに行かれたとき随分謝罪的な言葉を発せられて、日本国を代表して謝っておられるのかと私は感じていたのですけれども、日本に過ちがあった、過去に過ちがあったと総理がおっしゃいます。その責任は、もちろん過ちがあったとすれば日本国全体が負うものですけれども、国内的にはそれではその責任の所在というのはだれにあるのか、個人名を挙げてお答えいただきたいと思います。
村山内閣総理大臣:
これはだれにあると個人名を一人一人挙げるわけにはまいりませんけれども、当時の、軍国主義と言われた日本の国家における当時の指導者はすべてやっぱりそういう責任があるのではないかというふうに言わなければならぬと思います。
高市委員:
その五十年前の当時の指導者がしたことを過ちと断定して謝られる権利が、現在、五十年後にこの国を預かっておられる村山総理におありだとお考えなのでしょうか。
村山内閣総理大臣:
私は、今日本の国の総理大臣として、総理として日本の国を代表してアジアの国々に行けば、そういうふうに被害を与えた方々に対しては、大変申しわけなかったと、やはりその反省の気持ちをあらわすのは当然ではないかと思うのですよね。それはやはり含めて日本国民全体が反省する問題として私は受けとめて、過ちは繰り返さないようにするというぐらいの決意はしっかり持って、平和を志向していく方向に努力していきたいというような意思もあわせて表明することは、当然ではないかというふうに思っています。
(中略)
高市委員:
とにかく来年終戦五十周年ということで何らかの国会決議がされる動きもあると聞いておりますけれども、これが一方的に謝罪決議、それも国民の合意なき謝罪決議ということでなく、私はむしろ不戦決議、これから戦争をしない、お互いに平和をつくっていこうという平和決議であるべきだと個人的には考えておりますけれども、とにかくあちらこちらに出向かれて謝罪をされる、過ちだと言われる。それでしたら、何が侵略行為であったのか、具体的にはだれに責任の所在があるのか、そして、国民的な議論を代表して、総理が日本国の代表として出ていかれる、そういった下地をぜひ整えていただきたいと思います。私たちの世代にとっても本当に大事な、これは歴史の見直し、大変な課題なんですね。特に戦争を知らない世代でございますから、その責任を非常に強く感じております。歴史的な検証も十分に行った上で決断を下していただきたく思います。
このように、高市氏は、村山首相(当時)対して、戦後50年にあたっての反省と謝罪に注文を付けているのである。「何が侵略行為であったのか、具体的にはだれに責任の所在があるのか」それを明確にしろというのである。それは戦争を知らない世代である自分にとっては「歴史の見直しという大変な課題」だという立場からの質問である。反省と謝罪を拒否する執念がひしひしと伝わってくる。他方、統治者たる天皇とその「赤子」たる人民の違いを完全に無視する幼稚な論理でもある。これが彼女の正体なのであろう。
1995年3月16日の衆議院外務委員会
高市氏の当時の所属会派は新進党である。彼女はこの場で栗山尚一駐米大使(当時)の発言が掲載された新聞記事を題材に質問している。答弁者は河野洋平外務大臣である。
高市委員:
三月七日にワシントンDCで栗山駐米大使が記者会見して、国会の謝罪決議に関連して話された記事を新聞で読んだのです。栗山大使は「日本がきちんと第二次世界大戦にいたった歴史を見据え、その反省のうえに立って戦後の日本があることを忘れてはならない。若い世代もこれを知っておかねばならない」と強調し、何らかの形で「反省」を明確に打ち出す必要があるとの考えを明らかにした。」と記事に書かれてあるのですけれども、日本国政府としての考え方は栗山大使のおっしゃった方向だと考えてよろしいでしょうか。
河野外務大臣:
大使の記者会見を私、詳細承知しておりませんので、今それについてコメントをするだけのものを持っておりません。しかし、大使が記者会見で述べる問題につきましても、すべて国を代表して述べているというふうには私ども思ってはおりません。
高市委員:
しかし、先ほど確認させていただきましたとおり、大使というのは国を代表する存在で、それも何かプライベートな会合でお友達に言ったというのじゃなくて、わざわざ記者会見を開いておっしゃったことなんですから、外務大臣として外務省職員の公的な場での発言には責任を持っていただきたいと私は思います。大使が外で記者会見を開いて何を言っても、それは別に国を代表することじゃない、関知しないというお考えになるのでしょうか。
河野外務大臣:
会見のすべてをそうだとは思っていないと申し上げております。
(中略)
高市委員:
栗山大使の発言、…手元にございますのでもう少し紹介させていただきます。
憲法と反省の関係について言っておられることなんですが、「日本国民全体の反省があるから戦後の平和憲法に対する国民の熱心な支持がある。また、新憲法の下で政治的自由、民主主義体制の支持があるのも反省があるからこそ。日本国民は反省をきちんと持ち続けなければならない」と、日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております(強調は大久保)。
新聞社の世論調査では、謝罪すべきではないと答えた人が四七%、謝罪すべきだと答えた人が四三%でございまして、まさしく現在国論が謝罪ということについて真っ二つに割れている状態なんですが、このような状態のまま、国会での多数決で、わずかに多い方の意見を日本国民の総意として国際社会に示すことこそが民主主義への冒涜であり、また国民の代弁者たる国会議員の越権行為だと私は考えますので、私自身は、このような歴史の問題というのは国民一人一人の思想や価値観にもかかわることですし、国会決議にはなじまないだろうなと思っているわけですが、民主主義という言葉を記者会見で持ち出した栗山大使自身が民主主義を軽んじているんじゃないか、私は彼の発言を新聞記事で読んでそう思ったのですけれども、大臣自身はこの問題についてどうお考えでしょうか、御見解をお聞かせください。
河野外務大臣:私は議員と全く見解を異にいたします。
高市委員:どのように違うんでしょうか。
河野外務大臣:
過去の戦争について全く反省もしない、謝罪をする意味がないという議員の御発言には私は見解を異にすると申し上げました(強調は大久保)。
当時、高市氏は新進党所属で野党である。政権与党は自民党、社会党、さきがけであった。彼女はここでもネチネチと質問をしている。日本国として反省や謝罪などはしてはならないという牢固としたと執念がそこにある。そして、それを頼もしく感ずる勢力が間違いなく存在するのである。
ちなみに、高市氏の初当選は1993年である。所属は新進党である。その後、新進党 → 保守党 → 保守クラブ → 新党改革と保守系の小政党を経て2002年に自民党に合流している。
まとめ
高市氏は栗山大使の発言は、「日本国民全体の反省がある」という決めつけであり「私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない。」と断言しているのである。ワイツゼッカーと対局の姿勢である。私はここに彼女の危険性を見ている。
そして、河野洋平外務大臣(自民党総裁)は高市氏の質問に対して「私は見解を異にする」と正面から反論していた。この河野氏の評価はどこに消えたのだろうか。雲散霧消してしまったのであろうか。高市氏がその歴史認識を変えたという話は聞かない。自民党は河野氏の見解を放棄し、高市色に染められたのであろう。私はここに自民党の堕落を見ている。
今、この国は「新憲法」の価値など眼中にない「戦争を知らない」ので戦争について「反省するいわれもない」と確信する政治家が首相になろうとしているのである。高市氏を恐れる必要はないけれど侮ってもならないであろう。私たちは心して対処しなければならない。(2025年10月5日記)
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