2024.4.16
「虎に翼」のことを書くと色々な反応が寄せられる。
寅子に影響を与えた一人として小林薫さん演ずる穂高重親先生のモデルは「家族法の父」といわれた穂積重遠だと書いたら、堀尾輝久先生からレスがあった。堀尾先生は核兵器廃絶日本NGO連絡会のメーリスに投稿した拙文を読んでくれたのだ。ちなみに、堀尾先生は「9条の精神で地球憲章を」と提唱している学者だ。堀尾先生のレスにはこんなことが書かれていた(一部省略)。
「虎に翼」私も興味深く見ています。
穂高先生モデルは「家族法の父」と言われる穂積重遠先生。
確かに戦後も民法学では評価が高いのですが、私は親権と子どもの権利の問題に関心を持ち、穂積説を調べたことがあります。
その大著『親族法』(岩波書店1933)で「-- 従来は親権を権利の方向から観察したが、今後はむしろ『親義務』として、義務の方向から観察した方がよいと思う。--そういうとすぐに、それでは養い育てて貰ふのが子の権利になって面白くないという批判があるかもしれないが、義務に対応する受益者が、必ず権利者であると考えるのがそもそも囚われた話で、親が子を育てるのは、子に対する義務といはんよりは、むしろ国家社会に対する義務と観念すべきである。」とあるのを引いてその家族国家観的枠組みと子どもの権利排除論を批判したことがあります(1966年のこと・大久保注)。
この問題は今日の「共同親権」問題を考える際にも重要な問題だとあらためて思ったところです。親権という表現は残り、子どもの権利が根付かない法学的背景の一つとして。
この堀尾先生のレスによれば、穂積重遠著『親族法』は1933年に出版されているので、嘉子さんたちは直接・間接にこの本に書かれている教育を受けていたことになる。ここでは、親権を「親義務」としてとらえようということと、その義務は子に対するものではなく、国家社会に対するものであるとされている。
たしかに、親権を親の子に対する権利ではないということでは新しい観点なのかもしれないけれど、それは、子どもの権利などは念頭にない「家族国家観的枠組み」という面も否定できないであろう。
今から、90年ほど前の時代背景を考えれば、穂積の親権についての考えは斬新であったであろう。そこに、堀尾先生が指摘するような問題点があったとしても、嘉子さんたちが大きな感動を受けたであろうとは容易に想像できる。
他方、当時の男子学生たちが穂積の斬新な考えをどの程度受け止めていたかどうかは極めて疑わしい。4月16日の放送で、明律大学の男子学生たちが、寅子たちの『法廷劇』を妨害しているシーンがあった。彼らの女子学生蔑視の不適切さは生々しかった。穂高先生も咳払い以外のことはしなかった。このシーンは1933年のことだから、当時学生だった諸君は、1973年には60歳前後ということになる。
何でそんなことを言うかというと、1973年に修習生になった著名な女性弁護士がこんな述懐をしているからだ(日民協のメーリス・私はこのメーリスにも投稿した)。
私が修習生になった1973年のことです。担任の検察教官から真っ先に言われたことは「あなたのご主人は立派ですね」。私がきょとんとしていると「妻に司法試験を受けさせるなんて普通の夫ではありえない」とのことでした。これではまるで夫の許可を要するというのと同じ思考でしょう。
最初の実務は東京地裁刑事部でした。ここで初日に裁判長から言われたことは忘れません。「あなたは明日から30分早く出勤してください」。私がまたきょとんとしていると「お茶は女性に入れてもらうのがおいしいので」。もちろん、裁判長のお茶くみは修習生の仕事ではありえません。
当時はセクハラという認識などなく、二人の子どもを保育園に送ってから出勤する私にとっては朝が30分早くなるのは大変でしたが、反論の言葉を持たなかった私は30分早い出勤を続けました。
1975年に弁護士になった私でさえ、山と降りかかる女性差別の言動にさらされてきました。寅子の時代のそれは想像を絶するのではと、ドラマを複雑な気持ちで見ています。
こういうエピソードを聞くと、ますます、「虎に翼」から目を離せなくなる。そして、寅子の「はて!?」というセリフに、もっと注目しておくことにする。
(2024年4月16日記)
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