2024.4.26
4月24日放映された「虎に翼」で、寅子の学友の大庭梅子が弁護士を志望する動機を語るシーンがあった。梅子には弁護士の夫と三人の男の子がいる。夫は、明律大学で穂高教授に代わって民事訴訟法の講義をするような弁護士だ。加えて、長男は帝大生だ。そのまま「良妻賢母」を続けていれば生活には困らない状況にある。けれども、彼女はその夫と離婚し、長男以外の子どもたちの親権を確保したいと考えて、弁護士になろうとしているのだ。
寅子と同級生だから、女性が弁護士になれない時代に、弁護士の夫との離婚で不利にならないように弁護士を志したというのだ。何ともすごい決断だ。
彼女は妻としても母としても何も誇れるものはないと自己評価していた。けれども、妾をつくるだけではなく、自分を一人の人間としてみていない夫や、その夫と同様に、母を蔑みの目で見る長男との決別を選択したのだ。
私はそんな決断を凄すぎると思う。逆に、その夫と帝大生の息子の「達成感」の程度の低さが哀れになる。梅子が弁護士になれることを応援したい。
それはそれとして、番組の中でも触れられていたけれど、離婚した梅子が子供たちの親権者になれるかどうかは難問であることはそのとおりだ。
当時の民法は「子はその家にある父の親権に服す」(旧877条)としていた。現在の民法は「成年に達しない子は、父母の親権に服する」(818条)とされているのとは大きく違うのだ。家という観念が介在するのだ。
「子は父の家に入る」(旧733条)とされていたので、梅子が離婚して家から出てしまえば、家に残る子どもは父の親権に服するのは当然とされる。
現在は、「父母が協議上の離婚をするときは、その協議で、その一方を親権者と定めなければならない」(819条)とされていることと比較して欲しい。母には協議の場所すら提供されていないのだ。当時の民法は、母の意思も子の意思もその視野に入れていないことを確認しておきたい。
万世一系の天皇が支配する大日本帝国時代の立法者たちは、それが「醇風美俗」あり、望ましい法秩序としていたのだ。言い換えれば、女や子供の意思などはどうでもよかったのである。梅子や寅子は、そういう時代に異議を唱えたのだ。
梅子が二人の子供の親権を確保できるかどうか、せめて「監護権」(旧821条)を確保できるかどうか、見守ることにしよう。
ところで、現在、離婚後の親権の在り方が議論されている。現行法は、婚姻中は父母の「共同親権」だけれど、離婚すれば父または母の「単独親権」ということになっている。夫婦関係を維持できなくなった夫婦が、共同で親権を行使することは無理だろうから、どちらかが単独でという判断である。
ところが、それを改めて、離婚後の「共同親権」制度を導入しようというのだ。子供の立場からすれば父と母が共同生活を営んで自分たちを養育してくれることが望ましいであろう。そんなことは誰でもわかることだけれど、それができなくなる場合があるのだ。
にもかかわらず、裁判所が、離婚した男女に「共同で親権を行使しろ」と命ずることができるようになる民法改正なのだ。国家が、離婚した夫婦に、法の名において「共同での子育て」を強要しようとしているのである。
私は、これはDVや虐待の問題だけではないと考えている。国家が家族観や親子観を個人に押し付けようとしているのだと受け止めている。
寅子たちが生きている時代は、女は下等なものとする価値観に基づく家族観や親子観が押し付けられ、今は、離婚しても子育ては共同でやれという価値観が押し付けられようとしているのだ。
私には、大日本帝国時代、女たちを下等とみてその価値観を法制度にまで持ち込んでいた諸君と、離婚後の「共同親権」にこだわる勢力とは、偏狭で陳腐な価値観の持ち主ということと、自らの価値観を他人に押し付けて恥じないということで通底しているように思えてならない。寅子や梅子たちの戦いは、女たちだけの戦いではないようである。国家と個人の在り方にかかわっているからである。(2024年4月24日記)
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