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2024.10.17
はじめに
日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。
「虎に翼」は面白かった
「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。
特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。
「原爆裁判」が提起したこと
「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。
核兵器使用禁止は「公理」なのに
核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。
核兵器の特質
核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。
核兵器の最も特異な効果
判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。
ダモクレスの剣
「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。
私たちの課題
石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)
2024.9.13
初回放送日:2024年9月9日
連続テレビ小説「虎に翼」でも描かれた「原爆裁判」。
戦後まもなく被爆者が原爆投下の責任を追及し、訴えを起こした裁判が、現代に何をもたらしたのかを考えます。
こちらからテキスト版をご覧いただけます
(NHKのサイトに移動します)
2024.8.8
「虎に翼」の寅子と星航一の再婚はまだ成立していないけれど、史実では、嘉子さんと三淵乾太郎さんとは結婚している。その乾太郎さんの父は三淵忠彦という初代最高裁長官だ。1880年(明治13年)に生まれ、1950(昭和25年)年に没している。最高裁長官就任は、1947年(昭和22年)8月だから67歳の時である。
私は、原爆裁判の判決を書いた裁判官たちは「時代に挑戦する勇気があった人たち」だと思っている。米国の原爆投下を国際法違反だとし、被爆者への支援に怠惰な「政治の貧困」を嘆くなどということは、なかなかできることではないからだ。
では、その判決を書いた三人の裁判官、裁判長 古関敏正、右陪席 三淵嘉子、左陪席 高桑昭さんたちは、なぜそのような判決を書いたのであろうか。
当時26歳で判決の草案を書いた高桑さんは、7月28日付「東京新聞」で、「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」としながら、「国際法違反かどうかにかかわらず、賠償請求を棄却する方法もあったが、逃げずに理屈を立てて国際法を点検した。やはり原爆投下を正当視することはできなかった」としている。
嘉子さんは、8月4日付「しんぶん赤旗日曜版」によれば、日本婦人法律家協会(現日本女性法律家協会)の会長だった1982年(昭和57年)3月8日、「第2回国連軍縮特別総会に向けて婦人の行動を広げる会」の呼びかけに応じ、池袋駅前で、反核署名活動をしている。「核兵器廃止は、反米とか思想、政策以前の人類を守るための要請です」と考えていたのである。嘉子さんは、裁判官として原爆投下を違法としただけではなく、「核兵器廃絶」のための行動をしていたことを記憶しておきたい。
1982年3月は、原爆裁判判決の1963年12月から19年後、嘉子さんが69歳で亡くなる1984年の2年前である。
このように、裁判官たちには原爆投下に対する怒りや核兵器廃絶への想いがあったことを確認できる。それは気高いことだし、私も学びたいと思う。けれども、裁判官として判決するには、それを可能とする司法の状況もなければならないであろう。それが、初代最高裁長官 三淵忠彦の存在ではないかと私は思っている。原爆裁判の提訴は1955年(昭和30年)だから、三淵さんは既に没している。しかも、その任期は短かったから、影響などないのではないかとも思う。けれども、彼は、最高裁長官として就任挨拶する機会や高裁長官たちに訓示する機会があったことも忘れてはならない。
彼の「司法像」を確認してみよう。
1947年8月4日の就任挨拶(「国民諸君への挨拶」)では次のように語られている。
「裁判所は、国民の権利を擁護し、防衛し、正義と衡平を実現するところであって、圧制政府の手先となって国民を弾圧し、迫害するところではない。裁判所は真実に国民の裁判所になりきらなければならぬ。」
同年10月15日には、高裁長官たちに次のように訓示している。
「今や、裁判官はその官僚制を払拭せられ、デモクラシー日本建設のパイオニアたるべき使命を負うている。」
私は、これらのことを、拙著「憲法ルネサンス」(1988年、イクオリティ)の第2章「司法のルネサンスのために」に収録されている「去るは天国残るは地獄」中で、次のように紹介している。
「『まことに気負いの感じられる内容』(野村二郎)かもしれない。けれども、今、この言葉に接するわれわれにどんなに新鮮な響きを与えてくれることか。われわれが、日本国憲法を手に入れた直後、司法部のキャプテンはわが基本法を、確かに、具現していたのである。彼のメッセージの中には、時の政府と一線を画しつつ、それとの緊張関係の中で、国民―即ち、自身の雇い主―に対する奉仕のありようを模索する姿勢がある。われわれ国民にとって、あるべき司法像の原点がそこにある。司法が時の行政権と一定の拮抗関係を保ちつつ、人民の基本的人権の擁護に資する機能を期待されたのは昨日や今日のことではない。かれこれ200年も前から、人々は司法に期待してきたのである。」
私はこのような三淵さんを「素晴らしい人」だと思っている。そして、裁判長の古関さんも含め、三人の裁判官は、この三淵さんの「就任挨拶」や「訓示」に目を通しているだろうと思っている(高桑さんは年代的には若いのでわからないけれど)。
三淵初代長官の後、田中耕太郎氏が第2代の長官に就任する。1950年から1960年の10年間、彼はその地位にあった。私は、彼は最高裁長官どころか裁判官として不適任だと思っている。その理由は、彼は「共産主義者のいうことを額面通りに受け取るのは危険である」という信念を持ちながら「松川事件」を担当し、被告人らを死刑にしようとしたからである。「松川事件」の被告人の中には共産党員も含まれていた。彼らの主張は信用できないと決めてかかれば、真実は見つからない。田中氏が個人としてどのような思想を持つかは彼が決めればいい。けれども、極端な反共主義に基づく偏見で当事者に接することは、裁判官として許されることではない(そのことも「憲法ルネサンス」で触れておいた)。この時、裁判官としての矜持は消え、司法の反動化が始まる。
原爆裁判の左陪席高桑さんは私より10歳ほど年上ではあるがご健在である。一度、今の司法の状況についてじっくりと話をしてみたいと思っている。(2024年8月4日記)
2024.7.11
今、「原爆裁判」が人々の関心を集めている。NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルの三淵嘉子さんが「原爆裁判」にかかわったことが知られつつあるからだ。以前から「原爆裁判」を多くの人に知って欲しいと考えていた私にとってはうれしいことである。朝ドラで「原爆裁判」がどのように描かれるかはともかくとして、ここでは「原爆裁判」の基礎知識と現代への影響について触れておく。「原爆裁判」が現代に生きていることを共有したい。
「原爆裁判」とは、1955年、被爆者5名が、米国の原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判である。1963年、東京地裁は請求を棄却したけれど、米国の原爆投下を違法とし、あわせて「政治の貧困」を指摘したことによって、国内外に影響を与えた。
原告は次の5人である。
下田隆一 47歳。
広島で被爆 長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害。就業不能。
多田マキ
広島で被爆 顔、肩、胸、足にむごたらしいケロイド。疼痛のため日雇労働も続かず。夫は容貌の醜さを厭って家出。
浜部寿次 54歳
東京に単身赴任。長崎で妻と四人の娘たち全員が爆死。
岩渕文治
広島での原爆投下により養女とその夫及び子どもをなくす。
川島登智子
広島で被爆 14歳 顔面、左腕などを負傷 両親も原爆でなくす。
原爆投下から10年を経ていたけれど、政府は被爆者に何の支援もしていなかった。被爆者は病や社会的差別の中で貧困にあえいでいた。
岡本尚一弁護士は、1892年に生まれ、提訴3年後の1958年に没している。岡本さんが、なぜ、この裁判を考えたのか。その理由を彼の短歌に探ってみたい。
・東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る
・夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり
・朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか
私には歌心はないけれど、岡本さんの東京裁判に対する怒りと被爆者への同情と人類社会の未来についての懸念が痛いほど伝わってくる。
岡本さんは「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるということだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう。」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼び掛けた。けれども、現実に応えたのは松井康浩弁護士だけであった。
この裁判の当初の目的は「賠償責任の追及」と「原爆使用の禁止」だったことを確認しておきたい。
請求の趣旨は、被告国は、原告下田に対して金三十万円。原告多田、浜部、岩渕、川島に対して各金二十万円を支払え、である。
請求の原因の骨子は次のとおり。
米国は広島と長崎に原爆を投下した。原爆は人類の想像を絶した加害影響力を発した。「人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した酸鼻なる様相を呈した」。
原爆投下は、戦闘員・非戦闘員たるを問わず無差別に殺傷するものであり、かつ広島・長崎は日本の戦力の核心地ではなかった(「防守都市」ではない)。
広域破壊力と特殊加害影響力は人類の滅亡をさえ予測せしめるものであるから国際法と相容れない。
国家免責規定を原爆投下に適用することは人類社会の安全と発達に有害であり、著しく信義公平に反する。米国は平和的人民の生命財産に対する加害について責任を負う。被害者個人に賠償請求権が発生する。
対日平和条約によって、国民個人の請求権が雲散霧消することはあり得ない。憲法29条3項により補償されなければならない。補償されないということであれば、日本国民の請求権を故意に侵害したことになるので、国家賠償法による賠償義務が生ずる。
原子爆弾の投下と炸裂により多数人が殺傷されたことは認めるが、被害の結果が原告主張のとおりであるかどうか、及び原爆の性能などは知らない。
原爆の使用は、日本の降伏を早め、交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。
原爆使用が、国際法に違反するとは直ちには断定できない。
したがって、原告らに損害賠償請求権はない。
敗戦国の国民の請求が認められることなど歴史的になかった。
原告らの請求は、法律以前の抽象的観念であって、講和に際して、当然放棄されるべき宿命のもの。それは権利たるに値しない。
憲法29条によって直ちに具体的補償請求権が発生するわけではない。
国は、原告らの権利を侵害していない。平和条約は適法に成立しているので、締結行為を違法視することはできない。
慰藉の道は、他の一般戦争被害者との均衡や財政状況等を勘案して決定されるべき政治問題。
1963年12月7日、裁判長古関敏正、裁判官三淵嘉子、同高桑昭による判決が出される。判決は、高野雄一、田畑茂二郎、安井郁の三人の国際法学者の鑑定を踏まえていた。なお、口頭弁論の全期日に関与したのは三淵嘉子さんだけであった。その要旨は次のとおり。
米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反する。かつ原爆は非人道的兵器であるから、戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならないとの国際法に違反する。
しかし、国際法上の権利をもつのは、国家だけである。被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかない。
日本の裁判所は米国を裁けない。
米国法では、公務員が職を遂行するにあたって犯した不法行為については賠償責任を負わないのが原則。
結局、原告は国際法上も国内法上も権利をもっていない。
人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ、原爆の投下によって損害を被った国民に対して、心からの同情の念を抱かないものはいないであろう。
戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずる。
「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは到底救済にならない。
国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのだから、十分な救済策を執るべきである。
しかしながら、それは裁判所の職責ではなく国会及び内閣の職責。そこに立法及び行政の存在理由がある。本件訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かざるを得ない。
松井康浩弁護士(1922年~2008年)は次のように総括している。
戦勝国アメリカの戦闘行為を国際法に照らして日本の裁判所で裁くこの訴訟は、日米の友好を損なう、途方もないこと、そのような訴訟が成立するわけがないなどさまざまな理由で弁護士の協力者も少なく、被爆者その他国民の支援もなかったことが示すように、困難な訴訟であった。
この訴訟の特徴は、原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する点にあった。判決は広島・長崎への原爆投下という限定の下に国際法違反と断定した。しかし、その無差別爆撃性と非人道性は、いつ、いかなる原爆投下にも適用されるであろう。
裁判所は、「政治の貧困さを嘆かずにはおられない」として、最大限の言葉を用いて、被爆者援護法を未だに制定しない立法府と行政府を批判している。この批判の意義はきわめて高く、原爆投下の国際法違反とともに、この判決の価値を大ならしめている。
松井さんは、困難な訴訟ではあったけれど、原爆投下の違法性を認めたことと政治の貧困を嘆いたことの二点でこの判決の「大きな価値」を認めているのである。
日本の政治は被爆者援護のために次のように法制度を整備してきた。
裁判継続中の1957年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。判決後の1968年9月、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」施行。1995年7月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)施行などである。
「原爆症認定訴訟」は、被爆者援護法を活用して厚労大臣の原爆症不認定を争い、大きな成果を上げた。
「黒い雨訴訟」は、被爆者援護法の「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当するかどうかが争われている。
被爆者援護が十分ということではないけれど、「原爆裁判」判決が指摘した「政治の貧困」がこのような形で「改善」されていることは確認できるであろう。
1996年、国際司法裁判所は国連総会の「核兵器の威嚇または使用は、いかなる状況においても国際法に違反するか」という諮問に対して「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機の場合には、合法とも違法とも判断できない」との勧告的意見を発出している。この結論に「いかなる場合にも違反する」として反対したウィラマントリー判事は次のように言っている。
この事件はそもそもの初めより裁判所の歴史にも例を見ない世界的な関心の的になる問題であった。下田事件で日本の裁判所に考察されたことはあるが、この問題に関する国際的な司法による考察はなされていない。
「原爆裁判」(下田事件)は国際司法裁判所で参照されているのである。
その国際司法裁判所は次のように判断していた。
戦争の手段や方法は無制限ではないとの人道法は核兵器に適用される。武力紛争に適用される法は、文民の目標と軍事目標の区別を一切排除する、または不必要な苦痛を戦闘員に与える戦争の方法と手段を禁止する。核兵器の特性を考えれば、核兵器の使用はほとんどこの法と両立できない。ではあるが、裁判所は必ずいかなる状況下においても矛盾するという結論には至らなかった。
この判断枠組みは「原爆裁判」と同様である。ただし、国際司法裁判所は「核抑止論」の呪縛から免れていなかったことに留意しておきたい。
その限界を克服したのは2021年発効の核兵器禁止条約である。核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」として例外を認めていない。そして、その締約国会議は、⼈類は「世界的な核の破局」に近づいている。「安全保障上の政策として、核抑⽌が永続し実施されることは、不拡散を損ない、核軍縮に向けた前進も妨害している」として「核抑止論」を批判している。
日本政府は、核兵器禁止条約が「核抑止論」を否定するがゆえに、これを敵視しているけれど、国際法は核兵器廃絶に向けて着実に発展しているのである。日本政府はこの潮流に逆らっているのである。
このように見てくると、「原爆裁判」は核兵器廃絶についても被爆者援護についても「事始め」になっていることが確認できるであろう。「原爆裁判」は現代に生きているのだ。
今、世界は「核兵器による安全保障」をいう勢力が力を持っている。日本国憲法の「諸国民の公正と信義を信頼しての安全の保持」は現実的日程に上っていない。
憲法9条の背景には、今度世界戦争になれば核兵器が使用され、人類が滅んでしまう。戦争をしないのであれば、戦力はいらないという価値と論理があった。
また、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていた。
私たちは、日本国憲法の徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、「原爆裁判」の歴史的意義を更に発展させ、核兵器の廃絶と世界のヒバクシャの救済を実現しなければならない。(2024年7月1日記)
-->2024.5.31
私は、寅子は幸せだと思う。父の直言は寅子を宝物だとしていたし、夫の優三は、寅子が自分らしい人生を送ることが望みだとしていたからだ。父や夫からそんな風に思われている女性は多くはないだろう。私はそう思われている人は幸せだろうし、また、そう思う対象がいる人も幸せだろうと思う。
では、寅子はどうして父や夫からそう思われたのだろか。直言や優三のキャラもあるだろうけれど、二人とも寅子の飽くなき挑戦心に魅力を覚えていたのではないだろうか。高い目標を持ち人並外れた努力をする人に喝采を贈りたいことは理解しやすい心情である。けれども、自分の身内が、世間の常識とは外れた行動をとろうとすると、それに水をかけようとする現象もありふれている。自分の子どもが困難な道を進もうとすることに不安を覚えたり、パートナーの幸せよりも自分の幸せを優先することなど決して不思議ではない。けれども、寅子はそうではなかった。父と夫がよき理解者だったのだ。だから、寅子は幸せだと思う。もちろん、そんな期待をされれば責任を伴う。
寅子が素晴らしいのは、そんな父や夫の期待に応えて、「男女平等」に挑戦し続けたことだ。
日本国憲法14条と13条がドラマの中で紹介されていた。
14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において差別されない。」、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と読まれていた、ドラマでは割愛されていたけれど、14条には、栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない…、などという条項もある。
13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と全文読まれていた。
女性差別を身をもって味わい、それに抗ってきた寅子からすれば、「性別により、社会的関係において差別されない」などというフレーズは「天からの贈り物」のように思われたであろう。
自分が個人として尊重され、その生命や自由や幸福になりたいという欲求が国政の最優先事項になることなど、誰もが想像できなかったことであろう。戦争や戦力の放棄と合わせて、「新しい時代が始まる」という解放感を多くの人が覚えたであろう。
ところで、性別による差別を考えるうえで忘れてはならない条文がある。憲法24条だ。
その1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」その2項は、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」とされている。長い条文なので朝ドラで紹介するのは難しいかもしれないけれど、寅子の今後の仕事にもかかわるので、引用される機会があるかもしれない。
ご承知の方も多いと思うけれど、この条文が憲法に書き込まれるうえで大きな役割を果たしたのが、ベアテ・シロタ・ゴードンである。彼女は、1923年(大正12年)、父レオ・シロタと母オーギュスティーヌの間にウィーンで生まれ、1929年(昭和6年)5歳で来日する。15歳で、サンフランシスコのカレッジに留学し、米国で生活する(両親は日本在住なので、往来はあった)。1945年(昭和20年)12月24日、GHQの民間人要員として日本に赴任。当時、22歳の彼女は、GHQ民生局の一員として、日本国憲法の男女平等の条項を起案する。日本の実情を知っている彼女は、「私は日本の国がよくなることは、女性と子供が幸せになることだと考えていた。だから、色々な国の憲法を読んでも、その部分だけが目に入ってきた。」と回想している(『1945年のクリスマス』・朝日文庫・2016年)。
三淵嘉子さんは1914年(大正3年)生まれだから、憲法が公布された1946年(昭和21年)は32歳である。司法省に裁判官としての採用を申し出るのは1947年3月である。その時の人事課長は石田和外氏(ドラマでは桂場等一郎)。その後、嘉子さんは裁判官になる。
嘉子さんがベアテさんのことをどの程度知っていたかどうかは知らない。けれども、寅子がひたすら求めた男女の平等が、嘉子さんよりも10歳ほど若いベアテさんの尽力があって、日本国憲法24条として結実したことは史実である。
ベアテさんは私の母と同じ年に生まれている。私の母は101歳を迎えた。ベアテさんは2012年89歳で永眠している。私は日本国憲法が施行された1947年に生まれている。私はベアテさんの想いを継承したいと思う。母は私を宝物だという。私は、嘉子さんやベアテさんや母たちがこの100年をどんな想いで生きてきたのか、その想いにどう応えればいいのか、朝ドラの超速い展開の中で考えている。(2024年5月31日記)
2024.5.21
「虎に翼」の寅子が高等文官試験司法科(司法試験)に合格するのは1938年(昭和13年)のことだ。その時の憲法の試験問題は「天皇ノ国法上ノ地位ヲ明ラカニス」と「立法権ノ意義及範囲ヲ論ス」だったそうだ。埼玉弁護士会憲法委員会のメーリスで教えてくれた人がいたのだ。このメーリスでは「虎に翼」をめぐって面白いやり取りが行われていて楽しい。「虎に翼」は憲法問題の宝庫なのだ。
教えてくれた長沼正敏弁護士は、「第1問は天皇機関説を書きますかね」と問題提起していた。私は「凄い問題だね。忠誠心を確認しようというのだろうか。天皇機関説攻撃は1935年だからね」とレスしておいた。
もちろん、寅子がどんな答えを書いたのかは知らない。もし、自分がその時の試験を受けていたらどんな答えを書いただろうかと想像してみても何も浮かんでこない。現在の司法試験では自衛隊の合・違憲性を問う問題は出ないという「都市伝説」があるようだけれど、当時は、ストレートに天皇政府への忠誠心を問いかけたのかもしれない。
ところで、『新版体系憲法事典』(杉原泰雄執筆)によれば、「天皇機関説」というのは、美濃部達吉の「国家は地域を基礎とする団体的人格者(法人)であって、統治権を固有する。天皇は統治権の所有者(権利主体)ではなく法人たる国家の機関だ」という考え方である。他方、上杉愼吉は「天皇をもって統治権の主体なりとなすのみ、共同体をもって、統治権の主体となさざるのみ」として天皇即国家という立場をとっていた、とされている。
この「天皇機関説」については、「美濃部は、天皇を国家の機関とすることによって、絶対君主制を否定しようとした」と評価されているので(杉原泰雄)、当時の支配層がこの学説を「危険思想」とみなし、美濃部を「異端者」として追放しようとしたことは、容易に想像できる。古今東西を問わず、異端を許さないことは権力の属性だからだ。「焚書坑儒」や「マッカーシー旋風」(赤狩り)がその例だ。
それはそれとして、寅子は憲法を誰の教科書で勉強したかである。前川喜平氏は、東京新聞5月12日の「本音のコラム」で、5月7日の放送で寅子の机の上に置いてあったのは上杉愼吉の『新稿憲法述義』だったとしている。私はそのことに気が付かなかったので、前川氏の観察眼は凄いと思うし、前川氏も言うように製作者の「念入りな考証」はさすがだとも思う。だとすれば、寅子は「天皇即国家」という「正統学派」の教科書で勉強し、答案を書いたことになる。
「天皇機関説」は学会では多数説だったようであるが、政治の世界では「国体の本義に悖る」として貴族院・衆議院で糾弾され、内務省は美濃部の主要著書を発禁処分とし、全ての大学で国家法人説の講義は排除された。1935年のことである。
何やら、最近の学術会議に対する政府や与党の対応と通底している。権力者が学問の世界に口を出すとき、その国は破綻に近づくことになる。「真理」よりも「ご都合主義」が蔓延るからだ。だから、この国も危ない。
前川氏は「自主憲法制定運動を率いた岸信介は上杉の愛弟子だった。戦後の歴代首相の指南役といわれた安岡正篤や四元義隆も上杉の門下生だった」と書いている。上杉愼吉は、政治の世界で日本をおかしくした人たちに影響を与え続けたようである。
寅子は上杉本で勉強したようではあるけれど、「ハテ?」という精神を持ち続けたので、私たちをひきつけているのであろう。
自民党「改憲草案」第1条は「天皇は日本国の元首である」としている。自民党の諸君は、いまだ大日本帝国憲法当時の「天皇観」、「国家観」に囚われているようである。
寅子たちの受験時代は「こんな人たち」がもっともっと幅を利かしていたのであろう。
寅子はその後「新憲法」に勇気づけられることになる。
私も、再度、「新憲法」を反芻してみようと思う。(2024年5月13日記)
2024.5.7
寅子の父の直言(なおこと)が、汚職事件にかかわったとして、逮捕、勾留、予審、公判を体験している。ドラマでは「共亜事件」とされているけれど、「帝人事件」がモデルだといわれている。「帝人事件」というのは、帝国人造絹糸(株)(現、帝人)の株式売買が汚職として追及され,斎藤実内閣の倒壊を招いた事件。被疑者には200日以上の長期拘留、革手錠などの過酷な扱いがなされ、〈司法ファッショ〉の非難を呼んだ。16名が背任罪・贈賄罪などで起訴されたが,1937年12月虚構による起訴として全員無罪の判決が下った。平沼騏一郎を中心とする右翼勢力の倒閣策動に連なって仕組まれた事件(改訂新版「世界大百科事典 」)とされている。
三淵嘉子さんの父は台湾銀行に勤めていたけれど、「帝人事件」にはかかわっていないので、直言の受難はフィクションである。ドラマでは、寅子やその友だちが取調調書と母の日記の矛盾に気がついて、検察のでっち上げが暴かれるというストーリーになっていて、なかなか面白かった。
けれども、面白かっただけではすまないことがある。検事が無実の直言を逮捕し、4か月にわたって身柄を拘束し、トラウマになるくらい脅し、関係者のためだなどと噓をついて、直言に自白を強要していたことだ。
直言は事件に関与していないし、そもそも、その事件は「池の水に映った月」だったのだから、自白しようにも自白の材料などないのだ。にもかかわらず、直言は自白しているのだ。なぜ、やってもいないことを自白するのだろうか。
18世紀のイタリア人啓蒙思想家ベッカリーアは『犯罪と刑罰』の中で書いている。
「われわれの意思行為は、その行為の原因となっている感覚に及ぼす影響に比例する。しかも人間の感受性には限界がある。だから苦痛の圧力が、被告の魂の根かぎりの力を食いつくしてしまうまで強まったとき、彼はその瞬間もう目の前の苦痛から逃れる最も手っ取り早い方法をとることしか考えなくなる。こうして、責め苦に対する抵抗力の弱い無実の者は、自分は有罪だと自分で叫ぶのだ。」
直言の行動を観ていると、このベッカリーアの指摘がいかに正しいかが理解できる。直言は、検事の責め苦に負けて、「自分はやっている」と叫んだのである。これは、直言が弱いからではない。普通の人はそういう反応を示すのだ。ベッカリーアのこの文章は「拷問」にかかわることではあるけれど、検事の取調べは「拷問」と同じ効果を直言に与えていたのである。これが、大日本帝国時代の刑事司法の実情である。
だから、日本国憲法は、拷問を絶対的に禁止しているし(36条)、不利益供述の強制もされないとしている(38条1項)。そして、自白だけで有罪とはされないとことにもなっている(38条3項)。
けれども、現在の日本においても、長期間の勾留や捜査官による事件の捏造は後を絶っていない。その端的な例が、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、2020年3月11日に警視庁公安部が横浜市の大川原化工機株式会社の代表取締役らを逮捕したけれど、杜撰な捜査と証拠により冤罪が明るみになった「大河原化工機事件」である。現在も、犯罪の捏造が行われているのだ。
捜査官憲による長期の身柄拘束は「冤罪」の温床である。ちなみに、「冤」という字は、兔が網にかかっている状態を意味しているそうだ。
その身柄の拘束権限は裁判官にある。大日本帝国憲法時代、「司法権は天皇の名において裁判所が行う」とされていた(57条)。日本国憲法の下では、「司法権は裁判所に属する」とされている(76条1項)。法廷に菊の御紋章はない。
裁判官は天皇の官吏ではないし「独立してその職権」を行使するとされている(76条3項)。けれども、この国の刑事司法は未だ冤罪を生み出しているし、「人質司法」から解放されていないのである。
私は、この間の「虎に翼」には、直言の受難を組み込み、無罪判決を5月3日に放映したことからして、日本国憲法や現在の司法の実情にも目を向けて欲しいとのメッセージが込められていたのではないかと受け止めている。
寅子たちの活躍も楽しいけれど、制作にかかわる人たちも、それぞれの立場で、視聴者に訴えたいテーマを持っているのかもしれない。今後も楽しみにしよう。
(2024年5月6日記)
2024.4.26
4月24日放映された「虎に翼」で、寅子の学友の大庭梅子が弁護士を志望する動機を語るシーンがあった。梅子には弁護士の夫と三人の男の子がいる。夫は、明律大学で穂高教授に代わって民事訴訟法の講義をするような弁護士だ。加えて、長男は帝大生だ。そのまま「良妻賢母」を続けていれば生活には困らない状況にある。けれども、彼女はその夫と離婚し、長男以外の子どもたちの親権を確保したいと考えて、弁護士になろうとしているのだ。
寅子と同級生だから、女性が弁護士になれない時代に、弁護士の夫との離婚で不利にならないように弁護士を志したというのだ。何ともすごい決断だ。
彼女は妻としても母としても何も誇れるものはないと自己評価していた。けれども、妾をつくるだけではなく、自分を一人の人間としてみていない夫や、その夫と同様に、母を蔑みの目で見る長男との決別を選択したのだ。
私はそんな決断を凄すぎると思う。逆に、その夫と帝大生の息子の「達成感」の程度の低さが哀れになる。梅子が弁護士になれることを応援したい。
それはそれとして、番組の中でも触れられていたけれど、離婚した梅子が子供たちの親権者になれるかどうかは難問であることはそのとおりだ。
当時の民法は「子はその家にある父の親権に服す」(旧877条)としていた。現在の民法は「成年に達しない子は、父母の親権に服する」(818条)とされているのとは大きく違うのだ。家という観念が介在するのだ。
「子は父の家に入る」(旧733条)とされていたので、梅子が離婚して家から出てしまえば、家に残る子どもは父の親権に服するのは当然とされる。
現在は、「父母が協議上の離婚をするときは、その協議で、その一方を親権者と定めなければならない」(819条)とされていることと比較して欲しい。母には協議の場所すら提供されていないのだ。当時の民法は、母の意思も子の意思もその視野に入れていないことを確認しておきたい。
万世一系の天皇が支配する大日本帝国時代の立法者たちは、それが「醇風美俗」あり、望ましい法秩序としていたのだ。言い換えれば、女や子供の意思などはどうでもよかったのである。梅子や寅子は、そういう時代に異議を唱えたのだ。
梅子が二人の子供の親権を確保できるかどうか、せめて「監護権」(旧821条)を確保できるかどうか、見守ることにしよう。
ところで、現在、離婚後の親権の在り方が議論されている。現行法は、婚姻中は父母の「共同親権」だけれど、離婚すれば父または母の「単独親権」ということになっている。夫婦関係を維持できなくなった夫婦が、共同で親権を行使することは無理だろうから、どちらかが単独でという判断である。
ところが、それを改めて、離婚後の「共同親権」制度を導入しようというのだ。子供の立場からすれば父と母が共同生活を営んで自分たちを養育してくれることが望ましいであろう。そんなことは誰でもわかることだけれど、それができなくなる場合があるのだ。
にもかかわらず、裁判所が、離婚した男女に「共同で親権を行使しろ」と命ずることができるようになる民法改正なのだ。国家が、離婚した夫婦に、法の名において「共同での子育て」を強要しようとしているのである。
私は、これはDVや虐待の問題だけではないと考えている。国家が家族観や親子観を個人に押し付けようとしているのだと受け止めている。
寅子たちが生きている時代は、女は下等なものとする価値観に基づく家族観や親子観が押し付けられ、今は、離婚しても子育ては共同でやれという価値観が押し付けられようとしているのだ。
私には、大日本帝国時代、女たちを下等とみてその価値観を法制度にまで持ち込んでいた諸君と、離婚後の「共同親権」にこだわる勢力とは、偏狭で陳腐な価値観の持ち主ということと、自らの価値観を他人に押し付けて恥じないということで通底しているように思えてならない。寅子や梅子たちの戦いは、女たちだけの戦いではないようである。国家と個人の在り方にかかわっているからである。(2024年4月24日記)
2024.4.23
「虎に翼」の寅子が法学部生になるのは1935年(昭和10年)、寅子21歳の時だ。当時の日本は、大日本帝国憲法(明治憲法)第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるとおり、神聖にして侵すべからざる天皇(現人神・あらひとがみ)が赤子(せきし・赤ん坊)である臣民(国民)を支配する時代だった。臣民に基本的人権などは保障されていなかったし、むしろ「兵役の義務」はあった。貧乏人や女性に選挙権はなかった。その天皇絶対の体制は「国体」とされ、その転覆をはかろうとするものは、治安維持法によって、死刑または無期懲役もしくは5年以上の有期懲役・禁固(最終的には7年以上の懲役)という刑罰が待っていた。
参考のために例示しておくと、殺人罪の法定刑は、死刑、無期懲役、3年以上の有期懲役(今は5年)。人の居住する家屋への放火(現住建造物放火)は、死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役だから、治安維持法の刑罰がいかに重いかがわかるだろう。
「アカ」(共産主義者・当時は天皇制を否定し、侵略戦争や植民地支配に反対)は放火犯や殺人犯よりも重罪人だったのだ。その理由は、放火犯や殺人犯は政府転覆など計らないけれど、「アカ」は支配者に抗うからだ。「反逆者」に厳しい態度で臨むのは、古今東西を問わず権力者の普通の姿だ。お上に楯突く者は「非国民」とされるのだ。オッペンハイマーも共産主義者との関わりでその地位を追われている。
更に、記憶しておかなければならないことは、治安維持法違反の被疑者たちの中には、裁判にかけられる前に、特別高等警察(特高)という公安警察による拷問によって命を落とす者たちもいたことだ。例えば、「蟹工船」などの作家小林多喜二が命を奪われるのは1933年(昭和8年)2月20日だ。
寅子は、妻が「無能力者」とされていることに驚き、疑問を持ち、怒りを覚えるけれど、天皇制政府に抵抗する者は裁判にかけられることもなく殺されてしまう時代であったことを忘れてはならない。無権利状態は女性だけではなかったのだ。
1931年(昭和6年)に満州事変が起きている。1933年に日本は国際連盟を脱退している。京大教授の滝川幸辰の著書「刑法読本」が共産主義的とされたのもその年だ。東大教授の美濃部達吉の「天皇機関説」が攻撃されたのは1935年だ。当時のこの国には「学問の自由」や「表現の自由」、「思想・良心の自由」などはなかったのだ。国民の批判や抵抗を抑圧しながら、戦争の準備が着々と進められていたことを、現代と重ね合わせて確認しておきたい。
これらの出来事を「虎に翼」が描くことはないだろうけれど、寅子が生きていた時代背景は知っておいていいだろう。
三淵嘉子さんが治安維持法の嫌疑をかけられたことはない。だからといって、彼女が時代に挑戦しようとした姿勢が色褪せるわけではない。けれども、大日本帝国を自称したこの国には、彼女よりも徹底した形で時代に挑戦した女性が生きていたことも確認しておく必要があるだろう。
伊藤千代子という寅子よりも9歳年上の1905年(明治39年)生まれで、1929年(昭和4年)に24歳で死亡している女性がいる。
2歳で母と死別、亡母の実家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明の授業を受けた。千代子は彼に大きな影響を受けたとされている。1924年(大正13年)、尚絅女学校(仙台市)を経て、翌年、東京女子大学に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
1927年(昭和2年)、長野県岡谷で起こった製糸業最大の争議を支援。1928年、初の普通選挙をたたかう労働農民党の支援。同年2月、日本共産党に入党。党中央事務局での活動を始めて半月後、3・15事件の弾圧により検挙される(治安維持法違反)。拷問などで転向を強要されるが拒否。翌1929年、拘禁精神病を発症し、急性肺炎により病死。享年24歳。
2022年、井上百合子主演、桂壮三郎監督(所沢市在住)の映画「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」が公開されている。私は所沢で「自分には彼女のような生き方は無理だったな」と思いながら鑑賞した。
伊藤千代子没後6年を経過した1935年、千代子の恩師であった土屋文明は「こころざしつつたふれし少女よ 新しき光の中に置きて思はむ」と詠んでいる。この歌には、土屋文明の千代子に対する愛惜の念が感じられる。
三淵嘉子さんが伊藤千代子のことや土屋文明の短歌を知っていたかどうかは知らない。けれども、多感な女性であった嘉子さんはそのことを知っていて(3・15事件は報道されている)、その生き方に影響を受けたかもしれない、などと勝手に想像している。
それから90年近くが経過している。千代子が命をかけた「こころざし」は、日本共産党が継承しているようである。「虎に翼」の中で、寅子の志はどのような展開されるのだろうか。楽しみにしている。(2024年4月21日記)
2024.4.16
「虎に翼」のことを書くと色々な反応が寄せられる。
寅子に影響を与えた一人として小林薫さん演ずる穂高重親先生のモデルは「家族法の父」といわれた穂積重遠だと書いたら、堀尾輝久先生からレスがあった。堀尾先生は核兵器廃絶日本NGO連絡会のメーリスに投稿した拙文を読んでくれたのだ。ちなみに、堀尾先生は「9条の精神で地球憲章を」と提唱している学者だ。堀尾先生のレスにはこんなことが書かれていた(一部省略)。
「虎に翼」私も興味深く見ています。
穂高先生モデルは「家族法の父」と言われる穂積重遠先生。
確かに戦後も民法学では評価が高いのですが、私は親権と子どもの権利の問題に関心を持ち、穂積説を調べたことがあります。
その大著『親族法』(岩波書店1933)で「-- 従来は親権を権利の方向から観察したが、今後はむしろ『親義務』として、義務の方向から観察した方がよいと思う。--そういうとすぐに、それでは養い育てて貰ふのが子の権利になって面白くないという批判があるかもしれないが、義務に対応する受益者が、必ず権利者であると考えるのがそもそも囚われた話で、親が子を育てるのは、子に対する義務といはんよりは、むしろ国家社会に対する義務と観念すべきである。」とあるのを引いてその家族国家観的枠組みと子どもの権利排除論を批判したことがあります(1966年のこと・大久保注)。
この問題は今日の「共同親権」問題を考える際にも重要な問題だとあらためて思ったところです。親権という表現は残り、子どもの権利が根付かない法学的背景の一つとして。
この堀尾先生のレスによれば、穂積重遠著『親族法』は1933年に出版されているので、嘉子さんたちは直接・間接にこの本に書かれている教育を受けていたことになる。ここでは、親権を「親義務」としてとらえようということと、その義務は子に対するものではなく、国家社会に対するものであるとされている。
たしかに、親権を親の子に対する権利ではないということでは新しい観点なのかもしれないけれど、それは、子どもの権利などは念頭にない「家族国家観的枠組み」という面も否定できないであろう。
今から、90年ほど前の時代背景を考えれば、穂積の親権についての考えは斬新であったであろう。そこに、堀尾先生が指摘するような問題点があったとしても、嘉子さんたちが大きな感動を受けたであろうとは容易に想像できる。
他方、当時の男子学生たちが穂積の斬新な考えをどの程度受け止めていたかどうかは極めて疑わしい。4月16日の放送で、明律大学の男子学生たちが、寅子たちの『法廷劇』を妨害しているシーンがあった。彼らの女子学生蔑視の不適切さは生々しかった。穂高先生も咳払い以外のことはしなかった。このシーンは1933年のことだから、当時学生だった諸君は、1973年には60歳前後ということになる。
何でそんなことを言うかというと、1973年に修習生になった著名な女性弁護士がこんな述懐をしているからだ(日民協のメーリス・私はこのメーリスにも投稿した)。
私が修習生になった1973年のことです。担任の検察教官から真っ先に言われたことは「あなたのご主人は立派ですね」。私がきょとんとしていると「妻に司法試験を受けさせるなんて普通の夫ではありえない」とのことでした。これではまるで夫の許可を要するというのと同じ思考でしょう。
最初の実務は東京地裁刑事部でした。ここで初日に裁判長から言われたことは忘れません。「あなたは明日から30分早く出勤してください」。私がまたきょとんとしていると「お茶は女性に入れてもらうのがおいしいので」。もちろん、裁判長のお茶くみは修習生の仕事ではありえません。
当時はセクハラという認識などなく、二人の子どもを保育園に送ってから出勤する私にとっては朝が30分早くなるのは大変でしたが、反論の言葉を持たなかった私は30分早い出勤を続けました。
1975年に弁護士になった私でさえ、山と降りかかる女性差別の言動にさらされてきました。寅子の時代のそれは想像を絶するのではと、ドラマを複雑な気持ちで見ています。
こういうエピソードを聞くと、ますます、「虎に翼」から目を離せなくなる。そして、寅子の「はて!?」というセリフに、もっと注目しておくことにする。
(2024年4月16日記)
2024.4.12
寅子が入学した明律大学に小林薫さんが演じる穂高重親先生がいる。穂高先生は寅子の運命を変える人の一人とされている。たしかに、これまでの進行を見ているとその役回りの様だ。
穂高先生のモデルは穂積重遠だと言われている。清永聡著『三淵嘉子と家庭裁判所』によれば、明律大学のモデルである明治大学が女子に門戸を開く決断した背景には、穂積重遠と明治大学出身の松本重敏弁護士の存在が大きいとされている。そして、この二人は弁護士法改正委員会の委員も務めていたという。
その穂高先生が、弁護士法が改正されなかったと言って嘆いていた女子学生たちに「必ず女子も弁護士になれるようになる道は開かれる」と励ましていたシーンがあったのは、そういう背景があるのだろう。
弁護士法が改正され、女子に弁護士への門戸が開放されるのは1933年(昭和8年)であり、嘉子が女子部に入学するのは1932年なので、1年生の時には、弁護士への道は開かれていなかったことになる。それでも、寅子はその道を選択していたのである。
ところで、寅子が穂高先生を尊敬する理由は、穂高先生が寅子の話を遮らないで「言いたいことを最後まで言わせてくれる」ことにある。人の話を遮ってお説教したり、蘊蓄を垂れたりする人は結構いるので、寅子のこの発想とセリフは秀逸といえよう。
穂積重遠は、清永本によれば、「家族法の父」と呼ばれ、女性の権利擁護に理解があったという。法制史学者福島正夫は「彼の一貫した立場は、法の社会的作用と身分法の近代化であって、これをもって時流に乗ずる醇風美俗派と対抗した」としている(『法窓夜話』解説)。ウィキペディアには、賀川豊彦らが作ったセツルメント活動にも協力したと記載されている。穂高先生もそういうキャラクターとして描かれているのであろう。
その重遠の父は穂積陳重であり、母歌子の父は渋沢栄一である。渋沢にとっては最初の孫だったという。それはそれとして、私は穂積陳重著『法窓夜話』に接したことがある。手元にあるのは岩波文庫の1985年4月の第7刷だ(元々の発刊は1916年)。
何でその話をするかというと、大正4年(1915年)7月、英国ロンドンにて、という重遠の序がそこにあるからだ。重遠はこんな風に書いている。
父は話し好きだった。しかし、むつかしい法律論や、込み入った権利義務の話はあまりしませんでした。好んで話したのは、法律史上の逸話、珍談、古代法の奇妙な規則、慣習、法律家の逸事、さては大岡裁きといったようなアネクドートでありました。
重遠は父が語る小話を整理していたようで、その内の百話が『法窓夜話』なのだ。たしかに面白い話が沢山収められている。
ここは、その話を紹介する場所ではないけれど、一つだけは共有しておきたいのは「女子の弁護士」というわずか5行の小話だ(本では固有名詞が使用されているが、ここでは省略してある)。
昔、ローマでは、女子が弁護士業を営むことが公許されていた。錚々たる者もいたけれど、ある女性弁護人に醜業があったので、皇帝は女子弁護士を禁止した。この論法をもって推すならば、男子にも弁護士業を禁ずることにせねばならない。
こういう父の話を整理して父に出版を薦めたような人だからこそ、嘉子の人生に影響を与えることが出来たし、嘉子もまた、私たちに励ましを与えているのではないだろうか。もう、手遅れかもしれないけれど、私もそういう人になりたいと思う。
「虎に翼」は、私たちに「法とは何だ」と自問する機会を提供してくれているように思えてならない。(2024年4月12日記)
2024.4.8
朝ドラ「虎に翼」が始まった。ブギヴギも面白かったけれど、今回は初めての女性弁護士の一人三淵嘉子をモデルにしているというので、職業柄からの興味もある。
嘉子さんはブギヴギのモデル笠置シヅ子さんと同じ1914年(大正3年)生まれだという。笠置さんのブギヴギは、少年時代、ラジオから流れていた記憶があるけれど、嘉子さんを知ったのは、弁護士になって20年以上も過ぎて、「原爆裁判」の判決書の中にその名前を見てからだ。
大正12年(1923年)生まれの私の母(101歳)よりも10歳ほど年上の人の物語だけれど、私と嘉子さんがかぶっていることがないわけでない。嘉子さんは、1979年(昭和54年)11月に横浜家庭裁判所所長を退官するけれど、1980年には弁護士登録している。私は、1979年4月に弁護士登録しているので、嘉子さんがなくなる1984年(昭和59年)までは、日弁連の会員として同じ名簿に登載されていたことになる。
「だから何だ?!」と言われるかもしれないけれど、今の私は、日本で最初の女性弁護士だとか裁判所所長だとかということよりも(もちろんそれもすごいと思うけれど)、「原爆裁判」に最初から最後までかかわった裁判官だった嘉子さんに、勝手に「親近感」を覚えているのだ。「原爆裁判」を無視して「核の時代」である現代を語れないからだ。
残念ながら、私には生の嘉子さんとの交流はない。けれども、嘉子さんと交流のあった人に知り合いはいる。例えば、元裁判官の鈴木經夫弁護士だ。鈴木さんは私が敬愛する法曹の一人だ。
鈴木さんは、1964年(昭和39年)に、東京家庭裁判所に判事補として赴任している。その年4月、歓迎会を兼ねた裁判官の飲み会に三淵さんも参加していたという。その時、開始早々、古手の裁判官が「三淵さん、どうですか」と声をかけたそうだ。鈴木さんは、何かを強要しているような、今思うとこれはセクハラではないのかという感じだったという。けれども、嘉子さんは、予想外に、にこにこしながら立ち上がって、モン・パパというシャンソンを堂々と歌ったというのである(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』・日本評論社)。
モン・パパの歌詞はこうだ。
うちのパパと/うちのママが話すとき/大きな声で怒鳴るのは/いつもママ/小さな声で謝るのは/いつもパパ…。
気が付いた人もいると思うけれど、朝ドラの寅子の親友と寅子の兄の結婚式で、寅子が父親に「強要」されて歌っていた歌だ。
鈴木さんは、「この歌をなぜ選ばれたかは、わかりませんが、歌詞が今でも記憶に残っているのは、三淵さんが『強要』に対して、何ともしなやかに対応されたと感じていたからかもしれませんね。」としている。
脚本の吉田恵里香さんは、もちろんこの清永さんの著作を読んでいるだろうから、鈴木さんのこのエピソードも承知していて、シナリオに組み込んだのであろう(と空想している)。
史実とドラマが違うものだということは承知しているけれど、こういうエピソードが組み込まれていると、登場人物の息遣いが聞こえてくるようで、本当に楽しい。
まだ、第1週が終わったばかりだけれど、「地獄への道」を果敢に選択する寅子のこれからが、伊藤沙莉さんの好演もあって、楽しみだ。伊藤さんという女優は見る人をその物語に自然と誘い込むような魅力がある人だ。
これからも、「虎に翼」関連のブログを書くことにする。
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