ホームページをリニューアルいたしました。
→トップページ
2024.10.17
はじめに
日本原水爆被害者団体協議会 (被団協)がノーベル平和賞を受賞した。被団協の活動を身近で見てきた私としても、本当にうれしい。地獄の体験をした被爆者が「人類と核は共存できない」、「被爆者は私たちを最後に」と世界に訴え、核兵器が使用されることを防いできたことを思えば、この受賞はむしろ遅かったくらいだとも思う。この受賞は「核兵器も戦争もない世界」を実現する上で大きな力を発揮するであろう。私も最大限の活用をしたいと決意している。まだ、核兵器はなくなっていないし、戦争被害者救済は道半ばなのだから。そこで、ここでは、「原爆裁判」を扱うことで核兵器問題を喚起してくれた「虎に翼」を出汁にして「核も戦争もない世界」を展望してみたい。これは本書のまとめのようなものである。被団協は、本書でも述べたように、「原爆裁判」を高く評価しているので、受賞祝いになればいいとも思っている。
「虎に翼」は面白かった
「虎に翼」を大いに楽しませてもらった。連れ合いや娘も含めて周りでも大好評だった。各人がそれぞれの推しの部分を持っていて、楽しそうに披露しあったものだ。私は「くらしに憲法を生かそう」をモットーに弁護士活動を続けてきたので、新憲法の価値がベースに置かれていたことと「原爆裁判」が取り上げられたことがうれしかった。
特に、「原爆裁判」については、資料提供をしていたし、一人でも多くの人に「原爆裁判」を知ってほしいと思っていたので、丁寧に描かれていたことは感動だった。
「原爆裁判」が提起したこと
「原爆裁判」は被爆者救済と核兵器禁止を求める裁判だった。戦争被害者救済と核兵器廃絶の「事始め」であり「政策形成訴訟」の先駆けだったのだ。それはまた、核兵器という「最終兵器」に対して法という「理性」が挑戦するということでもあった。そして、それは空前絶後の裁判となるであろう。なぜなら、次に核兵器が使用されれば、人類社会は壊滅しているかもしれないので、誰も裁判など起こせないからだ。
核兵器使用禁止は「公理」なのに
核兵器使用が何をもたらすか、それは多くの人が知っている。被爆者たちが命を削って証言してきてくれたおかげだ。「原爆裁判」を提起した岡本尚一弁護士は「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるだけではなく…原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるでありましょう。」と言っていた。
核兵器不拡散条約(NPT)は「核戦争は全人類に惨害をもたらす。」としているし、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も壊滅的人道上の結末をもたらす。」としている。核五大国の首脳も「核戦争を戦ってはならない。核戦争に勝者はない。」としている。核兵器使用禁止は「公理」なのだ。ノーベル平和賞選考委員会は「核のタブー」という言葉を使っている。
にもかかわらず、核兵器はなくなっていない。むしろ、核兵器使用の危険性は高まっている。その理由は、国家安全保障のために核兵器は必要だとする核兵器依存勢力(核抑止論者)が力を持っているからだ。彼らは「今は核兵器を手放さない」、「今は核兵器に依存する」としていることを見抜いておかなければならない。
核兵器の特質
核兵器がどのようなものであるか。被爆者の証言もあるけれど、ここでは、「原爆裁判」の判決を引用しておく(要旨)。
原爆爆発による効果は、第一に爆風である。原爆が空中で爆発すると、直ちに非常な高温高圧のガスより成る火の玉が生じ、火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が押し出され、地上の建造物をあたかも地震と台風が同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。第二の効果は熱線である。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線も含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易いものに火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起こさせ、状況によっては人を死に導く。第三の、そして最も特異な効果は初期放射線と残留放射能である。放射線は、中性子、ガンマー線、アルファ粒子、及びベータ粒子より成り、中性子やガンマー線が人体にあたるとその細胞を破壊し、放射線障害を生ぜしめ、原子病(原爆症)を発生させる。爆弾の残片から放射される残留放射線は微粒となって大気中に広く広がり、水滴に附着して雨を降らせ、あるいは死の灰となって地上に舞い降り、人体に同様の影響を及ぼす。
原爆は、その破壊力、殺傷力において従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器である。
核兵器の最も特異な効果
判決は放射能による人体の細胞に対する影響を「最も特異な効果」としている。この認定は核兵器の特性を的確に捉えているようである。例えば、核化学者であり反核の市民活動家であった高木仁三郎氏(1938年~2000年)は次のように言っている。「核技術は生物にはまったくなじみのないものである。生物世界は原子核の安定の上に成り立っているが、核技術は原子核の崩壊―いわばその不安定の上に成り立っている。」(『核エネルギーの解放と制御』、「高木仁三郎セレクション」岩波現代文庫所収)。
要するに、核技術はヒトという生物体と相容れない存在ということなのだ。核分裂エネルギーを原爆という兵器で利用しようが湯沸し器(原発は核分裂エネルギーで水を沸かし蒸気の力で電気をつくる装置)という「平和利用」であろうが、それは同じことなのだ。福島の原発事故をみればそのことは明らかであろう。そうすると、私たちは、核兵器廃絶にとどまらず、原発のような核技術もその視野に入れなければならないことになる。
ダモクレスの剣
「ダモクレスの剣」とは王位をうらやむ廷臣が王座に座らされ、頭上に毛髪一本でつるされた剣に気が付くという故事である。
私は、この「ダモクレスの剣」の話を、2011年6月19日(3・11大震災の直後)、ポーランドで開催された国際反核法律家協会の総会で、核兵器使用や使用の威嚇を絶対的違法としたウィラマントリー元国際司法裁判所副所長から聞いた。氏は「核兵器と核エネルギーはダモクレスの剣の二つの刃である。核兵器の研究と改良によって鋭利な方はいっそう危険なものになり、鈍いほうの刃は原子炉の拡散によって危険なレベルまで研磨されつつある。剣をつるす脅威の糸は、少しずつ切り刻まれつつある。…ダモクレスの剣は日々危険なものになりつつある。」という話である(『反核法律家』71号)。
私たちは、核兵器と原発という二つの剣の下で生活していることを忘れてはならない。
私たちの課題
石破茂首相は、被団協のノーベル平和賞受賞について「極めて意義深い」と言っている。けれども、彼は「核共有」を口にし、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない。」としている人である。加えて、アジア版NATOをつくることや憲法9条2項を削除して「国防軍」の創立も主張している。彼は核兵器も原発も必要としている人なのである。おまけに「軍事オタク」なのだ。
結局、私たちは、核兵器と原発という二本の剣の下での生活を強いられていることになる。その剣は、意図的にも、事故によっても、落ちてくる。あの時、米国は原爆を意図的に投下した。原発事故は、10年以上過ぎた現在でも、故郷に戻れない人を生み出している。核兵器使用の危険性はかつてなく高まっているし、原発回帰は既定路線とされつつある。核技術がもたらす危機は「有事」だけではなく「平時」にも潜んでいるのだ。
この危険は客観的に存在する否定しがたい現実である。それを解消するためには、その危険を認識し、主体的に努力する以外の方策はない。生物体である私たちは核分裂エネルギーと対抗できない存在であることを忘れてはならない。その危険の解消に失敗するとき、人類は人類が作ったものによって、滅びの時を迎えることになるであろう。
「虎に翼」の「原爆裁判」や被団協のノーベル平和賞受賞は、そのことに思いを馳せるいい機会になっているのではないだろうか。私は、これらの出来事を「核も戦争もない世界」を創るエネルギー源にしたいと思っている。
(2024年10月17日記)
2024.9.13
初回放送日:2024年9月9日
連続テレビ小説「虎に翼」でも描かれた「原爆裁判」。
戦後まもなく被爆者が原爆投下の責任を追及し、訴えを起こした裁判が、現代に何をもたらしたのかを考えます。
こちらからテキスト版をご覧いただけます
(NHKのサイトに移動します)
2024.8.9
非核とは核兵器廃絶のことです。平和とは、究極的には敵意が存在しないことですが、ここでは戦争の放棄としておきましょう。私は、平和委員会のメンバーですから、非核も平和も求めています。だから、「非核と平和を一体に」と言われれば「そりゃそうだ」と思う一人です。
けれども、核兵器廃絶と戦争放棄は別の問題なのです。その理由は核兵器がなくても戦争はできるからです。ロシアは核兵器使用なしでウクライナ侵略をしていますし、イスラエルもパレスチナでの虐殺を継続しています。核兵器廃絶と戦争放棄は別問題だということがよくわかります。
そういう事情があるので、反核運動の中で、9条の擁護や世界化には消極的な人もいますし、「改憲阻止」をいう人に核兵器禁止条約を語ってもスルーされてしまうこともあるのです。
けれども、戦争という手段がある限り、核兵器は最終兵器ですから手放さない人が出てくるのです。現に世界はそうなっています。だから、核兵器廃絶と9条の擁護・世界化をリンクさせなければ、核兵器も戦争もなくならないことになるのです。
このように「非核と平和を一体に」というスローガンは重要な意味を持つのです。
ところで、今年の原水禁世界大会で志位和夫さんは、憲法9条には「戦争を二度と引き起こしてはならないという決意とともに、この地球上のどこでも核戦争を絶対に惹き起こしてはならないという決意が込められています」、「非核の世界をつくるたたかいと平和なアジアをつくるたたかいは、憲法9条という点でも深く結びついています」として、「”非核と平和を一体”として、草の根から運動を進めよう」と呼びかけています。私はこの呼びかけに「我が意を得たり」と共感しています。核兵器も戦争もない世界を一刻も早く実現したいからです。(2024年8月7日記)
2024.8.9
進められている「対中戦争」の準備
政府は、南西諸島だけではなく、本土の自衛隊基地の強化、米軍と自衛隊の一体化などを進めている。官民を問わず防衛秘密が増え、学術会議は攻撃され、自治体への政府の「指示権」が強化され、軍事費は聖域とされている。
その理由は、中国、北朝鮮、ロシアという「独自の歴史観・価値観」を持つ国が、日本の安全保障を脅かしているので、それと対抗するためだとされている。
更に、自由で開かれたインド・太平洋地域を含む国際秩序を米国との同盟や同志国との連携を強めながら確保するためとも言われている。日本の安全保障だけではなく「民主主義国」と共同しての「既存の国際秩序の維持」という目的もあるのだ。
そして、現在の中国は、我が国と国際社会の「深刻な懸念事項」であり、「我が国の総合的な国力と同盟国・同志国等との連携により対応すべきものである。」とされている。
その上で、「台湾は大切な友人」なので「一方的な現状変更や各種事態の生起を抑止するため、自衛隊による米軍艦艇・航空機等の防護といった取組を積極的に実施する。」とされているのである。
このように、現在進行している戦争準備は台湾をめぐるものであり、日本の自衛のためなどではないのだ。これが「台湾有事」の正体である。政府は、台湾のために日本を戦争する国にし、最悪の場合は、核攻撃を招くような危険な政策をとっているのである。
そもそも、台湾の人たちが、どのような政治体制の下で生活するかは台湾の人たちに任せるべき事柄であって、私たちの命や自由や財産を危険にさらすような問題ではない。台湾を植民地支配し、中国大陸を侵略して、中国の民衆に塗炭の苦しみを与えたことに対する反省と謝罪は必要であるとしても、私たちが台湾のために犠牲を払う理由はない。反省や謝罪を拒否する諸君が、台湾支援をいう姿は醜悪でしかない。
私たちは、政府が中国を念頭に、米国などと共同して、軍事力を増強していることを見抜き、中国との間で「熱い戦い」など、絶対起こさないよう運動を強めなければならない。そうしなければ、沖縄の人々が、今度は中国軍による攻撃で多くの犠牲を払うことになるだけはなく、本土の人々も核ミサイル攻撃の対象とされるであろう。もちろん、中国本土や台湾での被害も甚大であろうが、軍事産業はほくそ笑み、軍人は「どや顔」で闊歩することになる。
台湾の人たちはどう考えているのか
ところで、台湾の人はどう考えているかである。そのことを少しでも知りたくて、5月22日~26日の5日間、日本AALAが企画した台湾・金門島、花蓮市をめぐる「平和のための市民交流の旅」に参加した。この時の体験を少し再現しておく。
この時期は、丁度、中国が台湾の頼清徳新総裁の姿勢に反発して軍事演習をしている最中だった。もちろん、台湾でもニュースになっていたけれど、現地のガイドは「いつものことです」として緊張感はまったくなかった。金門島出身の琉球大学への交換留学経験のある青年も、普通に台北と金門島を行き来して(飛行機で片道1時間10分程度)、私たちを案内してくれた。
彼らには緊張感など何もなかった。ホテルで見たNHKニュースの大騒ぎは何なのかと思ったほどである。
台北では、国立台湾中央研究院の研究者と交流した。彼らの基本的スタンスは「私たちは大陸中国による台湾に対するあらゆる侮蔑、弾圧や武力による威嚇に反対する。…私たちが望むのは、人々の英知を集め、米中対抗の下でのより冷静で平和的な台湾独自の進むべき道を考え出すこと」であった。
彼らは、「戦狼・中国」に対する批判を繰り返すのではなく、「冷静で平和的な台湾独自の道」を探求しているのである。私はそこに英知を見る。
日本でも、対中戦争を煽り立てる勢力はいる。「中国は日本をミサイルで狙っている」、「座して死を待たないためには、日本からの攻撃対象はミサイルだけでなくていい。司令部でもいい」などというのである。「日本戦略研究フォーラム」の諸君である。こういう見解と対決しながら、私たちは、台湾海峡の平和を考えなければならないのである。
中国共産党は「台湾問題を解決し、祖国の完全な統一を実現することは中国共産党の終始変わらぬ歴史的任務である」、「いわゆる『台湾独立』のたくらみは断固として粉砕する」としている。「独立のたくらみ」は必ず血を見ることになるであろう。
他方、中国共産党の支配下に置かれることを拒否する勢力ももちろん存在する。台湾の民衆がどのような未来を選択するのか、「冷静で平和的な台湾独自の道」を実現して欲しいと思う。
私たちも、この日本で、対中戦争を煽り立てる勢力との戦いに勝利しなければならない。台湾の民衆になくて、私たちが持っているのは日本国憲法である。私たちのたたかいは「非核と平和を一体としたたたかい」となるであろう。(2024年8月6日記)
2024.7.11
(反核法律家協会のホームページに移動します)
最新 2023年12月発行
「核兵器廃絶」と憲法9条
日本評論社
1冊頒価 1,800円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
——「賢人会議」への要望書
序 章 核兵器廃絶と憲法9条
第1章 迫りくる核戦争の危機
第2章 日本政府は私たちをどこに導こうとしているのか
第3章 核兵器と軍事力の呪縛から免れない人たち
第4章 反核平和を考える
第5章 韓国の反核平和運動
あとがき
——「市民社会」を信じて
喜寿のお祝いによせて 村山 志穂
迫りくる核戦争の危機と私たち
「絶滅危惧種」からの脱出のために
あけび書房
1冊頒価 2,000円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
序 核戦争の危険性と私たちの任務
第1部 ロシアのウクライナ侵略を考える
第2部 米国の対中国政策と核政策
第3部 核兵器廃絶ために
第4部 核兵器廃絶と憲法9条
資料 核兵器禁止条約の基礎知識
あとがき
「核の時代」と戦争を終わらせるために
-「人影の石」を恐れる父から娘への伝言-
学習の友社
1冊頒価 1,600円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがきにかえて
第1部 「核兵器も戦争もない世界」を求めて 〈17話〉
第2部 核兵器に依存し戦争を計画する者たちへの批判 〈11話〉
第3部 何人かの知識人たちへの共感と注文 〈9話〉
あとがきにかえて
「第1部は同時代を生きる『同志』たちへのエールである。私が身近で接している人や、私の心の糸をふるわせてくれる人たちに想いを馳せている。第2部は対抗する勢力への批判である。日米政府やその近くでうろちょろしている連中に対する批判である。第3部は理解と協力を求めたい人たちへの呼びかけである。核兵器廃絶や憲法について発言している人たちに対する共感と注文である。リスペクトしつつも、もう少し理解し合いたいと思っている同時代を生きる人たちへの呼びかけである。」(「まえがきにかえて」より)
「核兵器も戦争もない世界」を創る提案
-「核の時代」を生きるあなたへ-
学習の友社
1冊頒価 1,400円(税込・送料無料)
<本書の内容>
まえがき
第1章 「非核の政府」の想像から創造へ
コラム 「核持って絶滅危惧種仲間入り」「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」
「核兵器が人類を絶滅すると考えることは『妄想』なのか」
「核を手放さない日本政府と政治家」「ロシア大使館での核兵器廃絶談義」
第2章 コロナ危機の中で核兵器廃絶を考える
第3章 「核抑止論」の虚妄と危険性
コラム 「ブレジンスキーは妻を起こさなかった」
第4章 核兵器禁止条約の発効と「実効性」
第5章 核兵器禁止条約と核不拡散条約(NPT)6条の関係
第6章 「核兵器も戦争もない世界」を実現しよう! ―特に、米国の友人たちへの提案―
第7章 核兵器禁止条約の発効から9条の地球平和憲章化へ
コラム 「マッカーサーの原爆使用計画と反共主義」
「ヨハン・ガルトゥングの『日本人のための平和論』」
「なぜ、米国は偉そうに振舞えるのか」
あとがきにかえて―台湾海峡での核使用を危惧する
「核の時代」と憲法9条
日本評論社
1冊頒価 2,000円(税込・送料無料)
<本書の内容>
第1部 核も戦争もない世界を求めて
第1章 「核の時代」と憲法九条
第2章 「核兵器のない世界」を求めて
第3章 原発からの脱却
第2部 随 想
パート1 核と平和のテーマ
パート2 民主主義の在り方について
パート3 朝鮮半島のこと
パート4 折々のこと 折々の人
あとがきに代えて
―― 一度だけの70歳を迎えて
大久保賢一先生のご紹介/村山志穂
資 料
1.原爆投下と日本国憲法9条 抜書き
2.「核兵器のない世界」の実現のために
NPT再検討会議に向けての日本の法律家の提言
3.核兵器廃絶のために、私たちに求められていること
購入お申し込みはこちら
(反核法律家協会のホームページに移動します)
2024.7.11
今、「原爆裁判」が人々の関心を集めている。NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルの三淵嘉子さんが「原爆裁判」にかかわったことが知られつつあるからだ。以前から「原爆裁判」を多くの人に知って欲しいと考えていた私にとってはうれしいことである。朝ドラで「原爆裁判」がどのように描かれるかはともかくとして、ここでは「原爆裁判」の基礎知識と現代への影響について触れておく。「原爆裁判」が現代に生きていることを共有したい。
「原爆裁判」とは、1955年、被爆者5名が、米国の原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判である。1963年、東京地裁は請求を棄却したけれど、米国の原爆投下を違法とし、あわせて「政治の貧困」を指摘したことによって、国内外に影響を与えた。
原告は次の5人である。
下田隆一 47歳。
広島で被爆 長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害。就業不能。
多田マキ
広島で被爆 顔、肩、胸、足にむごたらしいケロイド。疼痛のため日雇労働も続かず。夫は容貌の醜さを厭って家出。
浜部寿次 54歳
東京に単身赴任。長崎で妻と四人の娘たち全員が爆死。
岩渕文治
広島での原爆投下により養女とその夫及び子どもをなくす。
川島登智子
広島で被爆 14歳 顔面、左腕などを負傷 両親も原爆でなくす。
原爆投下から10年を経ていたけれど、政府は被爆者に何の支援もしていなかった。被爆者は病や社会的差別の中で貧困にあえいでいた。
岡本尚一弁護士は、1892年に生まれ、提訴3年後の1958年に没している。岡本さんが、なぜ、この裁判を考えたのか。その理由を彼の短歌に探ってみたい。
・東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る
・夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり
・朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか
私には歌心はないけれど、岡本さんの東京裁判に対する怒りと被爆者への同情と人類社会の未来についての懸念が痛いほど伝わってくる。
岡本さんは「この提訴は、今も悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けるということだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう。」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼び掛けた。けれども、現実に応えたのは松井康浩弁護士だけであった。
この裁判の当初の目的は「賠償責任の追及」と「原爆使用の禁止」だったことを確認しておきたい。
請求の趣旨は、被告国は、原告下田に対して金三十万円。原告多田、浜部、岩渕、川島に対して各金二十万円を支払え、である。
請求の原因の骨子は次のとおり。
米国は広島と長崎に原爆を投下した。原爆は人類の想像を絶した加害影響力を発した。「人は垂れたる皮膚を襤褸として屍の間を彷徨号泣し、焦熱地獄なる形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した酸鼻なる様相を呈した」。
原爆投下は、戦闘員・非戦闘員たるを問わず無差別に殺傷するものであり、かつ広島・長崎は日本の戦力の核心地ではなかった(「防守都市」ではない)。
広域破壊力と特殊加害影響力は人類の滅亡をさえ予測せしめるものであるから国際法と相容れない。
国家免責規定を原爆投下に適用することは人類社会の安全と発達に有害であり、著しく信義公平に反する。米国は平和的人民の生命財産に対する加害について責任を負う。被害者個人に賠償請求権が発生する。
対日平和条約によって、国民個人の請求権が雲散霧消することはあり得ない。憲法29条3項により補償されなければならない。補償されないということであれば、日本国民の請求権を故意に侵害したことになるので、国家賠償法による賠償義務が生ずる。
原子爆弾の投下と炸裂により多数人が殺傷されたことは認めるが、被害の結果が原告主張のとおりであるかどうか、及び原爆の性能などは知らない。
原爆の使用は、日本の降伏を早め、交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。
原爆使用が、国際法に違反するとは直ちには断定できない。
したがって、原告らに損害賠償請求権はない。
敗戦国の国民の請求が認められることなど歴史的になかった。
原告らの請求は、法律以前の抽象的観念であって、講和に際して、当然放棄されるべき宿命のもの。それは権利たるに値しない。
憲法29条によって直ちに具体的補償請求権が発生するわけではない。
国は、原告らの権利を侵害していない。平和条約は適法に成立しているので、締結行為を違法視することはできない。
慰藉の道は、他の一般戦争被害者との均衡や財政状況等を勘案して決定されるべき政治問題。
1963年12月7日、裁判長古関敏正、裁判官三淵嘉子、同高桑昭による判決が出される。判決は、高野雄一、田畑茂二郎、安井郁の三人の国際法学者の鑑定を踏まえていた。なお、口頭弁論の全期日に関与したのは三淵嘉子さんだけであった。その要旨は次のとおり。
米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反する。かつ原爆は非人道的兵器であるから、戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならないとの国際法に違反する。
しかし、国際法上の権利をもつのは、国家だけである。被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかない。
日本の裁判所は米国を裁けない。
米国法では、公務員が職を遂行するにあたって犯した不法行為については賠償責任を負わないのが原則。
結局、原告は国際法上も国内法上も権利をもっていない。
人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ、原爆の投下によって損害を被った国民に対して、心からの同情の念を抱かないものはいないであろう。
戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずる。
「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは到底救済にならない。
国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのだから、十分な救済策を執るべきである。
しかしながら、それは裁判所の職責ではなく国会及び内閣の職責。そこに立法及び行政の存在理由がある。本件訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かざるを得ない。
松井康浩弁護士(1922年~2008年)は次のように総括している。
戦勝国アメリカの戦闘行為を国際法に照らして日本の裁判所で裁くこの訴訟は、日米の友好を損なう、途方もないこと、そのような訴訟が成立するわけがないなどさまざまな理由で弁護士の協力者も少なく、被爆者その他国民の支援もなかったことが示すように、困難な訴訟であった。
この訴訟の特徴は、原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する点にあった。判決は広島・長崎への原爆投下という限定の下に国際法違反と断定した。しかし、その無差別爆撃性と非人道性は、いつ、いかなる原爆投下にも適用されるであろう。
裁判所は、「政治の貧困さを嘆かずにはおられない」として、最大限の言葉を用いて、被爆者援護法を未だに制定しない立法府と行政府を批判している。この批判の意義はきわめて高く、原爆投下の国際法違反とともに、この判決の価値を大ならしめている。
松井さんは、困難な訴訟ではあったけれど、原爆投下の違法性を認めたことと政治の貧困を嘆いたことの二点でこの判決の「大きな価値」を認めているのである。
日本の政治は被爆者援護のために次のように法制度を整備してきた。
裁判継続中の1957年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。判決後の1968年9月、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」施行。1995年7月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)施行などである。
「原爆症認定訴訟」は、被爆者援護法を活用して厚労大臣の原爆症不認定を争い、大きな成果を上げた。
「黒い雨訴訟」は、被爆者援護法の「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」に該当するかどうかが争われている。
被爆者援護が十分ということではないけれど、「原爆裁判」判決が指摘した「政治の貧困」がこのような形で「改善」されていることは確認できるであろう。
1996年、国際司法裁判所は国連総会の「核兵器の威嚇または使用は、いかなる状況においても国際法に違反するか」という諮問に対して「一般的に国際法に違反する。ただし、国家存亡の危機の場合には、合法とも違法とも判断できない」との勧告的意見を発出している。この結論に「いかなる場合にも違反する」として反対したウィラマントリー判事は次のように言っている。
この事件はそもそもの初めより裁判所の歴史にも例を見ない世界的な関心の的になる問題であった。下田事件で日本の裁判所に考察されたことはあるが、この問題に関する国際的な司法による考察はなされていない。
「原爆裁判」(下田事件)は国際司法裁判所で参照されているのである。
その国際司法裁判所は次のように判断していた。
戦争の手段や方法は無制限ではないとの人道法は核兵器に適用される。武力紛争に適用される法は、文民の目標と軍事目標の区別を一切排除する、または不必要な苦痛を戦闘員に与える戦争の方法と手段を禁止する。核兵器の特性を考えれば、核兵器の使用はほとんどこの法と両立できない。ではあるが、裁判所は必ずいかなる状況下においても矛盾するという結論には至らなかった。
この判断枠組みは「原爆裁判」と同様である。ただし、国際司法裁判所は「核抑止論」の呪縛から免れていなかったことに留意しておきたい。
その限界を克服したのは2021年発効の核兵器禁止条約である。核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」として例外を認めていない。そして、その締約国会議は、⼈類は「世界的な核の破局」に近づいている。「安全保障上の政策として、核抑⽌が永続し実施されることは、不拡散を損ない、核軍縮に向けた前進も妨害している」として「核抑止論」を批判している。
日本政府は、核兵器禁止条約が「核抑止論」を否定するがゆえに、これを敵視しているけれど、国際法は核兵器廃絶に向けて着実に発展しているのである。日本政府はこの潮流に逆らっているのである。
このように見てくると、「原爆裁判」は核兵器廃絶についても被爆者援護についても「事始め」になっていることが確認できるであろう。「原爆裁判」は現代に生きているのだ。
今、世界は「核兵器による安全保障」をいう勢力が力を持っている。日本国憲法の「諸国民の公正と信義を信頼しての安全の保持」は現実的日程に上っていない。
憲法9条の背景には、今度世界戦争になれば核兵器が使用され、人類が滅んでしまう。戦争をしないのであれば、戦力はいらないという価値と論理があった。
また、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていた。
私たちは、日本国憲法の徹底した非軍事平和主義を踏まえながら、「原爆裁判」の歴史的意義を更に発展させ、核兵器の廃絶と世界のヒバクシャの救済を実現しなければならない。(2024年7月1日記)
-->2024.7.11
腐敗した自民党による改憲を許さない【2】から続く
「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」
この「ラッセル・アインシュタイン宣言」の問いかけに私たちはどのように答えたらいいのでしょうか。
まず、核兵器のことを考えてみましょう。核兵器をなくすことは決して不可能ではありません。そもそも、核兵器は人間が作ったものだからです。現に、1986年に7万発というピークを数えた核弾頭は、現在1万2500発程度に減っています。しかもそれは検証されています。減った数の方が残っている数より多いのです。やればできるのです。
加えて、核兵器保有国は、国連加盟国193カ国のうち9ヵ国です。極めて少数です。核兵器禁止条約の署名国は93、加盟国は70を数えています。「核なき世界」に向けて、世界は間違いなく前進しているのです。
「核なき世界」の実現は「私が生きている間は無理」(オバマ)とか「果てなき夢」(岸田文雄)などというのは「今はやらない」という先行自白です。「口先男」に騙されるのはもう止めましょう。
憲法9条は、核兵器を使用しての世界戦争は人類社会を崩壊させてしまうと想定し、それを避けるために「一切の戦力」を否定したことは前に述べました。戦力がなければ戦争はできないのですから極めて論理的です。逆に、自衛のためであれ、正義の実現のためであれ、武力の行使を認めれば「悪魔の兵器」である核兵器に頼ることになります。それは、理屈だけではなく、現実がそうなっています。では、自衛あるいは安全保障ための核兵器は合理的なのでしょうか。
自衛のために核兵器を自国内で使用することはありえません。使用すれば自国民も死ぬからです。また、どこで使用しようとも、核兵器の特性からして、国境を越えて被害が発生します。中立国にも被害は及ぶし、地球環境も汚染されます。
そして、相手方が核兵器で反撃すれば―間違いなくするでしょう―双方が滅びることになります。「相互確証破壊」です。自衛のための核兵器が自滅のための兵器となるのです。「平穏は墓場にある」という「最悪のパラドックス(逆説)」です。
「核の時代」にあっては、戦争は政治的意思を実現するための手段にはなりえないのです。自衛という目的を実現するための核兵器が、防衛の対象である国家と社会を壊滅させてしまうからです。それが核兵器なのです。
9条はそのような事態を避けるために残された唯一の方法であることを確認しておきましょう。
なぜその確認が必要かというと、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が「たとえ平時に水爆を使用しないという合意に達していたとしても、戦時ともなれば、そのような合意は拘束力を持つとは思われず、戦争が勃発するやいなや、双方ともに水爆の製造にとりかかることになるでしょう。一方が水爆を製造し、他方が製造しなければ、製造した側が勝利するにちがいないからです」と予言しているからです。核兵器をなくそうとするのであれば、戦争もなくさなければならないとしているのです。
9条の先駆性が確認できるのではないでしょうか。
ここで、国際人道法に触れておきます。国際人道法は、戦争において、戦闘の方法や手段は無制限ではないという規範です。戦争を違法とするものではありませが、自衛戦争や正義実現の戦争であっても、無差別攻撃や残虐な戦闘手段は禁止されるという戦時における国際法です。「一切の戦争は非人道的なので、戦争をなくす」という考え方ではなく「人道的な戦争」を想定しているのです。
それはそうなのですが、核兵器は大量、無差別、残虐、永続的な被害をもたらす非人道的兵器であることに着目して、核兵器を禁止する法理として活用することは可能ですし、必要なことなのです。
核兵器についての最初の法的判断は、1963年の東京地方裁判所の「原爆裁判」です。裁判所は「原爆投下は当時の国際法に照らして違法」と判決したのです。1996年、国際司法裁判所の勧告的意見は「核兵器の使用や使用の威嚇は、一般的に違法である」としましたが、「国家存亡の危機」における核兵器の使用や威嚇についての判断は避けていました。
ところが、核兵器禁止条約は「核兵器のいかなる使用も国際人道法に反する」としたのです。「国家存亡の危機」における核兵器使用も違法とされ、国際司法裁判所の限界は克服されたのです。
いずれも判断の背景には核兵器の非人道性がありました。法は非人道性を無視できないのです。核兵器廃絶のための「人道アプローチ」は有効だったのです。
確認しておくと、核兵器禁止条約は、戦争を一般的に違法化したり、一切の戦力を禁止する条約ではないのです。そして、核兵器を廃絶したからといって非核兵器が残れば戦争は可能です。また、いったんなくなったとしても復活することは、ラッセルたちがいうとおりです。そういう意味では、核兵器禁止条約は「戦争のない世界」を実現する上では過渡期の法規範なのです。
もちろん、そのことは、核兵器禁止条約の意義をいささかも減殺するものではありませんが、その守備範囲を確認しておくことも必要でしょう。核兵器禁止条約の発効は「核なき世界」に向けての大きな前進ですが、「戦争のない世界」に向けては、もう一歩の質的前進が求められているのです。それが9条の世界化です。
核兵器がなくなったからといって戦争がなくならなければ核兵器は復活するであろうことは、先に述べたとおりです。だから、核廃絶運動に関わる人は9条の擁護と世界化を展望しなければならないのです。戦争という制度が残る限り、「核なき世界」への到達と維持が元の木阿弥になってしまうからです。核兵器をなくした後にも仕事は残るのです。
他方、9条の擁護と世界化を求める人は、核兵器を廃絶できないようでは、戦力一般の廃絶など絵に描いた餅になってしまうでしょう。
ここで、9条は何を期待されて誕生したのかを再確認しておきます。
先に紹介した幣原喜重郎は、「憲法9条は、我が国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的な地位を占めることを示すもの」という答弁もしていました。9条は、「核の時代」にあって、「徹底的な平和運動」の先頭に立つ「指導的地位」を期待されていたのです。核兵器廃絶がその射程に入ることは自明でしょう。
戦争の廃絶について考えてみましょう。確かに、戦争の廃絶は決して簡単なことではありません。けれども、戦争は人の営みです。人の営みを人間が制御できないことはありません。人類は奴隷制度も植民地支配もアパルトヘイトもなくしてきました。いずれも、手強い反対にあいながらです。強欲な頑迷保守や好戦論者や悲観論者はいつの時代も存在します。変革を求めないことを「現実的」として受容し、変革を求めることは「理想的に過ぎる」として敬遠する人々も少なくありません。
けれども、人類は戦争をなくすための思想も育んできました。1920年代の米国の「戦争非合法化」の思想と運動もその一例です。戦争という制度を「無法者」として社会から放逐してしまおうという思想と運動です。戦争の方法や手段の制限だけではなく、戦争そのものを非合法化しようという発想です。
そうです。この「戦争非合法化」の思想は憲法9条の淵源のひとつなのです。このような徹底した非軍事平和思想が日本国憲法に影響を与えているのです。
「戦争非合法化思想」が「核のホロコースト」を契機として日本国憲法9条に結実したのです。言い換えれば、徹底した平和思想が、人類最悪の悲劇を梃子として、憲法規範として昇華したのです。「転禍為福」(災い転じて福となす)と言えるでしょう。
けれども、ややこしく考える必要はありません。そもそも、核兵器が使用されれば「皆くたばってしまう」ことなど、誰にでも理解できるからです。そういう意味では、憲法9条は、「核の時代」においては、当たり前の法規範なのです。法は人々を生かすための知恵でもあるのです。
この79年間、核兵器は実戦で使用されていません。使用計画もあったし、核戦争の瀬戸際もありました。事故もあったし、誤発射の危険性もありました。けれども、現実に使用されたことはなかったし、地球は吹き飛んでいないのです。
その理由は、被爆者をはじめとする反核平和勢力の運動もありましたが、「運がよかった」だけかもしれません。地球の未来を運任せにすることはできません。意識的な戦略としなければ、地球にひびが入ったり、吹き飛ぶかもしれないからです。
だから、今求められていることは、核兵器不使用の継続ではなく、核兵器廃絶なのです。廃絶までの法的枠組みは既に核兵器禁止条約があります。その国際法規範を普遍化することによって「核なき世界」の実現は可能なのでする。
当面、日本政府に署名・批准させることが必要です。その運動を反核平和勢力だけではなく、護憲運動(立憲主義回復運動を含む)をしている方たちの理解と協力をえて進めることが求められています。
他方、憲法9条も風雪に耐えてきました。憲法に拘束される立場にある政府や国会議員(護憲派は除く)だけではなく、多くの改憲勢力からの攻撃に耐えてきたのです。「お疲れ様日本国憲法」などと引退を迫ったり、「憲法を現実に合わせろ」という憲法が何のためにあるのかを理解しない意見もあります。
既に、個別的自衛権のみならず集団的自衛権も認められるという「法的クーデター」といわれる現実もあります。しかも、裁判所もそれを制止しようとしないのです。
そして、米軍とともに世界のあちこちで武力の行使を可能とするための改憲策動も、執念深くかつ陰険に続けられているのです。
現在、政府は、中国、北朝鮮、ロシアとの対立(もっぱら中国)を前提に、米軍との一体化、自衛隊基地の強化、武器の爆買いなど戦争の準備を着々と進めています。戦争を避けるのではなく、戦争に備えているのです。
敵基地攻撃を行えば敵国からの反撃は避けられません。だから、「国民保護」も必要となります。「国民保護計画」は核攻撃があった場合も想定しています。「ヨード剤を飲んで雨合羽を被って風上に逃げろ」というものです。被爆者は「爆心地に向かえと言うのか」と怒っています。雨合羽とヨード剤で被害を食い止められるのなら、核戦争など「たいしたことはない」でしょう。政府は「被爆の実相」を無視しているのです。
岸田首相は「敵基地攻撃」や「戦闘機の共同開発」も「憲法の平和主義の理念の範囲内」と言っています。それが彼の憲法感覚なのです。そういう首相の下で、武力の行使を前提とする「国を挙げての防衛体制の確立」が進んでいます。「国を挙げて」の中には、自衛隊や政府機関、財界や読売新聞などのマスコミだけではなく、学界や地方自治体も含まれています。「防衛体制の確立」とは、米国とのグローバル・パートナーシップや同盟国・同志国との連携強化に基づく対中国包囲網の構築を意味しているのです。
学術団体や地方自治体や民間企業を戦争協力へと誘導あるいは強制するための仕組みも次々と作られようとしています。日本学術会議の法人化、政府の自治体に対する指示権、セキュリティ・クリアランス制度の導入などです。学問・研究、自治体、企業を経由して、個人生活も軍事色に染められようとしているのです。
それに対抗するたたかいも展開されていますが、事態は予断を許しません。
今、日本は、「核兵器を含む武力による安全と生存の維持」なのか「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼しての安全と生存の維持」なのかが正面から問われているのです。「武力による平和の道」は人類社会の終わりへの道です。「諸国民の公正と信義による平和への道」は78年前から示されている道です。「核の時代」の後にどのように未来社会を創るのか、その選択は私たちに委ねられているのです。
核兵器廃絶よりも前に、政府が「熱い戦い」を始めるかもしれません。「政府の行為によって再び戦争の惨禍」が起きるかもしれないのです。もちろんそれは他国の民衆の殺傷も意味しています。核兵器廃絶運動は政府や与党の動きに敏感でなければなりません。
核兵器廃絶や9条の擁護と世界化を希求する私たちには、「戦争前夜」といわれるほどに急速に進行している戦争の準備を阻止する運動が求められています。そのためには、反核平和勢力と護憲平和勢力との相互理解と相互協力とが必要不可欠です。
被爆80年・敗戦80年という節目の年を、この国の進路を大きく転換し、核兵器も戦争もない世界に一歩でも近づく機会にしようではありませんか。
腐敗し堕落した自民党政治を終わらせ、全ての人が、恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに、その個性を生かしながら、自由に生活できる社会をつくるために、引き続き頑張ろうではありませんか。
2024.7.11
引き続き、自民党政治の特徴についての話をします。
岸田文雄首相は、吉田茂元首相を「傑出した政治指導者の一人」と評価しています。その理由は、吉田氏が日本防衛を米国に任せ、米国資本を導入して、日本に奇跡的な高度成長をもたらしたからだということです。「日本は核とドルの下で生きていく」という「吉田ドクトリン」を最大限の評価しているのです。この「日本国の命運を米国の核とドルに委ねる」という基本姿勢は、現在も、何も変わっていません。岸田首相はそのことを私たちに判りやすく教えてくれているのです。
このことを違う言葉でいえば、米国に「自発的に従属する」ということです。この思考パターンによれば、米国に逆らったり、独自の政策をとることなど出来ないことになります。米国の「核の傘」という究極の暴力に依拠し、経済関係での利害を同一にしている立場からすれば、自主・自立など想定できないからです。「昔天皇、今アメリカ」という現象が起きているのです。日米安保条約の解消などは「国体の変革」を求めることと同様に「危険思想」扱いされるのです。
米国では、戦争を商売とする軍人と金儲けの機会とする軍事産業とその使い走りをする議員とそれを支持する愚かで野蛮な選挙民がいまだ力を持っています。「軍産複合体」の支配です。日本の支配層はその勢力に抵抗せずむしろ迎合しようというのです。それが「核とドルに依存する」という意味です。
私たちは、日米関係の基礎には、このような発想が根強くはびこっていることを視野に入れておかなければならないのです。その端的な表れが核兵器禁止条約についての日本政府の姿勢です。
核兵器のいかなる使用も「壊滅的人道上の結末」をもたらすので、それを避けるための唯一の方法は、核兵器を廃絶することであるとして「核兵器禁止条約」が発効しています。ところが、日本政府は「禁止条約は国民の命と財産を危うくする」として、禁止条約への署名・批准は拒否しているし、締約国会議へのオブザーバ参加にも消極的です。
ところが、岸田首相は核兵器廃絶を言っているのです。それは、核兵器がもたらす「容認できない苦痛と被害」や「壊滅的人道上の結末」、そして国民の反核感情を無視できないからでしょう。核兵器廃絶をいうことは大事なことです。けれども、氏は「核とドルの支配」を全面的に受け入れているので、米国の核兵器を否定する禁止条約を容認することはできないのです。だから、岸田さんは「今すぐなくす」とは言わないのです。それが日本の首相の正体です。
私たちは、核兵器廃絶を未来永劫の理想ではなく、喫緊の現実的課題とするリアリストでなければなりません。核戦争の危機が迫っているからです。被爆者の願いに応えるためにも、また、私たちと次世代の未来のためにも、核廃絶の掛け声だけでない行動が求められているのです。そして、そのたたかいは「核とドルの支配」を全面的に受け入れている政治勢力との戦いでもあることを忘れてはならないのです。
ここで、核兵器廃絶と憲法9条擁護の関係について考えておきましょう。
ここで、政府が1946年11月に発行した『新憲法の解説』を紹介しておきます。
一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、または逆に戦争の原因を終息せしめるかの重大な段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂えているのである。ここに、本章(2章・9条)の有する重大な積極的意義を知るのである。
ここで識者とは幣原喜重郎氏のことです。幣原氏は、憲法改正が議論されていた帝国議会で政府を代表して次のような答弁をしています。
我々は今日、広い国際関係の原野に於きまして、単独にこの戦争放棄の旗を掲げて行くのでありますけれども、他日必ず我々の後についてくるものがあると私は確信しているものである。…原子爆弾というものが発見されただけでも、或戦争論者に対して、余程再考を促すことになっている、…日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、此の一つの大きな旗を担いで進んで行くものである。即ち戦争を放棄するということになると、一切の軍備は不要になります。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になるのであります。
当時の政府は、次の世界戦争では核兵器が使用され、人類社会は滅びることになると予測して、核兵器のみならず、全ての戦力の放棄を提案していたのです。
日本国憲法9条は、「核の時代」を自覚し、核兵器だけではなく「一切の戦力」を放棄する徹底した非軍事平和思想に基づく最高規範として誕生したのです。憲法9条は「核のホロコースト」を経て創られた「核の時代の申し子」なのです。
現在の政府はそのことを忘れたかのようです。政府が忘れても、私たちは忘れてはならない「平和思想の到達点」なのです。9条の改悪は許さず、これを世界の規範としなければならないのです。
人類社会が水爆時代に入った1955年(ビキニ水爆実験は1954年)。ラッセルやアインシュタインたちは「もし多数の水爆が使用されれば、全世界的な死が訪れるでしょう。瞬間的に死を迎えるのは少数に過ぎず、大多数の人々は、病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいくことになります」としていました。そして「私たちが人類を滅亡させますか、それとも人類が戦争を放棄しますか」と問いかけていました。
この「ラッセル・アインシュタイン宣言」の問いかけに私たちはどのように答えたらいいのでしょうか。
-->2024.7.11
この記事は、『やめさせよう裏金政治ー「政治とカネ」問題を考える-』をテーマに
「憲法改悪反対飯能日高共同センター」「小選挙区制・政党助成法の廃止をめざす飯能連絡会」が共催した学習会にて、講師としてお話させていただいた内容をまとめたものです。
世界を見ると、ロシアのウクライナ侵略やイスラエルのガザ地区でのジェノサイドなど、目を覆いたくなる事態が続いています。侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する武力の行使です。ロシアの行為はこれに該当します。ジェノサイド( genocide)とは、(種族:英語のgenos)と(殺害:英語のcide)の合成語で、国民的、民族的、人種的又は宗教集団の全部又は一部を集団それ自体として破壊する意図をもって行われる行為です。日本語では「集団殺害」、「集団虐殺」などと言われます。イスラエルの行為はこれに該当します。
けれども、ロシアに対する制裁は強調されていますが、イスラエルの暴挙を止めようとする動きは鈍いままです。
同時に、気候危機が進行し、地球という人類の生息環境そのものが脅かされています。国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来したのです」としています。
にもかかわらず、「民主主義国家」と「権威主義国家」などと対立が煽り立てられ、人類の危機に対する国際社会の足並みはそろっていません。
ロシアは核兵器使用をちらつかせているし、イスラエルも核兵器国であることを隠そうとしません。米国も未臨界核実験を継続しているし、中国も核兵器を増産しているようですし、北朝鮮も核兵器先制使用を憲法に書き込んでいます。日本や韓国は米国の「核の傘」依存を強めています。
国際情勢をもっともよく知る立場にある国連のグテーレス事務総長は、冷戦終結後最大の「核戦争の危機」だと言っています。米国の核兵器のことをよく知る科学者たちは、1947年以降で最も「終末」に近づいているとしています。
核戦争になれば「壊滅的人道上の結末」が起きることになることや「核戦争に勝者はない。核戦争を戦ってはならない」ことは、誰でも知っていることだけれど、核戦争は近づいているし、核兵器はなくなりそうもないのです。
気候危機を前にして、戦争や軍拡競争などしている場合ではないのに、「先進国」の政治リーダーたちは対立と分断を前提に物事を考えているのです。
G7が開催されているけど、そこで語られているのは、ロシアや中国との対立を前提とする話ばかりですし、核兵器への依存はそのままです。
国内では、「台湾有事は日本有事」と言われ、対中国戦争を念頭に、米軍と自衛隊の一体化や南西諸島の要塞化が進められています。まさに、日本版「先軍思想」に基づいて、現代版「国家総動員体制」が進行しているのです。
それを進めているのは自公政権です。それをサポートするのは日本維新の会や国民民主党などです。その中核にある自民党の腐敗と堕落は目を覆うばかりです。
私は、その腐敗と堕落が深刻化する原因は、30年前の1994年の「政治改革」にあると考えています。政治改革の柱は小選挙区の導入と政党助成金の導入でした。
ところで、当時、飯能では「小選挙区制・政党助成法の廃止を目指す飯能連絡会」が結成されており、2001年11月には「政党助成金訴訟の会」が結成されました。そして、2002年3月には、飯能、日高、名栗の住民113名が原告となって、東京地裁に「政党助成金違憲訴訟」を提起しました。
政党助成金は、1994年、政治改革と称して小選挙区制とともに導入された制度です。国会議員数や国政選挙での得票数に比例して、国民一人当たり年間250円の税金を各政党に交付する仕組みです。年間320億円もの税金が各政党に分配されることになったのです。
けれども、国民のなかには政党を支持している人もいれば、どの政党も支持していない人もいます。一方、国民は憲法によって思想・表現の自由や、集会・結社の自由が保障されていますから、どの政党に政治資金を寄付するか、寄付しないかというのは、各個人の自由に属することです。
だから、その各個人が支払った税金が勝手に支持もしていない政党に分配されてしまうというのは、憲法に保障された「良心の自由」の一形態である「政党支持の自由」を侵害することになるのです。
自民党などは、党員や支持者などの個々人から政治資金をコツコツと集める努力をせず、財界・大企業から巨額の政治献金をもとめる一方、より安定的に税金からも政治資金を得ようとして政党助成金制度を導入したのです。
また、政党というものは本来、国などから独立した存在ですから、税金で政党の運営資金をまかなうなどは邪道です。
ということで、原告は裁判を起こしたのです。
この裁判は、地裁・高裁で勝つことはできませんでした。裁判所は「政党への寄付への自由」は「思想・良心の自由」の一側面であって、憲法19条の保障を受けることは認めました。けれども、政党助成法は原告に対して特定の思想を強制したり、不利益を強制したりするものではない。税金の徴収と政党交付金の交付とは、その法的根拠や手続きが異なり、原告らの支払った税金が直ちに政党交付金としてそのまま政党に交付されているわけではないなどとして、請求を棄却したのです。
税金の徴収と助成金の交付は別の法律によるものだから、「政党への寄付の自由」とは関係ないという理屈です。税金の徴収も政党への交付も、国家の行為によって行われていることを無視した形式論なのです。
とうてい納得できない「肩透かし判決」と言えるでしょう。
もちろん上告し、最高裁への要請行動も数次にわたって行われました。
上告の理由は、政党助成法は、個人の直接的かつ自主的判断で決定されるべき「政党への寄付の自由」を侵害する法律であり、その制定と執行は憲法19条に違反する、というものでした。憲法判断を求めたのです。
飯能市の杉田實さんは、六年生は社会科教科書で、税金は本来、国民生活を豊かにするものと学習していることを紹介し、「政党が税金から自分たちの活動費を分けてもらうことは、小学生が学ぶ、税金の正しい使い方に照らして本来の姿ではないでしょう。純真な小学生にも理解できるような正しい判断を切望します」との陳述書を提出しました。
残念ながら、上告は棄却されました。憲法問題ではないという理由です。政党助成金は国民個人の「政党支持の自由」という基本的人権にかかわる事柄であるし、政党という私的団体に公費を投入することは民主主義の在り方にかかわる事柄であるにもかかわらず、最高裁は憲法問題ではないとしたのです。
これが、最高裁の人権観であり民主主義観なのです。
1994年当時の政権は日本新党の細川護熙氏を首班とする連立政権でした。政治改革関連法案は否決されたのですが、衆議院議長だった土井たか子氏は、細川総理と自民党の河野洋平総裁との「総総協定」を斡旋し、法案を成立させました。
国民の政治的意思と国会の議席との間に乖離が生ずる小選挙区比例並立制と憲法違反の政党助成金が日本の政治に導入されたのです。私は、この時に、現在の日本の政治の歪みが始まったと考えています。
「政党支持の自由」という基本的人権を侵害し、少数派の意思を切り捨てることにより国民の政治的意思を国会に反映しない選挙制度が、国会の多数派によって制定されたのです。しかも、最高裁は「問題なし」としたのです。立法も司法も基本的人権と民主主義の原理を軽視してしまったのです。
これでは、日本の政治状況や人権状況が悪化することは避けられないでしょう。それにしても、「総総協定」を仲立ちした土井たか子氏はとんでもないことをしたものです。
私は、その「政治改革」の歪みが、今、自民党の腐敗と堕落という形で噴出していると考えています。自民党の支持率と議席の占有率には大きな乖離が生まれています。2021年の衆議院選挙の自民党の小選挙区の得票率は48.4%だったけれど、65.4%の議席を確保しています。半分以下の得票率で3分の2近い議席を確保しているのです。小選挙区制は一人しか当選しないので、相対的多数派は議席においては絶対的多数を得ることが可能なのです。
また、政党助成金の導入と企業・団体献金の禁止は一体となるはずでした。それが、政治家個人への寄付は禁止されるけれど、政党や政治団体への寄付は許容されたのです。政党助成金と企業・団体献金の二重取りが始まったのです。
「政治改革」によって、自民党にとっては、議席も金も自分に都合よくなったのです。それが腐敗と堕落の温床となっているのです。
企業・団体からの政治家個人への寄付は禁止されています。政党や政治団体への寄付は、制限がありますが、禁止はされていません。対価を求めないで寄付をすることは背任となりうるし、対価を求めれば贈賄ということになります。税理士団体が自民党に献金することは、税理士個人の「政党支持の自由」を侵害することになるというのは最高裁の判断です。企業・団体献金は、そもそもそのような問題を抱えているのですから、禁止されなければならないのですが、そうはなっていないのです。
ところで、本来、パーティ券販売は寄付ではありません。会費をパーティで使えば余りはないからです。けれども、実際に販売されるパーティ券は対価性がありませんから寄付になります。政党や政治団体に対する寄付の制限の脱法行為ということになります。
更に問題は、ノルマを超えて販売されたパーティ券の代金は、政治家個人にキックバックされていたことです。政治家個人にかかわる政治団体がそのキックバック分を帳簿に記載しなければ「裏金」となるのです。これでは、政治家個人に対する献金が禁止されている意味がありません。その仕組みを誰が創ったのかは明らかにされていませんが、自民党が創ったことは間違いありません。
政治資金規正法は「議会制民主政治における政党や政治団体の重要性にかんがみ、政治資金の収支の公開などの措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、民主政治の健全な発達に寄与する」ために制定されています。
キックバック議員は、正確な「政治資金の収支」が大前提なのに、それを意図的にごまかしたのです。今回の事態は、政治の「公明と公正」を害し「民主政治」の根幹を揺るがす大問題なのです。彼らは「民主政治」を理解しない「犯罪者」であることを確認しておくことにしましょう。そもそも、彼らに国政を担う資格がないのです。
これは、政治資金規正法に問題があるのではなく、自民党や自民党議員に問題があるのです。規正法改正などと大騒ぎしていますが、どんな規制をしても、自民党の金権体質は変わらないでしょう。企業や保守系団体から献金を受け、その献金をした勢力のための政治を行うために、その勢力とは違う勢力の票も集めなければならないからです。要するに買収や供応による票集めです。河井夫妻の買収や「桜を見る会」の経緯を観れば、容易に理解できるのではないでしょうか。
領収書のいらない金を欲しがる人やタダの飲み食いが好きな人はいるのでしょう。だから、政治活動費の「透明化」など出来ないのです。河井夫婦の買収事件など、氷山の一角だと私は思っています。大企業や米国の利益とは縁のない人たちの票を集めるには「現ナマ」が有効なのでしょう。「後援会」の維持のためにもお金が必要なのでしょう。
そういう政治家に群がる人にも問題があるとしても、そういう政治家こそが問題であることは言うまでもありません。それがこの国の「民度」であるとすれば、私たちはその改善に取り組まなくてはなりません。
また、世論誘導をするためにも金は必要です。2013年、麻生太郎氏は「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と言っていました。
そのナチスの宣伝大臣などを務めたゲッペルスは、ナチスが初めて第一党として選挙に臨んだとき、「われわれは国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。われわれは政治宣伝の傑作を作るつもりだ。金は有り余っている」としていました。麻生太郎氏は、きっと、そのゲッペルスの手口を念頭に置いているのでしょう。自民党の諸君は「支持上げるちょろいもんだぜ民なんて」と思っているのかもしれません。
改憲のための国民投票に際して、金にものを言わせた、フェイクがあふれかえるような気がしてなりません。今、日本では、自民党流改憲に正面から反対するマスコミはほとんどありませんから、その危険性は一層高くなるでしょう。
各党に2024年に交付される政党助成金(もちろん国庫金です)総額は315億3652万円で、その内、自民党は160億5328万円です。
このようなことが、この30年間行われてきたのです。
2021年9月24日のNHKによれば、政党交付金を使い切らず積立てられた金額は、総額323億円で、その内、自民党は252億7200万円とされています。「金は有り余っている」のではないかと思うのですが、まだまだ足りないようです。腐敗と堕落に貪欲も加わっているようです。
ただし、彼らの腐敗と堕落を政治不信一般にしてはなりません。この事態は「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という箴言のとおりの自民党の腐敗だということを見抜かなければなりません。マスコミは「政治不信」という言葉を使用し、自民党の問題だということを隠ぺいしようとしているので注意が必要です。
この「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉は、イギリスの思想家であるアクトン卿が1887年に使用したそうです。何とも鋭い指摘だと思います。
「権力を担当する者がすべての権力を濫用しがちであることは永遠の経験が示すところである。権力が濫用されないようにするためには、権力が権力を抑制するようにしておかなければならない。」(モンテスキュー『法の精神』・1748年)という言葉と合わせて記憶しておきたいと思います。これは、三権分立の考え方であり、権力を憲法という鎖で縛るという「立憲主義」の源流となる思想だからです。
自民党も永年権力を握ってきたので腐敗することは「永遠の経験」なので避けられないのでしょう。けれども、私たちはそれを許してはなりません。腐ったリンゴを排除しないと他のリンゴもダメになるからです。市民社会から腐ったリンゴを排除することは、市民社会の健全さを維持するために必要なことですが、腐ったリンゴではなく、リンゴ全体の問題とすることは、問題のすり替えです。
自民党が腐っているのに、政治一般に問題があるような言説は事態の把握としては不正確です。「政治不信」などと言う言葉は、リンゴ全体に問題があるかのように取り扱っているのです。これでは、「無関心層」を増やし、結果として、自民党の延命に手を貸すことにしかなりません。
私たちは、そのことをしっかり見抜き、自民党政治を終わりにしなければならないのです。そのための工夫が求められています。立憲野党の共同はその最も大きな課題です。
また、中長期的には、小選挙区制を基本とする選挙制度を改め、政党助成金を廃止することが求められています。これは、日本社会に民主主義と基本的人権を根付かせるために必要な作業だからです。
引き続き、自民党政治の特徴についての話をします。
-->2024.6.3
はじめに
5月22日~26日の5日間、日本AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)が企画した、台湾・金門島、花蓮市をめぐる「平和のための市民交流の旅」に参加した。参加の動機は、「台湾有事」がいわれているので、台湾の状況を少しでも肌で感じたいということにあった。
丁度、中国が台湾の頼清徳新総裁の姿勢に反発して軍事演習をしている最中だった。台北のホテルではNHKニュースを視ることができるので、日本では「大騒ぎ」になっていることを知ることはできた。もちろん、台湾でもニュースになっているけれど、現地のガイドは「いつものことです」として緊張感はまったくなかった。
現地の新聞報道によれば、中国軍は米国の対応を考えて実弾は使用していなかったという。事務所のメンバーや家族には心配かけたけれど、金門島も含めて平穏な旅であった。
それはそれとして、いくつかの貴重な体験もした。「平和、武力反対、自主、気候重視」と題する反戦声明を発した学者グループとの対話、大日本帝国が台湾から撤退した後、台湾では民衆の抵抗や「白色テロ」があったことを知ったことなどである。ここでは、台湾の研究者との交流について報告する。
台湾の学者の反戦声明
昨年3月20日、台湾の学者・研究者37人が「反戦声明」を発出している。その内容は、⓵ウクライナの平和 停戦交渉を。②米国の軍国主義と経済制裁の中止を。③米中戦争はいらない 台湾は自主を 大国とは友好的で等距離の関係の維持を。④国家予算は人々の生活・気候変動緩和に使え 戦争や軍事に使うな。の4項目である。
⓵では、和平交渉は停戦の唯一の道であるとして、NATOに対して、外交的努力を妨害することを止めることなどを求めている。⓶では、アメリカは建国以来、戦争をしなかった年はほとんどない。2001年以降の20年間で米国の国防支出は14兆ドルに達し、そのうちの2分の1から3分の1が軍需産業の懐に入っている。NATOの兵器がウクライナに入り続ける限りこの戦争の終わりは見えない、ということなどに触れられている。③では、米中双方は、すべての意見の相違を平和的手段で解決しなければならない。台湾は自主独立の立場をとり、全人類の平等・福祉・平和を増進できる分野で各国と協力すべきである。各大国とは等距離の外交を維持し、知恵のある戦略と手腕をもって台湾海峡両岸の安全を守るべきである。アメリカの覇権主義の弟分や子分になるべきではなく、逆に、中国の「戦狼」の対抗関係の一環となるべきでもない、とされている。④では、世界が異常気象、水資源枯渇、生物多様性喪失などの多重の危機に直面している今、国家予算はこれらのために使用されるべきであって、軍拡競争や相互挑発というブラックホールにつぎ込むべきではない。13000発もの核弾頭を保有する世界において、迫り来る核による壊滅の脅威が気候変動の危機を覆い隠している。全てが静寂になってしまったとき、政治家たちが戦争で守れると主張する「主権」、「民主主義」、「自由」はどこにあるというのだろうか、とされている。
その結びはこうである。
私たちは大陸中国による台湾に対するあらゆる侮蔑、弾圧や武力による威嚇に反対する。しかし、台湾の主要メディアの戦狼・中国に対する批判を繰り返すことは、この声明の役割ではない。私たちが望むのは、人々の英知を集め、米中対抗の下でのより冷静で平和的な台湾独自の進むべき道を考え出すことである。
王さんたちとの交流
私たちは、この声明に署名している台湾中央研究院の王智明氏たちと交流した。台湾中央研究院は国立の研究機関で3千人からのメンバーがいて、自由に研究しているという。王氏の見解は声明に示されたとおりだし、同席した二人の若い研究員も「ロシアの武力行使は侵略だけれど、NATOの東方展開も問題だ」、「中国との緊張の責任はもっぱら米国にある」とか「べ平連の活動や全共闘の研究をしている」などと報告していたので、自由に研究をしているというのは本当だと思った。台湾では「学問の自由」や「言論の自由」は保障されているようである。
私の発言
私も日本の平和活動家として発言した。私は、まず、「13000発もの核弾頭を保有する世界において、迫り来る核による壊滅の脅威が気候変動の危機を覆い隠している。全てが静寂になってしまったとき、政治家たちが戦争で守れると主張する「主権」、「民主主義」、「自由」はどこにあるというのだろうか」という部分に強く共感すると述べた。私も、核兵器使用の危機は迫っているし、日本では国家あげての戦争準備が進められていることに危機感を抱いているだけではなく、「全てが静寂になってしまったとき」というフレーズにカントの「永遠平和のために」を感じたからである。
その上で、日本反核法律家協会の紹介と日本国憲法9条の話を続けた。9条の背景には原爆投下があったこと。つまり、今度、世界戦争になれば核兵器が使用されて人類社会は滅びるかもしれない。だから戦争をしてはならない。戦争をしないのであれば戦力はいらない、という論理を時の政府は展開していたことなどを紹介した。また、世界には軍隊のない国が26ヵ国あるのだから、核兵器も戦争もない世界の実現は決して夢物語ではないことも発言した。
そして、現在問われているのは「核兵器による平和か」、「平和を愛する諸国民の公正と信義による平和」かである。私たちの選択は明らかではないかと提起した。
最後に、皆さん方の考えが台湾では多数派でないことは承知している。私たちの主張も同様に国内では少数だ。けれども、皆さん方のような人が台湾にいることを知ったことはうれしい。私たちのような日本人がいることも知って欲しいと結んだ。
三人とも大きく頷きながら聞いてくれていた(ように見えた)。同行したメンバーは「いい交流ができた」と言ってくれた。有意義な時間だった。
まとめ
米国の対中政策が「関与」から「対立」へと変わったせいで、日本も台湾も中国との「熱い戦い」に巻き込まれるかもしれない。5月20日、中国の呉江浩駐日大使が、日本が「台湾独立」や「中国分裂」に加担すれば「民衆が火の中に連れ込まれることになる」と発言したという。それを問題発言だと騒ぎ立てる勢力があるけれど、「敵国」の大使が言っているのだからその危険はあると受け止めることが肝要であろう。「台湾有事は日本有事」というのは、「火の中に巻き込まれる」危険を自ら招くようなものだということを忘れてはならない。
私たちに求められていることは、米国の扇動に乗って軍事力を強化することでも、台湾に味方することでもなく、人々の英知を集め、米中対抗の下でのより冷静で平和的な日本独自の進むべき道を考え出すことであろう。武力衝突となれば核兵器が使用され「すべてが静寂となる」かもしれないからである。(2024年5月30日記)
2024.5.21
「虎に翼」の寅子が高等文官試験司法科(司法試験)に合格するのは1938年(昭和13年)のことだ。その時の憲法の試験問題は「天皇ノ国法上ノ地位ヲ明ラカニス」と「立法権ノ意義及範囲ヲ論ス」だったそうだ。埼玉弁護士会憲法委員会のメーリスで教えてくれた人がいたのだ。このメーリスでは「虎に翼」をめぐって面白いやり取りが行われていて楽しい。「虎に翼」は憲法問題の宝庫なのだ。
教えてくれた長沼正敏弁護士は、「第1問は天皇機関説を書きますかね」と問題提起していた。私は「凄い問題だね。忠誠心を確認しようというのだろうか。天皇機関説攻撃は1935年だからね」とレスしておいた。
もちろん、寅子がどんな答えを書いたのかは知らない。もし、自分がその時の試験を受けていたらどんな答えを書いただろうかと想像してみても何も浮かんでこない。現在の司法試験では自衛隊の合・違憲性を問う問題は出ないという「都市伝説」があるようだけれど、当時は、ストレートに天皇政府への忠誠心を問いかけたのかもしれない。
ところで、『新版体系憲法事典』(杉原泰雄執筆)によれば、「天皇機関説」というのは、美濃部達吉の「国家は地域を基礎とする団体的人格者(法人)であって、統治権を固有する。天皇は統治権の所有者(権利主体)ではなく法人たる国家の機関だ」という考え方である。他方、上杉愼吉は「天皇をもって統治権の主体なりとなすのみ、共同体をもって、統治権の主体となさざるのみ」として天皇即国家という立場をとっていた、とされている。
この「天皇機関説」については、「美濃部は、天皇を国家の機関とすることによって、絶対君主制を否定しようとした」と評価されているので(杉原泰雄)、当時の支配層がこの学説を「危険思想」とみなし、美濃部を「異端者」として追放しようとしたことは、容易に想像できる。古今東西を問わず、異端を許さないことは権力の属性だからだ。「焚書坑儒」や「マッカーシー旋風」(赤狩り)がその例だ。
それはそれとして、寅子は憲法を誰の教科書で勉強したかである。前川喜平氏は、東京新聞5月12日の「本音のコラム」で、5月7日の放送で寅子の机の上に置いてあったのは上杉愼吉の『新稿憲法述義』だったとしている。私はそのことに気が付かなかったので、前川氏の観察眼は凄いと思うし、前川氏も言うように製作者の「念入りな考証」はさすがだとも思う。だとすれば、寅子は「天皇即国家」という「正統学派」の教科書で勉強し、答案を書いたことになる。
「天皇機関説」は学会では多数説だったようであるが、政治の世界では「国体の本義に悖る」として貴族院・衆議院で糾弾され、内務省は美濃部の主要著書を発禁処分とし、全ての大学で国家法人説の講義は排除された。1935年のことである。
何やら、最近の学術会議に対する政府や与党の対応と通底している。権力者が学問の世界に口を出すとき、その国は破綻に近づくことになる。「真理」よりも「ご都合主義」が蔓延るからだ。だから、この国も危ない。
前川氏は「自主憲法制定運動を率いた岸信介は上杉の愛弟子だった。戦後の歴代首相の指南役といわれた安岡正篤や四元義隆も上杉の門下生だった」と書いている。上杉愼吉は、政治の世界で日本をおかしくした人たちに影響を与え続けたようである。
寅子は上杉本で勉強したようではあるけれど、「ハテ?」という精神を持ち続けたので、私たちをひきつけているのであろう。
自民党「改憲草案」第1条は「天皇は日本国の元首である」としている。自民党の諸君は、いまだ大日本帝国憲法当時の「天皇観」、「国家観」に囚われているようである。
寅子たちの受験時代は「こんな人たち」がもっともっと幅を利かしていたのであろう。
寅子はその後「新憲法」に勇気づけられることになる。
私も、再度、「新憲法」を反芻してみようと思う。(2024年5月13日記)
2024.5.9
5月8日、午後1時から2時30分までの1時間30分、参議院の憲法審査会を傍聴してきました。8会派(自民、立憲・社民、公明、維新、国民、共産、れいわ、沖縄の風)各7分の意見表明と個人の意見表明各3分間話を聞いてきました。
早く改憲案を提起すべきだとしていたのは維新でした。時間も金もかけた、改憲案ができていないのは怠慢だというのです。審査会の様子をNHKで中継するべきだとも言っていました。私も中継には賛成ですが、維新はその正体がばれるのが心配ではないのだろうかと思いました。私は維新の基本姿勢も創設者たちも嫌いなのです。物は知らないし、論理は無視するし、倫理観は低いし、目先のことしか言わないからです。
裏金にまみれた議員が沢山いるのに、それを棚に上げて改憲を進めるのはおかしいという意見が、立憲・社民、共産、れいわから出ていました。れいわの山本太郎議員は「犯罪者集団」にそんな資格はないと言っていました。不穏当発言だとして幹事会で議論されるようです。 彼の話を聞くのは2回目だけれど、私は彼の話は好きです。共産党の山添議員の話も引き込まれるように聞くことが多いけれど、山本さんの話は耳に入りやすいのです。ただ、言葉を選んだ方が無用なトラブルは少なくなるだろうとは思います。
社民の福島議員は、裏金議員を除けば、各議院の改憲派は3分の2を切るだろうと言っていました。なるほどそうなのかと感心しました。
立憲の辻本議員は、裏金議員が審査会に出ていることを暗に非難していました。「そうだ」との掛け声が飛んでいましたが、私は誰か分からなかったので名指しして欲しいと思いました。
自民党佐藤正久議員(元自衛隊の髭の隊長)は、緊急事態に際して参議院緊急集会がほんとうに機能するのかどうか、論点整理をするべきだと言っていました。公明党の西田議員も同趣旨のことを言っていました。立憲の小西議員もその点は大事な論点だと言っていました。緊急集会は参議院の最も重要な機能ですから、その議論は不可欠です。この論点での審査が進むかもしれません。緊急集会があれば緊急事態における議員任期延長など不要だという結論を出して欲しいて思っています。その議論に時間をかければ、改憲発議の時期は遅れます。参議院の与党議員の足を止める必要があるし可能かもと思いました。
共産党の仁比議員は、喫緊の課題は憲法の人権条項を実現することだとして、例えば、裁判所が違憲だと言っている同性婚などについての議論をするべきだと言っていました。改憲よりも憲法の実施が先だろうという立論です。「さすが、仁比くん」と思って聞いていました。
LGBTQの当事者だという立憲の石川大我議員も同性婚について触れていました。こういう場所で少数者の意見を堂々と言えることはうれしいと言っていました。心がこもっていました。
地方自治法の改正は地方自治を否定するものだという議論もされていました。木村草太さんの意見を引用する議員もいました。これも必要な議論だと思います。
記憶に残ったのは、ある自民党の委員が、ウクライナ憲法には緊急事態条項があったから、戒厳令も出せたし、選挙の先送りも可能だったので、現在のような状況に収まっている。もしなかったら、もっと混乱していただろう。だから、日本にも緊急事態条項が必要だと言っていたことです。
ところで、佐藤正久氏は、日本列島は地政学上、最も危険な場所だとしています。中国やロシアについては、こんなことを言っています。
太平洋に出ようとするときに、通せんぼするように日本列島がある。ロシアや中国からすれば、「あぁ、邪魔だ。日本が自国領ならスムースに太平洋に出られるのに」と、地団駄踏みたい気持ちでしょう(『知らないと後悔する日本が侵略される日』幻冬舎新書、2022年)。
彼らは、中国やロシアが日本を攻めてくることを前提に物事を考えているのです。だから防衛力を強化しようというのです。どうすれば攻めたり攻められたりしないようになるかという問題意識はないようでする。どうしても武力(米国の「核の傘」も含め)が必要だというのです。彼は本気でそう思っているのです。それが国と国民を守る唯一の方法だというのです。そして、そういう人は決して少なくないのです。
もう一つ。山本太郎議員は、現に発生している災害被害に具体的対策を講じない政府や与党に緊急事態を語る資格はないとしていました。無策の災害をいくつか挙げての議論でした。与党批判だけではなく野党に対する批判も言っていました。支持者が増えるのは無理もないなと思って聞いていました。
あっという間の1時間30分でした。皆さんが原稿を用意していて時間を守っていました。納得できない意見はありますが、真剣さは伝わってきました。貴重な時間でした。
傍聴席に着くまでにいろいろチェックがあることはいかがなものかと思うけれど(とにかく面倒だった)、議員の皆さんの生の声を聴けたことはよかったです。ぜひ、多くの皆さんに傍聴して欲しいと思いました。
私たちは主権者であり、憲法改正権者であることは忘れないようにしたいと思っています。この国の未来は自分たちで創らなければならないのだから。(2024年5月9日記)
2024.5.7
このタイトルは、日本平和委員会[1] の代表理事である岸松江弁護士の「核抑止論を克服するために」と題する講演に際してのものだ(『平和運動』2024年5月号掲載)。核抑止論を不断の努力とジェンダー平等で克服しようという決意がにじみ出ているタイトルといえよう。
私も「核兵器のない世界」を実現するためには、核抑止論の克服が必要だと考えているので、その問題意識に共感している。加えて、ジェンダー平等という視点は、重要な論点とされているので、大いに興味を覚えている。
そこで、ここでは、岸さんの講演を紹介しながら、ジェンダーと核兵器について考えてみたい。防衛研究所の核抑止論者たちは、冷戦終結による「核の忘却」の時代から、「新たな核時代」に入ったとして、「核の復権」をまことしやかに言い立て、核抑止論の維持・改善を主張しているので[2] 、そのことも念頭に置きながら論を進めることとする。
岸さんは、抑止力を次のように要約している。
抑止力とは、相手より優位に立つ強力な武器を持つことによって相手を威嚇し、攻撃を思いとどまらせようとする威嚇政策です。相手にナイフを突きつけながら仲良くしようというもので、相手を尊重し、相互信頼を前提とする対話と交流による平和外交とは真逆の概念です。
少し付け加えておくと、この「強力な武器」を核兵器に置き換えれば「核抑止論」ということになる。相手国に、自国を攻撃すれば核兵器によって懲罰的な反撃をするぞと威嚇することによって攻撃をためらわせて、自国の平和と安全を確保するという理論である。「平和を望むなら核兵器に依存せよ」という「平和を望むなら戦争に備えよ」というローマ時代の格言の現代版であり、核兵器保有国や日本政府などの核兵器依存国が信奉している原理・原則である。
日本政府は、中国、北朝鮮、ロシアが、わが国の安全を脅かしているとしているので、抑止の対象国はこれらの三国、とりわけ中国である。そして、これら三国はいずれも核兵器保有国なので、米国の核兵器(核の傘)によって抑止しようというのである。
唯一の被爆国が唯一の加爆国の核兵器によって、安全保障を確立するという「倒錯の構図」がここにある。核抑止論は、核兵器という「究極の兵器」に自国の運命を委ねようという理論だということを確認しておく。
抑止論は、岸さんがいうように「対話と交流による平和外交とは真逆の概念」なのだ。
では、抑止論とジェンダーはどういう関係にあるのか、岸さんの考えを聞いてみよう。
岸さんはジェンダーについては次のように言う。
ジェンダーとは、社会的・文化的に作られた性差です。社会が構成員に押し付ける、女性はこうあるべき、男性はこうあるべきだという行動規範や役割分担を指します。男らしさ・女らしさの背景には家父長制度、「家」制度があります。男性は家を発展させ支えるものだという家父長制度の要請のもとに、女らしさ、男らしさが作られてきたのです。
ここでは、「男らしさ」、「女らしさ」が求められた背景が語られている。それは、大日本帝国時代にさかのぼるが、その男性優位の社会は日本国憲法のもとでも続いているという。それは職場における「男らしさを競う文化」だとされている。
岸さんは、飯野由里子氏の見解を引用して次のように言う。
そこに共通する要素は、①「弱さを見せるな」。失敗や間違いを認めたら負け。②強さとスタミナ。長時間労働に耐えられること。③仕事第一主義。家庭を顧みないことをよしとする職場文化。④弱肉強食。仕事は協力ではなく競争。同僚は仲間ではなく競争相手、などです。資本主義社会の職場で成果と評価をえるために、こうした「男らしさ」を誇示することが暗黙裡に求められ、また評価されてきました。
そして、この「男らしさを競う文化」には弊害があるという。
相手より優位に立ち、相手を打ち負かそうとする「男らしさを競う文化」は、資本主義社会における競争原理、利潤第一主義に親和性があり、思想的に補強しています。「有害な男らしさ」は、資本主義社会の中で再生産・強化されます。市場の外には家庭や教育現場、自然がありますが、これらは本来利潤第一主義という原理はなじまない。でも、家庭から労働力を市場に提供し、市場で勝ち抜ける子が求められますから、勉強ができ、いい大学に行って、いい企業に入れるような子どもを育てたいという要求になります。とりわけ母親がその責任を負います。
ここでは、職場だけではなく、家庭も「男らしさを競う文化」に取り込まれていることが述べられている。
その上で、岸さんは、資本主義が発展し独占化し国家と結びつくとき、戦争になるという故畑田重夫さんの理論を援用している。「国家が戦争を遂行するとき、武器産業の買い手は国家である。国家は資本の利潤追求のために戦争を起こすことも厭わない」という理論だ。私は、この理論の説得力は世界の現実によって証明されていると考えているので、岸さんの援用に異議はない。
岸さんは、戦争を正当化する思想の背景にあるのが「有害な男らしさ」だとしている。「相手をリスペクトするのではなく、勝つか負けるか、弱みを見せたら負けだというものです」というのである。そして、次のように続ける。
マウントをとるという言い方がありますが、相手より優位に立とうとしたり相手に威圧的な態度で接したりする文化が、知らず知らずのうちに内面化されていくことがあります。それが抑止論を支えているのではないかと思います。
岸さんは、シンシア・エンロ―を引用して、「男らしさ」の観念による軍事化とは、例えば、男は自分の家族と国を守るために命をかけて戦場に行く。これが男の使命だと考える。戦場に行くことが男の使命だからと内面化することで出兵するわけです。そこに、「男らしさ」、「男の使命」というジェンダーが働いています、としている。
その上で、橋下徹の「命をかけて戦っている時に、精神的に高ぶっている集団を休息させようと思ったら、慰安婦制度が必要だということは誰だってわかる」という発言を、戦前の慰安婦制度はまさにこういう発想で作られたと評している。橋下流の愚劣さの指摘である。
更に、「女らしさ」の観念による軍事化については次のように言う。
兵士を生み出す軍国の「母」と、夫を送り出して家を守る「妻」が賞賛されます。一方で道徳的純潔と母性的自己犠牲の観念から外れた売春婦や、戦争に反対する女性は凌辱されてもしょうがない、「戦利品」として女性を与えるということが起こりました。
岸さんは、ここまでに述べてきたことに加えて、ジェンダーは戦争の場合だけに問題になるわけではない、日常生活にある性差別・性暴力と戦争は地続きだということとか、「女性の権利」についての国際的潮流の紹介などもしている。いずれも貴重な情報だし、勉強になる。その上で、岸さんの結論は次のとおりである。
社会の中の差別をなくす運動なしに平和は守れないというのが、今の到達点です。その一つとしてジェンダー平等を実現していかなければ抑止論を克服できず、平和が脅かされていくということではないでしょうか。
岸さんの講演は、ジェンダーと抑止論ということで、核抑止論に焦点を当てているものではない。けれども、核抑止論も抑止の論法である「強力な力で相手を従わせる」ということでは共通している。だから、抑止論一般を問題にすることに意味はある。
そして、岸さんの議論は、「戦争が日常に入り込むとき、あるいは、日常が『軍事化』されるとき、支配する性―支配される性、という伝統的で父権的なジェンダーが正当化され、そして、強化されていく」という、宮本ゆき氏の議論と共鳴している[3] 。
けれども、核兵器という「死神・破壊者」が現に存在し、いつ使用されるか分からない状況下においては、核抑止論にもっと焦点を当てて欲しいとも思う。
核軍拡競争のなかで、巨大な核戦力をうらやましく思うような男性の言葉や感情がみられることを指摘し、それが男性主義に根差すものであるとことを明らかにし、力への依存をジェンダー観点から解明する言説も存在しているからである[4] 。
冒頭紹介した防衛研究所の諸君は「核の復権」を歓迎しているかのようである。彼らも「巨大な核戦力をうらやましく思うような男性」なのであろう。
抑止論とは、結局は、力で相手の行動を制約しようとする理論である。人を脅して義務なきことを行わせたり、権利行使を妨害すれば、国内法的には「強要罪」として処罰されることになる。けれども、国際政治においては「皆殺しにするぞ」という脅しが幅を利かしているのである。しかも、その脅しが効いているかどうかは誰も検証できないのである。核抑止論は「最悪の集団的誤謬」とされていたことを想起しておきたい 。
この核抑止論を克服しない限り、核兵器は存続し続ける。そして、核兵器が存在する限り、それが使用される可能性は残り、いかなる理由であれそれが使用されれば「壊滅的人道上の結末」が人類社会を襲うことになる。
岸さんはそれを避けるための知恵を提供しているのである。(2024年5月5日記)
[1] 全国47都道府県で、草の根から平和を創るために活動しているNGO(非政府組織)。約1万8000人の会員がいる。私もその一人。
[2] 一政祐行(いちまさ・すけゆき)防衛研究所政策研究部サイバー安全保障研究室長編著『核時代の新たな地平』(2024年3月)は、「核の威嚇や核強要が横行する中、抑止力を維持・改善しつつ、意図せざる核戦争勃発を防止するための合理的な軍備管理の手段を講じることが先決だ」として、抑止力の維持・改善を主張している。軍備管理の必要性はいうが、核兵器廃絶という発想はない。意図せざる核戦争の勃発を防ぐには核兵器を廃絶することが唯一の効果的手段であるけれど、彼らはその論理は排除している。
[3] 宮本ゆき著「なぜ、原爆は悪ではないのか」(岩波書店、2020年)
[4] 川田忠明著『市民とジェンダーの核軍縮』(新日本出版社、2020年)は、ヘレン・カルディコットの研究を紹介している。
[5] 1980年国連事務総長報告 服部学監訳『核兵器の包括的研究』(連合出版、1982年)
-->2024.5.7
寅子の父の直言(なおこと)が、汚職事件にかかわったとして、逮捕、勾留、予審、公判を体験している。ドラマでは「共亜事件」とされているけれど、「帝人事件」がモデルだといわれている。「帝人事件」というのは、帝国人造絹糸(株)(現、帝人)の株式売買が汚職として追及され,斎藤実内閣の倒壊を招いた事件。被疑者には200日以上の長期拘留、革手錠などの過酷な扱いがなされ、〈司法ファッショ〉の非難を呼んだ。16名が背任罪・贈賄罪などで起訴されたが,1937年12月虚構による起訴として全員無罪の判決が下った。平沼騏一郎を中心とする右翼勢力の倒閣策動に連なって仕組まれた事件(改訂新版「世界大百科事典 」)とされている。
三淵嘉子さんの父は台湾銀行に勤めていたけれど、「帝人事件」にはかかわっていないので、直言の受難はフィクションである。ドラマでは、寅子やその友だちが取調調書と母の日記の矛盾に気がついて、検察のでっち上げが暴かれるというストーリーになっていて、なかなか面白かった。
けれども、面白かっただけではすまないことがある。検事が無実の直言を逮捕し、4か月にわたって身柄を拘束し、トラウマになるくらい脅し、関係者のためだなどと噓をついて、直言に自白を強要していたことだ。
直言は事件に関与していないし、そもそも、その事件は「池の水に映った月」だったのだから、自白しようにも自白の材料などないのだ。にもかかわらず、直言は自白しているのだ。なぜ、やってもいないことを自白するのだろうか。
18世紀のイタリア人啓蒙思想家ベッカリーアは『犯罪と刑罰』の中で書いている。
「われわれの意思行為は、その行為の原因となっている感覚に及ぼす影響に比例する。しかも人間の感受性には限界がある。だから苦痛の圧力が、被告の魂の根かぎりの力を食いつくしてしまうまで強まったとき、彼はその瞬間もう目の前の苦痛から逃れる最も手っ取り早い方法をとることしか考えなくなる。こうして、責め苦に対する抵抗力の弱い無実の者は、自分は有罪だと自分で叫ぶのだ。」
直言の行動を観ていると、このベッカリーアの指摘がいかに正しいかが理解できる。直言は、検事の責め苦に負けて、「自分はやっている」と叫んだのである。これは、直言が弱いからではない。普通の人はそういう反応を示すのだ。ベッカリーアのこの文章は「拷問」にかかわることではあるけれど、検事の取調べは「拷問」と同じ効果を直言に与えていたのである。これが、大日本帝国時代の刑事司法の実情である。
だから、日本国憲法は、拷問を絶対的に禁止しているし(36条)、不利益供述の強制もされないとしている(38条1項)。そして、自白だけで有罪とはされないとことにもなっている(38条3項)。
けれども、現在の日本においても、長期間の勾留や捜査官による事件の捏造は後を絶っていない。その端的な例が、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、2020年3月11日に警視庁公安部が横浜市の大川原化工機株式会社の代表取締役らを逮捕したけれど、杜撰な捜査と証拠により冤罪が明るみになった「大河原化工機事件」である。現在も、犯罪の捏造が行われているのだ。
捜査官憲による長期の身柄拘束は「冤罪」の温床である。ちなみに、「冤」という字は、兔が網にかかっている状態を意味しているそうだ。
その身柄の拘束権限は裁判官にある。大日本帝国憲法時代、「司法権は天皇の名において裁判所が行う」とされていた(57条)。日本国憲法の下では、「司法権は裁判所に属する」とされている(76条1項)。法廷に菊の御紋章はない。
裁判官は天皇の官吏ではないし「独立してその職権」を行使するとされている(76条3項)。けれども、この国の刑事司法は未だ冤罪を生み出しているし、「人質司法」から解放されていないのである。
私は、この間の「虎に翼」には、直言の受難を組み込み、無罪判決を5月3日に放映したことからして、日本国憲法や現在の司法の実情にも目を向けて欲しいとのメッセージが込められていたのではないかと受け止めている。
寅子たちの活躍も楽しいけれど、制作にかかわる人たちも、それぞれの立場で、視聴者に訴えたいテーマを持っているのかもしれない。今後も楽しみにしよう。
(2024年5月6日記)
2024.4.17
はじめに
日本戦略研究フォーラムという組織がある。「わが国の安全と繁栄のための国家戦略確立に資する…研究を行うと共に、その研究によって導き出された戦略遂行のため、現行憲法、その他法体系の是正をはじめ、国内体制整備の案件についても提言したい」として、1999年に設立された組織である。現会長は屋山太郎氏。故安倍晋三氏が永久顧問である。主要なテーマとして、日本の防衛力などを強化する政策提言が挙げられている。
そのフォーラムが、政治と国民の意識を啓蒙するために、台湾海峡に関するプロジェクトを立ち上げ、「台湾有事」についてのシミュレーションや兼原信克元国家安全保障局次長、岩田清文元陸将、尾上定正元空将、武居智久元海将の座談会を開催している。
その成果が『自衛隊最高幹部が語る台湾有事』(新潮新書・2022年5月)だという。そのリード文は「ウクライナの次は台湾か。その時日本はどうする?「有事の形」をシミュレーション。」とされている。
この小論は、その本で展開されている論理の紹介とそれに対するコメントである。現行憲法の是正を目的とし、防衛力の強化を提言する組織が、どのような発想で政治と国民を啓蒙しようとしているのか、それを知ることは不可欠の作業だと思うからである。以下、彼らはというのは、この本の執筆者4人の総称として理解していただきたい。
台湾海峡の平和が崩れるとき
彼らは、台湾海峡の平和が損なわれる事態は必ず日本に波及するという。
台湾と与那国島の間は約110キロの近さにある。中国のミサイル約1600発は南西諸島全域を射程に収めている。中国が台湾を隔離しようとすれば尖閣諸島の領域にも中国軍艦艇が遊弋する。東シナ海の様な半閉鎖海で紛争が起きれば、必ず沿岸国を巻き込むことになる、というのがその理由である。
台湾海峡危機は、日本の経済活動に甚大な影響を及ぼす。その影響を最小限に抑えるためには平素からどのような備えが必要になるか、それが問題であるとされている。
その答えは、グレーゾーン(有事とも平時とも言えない状態)から武力衝突の開始までの政策過程を検証する「政策シミュレーション」と「机上演習」であるという。その際に、最も重視したのは、有事法制(2003年)と平和安全法制(2015年)がうまく機能するかどうかどうかであったとされている。
要するに、台湾危機に際してどのような軍事的対応が可能かを検討しているのだ。そこには、その危機を避けるという発想はない。けれども、彼らは、台湾危機を期待しているわけでもない。こういうことも言われているからだ。
台湾危機を起こさせてはならない
彼らは次のように言う。
アメリカは台湾に核の傘を提供していない。軍事的に台湾海峡への対応を真剣に突き詰めている感じもない。「外交的に何とかします」と言われても国民に責任を持つ政治家なら「信用できない」というのが普通だろう。アメリカは強くて遠い。しかも核兵器を持っているから、米中全面戦争は起こりえない。しかし、日本は違う。台湾有事が始まれば、アジア最大の出城である日本は、台湾と同様に蹂躙される危険がある。だから、日本は台湾有事を起こさせてはならない。
台湾有事を起こさせてならないという結論に反対する人はいないだろう。日本人も台湾の人も中国大陸の人も大勢死ぬし、人間が作ったものも作れないものも破壊されるからである。それを避ける根本的な方法は、中台間の紛争を武力で解決しないことであり、そのためには、武力の行使ができないようにすることであり、更には、武力そのものを廃棄することである。
けれども、彼らの発想は逆である。アメリカに中途半端な態度をとるなとけしかけるだけではなく、自分たちの防衛力も極大化しようというのである。彼らの発想に耳を傾けてみよう。
中国は日本を狙っている
彼らは、こんなことを言っている。
中国はミサイルで日本を狙っている。1600発の弾道ミサイルを持ち、500基の発射台付き車両がある。この500基が一度に日本を狙えることになる。この全部を無力化することは不可能だ。しかし、「座して死を待たない」ためには、攻撃対象はミサイルでなくていい。指揮統制中枢でもいいし、司令部でもいい。場合によっては、日本の総理官邸にあたる敵のリーダーシップでもいい。
こうも言う。
中国の第1波というのは、必ずミサイルの一斉発射で来る。それによって航空戦力の発揮基盤を潰されると、航空優勢が取れなくなる。だから、そこをサバイバルしながら、第2波、第3波を防ぐために敵のミサイル基地やなどを無力化しなければならない。
彼らは、中国の武力行使を前提として、ミサイル基地を全部叩くことは不可能だから、敵基地攻撃どころか、習近平を狙える軍事力を持とうと言っているのである。相手が、岸田首相を狙ってくることを想定していないのだろうか。東京や北京に非戦闘員がいないとでも思っているのだろうか。民生用の施設が林立していることを知らないのだろうか。多分そんな頭は働いていないのだろう。
彼らは、台湾危機が発生すれば、在中国、在台湾の邦人をどうするか、先島諸島の住民をどう避難させるかなども考えている。その結論は、在中国在留邦人11万人の救出は絶対に無理だとしている。先島には戦車をおき、毎年演習をやるべきだとも言う。中国で働いている邦人やその家族などは知らん。そんなところにいる方が悪いのだと言わんばかりである。
15年戦争末期の「シベリヤ抑留」、「残留孤児」、「残留婦人」の現代版が起きることになる。そして、先島諸島の住民の生活など、日本を守るためなのだから犠牲になれというのであろう。
彼らは、与那国島に中国の工作員が潜入し、住民投票を行い、日本からの独立宣言をして、琉球王国を復活させるというシミュ―レーションまでしている。だったら、もっと、先島諸島はもとより、沖縄本島の人たちか置かれている状況を丁寧にシミュレーションすべきであろう。
全ては抑止のために
彼らは、「攻撃は最大の防御」とはいうけれど、自分たちが先に手を出したとは言われたくないとも考えている。あくまでも自衛権の行使としなければならないという意識はある。だから、全ての準備は攻撃されないための抑止力とされる。ミサイルの一斉発射に備えなければならないのだから、自衛隊の強化すだけでは済まないことになる。国力を上げての準備が求められるし、法律論などは邪魔者扱いされることになる。だから、こんなことも語られている
量子やサイバー研究の拠点は、横須賀あたりに作って、毎年1兆円くらいの予算を出せ。もちろん、反自衛隊、反日米同盟で軍事研究を許さないと頑張っている日本学術会議の息のかかった施設は除いて。
沖縄の反基地闘争とか、イージス・アショアの失敗とか制度的に地方自治の権限が強すぎる。国の安全保障に関して地方自治体が拒否権を持つことの是非を考えなければならない。
内閣法制局が「憲法違反の疑い」などという曖昧な一言で軍令事項(軍事作戦)に口を出していたが、これは健全な政軍関係から見て異常なことだ。法律論過剰だ。
ここでは、憲法の非軍事条項も、学問の自由も、地方自治も完全に無視されている。全てが、抑止力、防衛力という軍事力に劣後されているのである。日本版「先軍思想」といえよう。
憲法も法律も無視する議論が、国家安全保障局や自衛隊に在籍していた諸君によって、啓蒙家気取りで語られているのである。彼らには、立憲主義とか公務員の憲法尊重義務とか「法の支配」という概念は縁がないのであろう。
米国の核抑止
彼らは、非核兵器による抑止が崩壊した場合には、核による抑止も想定している。戦略核兵器は米国も中国も使用しないだろうと勝手に決めているけれど、戦術核兵器の使用は想定している。核共有は語られてはいないが、核の持ち込みについては検討されている。そして、米国に対しては、先制不使用政策や「唯一目的政策」(核兵器使用は核攻撃に対する反撃に絞る)を採用することは、抑止力の低下につながるので、絶対にやらないようにと注文している。核軍縮や軍備管理は必要だけれど、米国が一方的に変更すべきではないというのだ。岸田首相は核軍縮に強い信念を持っているようだが、台湾有事を念頭に、米国に核抑止の再保証を求めてもらいたいともしている。
米国の核兵器は抑止力として不可欠なのだから、それを弱めるようなことはするなと首相を啓蒙しているのであろう。非核戦力での抑止が機能しなかったら核抑止を機能させようというのである。その核抑止が機能しない場合には、核兵器が使用されることになる。米国が使用すれば、米中間での核の応酬が始まり、米国が使用しなければ、日本だけが中国の核兵器のターゲットとされることになる。広島と長崎が、那覇や佐世保で繰り返されることになる。そのような事態は少し想像力を働かせれば想定できることであろう。
彼らが中国を恐れる理由
彼らは、中国について次のような見解を持っている。
中国の経済力は日本の3倍、防衛費は5倍という規模だ。日本は、日米同盟を基本にしてアメリカとの役割分担を考えつつ、まずどう戦うかを考えなければならない。中国に対抗する防衛力を構築しなければならない。
親中派と言われるシニアの政治家たちは、ロシアが敵だった時の人たちだ。しかも、戦争の贖罪意識があった。70年代、80年代は正しかったもしれないけれど、当時と今とでは日中間の力の差が大きすぎる。今の中国は東の横綱だ。その横綱が、今や、尖閣と台湾を狙っている。経済は半分つながっているのでわざわざ喧嘩する必要はないけれど、外交、安全保障をうまくやらないと中国に屈服させられてしまう。そのくらいの感覚で、日本の対中戦略を完全に繰り替える必要がある。
要するに、中国が大国になり、台湾を併合しようとしているし、尖閣諸島の略奪をもくろんでいるので、それに対抗する防衛力を構築しようというのである。そうしないと屈服させられてしまうというのだ。ここでは、大国化した中国に対する恐怖が表明されている。彼らの「弱肉強食の世界観」が滲み出てきているようである。
また、2018年安倍首相(当時)の李克強中国首相歓迎晩さん会でのスピーチにあった「『戦略的互恵関係』の下、全面的な関係改善を進め、日中関係を新たな段階に押し上げていきたい」などという文言は完全に無視されている。故安倍晋三氏は彼らのフォーラムの永久顧問である。それから4年である。何とも早い変わり身である。安倍さんは草葉の陰でどんな想いでいるのだろうか。「よくやった」と思っているのであろうか。
まとめ
結局、彼らは、大国化した中国の危険性を言い立て、敵意を煽り、対抗する防衛力を構築しようというのである。しかも、その防衛力とは、500発のミサイル同時発射攻撃に対抗でき、北京にいる習近平を狙える程度のものだとしているのだ。のみならず、研究機関も地方自治体も防衛のために動員し、アメリカの核兵器にも依存しようというのである。それが、中国の侵略を抑止する方法だというのである。対中国戦争のための「国家総動員体制」確立の提案である。
彼らは、内閣法制局の戦争を知らないシンプルな頭の持ち主は、軍事のことなどに口出しするなとも言っている。彼自分たちがどのくらい戦争のことを知っているか疑問だし、彼らの方が余程単細胞だと思うけれど、彼らにはそんな自覚はないのであろう。
「専守防衛」のもとで、どのような実力を持てるのか、自衛隊を海外にどのように出すかなどについて「精緻な論理」を組み立ててきたはずの内閣法制局など、完全に虚仮にされているのである。
「専守防衛」は自衛のための実力の保有を認める立場であるが、彼らは、防衛のためという理由で北京へのミサイル攻撃の準備を主張しているのである。「専守防衛」の枠組みを超えていることは明白である。もちろん、「平和を愛する諸国民の公正と信義」などとは対極にある発想である。
既に、自衛隊や日米安保の合憲性について疑義をはさむ研究者などは学術会議から排除されている。今後は、その人たちから影響を受けていると思われる研究機関は、予算配分で冷遇されることになる。
彼らは、この日本を法や知性ではなく、軍事が優先する国家にしようとしているのだ。このような彼らの発想は、決して突出したものではない。つい最近、岸田首相に提出された「有識者会議の報告書」には、ここで紹介した彼らの主張があちこちにちりばめられている。与党合意も同工異曲である。打撃力という戦力の整備が準備されようとしているのである。
日本は、私が自覚しているよりももっと速いスピードで奈落に向かっているようである。何とかしなければならない。
追伸
この小論は、2022年12月7日に書かれている。
その後、12月7日には、「国家防衛戦略」などの「安保三文書」が閣議決定された。そこでは、ここで紹介した発想と提案が採用されている。それから、1年半が過ぎようとしている。
4月12日、「日米同盟は前例のない高みに到達した」とする日米首脳共同声明 「未来のためのグローバル・パートナー」が発出された。既に、「防衛装備品」の輸出や戦闘機の共同生産が堂々と行われるようになった。防衛産業などに従事する人たちの選別と監視が強化されることになる。それが「重要経済安保情報保護法」だ。「地方自治法改正」も予定されている。「有事」に際して、地方自治などは存在しないことになる。沖縄の抵抗を排除するための仕掛けである。
4月16日、今年の「外交青書」がまとまり、そこでは、日中関係について、多くの懸案を抱えているとする一方、双方が共通の利益を拡大していく「戦略的互恵関係」を推進することが5年ぶりに書き込まれた。建設的で安定的な関係の構築に取り組む姿勢も強調されているようである。
けれども、今、政府が進めているのは、本文で紹介してきたとおり、対中国敵視と戦争準備の強化である。「外交青書」に安倍政権時代の「戦略的互恵関係」などという文言を復活させたとしても、中国との関係改善には役に立たないであろう。中国包囲網を強化する米国との一体化を推進しながら語られる「互恵関係」などありえないからである。
武力に依存するのではなく、知恵と対話に基づく「互恵関係」の形成が求められている。
(2024年4月17日記)
2024.4.15
昨日、井上ひさし作「夢の泪」を観た。井上ひさしファンであるカミさんと一緒だった。私も彼の作品は決して嫌いではない。学生時代、寮のテレビで何気なく視ていた「ひょっこりひょうたん島」以来、井上ひさしは忘れられない名前なのだ。そんなにたくさんの作品に接しているわけではないけれど、彼が「日本国憲法は世界史からの贈物、最高の傑作」としていることを知っている私は彼を贔屓にしている。
井上さんは1934年(昭和9年)11月の生まれだから、私より一回り(12歳)年上だ。12年の齢の差というと、接した年齢によって、大きな違いを意味することになる。10歳の時に接すれば相手は22歳だ。子供と大人だ。77歳で接すれば89歳だ。両方とも老人だ。
私は井上さんと直接接したことはないけれど、彼と仙台一高の同級生だった樋口陽一先生には、学生時代に学生と助教授という関係で接しているので、12年の歳の差を樋口先生と重ね合わせている。私が20歳の時、2人は32歳だった。樋口先生は今でも「雲の上の人」だ。けれども、「9条の会」の呼びかけ人をしている井上さんは、決して遠い人ではないように思っている。
話を「夢の泪」に戻すと、私には難解な舞台だった。井上作品は決して単純ではない。この作品もそうだ。テーマは、東京裁判の評価、特に事後法の禁止、戦争の被害者、米国における日系人の処遇、朝鮮人差別、官憲の野蛮さなどから、弁護士の実態や娘の恋物語まで盛り込まれている。
しかも、表現方法は歌とセリフという凝りようだ。一番前の席で観ていたから俳優たちの息遣いやこぼす泪まで、リアルに受け止めることはできたけれど、彼が伝えようと思ったことをどこまで理解できたかは心もとないところではある。
井上さんは何を伝えたかったのであろうか。
会場で買い求めた『the座』120号に再録されている「裁判儀式論」で、彼はこんなことを書いている(元々は2003年)。
東京裁判には「正しいところと、間違ったところがあった」。
チャーチルがナチスについて「あんな非道な連中のやったことに法律的議論をしても仕方がない。ナチス首脳など即刻死刑にすべきだ」としていたけれど、スターリンが「裁判抜きの死刑はありえない」と反対し、アメリカが「裁判は儀式なのだから…」となだめて、ニュルンベルク裁判が行われた。
この裁判儀式論を、東京裁判に転用すると「あれは、不都合なものはすべて被告人に押し付けて、お上と国民が一緒になって無罪地帯へ逃走するための儀式のようなものだった」ということになる。
では、どうやって逃げたのか、それも今回きちんと書き込んだつもりです。
少しネタバレで申し訳ないけれど、この劇では、ラ・サール石井さん扮する伊藤菊治弁護士とその妻である秋子弁護士が、清瀬一郎の推挙で、松岡洋右を弁護するという設定が縦糸になっている。けれども、「東京裁判」についての評価が明示されているわけではない。インドのパル判事が展開した「事後法の禁止」は、大日本帝国が不戦条約などの脱法をしたことと対比されて否定されているけれど、結論は出されていない。また、その他の論点についても観劇する者に考えさせようと工夫されている。
井上さんが「書き込んだ」としていることを私なりに理解すると、戦中派には「あなたはあの戦争にどのようにかかわったのか」であり、戦後派である私たちには「あなたはあの戦争をどう思うのか」ということのように思う。
菊治と秋子の娘である永子の次のセリフにそれが凝縮されているように思うからだ。
「日本人のことは、日本人が考えて始末をつける。」
「ひとさまに裁いてもらうと、あとで、あれは間違った裁判だった、いや、正しい裁判だった…。そういうことになるでしょう。」
『the座』では、加藤正弘氏の「『劇場型』っていうくらいだし―こまつ座の芝居で政治を考えるー」というコラムが連載されている。確かに、過去と現在と未来の「政治を考える」機会になる作品ではあった。
付け加えておくと、山田洋次さんも鑑賞していた。山田さんは、1931年生まれだから、井上さんや樋口さんよりも少し年上だけど、この劇をどのように見ているのか、機会があったら聞いてみたいと思っている。(2024年4月14日記)
2024.4.9
今国会は「裏金国会」などといわれている。国権の最高機関(憲法41条)である国会が何ともお粗末な状況にある。その原因は自民党議員のカネに対する汚さだ。
政治資金規正法は「議会制民主政治における政党や政治団体の重要性にかんがみ、政治資金の収支の公開などの措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、民主政治の健全な発達に寄与する」ために制定されている。
キックバック議員は、正確な「政治資金の収支」が大前提なのに、それを意図的にごまかしたのだ。今回の事態は、政治の「公明と公正」を害し「民主政治」の根幹を揺るがす大問題なのだ。彼らは「民主政治」を理解しない「無法者」であることを確認しておく。
ただし、彼らの腐敗と堕落を政治不信一般としてはならない。この事態は「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という箴言のとおりの自民党の腐敗だということを見抜かなければならない。
有権者が見抜いていることは、「保守王国」といわれる群馬で共産党が自主支援する候補者が当選したこと、京都市長選挙では、私の知り合いの福山和人弁護士が、自民、公明、立憲、国民が推薦する候補の陣営に「もうダメかと思った」と言わせる大奮闘をしたことなどに現れている。この所沢でも、自民党市長が落選している。有権者は、腐敗は嫌いだし、誰が自分の味方なのか、きちんと見ているのである。
今、島根1区、長崎3区、東京15区で衆議院補選が予定されている。自民党が候補者を出せない選挙区もあるし、立憲の候補者を共産が自主支援するという選挙区もある。大きな変化が起きるかもしれない。「市民と野党の共闘」にも期待している。
ところで、その自民党は憲法改悪を進めている。緊急事態への対処、議員の任期なども言われている。緊急事態において、政府と与党にすべて任せろと言うのである。何とも「恥知らずな言い草」だと思う。法を守らない者たちが、自分に権限を付与している憲法を変えようというのだから「鉄面皮」というしかない。
のみならず、改憲の最終目的が9条の廃棄であることは明らかだ。「安保三文書」は、国家を挙げての防衛力の強化や「拡大核抑止力」を含む日米同盟の強化を内容とする「先軍思想」に基づく「国家総動員体制」の確立が必要だとしている。米国などと協力して、中国、北朝鮮、ロシアとの軍事衝突に備えようというのである。
岸田首相はその誓いを述べるために米国に召喚されている。「国賓」という名の「朝貢使節」のように見えてならない。
武力行使が人々にどのような凄惨な事態をもたらすかは、ウクライナやガザを見れば明らかではないか。しかも、核兵器使用までもが危惧されているのである。にもかかわらず、彼らは武力に依存しようというのである。「平和を望むなら核兵器に依存せよ」という核抑止論である。「平和を望むなら戦争に備えよ」というローマ時代への回帰である。
そもそも、9条誕生の背景には、「核の時代」にあっては、文明が戦争を滅ぼさなければ、戦争が文明を滅ぼすことになる。戦争をしないなら、戦力はいらないとの思想があったことを忘れてはならない。
「核の時代」であるからこそ、9条を護り、それを世界に広げることが求められているのだ。キックバックを受けた諸君を国会から放逐し、核兵器廃絶と9条擁護と世界化の運動を進めなければならない。(2024年4月9日記)
-->Copyright © KENICHI OKUBO LAW OFFICE